絶対的宗教 総論(1)

 我々は、ヘーゲルの絶対的宗教についての見解においてこそ、最も明確な形で、ヘーゲル哲学の神髄が明らかにされているのを知る。まさにこの意味で宗教哲学こそ、ヘーゲル哲学の総決算と言えるのである。宗教と哲学との内的関連の問題は、その青年時代の著作から、ベルリン時代の宗教哲学講義に至るまで、ヘーゲルの重要な関心事であった。
 青年時代のヘーゲルは、最初、カントの体系を前提として、その内に含まれている本質的原則をその時代の普遍的意識に適用しようと試みた。その適用は、キリスト教の宗教的表象が遍く知られた意識の内容と前提される限りで、決定的に宗教によって媒介されていると考えられる。ヘーゲルが行った「キリスト教の既成性」の分析は政治-社会的関係の外的硬化に対する批判と一致する。ギリシアの想像宗教を特徴づける生きた神話的表象へ訴えることによって宗教の変革は同時に政治的-社会的関係の変革を可能にするはずである。1797年、ヘルダーリンによって導かれたフランクフルト時代の友人仲間のフィヒテ受容とフィヒテ批判とに基づいて、ヘーゲルは体系の構想を獲得するが、それによると、自由の実現は「美的宗教」を基にして可能であるとされる。この時代のヘーゲルの思想には、あの有限な生から無限な生への高揚がある。これは人間と神との宗教的結合であり、シュライエルマッハーの「宗教講話」と内容上は近似している。現実世界の全体が、生の無限な総体と解されるなら、有限的生の諸条件はそれが解体されたり、疎外されたりしない。有限な生の無限な生への高揚は体系断片の一つの主題であったが、やがてこれは、哲学、宗教、政治との関連の中で、哲学へと受け継がれて行く。哲学と宗教との差異は哲学の内部で反省と思弁との区別へと形を変えて行く。フランクフルト時代に、宗教は「美的宗教」として、公式の神学と教会とへ向けられているが、イエナ体系構想においても宗教は芸術と深い関係を持っている。ところで、「差異論文」においては、宗教は芸術の一側面と解されているのに、『現象学』においては、芸術が宗教展開の一段階となっている。芸術は、本来の芸術として、また宗教として、ヘーゲルのイエナ時代初期の見解によれば、思弁と共に宗教的高揚の機能を満たす。芸術と思弁とは、「その本質において、礼拝であり・・・絶対的生の生きた直観であり、したがってその生との一体存在である」。
 『現象学』においては、宗教は三つの段階をなしており、芸術-宗教はギリシア古代に相当し、東方オリエントの自然宗教とキリスト教-ゲルマン世界の啓示宗教との間の中間に位置づけられる。体系的観点から見て、宗教の章は、『現象学』の先行する展開経過を自らのところで、もう一度再構成することによって、その経過の締めくくりを形成する。それ故、「啓示宗教」においては、現象する精神の諸契機(意識、自己意識、理性、精神)が完全に総括されている。そして、宗教史はそれ自身、自然宗教という直接性から、啓示宗教における精神の自己確信に至るまでの意識の自己高揚である。「絶対知」は、宗教の全精神のこの運動の内に含まれている内容とは違う内容を持つものではない。絶対知はこの内容を、端的にキリスト教の啓示宗教においても、やはり提示されているような表象の形式において言い表すのではない。即ち、キリストの死において神自身が死に、教団の精神において再び生きたものとなったと言う表象の形式においてではない。そうではなく、概念の形式において、即ち、意識と対象との間で、自我と事物との間で、全ての疎外が止揚されるという形式において内容を言い表すのである。それは知が対象を自己の規定の総体性の知として現存するものと言うように保持されているからである。現象学では、絶対知が哲学の立場として最高のものと述べられているのだが、この高揚は論理学の立場への高揚に他ならない。絶対知は概念的に把握されると言うように言い表されるが、これは自己と関わる思惟の表明なのである。この思惟は、啓示宗教の内容を、純粋思惟の思惟そのものの内に存在する諸規定として明らかにする。それらの規定には、神学的に言えば、創造の面、また神の世界への有限化の面が欠けている。まさしく、論理学は、「自然と有限的精神との創造以前の神の永遠の本質たる神の叙述」と言われるのはこのためである。
 この永遠性における神の叙述は内在的三一性の性格を持っている。またヘーゲルにおいては、その純粋思惟が三一的展開をなす。その体系は、有限な形態の総体における神、永遠の本質の再現における神なのである。このことは、論理学のみではなく、全体系が、啓示宗教の内容と一致するという性格をもっているということである。この同じ内容を概念の形式において把握する絶対的哲学は、論理的なものの再現であり、その規定は差し当たり体系の基礎を形成した。更に、これらの規定は、自然-精神哲学の具体的内容に保持されている限り、今や、結果であると共に基礎である。即ち、概念の直接性とそれに対立する現象の側面との前提は止揚される。思惟の論理的体系に対する時間的相関物として哲学の歴史は同様に絶対的哲学に、またその内に再生された直接的な倫理的な規定に関係づけられる。さて、上の三一的性格は、(1)自己を自己に媒介する思惟としての内在的三一性、(2)天と地とをその対立のまま創造すること、また、独り子が創造の側面と有限的精神の側面とに解体すること、(3)有限的意識のキリスト教会にある現実的普遍的精神との統一が概念の諸契機、即ち、普遍、特殊、個別との関連として展開せしめられる。第一の契機は、自らの内に概念の構造を持ち、第二の契機は、判断の形式を持つ。第三の契機は、先行する二つの契機の統一をなすと考えられる。その契機は個々の概念とか判断とかにおいてではなく、一つの推論をなす諸命題の結果の内に表明される契機である。
 エンチュクロぺディーにおいて、ヘーゲルは宗教と哲学との関係を詳論している。その第二版において、芸術は、絶対的精神の自己叙述の段階として確実に独立したものとされるが、宗教の中に位置づけられていることに変わりはない。自然宗教は美的芸術の背後に退く。エンチュクロぺディー、第三版においては、更に宗教と国家との関係についての叙述が付け加えられる。エンチュクロぺディーにおいては、芸術の宗教は絶対的精神の直接性の段階である。それに対し、啓示された宗教は、止揚された形態として、絶対的精神の直接性とは違う、別の直接性を、即ち、、自然宗教の直接性を含む。この直接性の結果の内に、宗教哲学講義は崇高なるものの宗教共々、精神的個別性の宗教としての芸術の宗教を含んでいる。この精神的個別性の宗教においては、自然宗教の直接的前提は克服されており、自己を自己に媒介する宗教的精神の形態が表象されている。それに対し、啓示された宗教は絶対的宗教と規定される。この宗教はそれ自身で、自然宗教と有限的に-規定された精神的宗教との媒介を含んでいる。この宗教哲学講義の構造が、絶対的精神の段階の内的論理と反対であるが、現象学における宗教の主題と一致していると考えられる。現象する精神の最後の段階において、精神は、先行する諸段階を再度踏襲し、その展開を基礎づける原理を把握する、というようなことが理解されている。エンチュクロぺディーと宗教哲学講義と現象学の問題性との関係が、ベルリン時代のヘーゲルの思惟の展開の歩みがどのようなものであるかを明らかにするという。1824年の宗教哲学の講義においては、1821年の講義と比べ、後の1827年と1831年の講義においては繰り返されることのなかった、新しい「宗教の概念の導出」がなされている。このことは少し骨折って見さえすれば、これまでのテキスト(ラッソン版)から推定することが出来る。ただし、そうは言っても結局のところ、正確に推定し得るわけではない。この宗教の概念のところで、感情、反省(ないしは表象)、黙想についての直接知から、神という思弁的に規定された概念への高揚が述べられている。これは、宗教的精神の現象学を構想する方法的可能性の解消と見ることができる。
 次に1817年のエンチュクロぺディーは、論理学に先立って「予備概念」を挙げている。これは、次第に急速に導出された、「学の体系」の枠の中での「現象学」の役割と対等のものを現わしている。1827年の第二版においてヘーゲルは、この思想関連の中心に宗教哲学の現象学的観点を置いた。その結果、1827年の宗教哲学講義においては、それに対応する、感情、反省、黙想という部分は詳論されなかった。またすでに、初版において、形而上学に対する経験的、またカント的批判に対する再批判の際、体系の立場へ導くことになっている。また体系への現象学的序論に代わるべき詳論を、ヘーゲルは第二版において、「客観性に対する思想の三つの態度」に押し広げている。その三つの態度とは、形而上学、経験論の批判哲学。直接知の三つである。直接知を論ずるに当って、ヘーゲルが批判するのは、ヤコービと、ヘーゲルがその名を挙げているトルックとであるが、とりわけシュライエルマッハーがヘーゲルの念頭に置かれている。批判されているのは、直接知のこの形式がその規定性の内においても知として、即ち、すでに媒介されたあるものと解されないということである。思想というのは本来、媒介知の成果なのである。ヘーゲルは宗教をも思想を媒介するものとして位置づけようとした結果、それをその体系の最後に置いている。
 キリスト教は宗教の諸段階の最後のところに置かれ、「絶対的宗教」という標題の他に、ラッソンによって、「完成した、啓示的、絶対的宗教」という標題が付せられている。ヘーゲルは言う。「我々は今や宗教の実現された概念に、概念が自己にとって対象そのものとなっている完成された宗教に到達した」。この宗教はまさに「神の自己意識」とみなされる。ヘーゲルは説明する。「自己意識は意識として一つの対象を有し、そしてこの対象において自己自身を意識する」。しかも自己意識の対象がまた意識であり、対象としての意識である限り、それは有限的意識である。有限的意識である限り、それは神ではない。だが、「神は自己意識である。神は自己と区別された意識において自己を知る」と言われる。この意識は、即自的にも、対自的神の意識である。「この意識は自己が神と同一であることを知ることによって」対自的であり、その同一性は有限性の否定によって媒介されているのである。区別におけるこの自己との同一性を、ヘーゲルは「神は精神である」と言い表す。ヘーゲルの草稿によれば、次のように書かれてある。「我々が意識に対する対象を名づけるあの神は抽象物である。神はこの全体である。そこで神は普遍者、絶対的普遍者、力、あらゆる実在の実体である。ただし、意識、無限の形式、無限の主体性、即ち、それ故に精神として」。この精神たる神の概念は現実化され、教団の精神となる。ヘーゲルはこの現実化される精神を、「神の過程である概念」と呼ぶ。これは「自己に客観的となった概念」とも言われる。客観的になったと言うことは、神がもはや人間と無関係のものではないと言うことである。「神はもはや彼岸に存在するものではない。未知なるものではない。というのは、神は人間に、神が何であるか、またただ単に外的歴史において何であるかではなく、意識において何であるかを告知したからである」とヘーゲルは言う。それ故、これは啓示宗教と称せられる。神が自らを有限的精神において知ることによって、我々は神の顕示の宗教を持つというのである。
 ヘーゲルはまずこの宗教の全体を概観する。
 絶対的宗教は、(1)啓示宗教であると言われる。絶対的という言葉は、この宗教の内容に関して使用されている。「この表象の内容は絶対的精神である」とヘーゲルは現象学の中で語っている。絶対的宗教というように絶対的と称せられるのは、この宗教が絶対的実在たる精神をその内容とするからであるが、宗教史の段階から言えば、全ての著作において、この宗教は、諸宗教の最終、最高の段階に置かれている。また、「神的実在が人となること、あるいは、神的実在が本質的に直接自己意識の形態を持つこと、これが絶対的宗教の単純な内容である」ともヘーゲルは語っている。エンチュクロぺディーの、絶対的精神の項の内、その最初の554節、555節を見れば明らかなように、その中心は宗教であり、ヘーゲルは、「普遍的なものの内でこの最高の領域と呼ばれ得る宗教は、主観から出発して、主観の内に在るものとして、同様に、客観的に、精神としては教団の中にあるところの絶対的精神から出発するものと考察されるべきである」という。絶対的精神の最後の段階が哲学であっても、このことはその中心が宗教であるということと矛盾するものではない。それ故にこそ、エンチュクロぺディーの最後において、ヘーゲルは、生命たる神に言及して、この学の体系を締めくくっているのである。
 宗教の最後の段階が絶対的宗教であることをヘーゲルは主張し、しかも、それがまず啓示宗教であるということを言うのは、「宗教の概念が対自そのものである」からである。この場合、「宗教、また宗教の概念が自分にとって客観的となった」と考えられるのである。しかもこの場合、客観性においてではなく、その概念に従って、自らに客観的となったのであるという。ヘーゲルはさらにこれを次のように言う。「一般的概念に従って言えば、宗教は絶対的実在の意識である」。ここに意識と絶対的実在とが存在する。この両者は、まず有限的関係においては疎外である。というのは、「意識は絶対実在を、ただ有限者として知るにすぎず、真なるものとしては知らない」からである。宗教においては、精神が意識の対象となり、しかも、自己を把握する啓示宗教においては、宗教、即ち、内容自身が対象であり、この対象、「自己を知る実在」が精神なのである。即ち、ここでは、「精神は精神にとってのみ存在する」のである。精神は精神として、「自己知、自己区別」である。意識はこの場合、有限なものとして現象する主観的意識という面を自らに与える。これによって、この宗教は、自らによって満たされている宗教と言われる。このような宗教をヘーゲルは理念と呼ぶ。なぜ理念と呼ぶのかについて、ヘーゲルは次のように言う。「というのは、哲学的意味での理念は、自己自身を対象とする概念であり、即ち、定在、実在性、客観性を有する概念であり、もはや内なるもの、あるいは主観的なものではなく、自己を客観化する概念であり、この概念の客観化は、同時に自己自身への概念の回帰であり、あるいは、我々が概念を目的と呼ぶ限り、充実した、実現した、同様に客観的となった目的だからである」。このような宗教についてヘーゲルは言う。「宗教は、現にそれであるところのもの、実在の意識そのものをその対象とする。宗教はそこにおいて客観化される。宗教はまず概念として存在していた。そしてただ概念として、あるいは差し当たり我々の概念であったままに存在する。絶対的宗教は啓示宗教、自己自身を自己の内容、充実として有する宗教である」。ヘーゲルはこの宗教を、「完成した宗教、自分自身にとって精神の存在である宗教、宗教自らにとって客観的となった宗教」たるキリスト教であるという。即ち、「この宗教において、普遍的精神と個別的精神、無限的精神と有限的精神とは不可分離である。両者の絶対的同一性がこの宗教であり、その内容である」と言われる。ここで働く一般的な実体がまた主観でもあると主張するヘーゲルの立場は、現象学の延長上にある。そしてまた、ここで述べられている絶対的同一性の立場は、まさしくヘーゲルの絶対的精神の立場であり、論理学における概念論の絶対的理念のところで論じられている立場を踏まえていると言わねばならない。
 一般に、神学では、神を対象として認識する。しかも、あたかも太陽や天空を認識するかのように、とヘーゲルは言う。もちろん現代の神学的視点から言えば、ヘーゲルが神学における神認識をこのように一般化することが正しいかどうかから問われねばならない。だがヘーゲルの時代の一般的神学の立場に対し、ヘーゲルは、主観的意識から分離した外的対象として神を考えようとはしない。ヘーゲルは言う。「絶対的宗教の概念にとって問題となり得るのは、この外的なものではなく、宗教そのものである。即ち、我々が神と呼ぶところのこの表象と主観との統一が問題となり得るものである」。このような絶対的宗教は、しかしその反面、いわば、現代の特徴ともいうべき、超越的、外面的絶対性を喪失していると見なされるのであって、このような場合、ただ、宗教、宗教性、敬虔性というような内面性のみが問題となる。これはまさにシュライエルマッハーを中心とする時代の神学に対する批判を込めて、ヘーゲルが述べていることなのである。即ち、この時代の神学的立場からすれば、「人は神を対象として知り、認識することはできない。ただ主観的な在り方と姿勢とのみが問題となっているもの、重要とされているものである」と言うことになる。ヘーゲル自身が主観性を重要視していたことについては繰り返し述べてきた。そこで、ここで主観的な在り方と姿勢とが重要な意味を持つと考えるその時代の神学に、ヘーゲルは進歩を感じたのである。それ故、「この主観性をどう規定するか」が、むしろ問題であるとヘーゲルは考える。
 ここで注意されるべきことは、「宗教は、意識の規定という点から言えば、内容が彼方へと超越しており、少なくとも一見無縁なものに止まるとような状態にある」ということである。即ち、宗教の内容は、意識を超えており、啓示の規定が加わっても、依然として内容は我々にとって外的なものであるとされる。このことは、神という内容は人間に与えられた、外的なものであって、認識されるべきではなく、受動的に保持すべきものであると言うことになる。このような外面性を強調すれば、これは他面で、感覚の主観性に導かれることになる。即ち、ここに、認識と信仰との対立が呼び起こされる。それ故、意識の立場は唯一の立場ではなく、例えば黙想する人は、心情と黙想と意欲とを以て、その対象に沈潜し、この黙想の頂点において、意識の立場に現れる分離を止揚する。この分離の止揚が、神の恩恵として把握される。人間はこの恩恵を受動的に受け取る。ところで、「主観においては、主観性と他者、即ち、客観性との非分離性が存在する」とヘーゲルは言う。この主観性の立場こそ、精神の自由と関わる、その本質的規定にまで高められた主観の立場である。またそれは、精神が自己自身において存在しているような立場である。ヘーゲルは言う。「絶対的宗教の概念は、宗教が自らにとって客観的であるようなものである、ということを含む」。だが、概念と概念が意識されることとは別のことである。そこで概念とその意識との対立が問題となる。
 概念とその意識との問題は、概念とそれについての自己意識、ひいては、自己自身についての純粋知との問題と言えよう。端的にヘーゲルはそれを、「宗教は精神が自己を精神として知る知である。純粋知としてはこの知は自己を精神としては知らない。したがって実体的な知ではなく、主観的である」と言い表す。ヘーゲルは、知がこのような主観的な知である限り、それは制限された知であり、この主観性に対して、知はその即自の形で現れず、むしろ、主観性の直接的即自性であって、主観性はこの即自性を自らにおいて、即ち、無限なものとしての自己の知の内に発見し、自己の有限性の感情、同時に自己の対自存在に対する彼岸的な即自存在としての無限性の感情、不明確な彼岸への憧憬への感情を見出すのである、とそのように考える。
 だが、以上はあくまでも宗教一般における知と主観性とについて語られることであって、絶対的宗教の場合はまたこれと異なる。絶対的宗教は主観性の規定、あるいは無限的形式の規定を含んでおり、これは実体と等しいものとされる。ヘーゲルはこの主観性を無限の形式と呼ぶ。また、これを、「自己を自己において区別し、自己自身を対象とする実体のこの無限の弾力性」と呼ぶ。これが知とか、純粋知性とか呼ばれるものである。その内容は、自己を対象また内容とするものは無限に実体的主観性であるが故に、自己と同一の内容と言われる。そして、「この内容そのものにおいて、またしても無限の主観が無限の客観によって区別される」とヘーゲルは述べる。神が精神として、彼岸に止まり、その教団の生きた精神(霊)として存在するのでないなら、客観としては、ただ一面的な規定の内に存在しているにすぎない。即ち、これが概念、即ち、理念、絶対的理念の概念である。この場合、実在性は、精神にとって存在する精神、自己自身を対象とする精神である。このような宗教が啓示宗教であると考えて、ヘーゲルは言う。「啓示するとは、無限な形式のこの判断、自己を規定すること、他者に対して存在することであり、このように自己を顕示することは精神そのものの本質に属する」。神が自己を啓示することは、自らを根源分割する(判断する)ことに他ならず、そのことは神の本質に属することであって、「啓示しない精神は精神ではない」という。神の存在とは、自己を啓示し、他者を立て、区別を措定し、それを止揚し、自らに止まることである。
 絶対的宗教は、まず啓示宗教であると言われた。だが次に、この宗教はまた、(2)啓示された宗教である、とヘーゲルは指摘する。「啓示された宗教」であるというのは、一方で、この宗教が、「神によって啓示されている」ということ、即ち、「神が自分自身を人間に知らせた」ということに他ならず、他面では、「この宗教が、人間に外から来た、与えられたという意味で、既成的(ポジティブ)(実証的、積極的)宗教であると啓示されている」ということなのである。ここでいう positiv という言葉はどのような意味を持っているだろうか。
 ヘーゲルは言う。「絶対的宗教は、意識にとって存在する一切のものが、その意識にとって、或る対象的なものであるという意味において positiv である」。positiv なものは外的な仕方で我々に到来する。だからこそ、啓示宗教は、「人間に外から来た、与えられたという意味で既成的宗教である」。パネンべルクによれば、十七世紀以来、教会の神学は積極的神学と呼ばれて来た。D・ボンヘッファーは、K・バルトの神学を啓示積極主義と呼んだことも理由のないことではない。啓示は外から与えられる。また同様に、外的なものは、感覚を通じて獲得されるのであるから、感覚によるものは、実証的である。そこでヘーゲルは言う。「差し当たり、我々が直接的直観において、我々の前に有するところのものほど実証的なものはない」。
 精神的なものに関しては、有限精神的なもの、歴史精神的なもの、といった「外的精神性、自己を外面化する精神性の在り方」をする全ての精神的なものは実証的であると言われる。いっそう高次にして純粋な精神的なもの、例えば、人倫的なもの、自由の法というようなものは、外面的、偶然的なものであるわけではないが、教育、学説というような形で、外から我々に与えられるのであるから、それもまた実証的であるとヘーゲルは考える。また、法、民法、国法もまた positiv と言われる。これは、しかし日本語では実定的と訳されるべき内容を有する。実定法というのは、元来、自然法との対比において、人間の意志によって設定された法を意味する。「この法はその外面性において、我々にとってもまた、主観的には、或る本質的なもの、即ち、主観性に拘束するものであるべきである」、とヘーゲルが言うのはそのためである。そのような意味でまた実定的宗教を見れば、それは、歴史的にすでに存在している現実の宗教のことであって、例えば啓蒙主義者が主張する理性宗教、自然宗教とは異なるものである。だが宗教が実定的であるのと、それに止まるべきであるかと言うこととは別の問題であるとヘーゲルは考える。
 宗教の確証に関しては、ヘーゲルは、「外的なものが、ある宗教の真理を証言し、ある宗教の真理の根拠とみなされるべきである」ということが、実証的ということであるという。即ち、宗教を確かなものとする何かは、単に思念され、ねつ造されたものではなく、現実的なものでなければならない。それがポジティブという言葉で考えられていることの内実である。宗教において、それは具体的には奇蹟と証言とであり、それらが啓示する個体の神性を実証するはずである、とヘーゲルは考えて言う。「奇蹟は、知覚されるところの感性的変化、感性的なものにおける変化である」。その意味で、奇蹟はまだ精神的なものを確証しない。精神的なものは精神的なものによって確認され、確証されるのであって、「土を以て土を見、水を以て水を、アイテールを以て神的アイテールを」ということはここでも妥当する。即ち、「精神的なものそのものは直接、非精神的なもの、感性的なものによって確証され得ない」のであり、「精神的なものは外的に確証され得ない」のである。この立場はまさしく理性の立場であって、奇蹟は精神的なものを証言することが出来ないという立場であり、したがって悟性は奇蹟を合理的に説明し、またこれを批判する。「精神的なものはただ自らによって、自らにおいてのみ確証される」。したがって、「奇蹟による確証は、それを論駁する場合と同様、我々と関わりない領域であり、精神の証言が真の証言である」とヘーゲルは言うのである。
 「精神の証言」は様々な形を取り得る。ところでヘーゲルは言う。「その最高の仕方での精神の証言が、概念が純粋にそのものとして、何の前提もなしに、自己から真理を発展させ、また人々が発展するものと認め、この発展において、またこの発展を通じてその必然性を洞察する、という哲学の仕方である」。では、哲学と宗教、理性と信仰とはどのように関わり合うのか。神(真理)については、思惟による以外にいかなる真の確信も存在しない、と人は宗教に反対して言う。この場合、人は、神の存在証明を真理について知る唯一の方法と見ている、とヘーゲルは言う。だが、精神の証言は多様であり、全ての人に哲学の方法が要求されるわけではない。もちろん、このことは哲学の方が高次だというのではない。ただ、このような精神の証言もまた、実証的なものと関わり得ることを、ヘーゲルは示そうとする。例えば、共感は、一つの実証的なものであり、措定され、与えられたものから出発する論究もまたこのような実証的基礎を有すると考えられる。「人間のみが宗教を有し、そしてその宗教はその座、地盤を思惟の内に有す」とヘーゲルは言うが、それは、人間の心情、感情が、単に動物の心情、感情なのではなく、思惟する人間の心情、感情であるとヘーゲルが考えていたためである。共感、この直接的確信はまさしく理性にとって実証的なものと考えられていたのである。
 ヘーゲルによれば、キリスト教の教義は、聖書において与えられているという点で実証的であるという。まさしくこの点では、啓示実証(積極)主義と特徴づけられた神学の立場と相通ずるところがあると言えるかもしれない。こうして神学が成立するのである。
 だが、神学は、同時に、しばしば聖書主義の抬頭を促す。この聖書主義の立場に立つ人たちは、敬虔な、宗教性を持った人たちであることが多い。ヘーゲルはルター派の熱狂者、ゲツェの名を挙げる。ヘーゲルによると、彼は多くの聖書を収集していたという。だがそのことは神学とは関係がない。悪魔もまた聖書を引用する、とヘーゲルは揶揄する。そこでヘーゲルによれば、神学者たることは、もはや、「箴言を読んだり、繰り返したりするということでもなく、いわゆる解釈を求める。即ち、それが何を意味しているかを推論し、解釈し始めるや、人間は論断し、反省し、思惟の領域へ移り、そして、その思惟が正しいか否か、人間はその思惟において如何に振舞うべきかが問題となる」ということなのである。ここで問題となるのは解釈とは何かということである。「人は諸表象を伴っており、その諸表象が解釈を導くのである」とヘーゲルが言うとき、すでに無前提な解釈の存在しないことを示している。それ故にこそヘーゲルは言う。「聖書の解釈は、聖書の内容を、それぞれの時代の形式、思惟方法において示す」。したがって、解釈はあくまでも、人間の表象、主体と無関係ではあり得ず、それ故に主観が前面に出て来る。神は自らを啓示するものでありながら、神を認識することがキリスト教にとって重要であるが故に、そこに、実は人間の表象がその解釈に伴うのである。解釈は思い入れである。したがって、そこには一定の論理が問題となる。それ故に、神学は思惟を否定することは出来なくなる。ところで思惟の形式を取り扱うのは本来哲学の仕事なのである。
 神学はこうした哲学、思惟の形式と無関係に存在することは出来ないし、もし、そのことを否定すれば、神学は偶然的思惟に委ねられてしまうことになる。だがヘーゲルは言う。「この偶然的、任意的思惟はそこに入り込む実証的なものである」。実証的なものは既成のものであって、必ずしも本来的なものではない。このような既成のものから自らを解放するのは概念のみであるとヘーゲルは考える。ところで、このような既成的な形を取るものを挙げれば、教義や聖書がある。だがそのさい、これを受け取る精神を問題とせざるを得ない。だがそれは単に「受動的受容」ではない。これは精神の活動性である。ヘーゲルは言う。「この精神は、その表象、概念を有し、論理的実在であり、思惟する活動であって、この活動を精神は知らねばならない」。精神は受容的であると同時に能動的なのである。この両者の共存のところに釈義、解釈の本質がある。偶然的思惟では神的内実を把握することは出来ないのであって、それを把握する精神自体が神的精神であらねばならない、とヘーゲルは考える。神的内実を把握することの出来ない精神は、有限的精神であって、真の絶対的内容を把握し得るのは、このような有限的思惟ではなく、哲学のみであるというのである。そこでヘーゲルは言う、「キリスト教の根本真理は哲学によってのみ保持され、維持される」。

 ここで神学の学問性に触れておくべきであろう。またそのためには同時に学問性の意味についても考察を進める必要がある。いうまでもなく、学問はその本質的規定をギリシア人に負うている。アリストテレスが学問を、論理学、形而上学、倫理学および詩学とに分けていることはあまりにもよく知られている。ところで、このようなギリシア的学問の根底に一般に合理性といわれている事態のあることは言うまでもない。アリストテレスは、「学とは、普遍的・必然的な事柄に関する判断であるが、諸々の論証的帰結は様々のアルケー(原理)の上に成立する。学は、まさしくロゴスを建前とする」という。我々が普遍合理的であるというのは、我々の認識が何の矛盾もなく認めるところの事態について言う。ギリシア語のロゴスは、まさしく計算を意味するというのは当を得ている。合理性の根底には、A=Aの同一律がある。ヨーロッパの長い歴史の中で認識の可能性を追求するとき、感覚的確信から出発する経験論の立場と、経験を超えた合理論とがあるが、実は両者とも合理性を求めているのである。経験論の立場からすれば、感性によって与えられた確信と、対象との一致が求められ、合理論においては、その根拠が理性の中に存するという。学問が学問として成り立つのは、このような合理性を前提としているからである。合理性という言葉は、ratio という言葉に由来する。これはまた、理性のことであり、同時に事物のよって立つ根拠、事態の理法も、これと同じ言葉で表明される。ギリシア人はこれをロゴスという言葉で言い表した。即ちギリシア人の思惟が合理的であったということはよく知られている。アリストテレスはまさにそのような合理性を求めて論理学=ロゴスの学を書いたのである。キリスト教神学は、自己の教義の弁証に学問の助けを借りざるを得ず、十二世紀の初めに、アベラルドゥスは、その著書に、Theologia christiana,Theologia, Theologia scholarum というような標題を与え、教義論を展開しようとしたという。この神学という言葉は、その後、ジルベール・ド・ラ・ポレとその学派によって広められた。それ以前にもこの言葉はキリスト教の内部で用いられていたが、それはただ、狭い意味で、即ち、神観、三一論に関してのみ、この言葉は用いられたという。だが十二世紀以降、キリスト教の救済史全般について論ずる学問として神学という名が使用され、しかも、大学における神学部に位置づけられることによって、学問性を要求されることになったのである。
 キリスト教史の中における学問論の展開を顧みると、神学という言葉が定着する以前に、sapientia と scientia という用語がアウグスティヌスによって使用されていたことを我々は知っている。「一方は永遠的なものの知的認識であり、他方は時間的なものの理性的認識である」とアウグスティヌスは言う。パウロもこの両者を区別して、「ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、他の人には、同じ御霊によって知識の言が与えられている」(コリント第一書12-8)という。アウグスティヌスが語る知恵がどのようなものであるかを明らかにしておかねばならない。神の知恵 Sapientia Dei は、究極的なところで独り子イエスのことであるが、人間の知恵 hominis sapientia は、神に献げられる礼拝としての真実の知恵、ラテン語で、敬虔と呼ぶものと同じであると考えられる。この言葉は、ラテン語では、神礼拝と訳されているとアウグスティヌスは指摘し、ヨブ記28-28「見よ、主を恐れることは知恵である。悪を離れることは悟りである」の七十人訳旧約聖書に依って、この悟りという語がラテン語では、学知と言われ、「この語は確かに学ぶ discere にその名称の由来を持ち、そこから scientia と言われ得る。全てのものは知られるために学ばれるからである」として、知恵と知識とが対比的に述べられ、しかも互いに排除し合うものとは考えられていないのである。アウグスティヌスは知恵を、同時にピタゴラスの愛知との関係で論ずる。哲学者とは知者というより、愛知者と言われるのである。アウグスティヌスのみでなく、すでにクレメンスも、この両者の関係を考えたという。パネンベルクは次のように言ってる。「クレメンスもまたすでに、愛知としての哲学の概念にも言及し、この概念を、哲学よりもキリスト教の教義の方が優っていることを解明するのに利用した。キリスト教の教義は知恵そのものであるが、哲学の方はただそれを探究するにすぎないのだからである」。クレメンスの愛知は、まさしくプラトン的なものである。それ故、アウグスティヌスは、「異教徒の偉大な哲学者たちは、神の不可視性を、造られたものを通じて、知恵によってみることが出来たのに、仲保者なしで、即ち、人間キリストなしで哲学し、キリストの到来するであろうことについての預言者の証言を、またすでに到来したという使徒の証言を信じなかったため、真理を虚偽となしたと言われる」と述べて、哲学に対し、否定的な主張をするが、クレメンスによれば、知恵に対するパウロ的批判も、エピクロスとストアの哲学に対するものであるにすぎないという。これに同意しない場合でも、「パウロにとって、全然、古典的哲学が求める知恵の拒否が問題であったのではない」という考えには同意し得よう。むしろその主張点は、キリストこそ真の知恵であると言うことであったと言えるのである。
 だが、アウグスティヌスが否定的に取り上げたのは異教徒の哲学であって、彼は哲学を単に、神学の奴隷と考えようとする中世の伝統的考えの線上を歩いたのではない。そのことが、三位一体論の全体を貫く主題になっているということは明らかである。アウグスティヌスはキリスト教を、知恵として、神的な事柄についての知を考え、人間的な事柄についての知たる、知識と区別した。しかし、キリストの受肉によって、キリスト教が単に知恵の事柄であるというだけでなく、また、知識の対象ともなったのである。「キリストは私たちの知識であり、また同一のキリストが私たちの知恵である。彼自身が私たちに対し、時間的な事柄についての信仰を植え、また永遠的な事柄についての真理を啓示する。私たちは彼自身を通して彼自身に達し、知識を通して知恵へ向かう。しかし、私たちは一つの同じキリストから離れるのではない。キリストの中には知恵と知識の全ての宝が隠されている」。即ち、この「知識を通じて知恵へ」ということが、アウグスティヌスの重要な主張である。この知恵としてのキリスト教教義の理解とプラトン・アリストテレスの学問論とが結びつく。プラトンはクレメンスと同様、哲学を愛知と考えるが、結局のところ知恵に近づくことは出来ないとした。アリストテレスは、「知恵は・・・学でもあり、直覚でもある」と考えている。そして、「知恵は、あらゆる学の内で、最も完全なものでなければならないことは明らかである」とも言っている。知恵が学と同一視されるということは、それが哲学と同一視されているということに他ならない。キリスト教の側からすれば、この知恵と知識(哲学)との結びつきが、信仰の論証に際して取り入れられたということである。即ち、キリスト教の信仰的真理の普遍性を実証するために、哲学的方法が利用されたのである。
 
 もともと神学という言葉の意味は、キリスト教の意図するものとは異なっていた。例えば、プラトンにおいては、神学とは神々に関する伝説、即ち、神話のことに他ならない。だがアリストテレスにおいては、「三つの理論的哲学が存在する。即ち、数学と自然学と神学とが実在の内に存在するべきである」と言われる。即ち、神学とは、この場合、いわゆる形而上学の名称であり、だがそれは、非物体的な事物に関する学の代わりに、存在者そのものに関する学と言い表され得るのである。そして、このアリストテレスの神学概念がキリスト教で使用されると、神観に限って用いられた。だが、アリストテレスとの結びつきは、当然、キリスト教的思惟と哲学とが結びつくこととなる。最初の世紀には、福音の内実は、キリストとの出会いによって形成されたため、それを客観的真理の形に表明し直す必要はなかった。しかし時代を経るにしたがって、この真理は普遍的意識に訴えるものとならざるを得なくなった。これが、神学が哲学と結びついて学としての性格を持つに至った理由である。神学が学問的でないと思われるけれども、それは神学が非合理的であるためというよりむしろ権威的であるからという点に注目すべきである。
 哲学史の立場から見ると、学問としての哲学の確立ということが言われるのは、近代になって哲学が神学から独立しようとするに至ったときであるといえる。しかし、近代が、その学問性という点で、神学から哲学が独立しようとしたということを意味するといえるのは、現代という時点から顧みてのことであって、その時代の只中にあって、近代の思想が果たして神学から独立しようとする明確な意識を持っていたかどうかは疑わしいと言わなければならない。神学自身が学問であるとすれば、思想が神学から独立するとは何を意味しているのだろうか。デカルトが神学から独立しようとしたと言われるが、実際はその教会的権威から独立しようとしたのである。近代が理性による思惟を特徴とするというのは、ほんの一面的な思惟でしかない。デカルトの全著作を丹念に読んでみれば、彼の合理的思惟の背景には、敬虔な、神への志向のあることを見逃すわけにはいかない。その神の存在証明は、まさにそのことを物語っている。彼の合理的思惟を支えるこの精神のあることを多くのデカルト研究者たちは見失ってしまった。人間の合理的思惟を超越した彼方との関連において、初めて彼の合理的思惟は可能となったのである。そして、この近代の合理主義から現代へ至る合理主義の一つの帰結が、論理実証主義であり、現代では、これが命題の真偽問題にまで徹底するのである。
 神学が学として、このような論理実証主義からの批判に耐え得るものであるかどうかについて、ここで述べておかねばならない。論理実証主義の基本的特徴について、W・シュルツは次のように述べている。「論理実証主義は一義的形態をとっているのではない。それにも拘わらず、様々な名称(論理実証主義あるいは、科学的実証主義、論理的経験主義、科学的哲学あるいは科学的基礎研究)は、この思想運動を刻印づける次のような基本的確信を示している。即ち、科学の方法論的基礎づけを遂行することが哲学の課題であると。哲学的問題設定はそれに尽きる。というのは、哲学は、それ自体として考究しなければならないような特別な領域を知らないからである。探究とは、ただただ個別的経験科学の課題である。存在者の全体としての世界は探究の対象ではない。探究可能なものは、自然と人間社会との領域である。そしてまさしく、これらの領域は特別な科学の対象なのである」。この運動がウィーン学派によって統合されたことは知られている。そして、「ウィーン学派の決定的な尽力点は、否定的な点から言えば、哲学的可能性としての形而上学の厳格な拒否ということである。形而上学に対するこのような対立は、後の段階では和らげられてはいるが、実証主義の展開に一貫してる」とシュルツは言う。このことはパネンブルクの言い方によれば次のようになる。「全ての実証主義は所与、あるいは措定されたものを論証の究極的基礎とする。実定法学派の場合には実定の法がそれであって、その妥当性はそれを超えては問われない。D・ボンヘッファーがK・バルトに認めた啓示実証主義の場合には、それは神の言葉、あるいはキリストにある神の啓示の所与性であり、それをバルトは至る所で前提していて、そのような前提をそれ自身の真理の法に基づいて問うことをしない。経験的実証主義は経験を、より厳密に言えば、感覚知覚を究極の所与性と想定する。一切の知はそれに基づいており、あるいはそれとの関連で、いずれの場合も正当化されるべきである。この意味で、実証主義の概念は1830年、オーギスト・コントによって明確なものとされた」。
 もちろん、我々はここでコントにまで遡ることは出来ない。ウィーン学派は1922年に設立された。このウィーン学派にとって重要なのは、次の点であると言える。「論理実証主義の中心的問いは、事柄に関してあることを主張する命題は、検証可能、反証可能なのか、あるいは、そうは言っても検査可能なのか、またどの程度そう言えるのかということになった」と。この論理実証主義の言語分析の問題は、さらにヴィトゲンシュタインによって展開されるが、それは、命題の中の諸語の結合が、事態の中の諸対象の結合を現わすかどうか、という問題となる。「映像が真であるか偽であるかを知るためには、映像と実在とを見比べて見なければならない」とはヴィトゲンシュタインの言葉である。古典的実証主義の立場と違って、個々の語、個々の概念が現実性を写すことと見なされるより、命題自体が問題となる。命題の真偽は、命題が主張する事態との一致または不一致に存する。ところで、「全ての命題は反証に対する指図である」とヴィトゲンシュタインは言う。このことを踏まえて、トラクタトゥスの言葉が理解可能である。即ち、「自然科学の命題」のみが主張され得る。言い換えると、本来意味を持ち得るはずなのに、形而上学的諸命題が無意味であるとされるのは、形而上学的諸命題の内にある「或る記号」、或る言葉は、「何の意義」もないからであり、経験的に確証し得る対応を持たないからである。形而上学的な言明を経験可能な世界の中に求めることは出来ない。そこで、「神は世界の中では啓示されない」と言われる。ヴィトゲンシュタインにとっては、「神の思想は(初期バルトにおける危機の神学と比べ得る二元論の形で言えば)神秘的直観と関わっており、世界の意味は、世界の外に存在しており、生の謎の解釈は、空間と時間との外に存在していなければならない」と考えられるのだと、パネンベルクはヴィトゲンシュタインのトラクタトゥスを拠り所として述べている。








































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