神の現存在の証明 移行の思弁的考察
これらの思想規定の連関は、問題になっている証明の全内容を形作るものであるが(それが証明において遂行されるはずのものに一致しないということについては、後になお根本的に論明しなくてはならない)、この連関はこれまでにすでに我々の論究の対象であった。しかしこの連関の真に思弁的な側面はまだ取り残されているので、我々はここではこの論理的吟味に詳しく立ち入らないで、そのいかなる規定が思弁的側面に関するものであるかを指摘しなければならない。この連関において主として注意せられたところの契機は、それが一つの移行であると言うこと、換言すれば、出発点となったものは否定的なものという規定を持ち、偶然的存在として、単に現象として存在するにすぎず、その真理性を絶対必然的なもの、それの真に肯定的なものにおいて持つ、と言うことである。ところでその際まず第一にこれらの規定の前者、即ち否定的な契機に関して言えば、思弁的な把握に対してはそれは単なる無とは解されない。それはそのように抽象的に現存するのではなく、むしろ単に世界の偶然性における一契機に過ぎない。否定的なものをそのように抽象的な無と解さないことには、従って何らの困難も存するはずがない。表象が偶然性・制限性・有限性・現象として解するものは一つの現存在、一つの実存を有し、しかも本質的にその内に否定を含んでいる。表象は抽象を事とする悟性よりはいっそう具体的であり、真実であるが、この悟性が否定的なものという言葉を聞くと直ちにそれを無と思い、単なる無、無そのものと解して、実存が偶然的なもの、現象的なもの、等々として規定せられる限り、否定的なものがこの実存と結びついているという見方を棄て去り勝ちである。思弁的分析はこのような内容の内に二つの契機、即ち存在としての現存在・実存という肯定的なものの契機と、他方またそれ自身の内に否定としての終末・没落・制限、等々の規定を持つところの契機とを指摘する。思惟は偶然的なものを捉えるためには、これらの両契機を無それ自体と存在それ自体とに互いに分離させてはならない。両者はそういうふうに偶然的なものの内にあるのではなく、むしろ偶然的なものが両者を自己の内に含むのだからである。従って両者は(各々がそれ自体としてであれ、或いは相互に結合してであれ)偶然的なものそれ自身ではなく、また偶然的なものがそのあるがままに両者のこのような結合であると解されるべきでもない。これが即ち思弁的な規定である。それは表象の内容に忠実であるが、これに反して両契機をそれぞれ自体として固持する抽象的思惟はこの内容を逸している。この内容は悟性の対象である偶然的なものを解消してしまったのである。
さて、このように規定されると、偶然的なものは自己矛盾である。従って自己を解消するものは同様にまさしく悟性の手中に生じたようなものに他ならない。しかし解消には二種ある。悟性によって生じた解消は対象、即ち具体的な結合を単に消失させるだけである。もう一つの解消にあっては対象は依然として保持されている。しかるにこの保持は対象にとってたいして役に立たず、あるいはまったく役に立たない。この保持においては対象は矛盾として規定されており、そして矛盾は自らを解消するからである。矛盾するものは無である。このことは正しいけれども、また同時に正しくない。矛盾と無とはやはり少なくとも互いに区別せられる。矛盾は具体的である。それはなお内容を有する。それは自己になお矛盾するものを含んでいる。それはなおこの矛盾するものを表現する。それは何かについて矛盾であることを言い表すのである。これに対して、無はもはや何も表さず、無内容であり、完全な空虚である。前者のこの具体的な規定と後者の全く抽象的な規定とは一つの極めて重要な区別である。さらにまた無は全く矛盾ではない。無は自己に矛盾しない。それは自己と同一である。従って無は、或るものは自己に矛盾してはならない、という論理的命題に全く背かない。或いはこの命題が、何ものも自己に矛盾すべきでない、というふうに言い表されるならば、これは単に何らの結果をも持たないところのべしである。無はそれのあるべきものであることを果たさないからであり、換言すれば、それは自己に矛盾しないからである。しかるにこれを措定の形にして、存在するものは自己に矛盾しない(存在するところの無は自己に矛盾する)、というふうに言い表すならば、それは明白に正しい。この命題の主辞は無であるが、しかし存在するからである。しかるに無そのものはただ単純であり、自己自身に同等な、自己に矛盾しない一つの規定である。
このように、悟性が行う矛盾の無への解消はただ空虚なもの、或いはいっそう精確に言えば、矛盾それ自身の内を駆けずり回るにすぎず、そしてこの矛盾はこのような解消によって実際なお存続しているものとして、まだ解消せられないものとして示される。このように矛盾がなお解消せられていないということは、まさしく内容、即ち偶然的なものがようやくその自己内否定において措定されているに止まり、なお肯定(それは抽象的な無ではないから、この解消の内に含まれていなければならない)において措定されていないということに他ならない。偶然的なものそれ自身はもちろん、差し当たりそれが表象に示されるままの形では肯定的なものである。それは現存在であり、実存である。それは世界であり、肯定であり、実在性である。その他どう呼んでもよいが、今はこれで十分である。しかしそれではなお偶然的なものはその解消において措定せられてはいず、その内容および内実の解明において与えられてはいない。そしてこの内容・内実こそはまさしくその真理、即ち絶対必然的なものに到るべきものなのである。そして先に言ったように、世界の有限性・制限性が偶然的なものの解消を直接に自ら上述の否定的な側面に従って告げ知らせるために開示せられるのは、まさに偶然性それ自身においてである。ところでさらに、矛盾の内にすでに解消されたものとして措定されているこの偶然的なものの解消は、この解消の内に含まれている肯定的なものとして示された。この解消についてはすでに示された。それは精神の偶然的なものから絶対必然的なものへの移行として人間の心の表象から取り入れられ、受け入れられたのであり、そしてこの絶対必然的なものは従ってそれ自身まさにこの肯定的なもの、即ちあの最初の単に否定的な解消の解消であるとも言えよう。さらにこの最後の最も内的な点における思弁的なものを示すことは、同様にただ我々がいま問題にしているもの、即ちあの最初の解消の内にすでに含まれている思想を完全に取りまとめるということを意味するに他ならない。この解消を単に無に自己を解消する矛盾としてしか解釈しない悟性は、ただその内に存する二つの規定の一つを取り上げるのみであって、他の規定を逸するのである。
事象の上ではその開顕された形態における具体的結果、換言すれば、その思弁的形式はすでにずっと以前に、即ち絶対的必然性について与えられた規定において提示せられている。しかしその際には、外面的反省および論断は、この必然性に属する、或いはこの必然性がそれから結果するところの諸契機に対して使用されたのであった。ここで問題とされるのはただ、我々が偶然的なものの解消としての矛盾であると見たところのものそれ自身においてそれらの諸契機を認め得るようにすることだけである。絶対的必然性において我々はまず媒介の契機を見たが、しかもこの媒介は差し当たり他者による媒介であった。偶然的なものの分析において示されることは、それらの契機(存在一般、或いは世界の実存とその否定、この否定によって世界的実存は仮象、即ちそれ自身において空無なものの意義にまで貶められる)は各々それ自体として孤立的なものではなくて、むしろ唯一の規定に、即ち偶然的なものに帰属し、端的に他者への関係において存在するものとして考えられる、ということである。各契機はここではただ他者への関係においてのみその意味を有する。それらの契機を結合するこの唯一の規定はそれらを媒介するものである。この規定においてこそ一契機は他契機の媒介によって存在する。しかしこの規定の外部にあっては各契機はそれ自体として存在しえ、のみならず各契機はそれ自体として、即ち、存在それ自体と否定それ自体として存在すべきである。しかるに、その存在をここに見られるように具体的な形態において、即ち世界の実存と解するならば、我々はやはりどうしてもこの世界的実存はそれ自体としては存在せず、絶対的ではなく、永遠ではなくして、むしろかえってそれ自身において空無であって、確かに存在を有するが、しかしそれ自体としての存在は有しないことを承認する。まさしくこの存在こそは偶然的なものとして規定されているのだからである。さて、このように偶然的なものにおいては両規定の各々はただ他者への関係においてのみ存在するとすれば、両規定のこの媒介はそれ自身偶然的なものであり、単に孤立的なものにすぎず、ただこの場所にのみ現存するもののように見える。不満足な点は両規定がそれ自体として考えられ得るということにあり、換言すれば、それら自身がそのものとして存在し、単に自己にのみ関係し、従って直接的であり、それ故にまたそれら自身において媒介されていないということにある。それであるから媒介はそれらの規定にとって単に外面的な着衣にすぎず、従ってそれ自身偶然的なものである。換言すれば、偶然性自身に固有な内的必然性は証示せられていないのである。
それ故にこの反省は、我々が与えられたものとして、即ちまさに出発点として取ったところの出発点それ自身の必然性に導く。それは偶然的なものから必然的なものへの移行に導くのではなく、むしろ即自的に偶然的なものそれ自身の内部において行われるところの移行、即ち偶然的なものを構成する契機のそれぞれ一つからその他者への移行に導くのである。このことは我々を最初の、抽象的・論理的な諸契機の分析に連れ戻すであろうが、ここでは偶然性をそれ自身における移行と考え、普通に解される意味でのその自己止揚と見なすだけで十分である。
してみると、偶然性の上述の解消において同時に絶対的必然性の第二の契機が示されている。即ち、自己自身との媒介の契機がそれである。偶然性の諸契機はまず差し当たり相互に他と対立する。そして各契機はそこにおいては自己の他者と媒介されたものとして措定されている。しかし両者の統一において各々はそれぞれ否定されたものである。それ故に両者の区別は止揚されている。そしてなお両者の内の一つについて云々される場合にも、それはもはや自己から区別されたものに交渉づけられているのではなく、従って自己自身に交渉づけられているのである。即ち自己との媒介が措定されているわけである。
それ故に思弁的考察は次のような意味を持つ。即ち、それは偶然的なものをそれ自身に即してその解消において認識するが、この解消は差し当たりこの規定の外面的な分析という形で現れる。しかしそれは単にこれだけに止まらず、むしろその規定のそれ自身における解消である。偶然的なもの自身は自己を解消するのであり、それ自身において移行である。しかし第二に、この解消は無の抽象ではなくして、むしろそれ自身における肯定である。この肯定は、我々が絶対的必然性と名付けるところのものである。この移行の概念はこのようにして得られる。結果は偶然的なものに内在するものとして示される。換言すれば、偶然的なものはそれ自身自己の真理性へ転換するものに他ならず、そして我々の精神の神への超出は(我々が予め神に対して絶対必然的存在という規定より以上の規定を持たない限り、或いは我々が差し当たりのところこの規定で満足しているのだから)事象のこの運動の経過である。我々の内にあって駆り立て、この運動を我々の内に惹き起こすものは、この事象それ自身の本性なのである。
すでに注意されたように、思想の諸規定をその純粋な、思弁的な規定において、従ってその自己解消および自己運動において当面に持つのではなく、むしろそれらの諸規定を表象において持つところの意識にとって、移行はその出発点となるもの、即ち偶然的なものがすでにそれ自身自己を解消するものであり、移行するものであるという意味を持つことによって容易にせられる。これによって出発点となるものと到達点となるものとの連関はそれ自体として意識に明瞭となる。この出発点は従って意識にとって最も有利なものであり、最も合目的的なものである。それは思惟の本能であって、この本能は即自的にあの移行をなすものであり、事象であるが、しかしまた移行をそれが意識の単なる表象に対して容易に、即ち抽象的・同一的に現れるような思惟規定において意識に持ち来すところのものである。世界は偶然的なものとして規定されるが、まさしく世界こそは自己の非存在を指示するもの、自己の真理としての自己の他者を指示するものであると言明される。
このように移行は、それが出発点の内に単に即自的に含まれているのみでなく、またこの出発点が直ちに移行を意味し、換言すれば、出発点のこの規定は措定せられており、従ってそれ自身に即したものである、ということによって理解せられる。このようにしてこの規定の現存在は、ここでは一つの思惟規定であるところの直接的な現存在を問題とする限りにおいて表象的に振る舞う意識に対して与えられている。結果、即ち絶対必然的なものもまた同様にして理解せられる。それは媒介を含み、そして最も理解し易いものと見なされるのはまさしく連関一般のこの悟性であって、この連関は有限な仕方においては一者と他者との連関と解されるが、しかしまたこのような連関がその不十分な結末に終わる限り、反対に訂正を伴っている。このような連関は、その法則が常にその素材において自己を繰り返すという要求を当面に持つ限り、それ自体として常に他者へ、即ち否定的なものへ導く。この進展において再び現れる肯定的なものは、単にそれ自身に起因するものに他ならず、従って一方のものも他方のものも共に安息と満足を見出すことがない。しかるに絶対必然的なものは、一面においてあの連関それ自身をもたらすが、この連関を同様にまた断ち切り、発出を自己へ連れ戻し、そして究極的なものを与えるのである。絶対必然的なものは、それが存在するが故に存在する。このようにあの他者と他者への発出は除き去られ、そしてこの無意識的な不整合によって満足が与えられるのである。
さて、このように規定されると、偶然的なものは自己矛盾である。従って自己を解消するものは同様にまさしく悟性の手中に生じたようなものに他ならない。しかし解消には二種ある。悟性によって生じた解消は対象、即ち具体的な結合を単に消失させるだけである。もう一つの解消にあっては対象は依然として保持されている。しかるにこの保持は対象にとってたいして役に立たず、あるいはまったく役に立たない。この保持においては対象は矛盾として規定されており、そして矛盾は自らを解消するからである。矛盾するものは無である。このことは正しいけれども、また同時に正しくない。矛盾と無とはやはり少なくとも互いに区別せられる。矛盾は具体的である。それはなお内容を有する。それは自己になお矛盾するものを含んでいる。それはなおこの矛盾するものを表現する。それは何かについて矛盾であることを言い表すのである。これに対して、無はもはや何も表さず、無内容であり、完全な空虚である。前者のこの具体的な規定と後者の全く抽象的な規定とは一つの極めて重要な区別である。さらにまた無は全く矛盾ではない。無は自己に矛盾しない。それは自己と同一である。従って無は、或るものは自己に矛盾してはならない、という論理的命題に全く背かない。或いはこの命題が、何ものも自己に矛盾すべきでない、というふうに言い表されるならば、これは単に何らの結果をも持たないところのべしである。無はそれのあるべきものであることを果たさないからであり、換言すれば、それは自己に矛盾しないからである。しかるにこれを措定の形にして、存在するものは自己に矛盾しない(存在するところの無は自己に矛盾する)、というふうに言い表すならば、それは明白に正しい。この命題の主辞は無であるが、しかし存在するからである。しかるに無そのものはただ単純であり、自己自身に同等な、自己に矛盾しない一つの規定である。
このように、悟性が行う矛盾の無への解消はただ空虚なもの、或いはいっそう精確に言えば、矛盾それ自身の内を駆けずり回るにすぎず、そしてこの矛盾はこのような解消によって実際なお存続しているものとして、まだ解消せられないものとして示される。このように矛盾がなお解消せられていないということは、まさしく内容、即ち偶然的なものがようやくその自己内否定において措定されているに止まり、なお肯定(それは抽象的な無ではないから、この解消の内に含まれていなければならない)において措定されていないということに他ならない。偶然的なものそれ自身はもちろん、差し当たりそれが表象に示されるままの形では肯定的なものである。それは現存在であり、実存である。それは世界であり、肯定であり、実在性である。その他どう呼んでもよいが、今はこれで十分である。しかしそれではなお偶然的なものはその解消において措定せられてはいず、その内容および内実の解明において与えられてはいない。そしてこの内容・内実こそはまさしくその真理、即ち絶対必然的なものに到るべきものなのである。そして先に言ったように、世界の有限性・制限性が偶然的なものの解消を直接に自ら上述の否定的な側面に従って告げ知らせるために開示せられるのは、まさに偶然性それ自身においてである。ところでさらに、矛盾の内にすでに解消されたものとして措定されているこの偶然的なものの解消は、この解消の内に含まれている肯定的なものとして示された。この解消についてはすでに示された。それは精神の偶然的なものから絶対必然的なものへの移行として人間の心の表象から取り入れられ、受け入れられたのであり、そしてこの絶対必然的なものは従ってそれ自身まさにこの肯定的なもの、即ちあの最初の単に否定的な解消の解消であるとも言えよう。さらにこの最後の最も内的な点における思弁的なものを示すことは、同様にただ我々がいま問題にしているもの、即ちあの最初の解消の内にすでに含まれている思想を完全に取りまとめるということを意味するに他ならない。この解消を単に無に自己を解消する矛盾としてしか解釈しない悟性は、ただその内に存する二つの規定の一つを取り上げるのみであって、他の規定を逸するのである。
事象の上ではその開顕された形態における具体的結果、換言すれば、その思弁的形式はすでにずっと以前に、即ち絶対的必然性について与えられた規定において提示せられている。しかしその際には、外面的反省および論断は、この必然性に属する、或いはこの必然性がそれから結果するところの諸契機に対して使用されたのであった。ここで問題とされるのはただ、我々が偶然的なものの解消としての矛盾であると見たところのものそれ自身においてそれらの諸契機を認め得るようにすることだけである。絶対的必然性において我々はまず媒介の契機を見たが、しかもこの媒介は差し当たり他者による媒介であった。偶然的なものの分析において示されることは、それらの契機(存在一般、或いは世界の実存とその否定、この否定によって世界的実存は仮象、即ちそれ自身において空無なものの意義にまで貶められる)は各々それ自体として孤立的なものではなくて、むしろ唯一の規定に、即ち偶然的なものに帰属し、端的に他者への関係において存在するものとして考えられる、ということである。各契機はここではただ他者への関係においてのみその意味を有する。それらの契機を結合するこの唯一の規定はそれらを媒介するものである。この規定においてこそ一契機は他契機の媒介によって存在する。しかしこの規定の外部にあっては各契機はそれ自体として存在しえ、のみならず各契機はそれ自体として、即ち、存在それ自体と否定それ自体として存在すべきである。しかるに、その存在をここに見られるように具体的な形態において、即ち世界の実存と解するならば、我々はやはりどうしてもこの世界的実存はそれ自体としては存在せず、絶対的ではなく、永遠ではなくして、むしろかえってそれ自身において空無であって、確かに存在を有するが、しかしそれ自体としての存在は有しないことを承認する。まさしくこの存在こそは偶然的なものとして規定されているのだからである。さて、このように偶然的なものにおいては両規定の各々はただ他者への関係においてのみ存在するとすれば、両規定のこの媒介はそれ自身偶然的なものであり、単に孤立的なものにすぎず、ただこの場所にのみ現存するもののように見える。不満足な点は両規定がそれ自体として考えられ得るということにあり、換言すれば、それら自身がそのものとして存在し、単に自己にのみ関係し、従って直接的であり、それ故にまたそれら自身において媒介されていないということにある。それであるから媒介はそれらの規定にとって単に外面的な着衣にすぎず、従ってそれ自身偶然的なものである。換言すれば、偶然性自身に固有な内的必然性は証示せられていないのである。
それ故にこの反省は、我々が与えられたものとして、即ちまさに出発点として取ったところの出発点それ自身の必然性に導く。それは偶然的なものから必然的なものへの移行に導くのではなく、むしろ即自的に偶然的なものそれ自身の内部において行われるところの移行、即ち偶然的なものを構成する契機のそれぞれ一つからその他者への移行に導くのである。このことは我々を最初の、抽象的・論理的な諸契機の分析に連れ戻すであろうが、ここでは偶然性をそれ自身における移行と考え、普通に解される意味でのその自己止揚と見なすだけで十分である。
してみると、偶然性の上述の解消において同時に絶対的必然性の第二の契機が示されている。即ち、自己自身との媒介の契機がそれである。偶然性の諸契機はまず差し当たり相互に他と対立する。そして各契機はそこにおいては自己の他者と媒介されたものとして措定されている。しかし両者の統一において各々はそれぞれ否定されたものである。それ故に両者の区別は止揚されている。そしてなお両者の内の一つについて云々される場合にも、それはもはや自己から区別されたものに交渉づけられているのではなく、従って自己自身に交渉づけられているのである。即ち自己との媒介が措定されているわけである。
それ故に思弁的考察は次のような意味を持つ。即ち、それは偶然的なものをそれ自身に即してその解消において認識するが、この解消は差し当たりこの規定の外面的な分析という形で現れる。しかしそれは単にこれだけに止まらず、むしろその規定のそれ自身における解消である。偶然的なもの自身は自己を解消するのであり、それ自身において移行である。しかし第二に、この解消は無の抽象ではなくして、むしろそれ自身における肯定である。この肯定は、我々が絶対的必然性と名付けるところのものである。この移行の概念はこのようにして得られる。結果は偶然的なものに内在するものとして示される。換言すれば、偶然的なものはそれ自身自己の真理性へ転換するものに他ならず、そして我々の精神の神への超出は(我々が予め神に対して絶対必然的存在という規定より以上の規定を持たない限り、或いは我々が差し当たりのところこの規定で満足しているのだから)事象のこの運動の経過である。我々の内にあって駆り立て、この運動を我々の内に惹き起こすものは、この事象それ自身の本性なのである。
すでに注意されたように、思想の諸規定をその純粋な、思弁的な規定において、従ってその自己解消および自己運動において当面に持つのではなく、むしろそれらの諸規定を表象において持つところの意識にとって、移行はその出発点となるもの、即ち偶然的なものがすでにそれ自身自己を解消するものであり、移行するものであるという意味を持つことによって容易にせられる。これによって出発点となるものと到達点となるものとの連関はそれ自体として意識に明瞭となる。この出発点は従って意識にとって最も有利なものであり、最も合目的的なものである。それは思惟の本能であって、この本能は即自的にあの移行をなすものであり、事象であるが、しかしまた移行をそれが意識の単なる表象に対して容易に、即ち抽象的・同一的に現れるような思惟規定において意識に持ち来すところのものである。世界は偶然的なものとして規定されるが、まさしく世界こそは自己の非存在を指示するもの、自己の真理としての自己の他者を指示するものであると言明される。
このように移行は、それが出発点の内に単に即自的に含まれているのみでなく、またこの出発点が直ちに移行を意味し、換言すれば、出発点のこの規定は措定せられており、従ってそれ自身に即したものである、ということによって理解せられる。このようにしてこの規定の現存在は、ここでは一つの思惟規定であるところの直接的な現存在を問題とする限りにおいて表象的に振る舞う意識に対して与えられている。結果、即ち絶対必然的なものもまた同様にして理解せられる。それは媒介を含み、そして最も理解し易いものと見なされるのはまさしく連関一般のこの悟性であって、この連関は有限な仕方においては一者と他者との連関と解されるが、しかしまたこのような連関がその不十分な結末に終わる限り、反対に訂正を伴っている。このような連関は、その法則が常にその素材において自己を繰り返すという要求を当面に持つ限り、それ自体として常に他者へ、即ち否定的なものへ導く。この進展において再び現れる肯定的なものは、単にそれ自身に起因するものに他ならず、従って一方のものも他方のものも共に安息と満足を見出すことがない。しかるに絶対必然的なものは、一面においてあの連関それ自身をもたらすが、この連関を同様にまた断ち切り、発出を自己へ連れ戻し、そして究極的なものを与えるのである。絶対必然的なものは、それが存在するが故に存在する。このようにあの他者と他者への発出は除き去られ、そしてこの無意識的な不整合によって満足が与えられるのである。
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