ソクラテス派(2)キュレネー派、キュニコス派
キュレネー派はその学派の創始者であり頭であるアフリカのキュレネーのアリステッポスからその名を得ている。ソクラテスが個人としての自己形成を志したように、またその弟子たち、ことにキュレネー派とキュニコス派の場合にも個人的生活と実践哲学が主要目的であった。さてキュレネー派が善をむしろ個人の楽しみにあるとすることによって善一般の規定のところに止まっていなかったとすれば、キュニコス派はそれとはまったく逆であるように見える。というのは、彼らは自然的必要事としての満足というものの特定の内容を、他の人々のすることに対する否定性の規定を以て言い表したからである。しかしキュレネー派がそのようにして彼らの特殊な主体性を満足させたように、キュニコス派に対しても同様なのであって、両派はそれ故に全体としてとして個人の自由、自立という同じ目的を持つのである。我々はキュレネー派が人間の至高の目的とした快楽を無内容なものと見なす慣わしがある。というのは、人は無数のやり方で快楽を味わうことが出来るし、また快楽はありとあらゆるものの結果であることが出来るからである。そんなわけで我々には差し当たりこの快楽という原理はつまらぬもののように思われるし、事実また一般的にもそうなのである。だからこそまた我々には、何か楽しみ以上のものが存在すると考える慣わしがあるのである。この原理の哲学的仕上げなどと言うことはいずれにせよ大したことではないが、この仕事をするのはむしろアリスティッポスの後継者である若アリスティッポスである。次いで後期のキュレネー派の内では特にテオドロス、ヘゲシアス、およびア二ケリスがアリスティッポスの原理をさらに学問的に完成していった人々としてはっきり挙げられる。その後この原理は頽(くず)れてエピクロス主義となり終わった。しかしキュレネー派の原理がその後どのように仕上げられていったかを考察するのは、この仕上げが事柄の必然的帰結によってその原理を全く乗り越えるところまで行き、これを本当に揚棄してしまっただけに特に興味深い。感覚は無規定なままの個的なものである。ところで思惟、思慮、精神的形成がこの原理の中で重んじられる場合には、思惟の普遍性の原理によってあの偶然性、個別性、単なる主観性の原理は消滅する。だからこのように普遍的なものの筋をいっそう大きく通せば元の原理の筋が通らなくなるということ、このことが元来、この学派の内部で唯一注目すべき点なのである。
a アリスティッポス
アリスティッポスは長らくソクラテスと交わり、その許で教養を積んだのであるか、それともソクラテスを訪ねる以前にむしろすでに素晴らしい最高の教養人であったかのいずれかである。彼はキュレネーにおいてか、それともキュレネー人もギリシア人としてやはり参加したオリンピック競技の際にか、ソクラテスのことを聞いていた。彼の父は商人であったし、彼自身、商用の旅行でアテナイにやってきた。ソクラテス派の人々の内では、自分が教えた者から金を要求したのは彼が始めてであった。彼自身ソクラテスにも金を送ったが、ソクラテスはそれを送り返した。ソクラテスは善と美について一般論をするだけに止まったが、アリスティッポスはそれに満足せず、意識の中へ映された本質存在をその最高の被規定性において個体性と解した。そして、彼にとっては普遍的存在は思惟として実在性の側からすれば個的な意識であったので、彼は享楽を、人間が心を煩わして然るべき唯一のものとした。アリスティッポスの場合、彼の性格、人柄が最も重要なものであって、彼について今日に伝えられているのは彼の哲学説に関するものよりもむしろ彼の生き方に関するものが多い。彼は教養ある人間として楽しみを求めた。それ故にこそ彼は一切の特殊なものに対し、欲情に対し、あらゆる類の絆に対して完全に無頓着になり得ていたのである。楽しみが原理とされる場合には、すぐに我々は、享楽の際、人は従属的な人間であり、従って楽しみは自由の原理に叛くというふうに考える。しかし、キュレネー派の説も、また全体としてはそれと同じ原理を持つエピクロス派の説もそんなふうに考えられるべきものではない。なぜなら、楽しみの規定はそれだけとしてならば確かに哲学に対立した原理であると言えるが、しかし、思想の形成ということが楽しみを獲得し得るための唯一の条件とされるようにあの原理がもって行かれるので、精神の完全な自由が保持されているわけである。なぜならこの自由は精神の形成と不可分だからである。いずれにせよアリスティッポスは教養というものをこの上もなく高く評価したのであって、快楽は哲学的教養を持つ人々にとって一つの原理であるにすぎないという考え方から出発した。そんなわけで彼の主要原理は、快と感じられているものは直接的にではなく、ただ反省を通じてのみ知られるということであった。
これらの原則に従ってアリスティッポスは生活したのであって、彼について最も興味深いのは語り伝えられるいろいろの逸話なのである。けだしこれらの逸話は機智縦横の自由な気性を示す諸特徴を含んでいるからである。生活の中で彼は楽しみを求めるのに無分別なやり方をしないように心掛けた(だから彼は彼流に哲学者なのである)ので、楽しみを求めるのに彼は刹那の快楽に溺れること(けだしいっそう大きな禍がそれから生じるからである)のない思慮深さを以てする反面、生じうべき悪い結果を事ごとに案じるあのびくびくした気持ちなどは(まるで、哲学が要るのはびくびくしないためだけでもあるかのように)持たなかった。総じて物事にもたれかかることは一切せず、それ自身変わる本性を持ったどんなものにも執着することはなかった。ディオゲネスはこう言っている。アリスティッポスは現に今、存在していないようなものには心を煩わすことなく、現在の楽しみを味わった。彼はどんな状況にも身を合わせたし、どんな境遇にも順応することが出来た。王たちの宮廷にあっても悲惨きわまる状態にあっても変わることはなかった、と。プラトンは彼に、紫衣(しい)と襤褸(らんる)をまとうことが出来るのは君だけの以て生まれた芸当だと言ったそうである。特に彼はディオニュシオスのところに滞在し、そこで非常に気に入られて、寄食していたが、しかし常に大きな独立性を保っていた。キュニコス派のディオゲネスが王者のような犬と彼を読んだのはそのためである。彼に息子を託したがったある男から彼が50ドラクメを請求したところ、その男はこの額を高すぎると見て、それだけあれば奴隷が一人買えると漏らしたのに対してアリスティッポスは、そうしたまえ、そしたら君は二人の奴隷を持つことになろう、と答えた。ソクラテスが彼に、どうして君はそんなに沢山の金を持つのかと尋ねたのに対して、彼は、どうしてあなたはそんなに金を持たないのかとやり返した。ある遊女が彼に、私はあなたの子を持っていますと言ったところ、彼は、茨の茂みの中をぶらついて、どの刺にさされたか言えないように、わしの子かどうかお前にわかるものかと言った。彼の完全な無頓着ぶりを証するものに次のような話がある。ある時、ディオニュシオスが彼に唾を吐きかけたところ、彼はそれを辛坊し、そのことを咎められてこういったものである。漁師は底の魚を捕るために甘んじて海水に濡れるし、わしにしたところで、こんな鯨を捕るためにこれを辛坊せぬなんて法はない、と。ある時、ディオニュシオスが三人の遊女の内から一人を選ぶように彼を促したところ、彼はパリスにとっても一人の女を選んだのは危険なことであったと言いながら、女たち皆を連れて行った。ところが家の前庭まで連れて行ったところで彼は女たち三人を皆、去らせた。金を持っていても、楽しみの後に必ず来るように見える結果を慮(おもんばか)ってろくな使い方はしなかった。一口の美味にもそれを浪費したのである。ある時、しゃこ一羽を50ドラクメで買った。ある人がそれを咎めたところ、彼は、1オーボロス(1ドラクメの6分の1)ならお前さんは買えやしなかったかねと尋ねた。その人がこれを宜(うべな)うと、彼答えて曰く、ところが、わしには50ドラクメはそれ以上の値打ちもない、と。またアフリカでの旅で、ある時、金袋を運んで行くのが奴隷に辛くなって来たことがあった。これを見て、アリスティッポスは、多すぎる分は放下(ほか)し、持てるだけ持て、と言ったものである。教養ある者は無教養な者とどう違うかという問いに対して、教養の価値について彼は、その違いは一つの石が他の石にぴったり合わないようなものだ、と答えた。ということは、違いは人間と石の違いほど大きいということである。これは全く間違った見解とは言えない。なぜなら人間は教養によってこそ人間らしいのであり、教養は彼の第二の天性であって、それによって初めて彼は本性上持っているものを所有するようになるのでありそうして初めて精神として存在するのだからである。しかし我々はこの場合、現在の無教養な人間のことを考えてはならない。というのは今日ではこれらの人々はその置かれている全状態を通じ、習俗、宗教を通じて教養の一つの源泉に浴しており、そのおかげで彼らはそのような状態に住まない人々に比べて高いところに在るのだからである。ほかの学問をやりながら哲学をなおざりにする人々をアリスティッポスはオデュッセイアの中のペネロペの求婚者たちに喩えた。これらの求婚者はなるほどメラントやその他の娘たちを得ることは出来たが、王妃を手に入れはしなかったのである。
アリスティッポスとその派の人たちの教説はきわめて単純である。けだし彼は意識と本質存在との関係をその最も表面的な最初の形態において掴み、本質存在とは直接、意識に対して在るような存在、つまりまさに感覚のことだと言うのだからである。いま、真なるもの、価値あるもの、それ自体として存在するものと、目的とされる実践的なもの、善とが区別されるが、理論的真に関しても実践的真に関しても両方の場合ともに、キュレネー派は感覚を規定的なものたら占める。従って詳しくは彼らの原理は客観的なものそのものではなくて、対象的なものに対する意識の関係なのである。真なるものは内容として感覚の内に存するものなのではなくて、感覚としての感覚そのものである。感覚は客観的であるのではなくて、却って対象的なものはただ感覚の内でのみ成り立つ。「キュレネー派の言うところによれば、感覚が試金石であり、それのみが認識され得るものであり、そしてまぎれもないものである。しかし感覚を生じさせるものは認識されることも出来なければ、またまぎれもないものでもない。そんなわけで、我々が白くて甘いものを感覚する場合には、我々はこの状態を間違いなく確かに我々自身に関して主張することが出来る。しかし、これらの感覚の原因がそれ自体、何か白い、そしてまた何か甘い対象であるとは、確かには主張できない。これに、この派の人たちが目的に関して述べることも符合する。けだし目的にも感覚は及ぼされるからである。彼らによれば感覚は快か不快かであり、さもなければ両者のいずれでもないかである。さて不快な感覚を彼らは悪と呼び、そのような感覚の狙いどころは苦痛であるとし、
快い感覚を善と呼び、そのような感覚のまぎれもない狙いは快楽であるという。かくて感覚は認識するための試金石であると共に、行為するための狙いである。明証と満足を顧慮しつつ、我々は感覚に従って生きている。明証の方は、理論的直観に基づき、満足の方は快を狙いとしながら。」即ち狙いである以上、感覚はもはやいろいろ様々な心的感性的状態が同じ値打ちで存在すると言ったものではなくなり、快適なものか不快なものかのいずれかに他ならないところの行為の対象に対して肯定的か否定的なの関係をとることを意味する掴み方の対立なのである。
ここで我々は二様の規定が主要関心事となっている領域へ足を踏み入れることになる。それは形成されつつある多くのソクラテス諸派の中で、プラトンとアリストテレスの場合を除き、とりわけストア派、新アカデメイア派等々の場合に、どこでも問題にされるものである。即ち第一の点は一般的な意味での規定そのもの、換言すれば試金石であり、第二点は、規定は主体として何であるかということである。このようにして賢人の観念が現れる。賢人が何をなし、賢人とは如何なる人か、などが論じられる。なぜこの二つの表現が今やあんなにもしばしば現れて来るかは、先のこととつながっている。一方においては関心事は善の何らかの内容を見出すことにある。さもなければ善に関するおしゃべりは尽きないからである。善のこのいっそう立ち入った規定がいまや試金石に他ならない。他方、主体への関心が現れて来る。それはソクラテスによって惹き起こされたギリシア精神の展開の結果である。もしも一民族の宗教、社会体制、法が有効に行われており、一民族の諸個人がそれらと一体である場合ならば、個人としての個人は何をなすべきかの問いは提起されない。習俗の固まった、宗教的な状態においては個人はむしろ人間の使命が現存するものの内に与えられているのを見出すのであり、そしてこれらの習俗や宗教や法は彼の内にも現に在る。これに反して個人がもはや彼の民族の習俗の内に住することがなく、彼の実体的なものをもはやその国の宗教、法等々のところに持つことが無い場合には、彼はもはや己の欲するものを眼前に見出すことはないし、もはや己の現在に満足することはない。ところでこの分裂が生じると、個人は己の内へ沈潜し、そこに自己の規定を求めざるを得ない。詳しくはこれが、個人にとって何が本質的であるか、何に則って自己を陶冶すべきか、何を目指して努力すべきかなどの問いが生じる原因なのである。かくて一つの理想が個人に対して樹てられるのであって、これがここでは賢人となるのである。賢人の理想と呼び慣わされているものは、普遍的な在り方と解される自己意識の単独性のことである。それは今日、私は何を知り得るか、私は何を信じるべきか、私は何を期待してよいのか、主体の至高の関心事は何か、と問われるというのと同じ立場である。何が真であり、正であり、世界の普遍的目的か、ではない。客観的な真実在の知が問われる代わりに、個人の洞察と確信、彼の目的、また彼の一つの生き方である限りでの真なるもの、正なるものは何かが問われる。この賢人についての御談義はストア派、エピクロス派等々にあっては一般的であるが、しかし哲学的な掴み方ではない。けだし問題は賢人にあるのではなくて、宇宙の知恵、実在的な理性にあるのだからである。第三の規定は、即ち普遍的なものは善であり、実在性の側面は個的現存と直接的現実として楽しみであり幸福であるということである。ところで両者は如何にして調和するか?いま登場している哲学諸派と後続の諸学派は両規定(これはいっそう高次の意味では存在と思惟のことであるが)のこの連関を樹立した。
b テオドロス
後のキュレネー派の内ではなお第一にテオドロスの名を挙げねばならない。この人は神々の存在を否定し、そのためにアテナイから追放されたことで有名になった人物である。しかしこのような事実はそれ以上、別に興味を引き得るわけでもなければ、また何か思弁的な意義を持ち得るわけでもない。なぜならテオドロスが否定したところの当時の実際の神々のごときはそれ自体、思弁的理性の対象ではないからである。それにしても彼の卓抜なところは、意識にとって真の存在というものの観念へ普遍的なものをより多く持ち込んだ点にあった。けだし「彼は喜と苦を究極目的として規定し」たからであるが、「ただしその場合、前者は分別に、後者は無分別に属するとした。善を彼は分別と正しさ、悪はその逆と規定したが、これに対して楽と痛は無関係なものとした。」個々の直接的な感性的感覚は本質存在と見なされるべきでないということが意識されるに至れば、それは分別を以てエンジョイされねばならないという言葉が出て来る。と言うことは、あるがままの感覚は必ずしも本質存在ではないと言うことである。実際、感覚としての感性的なものは総じて、理論的にも実践的にも、或る全く無規定なものであり、あれこれの個的なものである。それ故にこの個的なものを判断することが必要となる。ということは、それを普遍性の形式において考察しなければならないということであり、かくて普遍性が必然的にまたぞろ入り込んでくる。ところで、このように個別性を越え出ることが教養なのであって、教養は、たとえ初めの内は、より大きな快楽はどこに見出されるかということだけを打算するようなものであるにしても、ともかく個々の感覚と快楽を制限することによってそれらを調和させようとする。ところで、多くの面を具えた私は多くの楽しみを味わい得るが、それらの中でどれが私ともっとよく調和しているか、従って、どれが私に最大の満足を与えるかという問いに対しては、私との最大の調和はただ私の特殊な在り方と意識が私の本質的、実体的存在と一致するところにのみあると答えられねばならない。ところで、これをテオドロスは、どこに楽しみを求めるべきかを見てとる分別と正しさと解した。しかし、幸福は思慮を以て求められるべきであると言われても、それは空文句にすぎず、意味のない言葉である。なぜなら、幸福の在りかとしての感覚はその概念からすれば、個的な、変化するものであり、普遍性と恒常性を欠くものである。従って不変的なもの、分別は空虚な形式として、それとはまったく相容れない内容に掛かっており、そんなわけでテオドロスは形式上の善を本性上の、また内容上の善としての目的から区別した。
c ヘゲシアス
それ故に同じキュレネー派の今ひとりヘゲシアスが感覚と普遍性とのまさにこの不適合を見て取ったのは注目すべきである。普遍性は個的なののと対立し、快をも不快をも内に持っているからである。一般にヘゲシアスは普遍的なものをもっとしっかりと掴み、もっとこれを押し出したので、彼にとっては個別性のあらゆる規定が消え、それと共に実際上、キュレネー派の原理も消えた。個的な感覚はそれ自体、何ものでもないと彼に意識されるに至ったが、それにも拘わらず彼は楽しみを目的としたので、それは彼にとって普遍的なものであった。しかし、楽しみが目的であるならば、内容が問われるべきであり、さてこの内容を比べてみると、どの内容も何か特殊な内容であって、普遍的なものと相容れず、従って弁証法の餌食となるものばかりである。ヘゲシアスはキュレネー派の原理を追求して行ってこのような思想的帰結に到達した。あの普遍的なものは彼が(我々がよく聞かされるように)、「完全な幸福は存在しない、体は様々の痛みに苦しみ、それにつれて心も痛む。それ故に生と死のいずれを採るかはどうでもよいことである。それ自体、何ものも快でもなければ不快でもない」と述べたことの内に含まれている。つまり快いものと不快なものを分ける試金石そのものが、そこにおける普遍性の強調によって全く無規定なものとされており、そしてその場合にはこの試金石はどのような客観的被規定性をもそれ自身の内に持たないので、空虚な言葉になっているわけである。普遍的なものがそのように固持されている限り、その前では総じて一切の被規定性、意識の単なる個別性、従ってまた一般に生すらが非本質的なものとして消え失せる。「楽しみの稀少、新奇、或いは飽満は或る人々を楽しませ、他の人々を不快がらせる。貧と富は快楽にとって何の意義も持たない。なぜなら富者が貧者よりも喜びを特によく味わうわけではないのは見られる通りだからである。同じくまた奴隷であることと自由であること、素性の尊貴と卑賎、名声の有無も快楽には無縁である。ただ愚者にとってのみ生きることは大切であり得ても、賢人にとってはそれはどうでもよいことである。」だから賢人は不羈(ふき)独立である。「賢人はただ己れ自らのためにのみ行動する。彼はいかなる他人をも己に比敵するものとは見なさない。けだし彼は他人からたとえどれほど大きな利益を得ようとも、それは彼が己れ自らに与えるところのものに比ぶべくもないからである。ヘゲシアスとその友たちは感覚をも意味のないものとして無視した。それはどんな精確な認識をも与えないと考えたからである。」これは全体として懐疑論的な立場である。「彼らは更になお次のように言う。道理上、最善と思われることを為すべきである。過ちは赦されなければならない。けだし過つのは自由意志によるのではなく、情けに負けるからである。賢人は憎まずして、むしろ諭す。彼の目指すところは一般に財宝の獲得にあるよりは却って禍を避けるところにある。けだし彼の目的は苦労なく生きることだからである、と。」個人的自己意識の自由という原理から出て来たこの普遍性をヘゲシアスは賢人の完全な無記無着の状態として言いあらわした。一切のものに対するこの無記無着は、我々の見る通り、この種のあらゆる哲学体系が目指している当のものであって、あらゆる現実性の放棄であり、生の完全な内向化である。伝えられるところによれば、アレクサンドリアに住んでいたヘゲシアスはその教えを聞く人々に、そのような無記無着と生に対する倦怠感を煽り立て、その結果、自殺する者が少なくなかったので、当時のプトレマイオス家によって教えることを禁じられたと言われる。
d ア二ケリス
なおア二ケリスとその派を挙げねばならない。彼らは精確な意味でのキュレネー派の原理は本来全くこれを放棄し、それと共に哲学的形成に或る別な方向を与えた。即ち彼らについて次のように述べられている。「彼らは日常生活の中の友情も感謝も、また親に対する畏敬も祖国のために尽くすこともこれを良いこととして認めた。そして賢人はそうしたことのために面倒なことや手をとられる仕事に巻き込まれ、そこに自身、楽しみを見出すことなどはまずないとしても、それにもかかわらず彼は幸福であり得る。友情はただ利益のためにのみ結ばれるべきものではなくて、そこに生じる好意のためであり、そして友に対する愛の故に負担と煩労も引き受けられねばならない。」このようにして、学派の中にあった普遍的なもの、理論的に思弁的なものは失われる。学派は衰えて、主に通俗的なものになってゆく。これがキュレネー派の歩みの中で行われた二度目の方向転換であって、これに対して最初の方向転換は原理そのものの飛び越しであった。一種の道徳論的哲学思索がここに生じ、これは後にキケロおよびその時代のペリパトス派にも支配的となった。しかしそこには思惟の筋道だった展開にとって足しになるものは何一つない。
3 キュニコス派
キュニコス派については何一つ特に言うべきことはない。なぜなら彼らは殆ど哲学的な仕上げと言うものを持たず、何らかの学問的体系に達することが無かったからである。ただやっと後年になって彼らの諸命題はストア派によって一つの哲学説に高められたというだけである。キュニコス派の場合も、キュレネー派の場合と同じく、方向は、意識にとって、その認識に対してもその行為に対しても、原理たるべきものを規定することにあった。この場合、キュニコス派も善を普遍的目的として立て、そして、それは個人にとってどこに求められるべきかを問うた。ところでキュレネー派が彼らの特定の原理に従って個人としての個人の意識、または感情を意識にとっての本質としたのに反し、キュニコス派はこの個人性を、それが直接、私にとって普遍性の形式を持つ限りにおいて、換言すれば私が一切の個人性に無記無着な、自由な意識である限りにおいて、本質とした。かくてキュニコス派は差し当たりキュレネー派と対立する。けだし後者にとっては感情が原理として現れる(もちろんそれは思惟によって規定さるべきであるからには、そのことによって普遍性と完全な自由へ広げられるのではあるが)のに対して、前者は完全な自由と独立を人間の規定とし、これからスタートするからである。しかしこれはヘゲシアスによって本質的な在り方と述べられていた自己意識の無記無着と同じものであるから、キュニコス派とキュレネー派の考え方の行きつく先はそれら自身の論理の成り行きによって相殺されて区別がつかなくなる。キュレネー派の場合に見られるのは意識の中へ事物が戻り込む運動であって、これによって何ものも私にとって本質ではないことになるし、同じくキュニコス派にとってもただ己れ自身だけが問題であって、個人的自己意識がやはり原理であった。しかしキュニコス派は少なくとも始めの頃は人間の規定にとっての原則を立てた。即ち一切の外的な個人性、特殊な目的、必要、楽しみに対する思想や現実生活の自由と無記無着がそれであって、したがって人間的陶冶はキュレネー派の場合のように、それらに対する無記無着と己の内での自由を目指すだけでなく、また特にひどい耐乏生活、自然の直接に要求する不可欠のものだけに必要物を限るところまで行く。このようにしてキュニコス派は自然からの出来る限りの独立、換言すればまさに最小限の必要に甘んじることを善の内容とした。それは楽しみから逃げること、感覚の快から逃げることである。楽しみや快感に対する否定性がこの派を規定する性格であって、後にもこのキュニコス派とキュレネー派の対立は同じようにストア派とエピクロス派の間に現れる。しかしキュニコス派が原理としたまさにこの同じ否定はキュレネー哲学のその後の展開の内にすでにもう現れた。学問的重要さはキュニコス派にはない。それはただ、普遍的なものの意識の内に必然的に現れて来ざるを得ないところの一つの契機を成すだけである。即ち意識はその個体性において事物と享楽への一切の依存性から自由なものとして自己を意識せずにはおかないという契機である。富とか楽しみとかに執着する者にとっては実際の意識として事実、そのような事物性とか彼の個体性とかが本質なのである。しかしキュニコス派はいわゆる余計なものの実際上の断念を自由と見なすような形であの否定的契機を固定させた。彼らは、享楽のことを意に介せず、公共の生活に関することや公共の生活の中での利害関係などにはかかずらうことをしないそのような抽象的で不動な独立性を認めただけである。しかし真の自由は、そのように享楽を避けたり、他の人間たちや他の生活目的に関わる仕事から逃げたりするところにあるのではなくて、却って意識があらゆる現実性の中へ巻き込まれていながらそれを越え出てそれから自由であるところに存するのである。
a アンティステネス
アテナイ人でソクラテスの友であったアンティステネスはキュニコス派として登場した最初の人物であった。彼はアテナイに住み、キュノサルゲスと呼ばれた体育場で教えた。彼は駄犬と呼ばれた。その母はトラキアの出で、これがよく彼に対する責め言葉にされたものだが、このような攻め方は今日では見苦しいことである。それに対して彼は答えて曰く、神々の母はフリュギア女であったし、生え抜きを鼻にかけるアテナイ人は生え抜きの貝やバッタと選ぶところはない、と。彼はゴルギアスとソクラテスの許で修業し、ソクラテスの話を聴くためにピレウスから毎日、町へ通った。彼は数々の書き物を著したが、それらの表題はディオゲネスに挙げられており、どの証人にの言葉によって見ても、彼はこの上もなく教養高い厳格な人物として通っていた。
アンティステネスの基本的諸命題は単純である。というのは、彼の教説の内容は一般論のところに止まっているからである。従って、それについて何か詳しいことを述べるのは余計なことである。彼は一般的な諸原則を与えているが、それは「徳はそれ自身で以て足り、ソクラテスのごとき性格の強さ以外の何ものをも必要としない。善は美しく、悪は恥ずべきである。徳は業において成り立ち、多くの理屈も教えも要しない。人間の使命は有徳の生活にある。賢人は自らを以て足れりとする。けだし彼は他の人々が所有するかに見える一切のものを所有するからである。賢人には彼自身の徳で十分であり、彼はいずこに在ってもあたかも我が家におけるごとしである。彼が名声を欠くとき、それは悪いことと見なされるべきではなくてむしろ幸いと見なすべきである」等々、といったような美辞麗句で成り立っている。ここに既にまたしても我々は、後ほどストア派やエピクロス派によっていっそうたっぷり紡ぎ出されて長ったらしいものにされた賢人に関する退屈なお談義が始まるのを見る。この賢人の理想では主体の規定が問題とされるのであるが、その場合、主体の満足はその諸欲求を単純化するところにおかれる。ところでアンティステネスが徳は理屈と教えを要せずと言う場合、彼は自らあたかもその精神の陶冶によって、人の欲する一切を断念する精神のこの独立を我が物にしたことを忘れている。それと共に我々は徳が今やある区別な意義を得たのを見る。もはやそれは、或る自由な民族に属する一市民が彼の直接的な徳として祖国、身分、家族に対する彼の義務を、これらそれぞれの状態が直接、要請する通りに果たす場合のような無意識な徳ではない。それ自身から抜け出た意識は今や精神となるために一切の現実を掴み取らねばならない。つまりそれを我がものとして意識するようにならねばならない。ところで、魂のあどけなさとか、麗しさとか呼ばれるような状態は子供の状態なのであって、それは今日なるほどそれなりの然るべき場所にあって賛美されるものではあるが、しかし人間は、理性的であるからには、そのような状態を脱し、直接性を揚棄して自己を再び創り出さねばならない。しかし必要事による拘束を出来るだけ減らすところにのみ成り立っていたキュニコス派の自由と独立は、否定的なものとして本質的にただ断念でしかあり得ない以上、抽象的である。具体的な自由は何処にあるのかと言えば、それは、必要事に無頓着な態度を取りながらも、それを回避することなく、却ってその楽しみそのものの中で自由であり、そして世間の道徳を守り、まともな人間生活に参与し続けるところにある。これに反して抽象的自由にあっては個人がその主観性の中へ引っ込む以上、道徳の放棄ということになり、従ってその自由は不道徳の一契機なのである。
アンティステネスはまだこのキュニコス哲学の中では高潔な姿をしていた。しかしこの姿はその場合、粗野さ、行状の卑しさ、無恥といったものと紙一重のところがあり、事実またそのような性質のものへキュニコス主義は後に変わって行った。キュニコス派に対する多くの嘲りやからかいはここに由来するのであって、ただ個人個人の個々の行状や性格の強さが彼らを興味あるものにすると言うだけである。アンティステネスにしてからが伝えられるところによると、生き方の外面的なみすぼらしさにある程度、重きを置き始めていたそうである。野生オリーヴの太い棒、下着足でまとうボロボロの二重マンと(これは夜の寝具でもあった)、必要な糧食を容れる乞食袋、それに水を汲むための一個の杯。この粗末ないでたちがキュニコス派のものであった。このいわば決まりの服装によってこれらのキュニコス派の人々はそれと分かったわけである。彼らの最も重きを置いたことは必要の単純化であって、このことが人を自由にするということは如何にもさもありうべきことに見える。なぜなら、必要ということは何といっても自然への依存であり、そしてこれは精神の自由に対立するからであり、それゆえ、その依存を最小限に減らすという考えは褒めたことに違いない。しかしこの最小限なるものがそれ自体、漠然としたものであることはすぐ判ることであって、その場合ただ自然にのみ従うということに、もしそれほどの価値が置かれるとするならば、まさにそのためにあまりにも大きな価値が自然的必要の満足と爾余の諸必要の欠如に置かれることになる。これは修道士生活の原則においても見られるところである。否定的態度は、断念されるべきものへの一つの肯定的方向を同時に含むのであって、断念と、断念されるものの重要さがそれによってあまりにも強調される。キュニコス派の服装をすでにソクラテスが虚栄と称したのはそのためである。けだし「アンティステネスがそのマントの穴を露わに示すと、ソクラテスは彼に対して、わしにはお前のマントの穴からお前の虚栄心が見通しだと言った」ものである。服装というものは理性的に規定されるような事柄ではなくて、自ずから生じる必要によって決められて来るものであって、北国ではアフリカの内部におけるとは違った服装をしなければならないし、また冬は木綿の着物で歩くことはしない。その先のことになると、そこには合理的な物差しはなく、偶然と人々の見解次第でどのようにでも決まる。例えば近くは古ドイツ風な服装が愛国主義の点で重要であったようなものである。私の上衣の裁ち方は流行によって決まり、仕立て屋がそのような上衣を結構こしらえてくれるはず。だから何かを工夫するなどということは私の関したことではなく、ありがたいことには既に他人がそれを工夫してくれる。このように習慣とか一般の見解とかに依拠することは自然に依拠するよりはやはりましであることは確かだが、しかしそんなことは頭を使うほどのことではない。ただ無頓着ということだけが、その際、主に採られるべき態度でなければならない。事実、事柄そのものからしてどうでもよいことなのだからである。そのような事柄で独特なところを持つのを得意がり、それで人目を惹きたがるものだが、しかし流行に逆らうのは愚かなことである。だから私はこのような事柄においては自分の在り方を自身で決めることも、またそのような事柄を私の関心事の圏内に入れることもすべきではなく、ただ世間の決まったやり方と思われる通りにやってゆく必要があるだけである。
b ディオゲネス
シノベのディオゲネスはキュニコス派の内では最もよく知られた人物であって、アンティステネス以上にその外面的行状の点でも、その辛辣な、しばしばまた才気縦横の機知や痛烈人を刺す応酬ぶりの点でも抜きん出ていた。しかし彼の方もまたしばしば同様に適切な返答でやり返されたものである。彼はアリスティッポスを王者のような犬と呼んだが、彼自身は犬と呼ばれた。というのは、彼はアリスティッポスが王侯たちから受けたのと同じ扱いを街の若僧たちから受けたからである。ディオゲネスはただその生き方によってのみ有名なのであって、彼の場合も、また後の人々の場合もキュニコス主義は一つの哲学というよりはむしろ単に一つの生き方という意義を持つようになった。彼はぎりぎりの自然的必要事だけに終始し、彼と考え方を同じうせず彼のやり方をからかった他人をからかおうとした。一人の子供が手から飲むのを見て、彼が杯を投げ捨てたことは有名である。何一つ必要としないことは神の業であり、できるだけ必要事を持たないことは神の業に最も近いとディオゲネスは言った。彼はアテナイの街頭とか市場とか樽の中とか随所を暮らして回り、平生はアテナイの中のユピテルの柱廊に滞在してそこで寝ていた。アテナイ人はわしのために素晴らしい居所を建てさせたと彼が言ったのはそのためである。このようにキュニコス派の考えはただ服装だけでなく、またその他の必要事にもこだわるのである。しかし文化、教養の一つの成果とみなされるキュニコス派のような生き方精神一般の形成によって本質的に条件づけられている。キュニコス派はまだ世捨て人の類ではなかった。彼らの意識は他の意識とまだ本質的に関係していた。アンティステネスとディオゲネスはアテナイで暮らしたが、彼らはただそこでのみ生存し得たのである。しかしおよそ文化というものに当然そなわる一つの傾向として、精神が必要事とその充足方法との最大の多様性を目指すということがあるはずである。近頃では必要事が非常に増加し、そのために一般的必要事が数多くの特殊な必要事、従ってまたそれらを満足させる数多くの特殊な方法に分岐することになる。これは知性の働きに属することであり、この働きが用いられるところに贅沢もその所を得ているわけである。道徳的には贅沢反対を叫ぶのも良いが、しかし国家というものの中ではあらゆる性向、傾向、流儀はそれぞれ十分な幅を得て思い思いに花を咲かせ得るのでなければならず、そして各個人は思いのたけそれに与ることが出来るのだが、ただ全体としては個人は普遍的なものに則らねばならないということだけである。従って肝心なことは、事柄に相当する以上の価値をそこに置かないこと、換言すればそれを持つとか持たないとかを一般に意に介さないことである。
ディオゲネスについてはただ逸話が語られているだけである。エギナへの船旅で彼は海賊の手に落ち、クレタで奴隷に売られることになった。何の心得があるかとの問いに彼は、ものどもを支配する術を心得ると答え、そして布告者に、誰か主を買いたい者はないかと呼ばわれと言いつけた。コリントのクセ二アデスとかいう者が彼を買い、その息子たちは彼の訓育を受けた。彼がアテナイに在ったときの話がことに多く語られている。そこでは彼はアリスティッポスの食客哲学に対する粗野と下品の対立物であった。アリスティッポスは自分の享楽をも窮乏をも意に介しなかったが、ディオゲネスは自分のみすぼらしさが得意であった。あるときディオゲネスが自分のキャベツを洗ってると、アリスティッポスがその傍らを通りかかった。そこでディオゲネスはアリスティッポスに呼びかけて、もしお前さんが自分のキャベツを自分で洗うことを知っていたら、王さんたちを追いかけることはしないだろうにと言った。するとアリスティッポスは、もしお前さんが人間たちと付き合うことを知っていたら、キャベツを洗うことはしないだろうにとぴたりやり返した。あるときプラトンの住居で彼は、プラトンの高慢をふんずけてやると言いながら、汚らしい足できれいな絨毯を踏んで回った。その通り、だが、もひとつ別の高慢さで、とプラトンもまたうまく言い返した。あるときディオゲネスが雨にずぶぬれになって立っており、周りの人々が彼を気の毒に思っていると、プラトンはこう言ったものである。この男をかわいそうに思うなら、みんなここをのきたまえ。この場合も、自分を見せびらかして人に感心してもらおうとするこいつの虚栄心が、この男にこんなことをさせる因になっているらしいが、みんながこいつにそっぽを向けるなら、こんなことをするいわれもなくなるだろう、と。彼があるときなぐられるということがあった折、(よくそんな話が伝えられているのだが)彼はその傷に大きな膏薬を当て、それに、彼を打った人々の名を書きつけて、その人々を世の非難にさらした。若い者たちが彼を取り囲んで、お前、俺たちを噛みそうだ、と言うと、心配するな、犬はかぶらは食べないよ、とやりかえした。食べる席で一人の客が犬に向かってするように彼に骨を投げやった。彼はその脚の方へつかつかと依って行って、犬がするように客に小便をひっかけた。或る僭主が彼に、どのような青銅で像を作るべきかと尋ねたところ。彼は、ハルモディオスとアリストギトンの像が造られたのと同じ青銅で、とうまい答えをした。彼はまた生魚を食べようと試みたが、うまくいかなかった。彼はそれを消化することができなかったので、非常な高齢で、まるで生きているいうな姿のまま、街上で死んだ。
c 後のキュニコス派
アンティステネスとディオゲネスは既に見たように非常に教養のある人間であった。その後のキュニコス派も彼らに劣らずその極端な無恥さ加減で世人の良識を逆なでしたが、しかし概して彼らは他人に恥知らずな言動を示すことに満足を見出すような猥雑な乞食以上の何ものでもなかった。哲学の点では彼らはこれ以上、顧慮するに値しないのであって、この哲学派に夙くから与えられていた犬という名に申し分なくふさわしいものであった。けだし犬はそのような恥知らずな動物だからである。テバイのクラテスと、女のキュニコス派であるヒッパルキアは公共の広場で彼らの同衾の式を挙げた。キュニコス派が誇っていたこの非依存性は、しかしむしろ依存性となる。なぜなら、活動的な生活のどんな他の領域も自由な精神性の肯定的契機を含んでいるのに、あのような行状は、自由の精気を味わい得る領域を断念することを意味するからである。
a アリスティッポス
アリスティッポスは長らくソクラテスと交わり、その許で教養を積んだのであるか、それともソクラテスを訪ねる以前にむしろすでに素晴らしい最高の教養人であったかのいずれかである。彼はキュレネーにおいてか、それともキュレネー人もギリシア人としてやはり参加したオリンピック競技の際にか、ソクラテスのことを聞いていた。彼の父は商人であったし、彼自身、商用の旅行でアテナイにやってきた。ソクラテス派の人々の内では、自分が教えた者から金を要求したのは彼が始めてであった。彼自身ソクラテスにも金を送ったが、ソクラテスはそれを送り返した。ソクラテスは善と美について一般論をするだけに止まったが、アリスティッポスはそれに満足せず、意識の中へ映された本質存在をその最高の被規定性において個体性と解した。そして、彼にとっては普遍的存在は思惟として実在性の側からすれば個的な意識であったので、彼は享楽を、人間が心を煩わして然るべき唯一のものとした。アリスティッポスの場合、彼の性格、人柄が最も重要なものであって、彼について今日に伝えられているのは彼の哲学説に関するものよりもむしろ彼の生き方に関するものが多い。彼は教養ある人間として楽しみを求めた。それ故にこそ彼は一切の特殊なものに対し、欲情に対し、あらゆる類の絆に対して完全に無頓着になり得ていたのである。楽しみが原理とされる場合には、すぐに我々は、享楽の際、人は従属的な人間であり、従って楽しみは自由の原理に叛くというふうに考える。しかし、キュレネー派の説も、また全体としてはそれと同じ原理を持つエピクロス派の説もそんなふうに考えられるべきものではない。なぜなら、楽しみの規定はそれだけとしてならば確かに哲学に対立した原理であると言えるが、しかし、思想の形成ということが楽しみを獲得し得るための唯一の条件とされるようにあの原理がもって行かれるので、精神の完全な自由が保持されているわけである。なぜならこの自由は精神の形成と不可分だからである。いずれにせよアリスティッポスは教養というものをこの上もなく高く評価したのであって、快楽は哲学的教養を持つ人々にとって一つの原理であるにすぎないという考え方から出発した。そんなわけで彼の主要原理は、快と感じられているものは直接的にではなく、ただ反省を通じてのみ知られるということであった。
これらの原則に従ってアリスティッポスは生活したのであって、彼について最も興味深いのは語り伝えられるいろいろの逸話なのである。けだしこれらの逸話は機智縦横の自由な気性を示す諸特徴を含んでいるからである。生活の中で彼は楽しみを求めるのに無分別なやり方をしないように心掛けた(だから彼は彼流に哲学者なのである)ので、楽しみを求めるのに彼は刹那の快楽に溺れること(けだしいっそう大きな禍がそれから生じるからである)のない思慮深さを以てする反面、生じうべき悪い結果を事ごとに案じるあのびくびくした気持ちなどは(まるで、哲学が要るのはびくびくしないためだけでもあるかのように)持たなかった。総じて物事にもたれかかることは一切せず、それ自身変わる本性を持ったどんなものにも執着することはなかった。ディオゲネスはこう言っている。アリスティッポスは現に今、存在していないようなものには心を煩わすことなく、現在の楽しみを味わった。彼はどんな状況にも身を合わせたし、どんな境遇にも順応することが出来た。王たちの宮廷にあっても悲惨きわまる状態にあっても変わることはなかった、と。プラトンは彼に、紫衣(しい)と襤褸(らんる)をまとうことが出来るのは君だけの以て生まれた芸当だと言ったそうである。特に彼はディオニュシオスのところに滞在し、そこで非常に気に入られて、寄食していたが、しかし常に大きな独立性を保っていた。キュニコス派のディオゲネスが王者のような犬と彼を読んだのはそのためである。彼に息子を託したがったある男から彼が50ドラクメを請求したところ、その男はこの額を高すぎると見て、それだけあれば奴隷が一人買えると漏らしたのに対してアリスティッポスは、そうしたまえ、そしたら君は二人の奴隷を持つことになろう、と答えた。ソクラテスが彼に、どうして君はそんなに沢山の金を持つのかと尋ねたのに対して、彼は、どうしてあなたはそんなに金を持たないのかとやり返した。ある遊女が彼に、私はあなたの子を持っていますと言ったところ、彼は、茨の茂みの中をぶらついて、どの刺にさされたか言えないように、わしの子かどうかお前にわかるものかと言った。彼の完全な無頓着ぶりを証するものに次のような話がある。ある時、ディオニュシオスが彼に唾を吐きかけたところ、彼はそれを辛坊し、そのことを咎められてこういったものである。漁師は底の魚を捕るために甘んじて海水に濡れるし、わしにしたところで、こんな鯨を捕るためにこれを辛坊せぬなんて法はない、と。ある時、ディオニュシオスが三人の遊女の内から一人を選ぶように彼を促したところ、彼はパリスにとっても一人の女を選んだのは危険なことであったと言いながら、女たち皆を連れて行った。ところが家の前庭まで連れて行ったところで彼は女たち三人を皆、去らせた。金を持っていても、楽しみの後に必ず来るように見える結果を慮(おもんばか)ってろくな使い方はしなかった。一口の美味にもそれを浪費したのである。ある時、しゃこ一羽を50ドラクメで買った。ある人がそれを咎めたところ、彼は、1オーボロス(1ドラクメの6分の1)ならお前さんは買えやしなかったかねと尋ねた。その人がこれを宜(うべな)うと、彼答えて曰く、ところが、わしには50ドラクメはそれ以上の値打ちもない、と。またアフリカでの旅で、ある時、金袋を運んで行くのが奴隷に辛くなって来たことがあった。これを見て、アリスティッポスは、多すぎる分は放下(ほか)し、持てるだけ持て、と言ったものである。教養ある者は無教養な者とどう違うかという問いに対して、教養の価値について彼は、その違いは一つの石が他の石にぴったり合わないようなものだ、と答えた。ということは、違いは人間と石の違いほど大きいということである。これは全く間違った見解とは言えない。なぜなら人間は教養によってこそ人間らしいのであり、教養は彼の第二の天性であって、それによって初めて彼は本性上持っているものを所有するようになるのでありそうして初めて精神として存在するのだからである。しかし我々はこの場合、現在の無教養な人間のことを考えてはならない。というのは今日ではこれらの人々はその置かれている全状態を通じ、習俗、宗教を通じて教養の一つの源泉に浴しており、そのおかげで彼らはそのような状態に住まない人々に比べて高いところに在るのだからである。ほかの学問をやりながら哲学をなおざりにする人々をアリスティッポスはオデュッセイアの中のペネロペの求婚者たちに喩えた。これらの求婚者はなるほどメラントやその他の娘たちを得ることは出来たが、王妃を手に入れはしなかったのである。
アリスティッポスとその派の人たちの教説はきわめて単純である。けだし彼は意識と本質存在との関係をその最も表面的な最初の形態において掴み、本質存在とは直接、意識に対して在るような存在、つまりまさに感覚のことだと言うのだからである。いま、真なるもの、価値あるもの、それ自体として存在するものと、目的とされる実践的なもの、善とが区別されるが、理論的真に関しても実践的真に関しても両方の場合ともに、キュレネー派は感覚を規定的なものたら占める。従って詳しくは彼らの原理は客観的なものそのものではなくて、対象的なものに対する意識の関係なのである。真なるものは内容として感覚の内に存するものなのではなくて、感覚としての感覚そのものである。感覚は客観的であるのではなくて、却って対象的なものはただ感覚の内でのみ成り立つ。「キュレネー派の言うところによれば、感覚が試金石であり、それのみが認識され得るものであり、そしてまぎれもないものである。しかし感覚を生じさせるものは認識されることも出来なければ、またまぎれもないものでもない。そんなわけで、我々が白くて甘いものを感覚する場合には、我々はこの状態を間違いなく確かに我々自身に関して主張することが出来る。しかし、これらの感覚の原因がそれ自体、何か白い、そしてまた何か甘い対象であるとは、確かには主張できない。これに、この派の人たちが目的に関して述べることも符合する。けだし目的にも感覚は及ぼされるからである。彼らによれば感覚は快か不快かであり、さもなければ両者のいずれでもないかである。さて不快な感覚を彼らは悪と呼び、そのような感覚の狙いどころは苦痛であるとし、
快い感覚を善と呼び、そのような感覚のまぎれもない狙いは快楽であるという。かくて感覚は認識するための試金石であると共に、行為するための狙いである。明証と満足を顧慮しつつ、我々は感覚に従って生きている。明証の方は、理論的直観に基づき、満足の方は快を狙いとしながら。」即ち狙いである以上、感覚はもはやいろいろ様々な心的感性的状態が同じ値打ちで存在すると言ったものではなくなり、快適なものか不快なものかのいずれかに他ならないところの行為の対象に対して肯定的か否定的なの関係をとることを意味する掴み方の対立なのである。
ここで我々は二様の規定が主要関心事となっている領域へ足を踏み入れることになる。それは形成されつつある多くのソクラテス諸派の中で、プラトンとアリストテレスの場合を除き、とりわけストア派、新アカデメイア派等々の場合に、どこでも問題にされるものである。即ち第一の点は一般的な意味での規定そのもの、換言すれば試金石であり、第二点は、規定は主体として何であるかということである。このようにして賢人の観念が現れる。賢人が何をなし、賢人とは如何なる人か、などが論じられる。なぜこの二つの表現が今やあんなにもしばしば現れて来るかは、先のこととつながっている。一方においては関心事は善の何らかの内容を見出すことにある。さもなければ善に関するおしゃべりは尽きないからである。善のこのいっそう立ち入った規定がいまや試金石に他ならない。他方、主体への関心が現れて来る。それはソクラテスによって惹き起こされたギリシア精神の展開の結果である。もしも一民族の宗教、社会体制、法が有効に行われており、一民族の諸個人がそれらと一体である場合ならば、個人としての個人は何をなすべきかの問いは提起されない。習俗の固まった、宗教的な状態においては個人はむしろ人間の使命が現存するものの内に与えられているのを見出すのであり、そしてこれらの習俗や宗教や法は彼の内にも現に在る。これに反して個人がもはや彼の民族の習俗の内に住することがなく、彼の実体的なものをもはやその国の宗教、法等々のところに持つことが無い場合には、彼はもはや己の欲するものを眼前に見出すことはないし、もはや己の現在に満足することはない。ところでこの分裂が生じると、個人は己の内へ沈潜し、そこに自己の規定を求めざるを得ない。詳しくはこれが、個人にとって何が本質的であるか、何に則って自己を陶冶すべきか、何を目指して努力すべきかなどの問いが生じる原因なのである。かくて一つの理想が個人に対して樹てられるのであって、これがここでは賢人となるのである。賢人の理想と呼び慣わされているものは、普遍的な在り方と解される自己意識の単独性のことである。それは今日、私は何を知り得るか、私は何を信じるべきか、私は何を期待してよいのか、主体の至高の関心事は何か、と問われるというのと同じ立場である。何が真であり、正であり、世界の普遍的目的か、ではない。客観的な真実在の知が問われる代わりに、個人の洞察と確信、彼の目的、また彼の一つの生き方である限りでの真なるもの、正なるものは何かが問われる。この賢人についての御談義はストア派、エピクロス派等々にあっては一般的であるが、しかし哲学的な掴み方ではない。けだし問題は賢人にあるのではなくて、宇宙の知恵、実在的な理性にあるのだからである。第三の規定は、即ち普遍的なものは善であり、実在性の側面は個的現存と直接的現実として楽しみであり幸福であるということである。ところで両者は如何にして調和するか?いま登場している哲学諸派と後続の諸学派は両規定(これはいっそう高次の意味では存在と思惟のことであるが)のこの連関を樹立した。
b テオドロス
後のキュレネー派の内ではなお第一にテオドロスの名を挙げねばならない。この人は神々の存在を否定し、そのためにアテナイから追放されたことで有名になった人物である。しかしこのような事実はそれ以上、別に興味を引き得るわけでもなければ、また何か思弁的な意義を持ち得るわけでもない。なぜならテオドロスが否定したところの当時の実際の神々のごときはそれ自体、思弁的理性の対象ではないからである。それにしても彼の卓抜なところは、意識にとって真の存在というものの観念へ普遍的なものをより多く持ち込んだ点にあった。けだし「彼は喜と苦を究極目的として規定し」たからであるが、「ただしその場合、前者は分別に、後者は無分別に属するとした。善を彼は分別と正しさ、悪はその逆と規定したが、これに対して楽と痛は無関係なものとした。」個々の直接的な感性的感覚は本質存在と見なされるべきでないということが意識されるに至れば、それは分別を以てエンジョイされねばならないという言葉が出て来る。と言うことは、あるがままの感覚は必ずしも本質存在ではないと言うことである。実際、感覚としての感性的なものは総じて、理論的にも実践的にも、或る全く無規定なものであり、あれこれの個的なものである。それ故にこの個的なものを判断することが必要となる。ということは、それを普遍性の形式において考察しなければならないということであり、かくて普遍性が必然的にまたぞろ入り込んでくる。ところで、このように個別性を越え出ることが教養なのであって、教養は、たとえ初めの内は、より大きな快楽はどこに見出されるかということだけを打算するようなものであるにしても、ともかく個々の感覚と快楽を制限することによってそれらを調和させようとする。ところで、多くの面を具えた私は多くの楽しみを味わい得るが、それらの中でどれが私ともっとよく調和しているか、従って、どれが私に最大の満足を与えるかという問いに対しては、私との最大の調和はただ私の特殊な在り方と意識が私の本質的、実体的存在と一致するところにのみあると答えられねばならない。ところで、これをテオドロスは、どこに楽しみを求めるべきかを見てとる分別と正しさと解した。しかし、幸福は思慮を以て求められるべきであると言われても、それは空文句にすぎず、意味のない言葉である。なぜなら、幸福の在りかとしての感覚はその概念からすれば、個的な、変化するものであり、普遍性と恒常性を欠くものである。従って不変的なもの、分別は空虚な形式として、それとはまったく相容れない内容に掛かっており、そんなわけでテオドロスは形式上の善を本性上の、また内容上の善としての目的から区別した。
c ヘゲシアス
それ故に同じキュレネー派の今ひとりヘゲシアスが感覚と普遍性とのまさにこの不適合を見て取ったのは注目すべきである。普遍性は個的なののと対立し、快をも不快をも内に持っているからである。一般にヘゲシアスは普遍的なものをもっとしっかりと掴み、もっとこれを押し出したので、彼にとっては個別性のあらゆる規定が消え、それと共に実際上、キュレネー派の原理も消えた。個的な感覚はそれ自体、何ものでもないと彼に意識されるに至ったが、それにも拘わらず彼は楽しみを目的としたので、それは彼にとって普遍的なものであった。しかし、楽しみが目的であるならば、内容が問われるべきであり、さてこの内容を比べてみると、どの内容も何か特殊な内容であって、普遍的なものと相容れず、従って弁証法の餌食となるものばかりである。ヘゲシアスはキュレネー派の原理を追求して行ってこのような思想的帰結に到達した。あの普遍的なものは彼が(我々がよく聞かされるように)、「完全な幸福は存在しない、体は様々の痛みに苦しみ、それにつれて心も痛む。それ故に生と死のいずれを採るかはどうでもよいことである。それ自体、何ものも快でもなければ不快でもない」と述べたことの内に含まれている。つまり快いものと不快なものを分ける試金石そのものが、そこにおける普遍性の強調によって全く無規定なものとされており、そしてその場合にはこの試金石はどのような客観的被規定性をもそれ自身の内に持たないので、空虚な言葉になっているわけである。普遍的なものがそのように固持されている限り、その前では総じて一切の被規定性、意識の単なる個別性、従ってまた一般に生すらが非本質的なものとして消え失せる。「楽しみの稀少、新奇、或いは飽満は或る人々を楽しませ、他の人々を不快がらせる。貧と富は快楽にとって何の意義も持たない。なぜなら富者が貧者よりも喜びを特によく味わうわけではないのは見られる通りだからである。同じくまた奴隷であることと自由であること、素性の尊貴と卑賎、名声の有無も快楽には無縁である。ただ愚者にとってのみ生きることは大切であり得ても、賢人にとってはそれはどうでもよいことである。」だから賢人は不羈(ふき)独立である。「賢人はただ己れ自らのためにのみ行動する。彼はいかなる他人をも己に比敵するものとは見なさない。けだし彼は他人からたとえどれほど大きな利益を得ようとも、それは彼が己れ自らに与えるところのものに比ぶべくもないからである。ヘゲシアスとその友たちは感覚をも意味のないものとして無視した。それはどんな精確な認識をも与えないと考えたからである。」これは全体として懐疑論的な立場である。「彼らは更になお次のように言う。道理上、最善と思われることを為すべきである。過ちは赦されなければならない。けだし過つのは自由意志によるのではなく、情けに負けるからである。賢人は憎まずして、むしろ諭す。彼の目指すところは一般に財宝の獲得にあるよりは却って禍を避けるところにある。けだし彼の目的は苦労なく生きることだからである、と。」個人的自己意識の自由という原理から出て来たこの普遍性をヘゲシアスは賢人の完全な無記無着の状態として言いあらわした。一切のものに対するこの無記無着は、我々の見る通り、この種のあらゆる哲学体系が目指している当のものであって、あらゆる現実性の放棄であり、生の完全な内向化である。伝えられるところによれば、アレクサンドリアに住んでいたヘゲシアスはその教えを聞く人々に、そのような無記無着と生に対する倦怠感を煽り立て、その結果、自殺する者が少なくなかったので、当時のプトレマイオス家によって教えることを禁じられたと言われる。
d ア二ケリス
なおア二ケリスとその派を挙げねばならない。彼らは精確な意味でのキュレネー派の原理は本来全くこれを放棄し、それと共に哲学的形成に或る別な方向を与えた。即ち彼らについて次のように述べられている。「彼らは日常生活の中の友情も感謝も、また親に対する畏敬も祖国のために尽くすこともこれを良いこととして認めた。そして賢人はそうしたことのために面倒なことや手をとられる仕事に巻き込まれ、そこに自身、楽しみを見出すことなどはまずないとしても、それにもかかわらず彼は幸福であり得る。友情はただ利益のためにのみ結ばれるべきものではなくて、そこに生じる好意のためであり、そして友に対する愛の故に負担と煩労も引き受けられねばならない。」このようにして、学派の中にあった普遍的なもの、理論的に思弁的なものは失われる。学派は衰えて、主に通俗的なものになってゆく。これがキュレネー派の歩みの中で行われた二度目の方向転換であって、これに対して最初の方向転換は原理そのものの飛び越しであった。一種の道徳論的哲学思索がここに生じ、これは後にキケロおよびその時代のペリパトス派にも支配的となった。しかしそこには思惟の筋道だった展開にとって足しになるものは何一つない。
3 キュニコス派
キュニコス派については何一つ特に言うべきことはない。なぜなら彼らは殆ど哲学的な仕上げと言うものを持たず、何らかの学問的体系に達することが無かったからである。ただやっと後年になって彼らの諸命題はストア派によって一つの哲学説に高められたというだけである。キュニコス派の場合も、キュレネー派の場合と同じく、方向は、意識にとって、その認識に対してもその行為に対しても、原理たるべきものを規定することにあった。この場合、キュニコス派も善を普遍的目的として立て、そして、それは個人にとってどこに求められるべきかを問うた。ところでキュレネー派が彼らの特定の原理に従って個人としての個人の意識、または感情を意識にとっての本質としたのに反し、キュニコス派はこの個人性を、それが直接、私にとって普遍性の形式を持つ限りにおいて、換言すれば私が一切の個人性に無記無着な、自由な意識である限りにおいて、本質とした。かくてキュニコス派は差し当たりキュレネー派と対立する。けだし後者にとっては感情が原理として現れる(もちろんそれは思惟によって規定さるべきであるからには、そのことによって普遍性と完全な自由へ広げられるのではあるが)のに対して、前者は完全な自由と独立を人間の規定とし、これからスタートするからである。しかしこれはヘゲシアスによって本質的な在り方と述べられていた自己意識の無記無着と同じものであるから、キュニコス派とキュレネー派の考え方の行きつく先はそれら自身の論理の成り行きによって相殺されて区別がつかなくなる。キュレネー派の場合に見られるのは意識の中へ事物が戻り込む運動であって、これによって何ものも私にとって本質ではないことになるし、同じくキュニコス派にとってもただ己れ自身だけが問題であって、個人的自己意識がやはり原理であった。しかしキュニコス派は少なくとも始めの頃は人間の規定にとっての原則を立てた。即ち一切の外的な個人性、特殊な目的、必要、楽しみに対する思想や現実生活の自由と無記無着がそれであって、したがって人間的陶冶はキュレネー派の場合のように、それらに対する無記無着と己の内での自由を目指すだけでなく、また特にひどい耐乏生活、自然の直接に要求する不可欠のものだけに必要物を限るところまで行く。このようにしてキュニコス派は自然からの出来る限りの独立、換言すればまさに最小限の必要に甘んじることを善の内容とした。それは楽しみから逃げること、感覚の快から逃げることである。楽しみや快感に対する否定性がこの派を規定する性格であって、後にもこのキュニコス派とキュレネー派の対立は同じようにストア派とエピクロス派の間に現れる。しかしキュニコス派が原理としたまさにこの同じ否定はキュレネー哲学のその後の展開の内にすでにもう現れた。学問的重要さはキュニコス派にはない。それはただ、普遍的なものの意識の内に必然的に現れて来ざるを得ないところの一つの契機を成すだけである。即ち意識はその個体性において事物と享楽への一切の依存性から自由なものとして自己を意識せずにはおかないという契機である。富とか楽しみとかに執着する者にとっては実際の意識として事実、そのような事物性とか彼の個体性とかが本質なのである。しかしキュニコス派はいわゆる余計なものの実際上の断念を自由と見なすような形であの否定的契機を固定させた。彼らは、享楽のことを意に介せず、公共の生活に関することや公共の生活の中での利害関係などにはかかずらうことをしないそのような抽象的で不動な独立性を認めただけである。しかし真の自由は、そのように享楽を避けたり、他の人間たちや他の生活目的に関わる仕事から逃げたりするところにあるのではなくて、却って意識があらゆる現実性の中へ巻き込まれていながらそれを越え出てそれから自由であるところに存するのである。
a アンティステネス
アテナイ人でソクラテスの友であったアンティステネスはキュニコス派として登場した最初の人物であった。彼はアテナイに住み、キュノサルゲスと呼ばれた体育場で教えた。彼は駄犬と呼ばれた。その母はトラキアの出で、これがよく彼に対する責め言葉にされたものだが、このような攻め方は今日では見苦しいことである。それに対して彼は答えて曰く、神々の母はフリュギア女であったし、生え抜きを鼻にかけるアテナイ人は生え抜きの貝やバッタと選ぶところはない、と。彼はゴルギアスとソクラテスの許で修業し、ソクラテスの話を聴くためにピレウスから毎日、町へ通った。彼は数々の書き物を著したが、それらの表題はディオゲネスに挙げられており、どの証人にの言葉によって見ても、彼はこの上もなく教養高い厳格な人物として通っていた。
アンティステネスの基本的諸命題は単純である。というのは、彼の教説の内容は一般論のところに止まっているからである。従って、それについて何か詳しいことを述べるのは余計なことである。彼は一般的な諸原則を与えているが、それは「徳はそれ自身で以て足り、ソクラテスのごとき性格の強さ以外の何ものをも必要としない。善は美しく、悪は恥ずべきである。徳は業において成り立ち、多くの理屈も教えも要しない。人間の使命は有徳の生活にある。賢人は自らを以て足れりとする。けだし彼は他の人々が所有するかに見える一切のものを所有するからである。賢人には彼自身の徳で十分であり、彼はいずこに在ってもあたかも我が家におけるごとしである。彼が名声を欠くとき、それは悪いことと見なされるべきではなくてむしろ幸いと見なすべきである」等々、といったような美辞麗句で成り立っている。ここに既にまたしても我々は、後ほどストア派やエピクロス派によっていっそうたっぷり紡ぎ出されて長ったらしいものにされた賢人に関する退屈なお談義が始まるのを見る。この賢人の理想では主体の規定が問題とされるのであるが、その場合、主体の満足はその諸欲求を単純化するところにおかれる。ところでアンティステネスが徳は理屈と教えを要せずと言う場合、彼は自らあたかもその精神の陶冶によって、人の欲する一切を断念する精神のこの独立を我が物にしたことを忘れている。それと共に我々は徳が今やある区別な意義を得たのを見る。もはやそれは、或る自由な民族に属する一市民が彼の直接的な徳として祖国、身分、家族に対する彼の義務を、これらそれぞれの状態が直接、要請する通りに果たす場合のような無意識な徳ではない。それ自身から抜け出た意識は今や精神となるために一切の現実を掴み取らねばならない。つまりそれを我がものとして意識するようにならねばならない。ところで、魂のあどけなさとか、麗しさとか呼ばれるような状態は子供の状態なのであって、それは今日なるほどそれなりの然るべき場所にあって賛美されるものではあるが、しかし人間は、理性的であるからには、そのような状態を脱し、直接性を揚棄して自己を再び創り出さねばならない。しかし必要事による拘束を出来るだけ減らすところにのみ成り立っていたキュニコス派の自由と独立は、否定的なものとして本質的にただ断念でしかあり得ない以上、抽象的である。具体的な自由は何処にあるのかと言えば、それは、必要事に無頓着な態度を取りながらも、それを回避することなく、却ってその楽しみそのものの中で自由であり、そして世間の道徳を守り、まともな人間生活に参与し続けるところにある。これに反して抽象的自由にあっては個人がその主観性の中へ引っ込む以上、道徳の放棄ということになり、従ってその自由は不道徳の一契機なのである。
アンティステネスはまだこのキュニコス哲学の中では高潔な姿をしていた。しかしこの姿はその場合、粗野さ、行状の卑しさ、無恥といったものと紙一重のところがあり、事実またそのような性質のものへキュニコス主義は後に変わって行った。キュニコス派に対する多くの嘲りやからかいはここに由来するのであって、ただ個人個人の個々の行状や性格の強さが彼らを興味あるものにすると言うだけである。アンティステネスにしてからが伝えられるところによると、生き方の外面的なみすぼらしさにある程度、重きを置き始めていたそうである。野生オリーヴの太い棒、下着足でまとうボロボロの二重マンと(これは夜の寝具でもあった)、必要な糧食を容れる乞食袋、それに水を汲むための一個の杯。この粗末ないでたちがキュニコス派のものであった。このいわば決まりの服装によってこれらのキュニコス派の人々はそれと分かったわけである。彼らの最も重きを置いたことは必要の単純化であって、このことが人を自由にするということは如何にもさもありうべきことに見える。なぜなら、必要ということは何といっても自然への依存であり、そしてこれは精神の自由に対立するからであり、それゆえ、その依存を最小限に減らすという考えは褒めたことに違いない。しかしこの最小限なるものがそれ自体、漠然としたものであることはすぐ判ることであって、その場合ただ自然にのみ従うということに、もしそれほどの価値が置かれるとするならば、まさにそのためにあまりにも大きな価値が自然的必要の満足と爾余の諸必要の欠如に置かれることになる。これは修道士生活の原則においても見られるところである。否定的態度は、断念されるべきものへの一つの肯定的方向を同時に含むのであって、断念と、断念されるものの重要さがそれによってあまりにも強調される。キュニコス派の服装をすでにソクラテスが虚栄と称したのはそのためである。けだし「アンティステネスがそのマントの穴を露わに示すと、ソクラテスは彼に対して、わしにはお前のマントの穴からお前の虚栄心が見通しだと言った」ものである。服装というものは理性的に規定されるような事柄ではなくて、自ずから生じる必要によって決められて来るものであって、北国ではアフリカの内部におけるとは違った服装をしなければならないし、また冬は木綿の着物で歩くことはしない。その先のことになると、そこには合理的な物差しはなく、偶然と人々の見解次第でどのようにでも決まる。例えば近くは古ドイツ風な服装が愛国主義の点で重要であったようなものである。私の上衣の裁ち方は流行によって決まり、仕立て屋がそのような上衣を結構こしらえてくれるはず。だから何かを工夫するなどということは私の関したことではなく、ありがたいことには既に他人がそれを工夫してくれる。このように習慣とか一般の見解とかに依拠することは自然に依拠するよりはやはりましであることは確かだが、しかしそんなことは頭を使うほどのことではない。ただ無頓着ということだけが、その際、主に採られるべき態度でなければならない。事実、事柄そのものからしてどうでもよいことなのだからである。そのような事柄で独特なところを持つのを得意がり、それで人目を惹きたがるものだが、しかし流行に逆らうのは愚かなことである。だから私はこのような事柄においては自分の在り方を自身で決めることも、またそのような事柄を私の関心事の圏内に入れることもすべきではなく、ただ世間の決まったやり方と思われる通りにやってゆく必要があるだけである。
b ディオゲネス
シノベのディオゲネスはキュニコス派の内では最もよく知られた人物であって、アンティステネス以上にその外面的行状の点でも、その辛辣な、しばしばまた才気縦横の機知や痛烈人を刺す応酬ぶりの点でも抜きん出ていた。しかし彼の方もまたしばしば同様に適切な返答でやり返されたものである。彼はアリスティッポスを王者のような犬と呼んだが、彼自身は犬と呼ばれた。というのは、彼はアリスティッポスが王侯たちから受けたのと同じ扱いを街の若僧たちから受けたからである。ディオゲネスはただその生き方によってのみ有名なのであって、彼の場合も、また後の人々の場合もキュニコス主義は一つの哲学というよりはむしろ単に一つの生き方という意義を持つようになった。彼はぎりぎりの自然的必要事だけに終始し、彼と考え方を同じうせず彼のやり方をからかった他人をからかおうとした。一人の子供が手から飲むのを見て、彼が杯を投げ捨てたことは有名である。何一つ必要としないことは神の業であり、できるだけ必要事を持たないことは神の業に最も近いとディオゲネスは言った。彼はアテナイの街頭とか市場とか樽の中とか随所を暮らして回り、平生はアテナイの中のユピテルの柱廊に滞在してそこで寝ていた。アテナイ人はわしのために素晴らしい居所を建てさせたと彼が言ったのはそのためである。このようにキュニコス派の考えはただ服装だけでなく、またその他の必要事にもこだわるのである。しかし文化、教養の一つの成果とみなされるキュニコス派のような生き方精神一般の形成によって本質的に条件づけられている。キュニコス派はまだ世捨て人の類ではなかった。彼らの意識は他の意識とまだ本質的に関係していた。アンティステネスとディオゲネスはアテナイで暮らしたが、彼らはただそこでのみ生存し得たのである。しかしおよそ文化というものに当然そなわる一つの傾向として、精神が必要事とその充足方法との最大の多様性を目指すということがあるはずである。近頃では必要事が非常に増加し、そのために一般的必要事が数多くの特殊な必要事、従ってまたそれらを満足させる数多くの特殊な方法に分岐することになる。これは知性の働きに属することであり、この働きが用いられるところに贅沢もその所を得ているわけである。道徳的には贅沢反対を叫ぶのも良いが、しかし国家というものの中ではあらゆる性向、傾向、流儀はそれぞれ十分な幅を得て思い思いに花を咲かせ得るのでなければならず、そして各個人は思いのたけそれに与ることが出来るのだが、ただ全体としては個人は普遍的なものに則らねばならないということだけである。従って肝心なことは、事柄に相当する以上の価値をそこに置かないこと、換言すればそれを持つとか持たないとかを一般に意に介さないことである。
ディオゲネスについてはただ逸話が語られているだけである。エギナへの船旅で彼は海賊の手に落ち、クレタで奴隷に売られることになった。何の心得があるかとの問いに彼は、ものどもを支配する術を心得ると答え、そして布告者に、誰か主を買いたい者はないかと呼ばわれと言いつけた。コリントのクセ二アデスとかいう者が彼を買い、その息子たちは彼の訓育を受けた。彼がアテナイに在ったときの話がことに多く語られている。そこでは彼はアリスティッポスの食客哲学に対する粗野と下品の対立物であった。アリスティッポスは自分の享楽をも窮乏をも意に介しなかったが、ディオゲネスは自分のみすぼらしさが得意であった。あるときディオゲネスが自分のキャベツを洗ってると、アリスティッポスがその傍らを通りかかった。そこでディオゲネスはアリスティッポスに呼びかけて、もしお前さんが自分のキャベツを自分で洗うことを知っていたら、王さんたちを追いかけることはしないだろうにと言った。するとアリスティッポスは、もしお前さんが人間たちと付き合うことを知っていたら、キャベツを洗うことはしないだろうにとぴたりやり返した。あるときプラトンの住居で彼は、プラトンの高慢をふんずけてやると言いながら、汚らしい足できれいな絨毯を踏んで回った。その通り、だが、もひとつ別の高慢さで、とプラトンもまたうまく言い返した。あるときディオゲネスが雨にずぶぬれになって立っており、周りの人々が彼を気の毒に思っていると、プラトンはこう言ったものである。この男をかわいそうに思うなら、みんなここをのきたまえ。この場合も、自分を見せびらかして人に感心してもらおうとするこいつの虚栄心が、この男にこんなことをさせる因になっているらしいが、みんながこいつにそっぽを向けるなら、こんなことをするいわれもなくなるだろう、と。彼があるときなぐられるということがあった折、(よくそんな話が伝えられているのだが)彼はその傷に大きな膏薬を当て、それに、彼を打った人々の名を書きつけて、その人々を世の非難にさらした。若い者たちが彼を取り囲んで、お前、俺たちを噛みそうだ、と言うと、心配するな、犬はかぶらは食べないよ、とやりかえした。食べる席で一人の客が犬に向かってするように彼に骨を投げやった。彼はその脚の方へつかつかと依って行って、犬がするように客に小便をひっかけた。或る僭主が彼に、どのような青銅で像を作るべきかと尋ねたところ。彼は、ハルモディオスとアリストギトンの像が造られたのと同じ青銅で、とうまい答えをした。彼はまた生魚を食べようと試みたが、うまくいかなかった。彼はそれを消化することができなかったので、非常な高齢で、まるで生きているいうな姿のまま、街上で死んだ。
c 後のキュニコス派
アンティステネスとディオゲネスは既に見たように非常に教養のある人間であった。その後のキュニコス派も彼らに劣らずその極端な無恥さ加減で世人の良識を逆なでしたが、しかし概して彼らは他人に恥知らずな言動を示すことに満足を見出すような猥雑な乞食以上の何ものでもなかった。哲学の点では彼らはこれ以上、顧慮するに値しないのであって、この哲学派に夙くから与えられていた犬という名に申し分なくふさわしいものであった。けだし犬はそのような恥知らずな動物だからである。テバイのクラテスと、女のキュニコス派であるヒッパルキアは公共の広場で彼らの同衾の式を挙げた。キュニコス派が誇っていたこの非依存性は、しかしむしろ依存性となる。なぜなら、活動的な生活のどんな他の領域も自由な精神性の肯定的契機を含んでいるのに、あのような行状は、自由の精気を味わい得る領域を断念することを意味するからである。
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