譲渡は所有の完成である

 どんなものでも、まず自分のものにして(占有)、使った上で(使用)、他人に譲る(譲渡)というのが定石である。それが「所有」の具体的なあり方である。

「所有のもっと詳細な規定は、意志のモノ Sache に対する関係にある。
a. 所有とは直接的には占有取得である。ただし、意志がモノにおいて、ある積極的なものとして、現存在を持つ限りでそうなのである。
b. モノが意志に対して否定的である限りで、意志の現存在は否定すべきものとしてのモノの中にある。それが使用である。
C. 意志のモノからの自己反省、それが譲渡である。(§ 53 本文)

 全体の大づかみな趣旨はこうである。所有とは、直接的には占有取得であり、モノが意志に対して否定的である限りでは使用であり、意志のモノから自己内に立ち帰るとき譲渡である。問題は、譲渡が所有の一つのあり方として考えられているという点である。つまりヘーゲルは、「所有が成り立っているから譲渡が生まれる」という常識をひっくり返しにする。譲渡が成り立たないと所有そのものが成り立たないと語っている。なぜ譲渡は所有を形作る要因であるのか。
 上に引用した § 53 のノートでヘーゲルは、何とかして「譲渡なくしては所有なし」という観点を説明しようとしている。 「法」哲学のノートは、ヘーゲルの自筆原稿であり、補遺や聴講生のノートよりも資料としての価値が高い。しかし、ヘーゲル自筆の大抵のノートと同じく、断片的な単語の羅列が多い。そこで言葉を補って文章の形に修復して引用する。                                                                          

 「特殊的な性質を度外視して普遍的なものに関して所有することが譲渡である。普遍的なものというのは、例えば価値とそして私の内面性である。このようにして、私が所有者でありつづけながら、特殊的な個別のモノの譲渡の可能性が成り立つ。」( § 53 ノート)

 「価値と内面性」という言葉を解釈するのに、先の引用の中にあった「意志のモノからの自己内反省、それが譲渡である。」という文章が役に立つ。モノの側にくっついていた意志がモノから自立するのが譲渡だと言う。即ち私の内面的意志が、モノから自立する。それは「私の意志」という内的なものである。それが他人の意志と共通のものになったとき、交換という形の譲渡が成り立つ。そこに共通の普遍的なものは「価値」という実質を形づくる。

 「私が所有者であり続けながら、特殊的な個別のモノを譲渡する可能性が成り立つ」という趣旨は、譲渡が所有を権利として他者に承認させるという意味をもつことを示している。ここで「譲渡」と呼んでいる過程は、ただで与えることではなく、商品として交換するという含みで考えられている。だから「譲渡」(交換)こそ、私の内なる所有権の社会的な承認なのである。だから譲渡は所有の完成である。譲渡がなければ所有がない。
 そのことをヘーゲルはさらに「自我と物との一致」という観点から説明する。

 「自我と物が一致する仕方。a. 私の意志と私の物理的な力とが一致する場合が占有である。これは外的な総合の仕方と形式であり、あるものが私のものであるという抽象一般にすぎない。 b. 一致するためにはものの自立性が崩壊することが不可避である。即ち使用。こうして初めて正当な取得となる。a と b は抽象的である。c. 譲渡、再分離、特殊的な固有性を放棄、普遍的なもの・価値を持ち続けること。」(同)

 譲渡とは現物を相手に手渡すことによって、逆に自分の所有権を相手に承認させ、その共同の意志を代価という形で受け取ることである。現物を相手に渡すということには、「私の意志+物体」であったものを、再び分離して、意志だけを剥がして、意志を純粋化し、自立させるという意味がある。これが「意志の自己内反省」である。モノに付いて存在していたあり方から内面に立ち帰って、意志が自己を純化することを、「自己内反省」という一種の「内省」としてヘーゲルは捉える。
 しかし、それにしてもヘーゲルの言い分はおかしいのではないだろうか。「所有権が承認されているから、等価交換が成り立つのであって、その逆ではないはずだ」という批判が出るだろう。
 
 実は「所有権が承認されているから、等価交換が成り立つ」ということをヘーゲルが否認しているという証拠はない。恐らく「所有権が認められているから等価交換が成り立つ」ということを事実の問題としては認めてはいるだろう。しかし、所有権という権利が法的に認められているということを、支持し承認する日々の行為は交換という事実なのである。我々は物を買うたびごとに他人の所有権を承認し、そのことによって所有権一般を承認している。交換があるからこそ所有が保証される。「譲渡こそが真の占有取得である。」( § 65 補遺)

 市場経済の成立と、所有権の法的な承認はどちらが先かと争うことは、鶏が先か、卵が先かと争うことに似ている。この問題は結局は国家が先か市民社会が先かという問題ともなる。
 これと同じ構造の問題が「法」哲学の全体を流れていく。どこの局面にも同じ問題がある。即ち叙述の順番では先になるものが、本質構造の順番では後にある。叙述の順番では所有が先に来る。所有は「抽象的な権利」全く個人の権利だからである。しかし、本質的な構造に即して言えば、交換があって所有が成り立つ。「私はある所有を所有(固形物)としては放棄しなければならない。それは私の意志が私に対して現に存在するものとして対象的になるためにである。」( § 73 本文 単純な「放棄」とは違うということは後で説明する。)
 
 「交換あって所有が成り立つ」と言うことを、マルクスならばそれは歴史的に言えば近代市民社会の成立を前提にした所有概念だと言うだろう。レヴィ=ストロースならば、交換という構造の持続は決して近代に限られないと言うだろう。ヘーゲル自身は、市民社会を歴史的な段階とは建前上規定していない。事柄は、いわば「永遠の市民社会」の中で繰り広げられる。しかしマルクスだって「永遠の資本主義」の中で「抽象的な価値」から始まる叙述を展開したのだ。ヘーゲルとマルクスとレヴィ=ストロースと、どの一つの器を採れば他の二つが盛り込めるかは、後でゆっくり考えることにしょう。

 譲渡という概念は、個人的なものと社会的なものとの接点になっている。占有とか、使用とかの所有のあり方は、ヘーゲルによれば「抽象的」なのだ。「抽象的」というのは、殆ど常に「ツブツブ個体的」という意味である。譲渡になると社会的な関係の場が密かに登場している。その社会性をヘーゲルは「普遍性」というカテゴリーに押し込めようとする。売買契約に見られるような当事者の「共通の意志」と商品の等価性とを、ゴチャマゼにしたままで説明しきってしまおうとするのだが、ノートの論述がつながらない。マルクスが見たらほほえましく思うに違いない。
 マルクスが、パリ草稿の時代に真剣に取り組んだ課題は、雇用の際に何を譲渡してよいかという問題である。もしも労働者が自分の存在の中心になるものを譲渡してしまったら、「雇用」という体裁で実は奴隷制度が行われることになってしまう。カントの雇用理論は、その点について歯止めのない危険なものであった。ヘーゲルは、何とか雇用を正当化すると同時に近代的な雇用が奴隷制度と本質的に違っている理由を明らかにしようとする。
 ところがヘーゲルにとって都合の悪いことは、彼の主体と客体の概念があまりにも純粋であることである。ヘーゲルは、「自分のもの」と言える全てのものを所有の範疇のもとに置いた。生命も身体も名誉も財産も、所有の対象である。現実的なもので所有の対象になれないものは何もない。生命ですらも人はそれを断念出来る限り、所有の範疇に入れることが出来る。
 ヘーゲルの立てた基本的な基準は「内的なものは譲渡できない。外的なものは譲渡できる」というのである。とてもプロテスタンティズムの性格の強い基準である。ところが箱の内と外、家の内と外、国境の内と外とは、哲学的に言えば外的なものの中での領域の違いである。領域の内と外には共通の外的な要素がある。しかし精神と肉体の間には、共通の外的な要素がない。言葉の上では「限界」の概念が使われるけれども、限界という概念を支える領域的なもの・共通の外的な要素がない。

 「私の所有を私は自分から剥離(疎外化)することができる。私が私の意志をそこに置く限りでのみ私のものなのだからである。こうして私は、私のモノ一般を無主物として私から去らせる。即ちそのモノをある他者の意志の占有に委ねる。それはただし、そのモノが本性上外面的な者である限りにおいてである。」( § 65 本文)

 この文章はドイツ語に固有の表現をたくさん含んでいる。
 「私の所有を私は自分から剥離することができる。」この文章は、語源を活かして訳すと「私の所有から私は私を引き剥がすことができる」となる。つまり「私の所有」というのは「私+モノ」であって、そこから「私」を剥がして、「モノ」を他人に委ねるという意味がある。しかしこの文は、普通の意味での「放棄する」という意味にとっても全く不自然さがない。その場合には「私の所有を私は自分から放棄することができる」という意味になる。 
 「それは私が私の意志をそこに置く限りでのみ私のものだからである」という理由表現は、単に「譲渡できる」理由としては哲学的すぎて、くどい。「私の意志をモノの中に置く」という所有の哲学的根拠が示されている。
 「こうして私は、私のモノ一般を無主物として私から去らせる。」これは譲渡一般がこの論理で成り立っているという説明である。ここでは一方的な所有権の放棄という側面が捉えられているように見える。まるで「勝手に取るがいい」と投げ出すみたいだ。即ち「そのモノをある他者の意志の占有に委ねる。」ここではまだ共同の意志形成は成り立っていない。一方的な放棄のように見えるのは、後で説明するが実は譲渡の内幕である。
 しかしそこにも「譲渡出来るもの」の限界がある。「ただし、そのモノが本性上外面的なものである限りにおいてである。」
 この評言だと、何が譲渡できるかは、ものの本性からして予め分かっていることになる。内面性を大事にしたい。決して譲渡できない自我の核心があるはずだ。「私の最も固有な人格と普遍的な本質を形づくる実体的な規定は譲渡不可能である。例えば私の人格性一般、私の普遍的な意志の自由、人倫性、宗教は譲渡不可能である。」( § 66 本文)ヘーゲルは、プロテスタンティズムの正統的な流れに身を委ねるかのように見える。ところが別の箇所で全く裏腹なことを言う。 

 「知識、学問、才能などはもちろん自由な精神に固有のもので、その精神の内的なものであって、外的なものではない。しかし、精神はそれらのものに外化によって外的な現存在を与えることもでき、それらがモノという規定に置かれることになるので、それらを譲渡することもできる。それらは最初から直接的なものなのではない。精神の、自分の内的なものを直接性と外面性に落とし込む媒介を経て初めてそうなるのである。」( § 43 本文)

 この § 43 節の終わりにヘーゲルは手書きで次のように書き込んでいる。「ここではむしろ外面性の種類として説明した方がいい。譲渡は、私の所有である。すでに外面的であるものの授与であるが、初めから外面的なのではない。」
 露骨に言えば、「本性上譲渡出来ないもの」などは存在しない。たとえ内面的なものでも、「外化」によって外面化してしまえば、譲渡できるようになるというわけだ。これならば譲渡できたのだから、外化だって出来たと開き直ることが出来る。
 ジャガイモだとか、ピンだとか「初めから直接的なもの」は問題がなく譲渡できる。それは生産者の手から人手に渡って、あちこちと運搬される。ところが「知識、学問、才能など」だって、「精神の媒介によって」外化すれば譲渡可能になる。「精神の媒介によって」というのは、一つの解釈としては「社会的な習慣によって」ということである。ソフィストの活躍したギリシアでは金を取って知識を譲渡することは、売春よりも汚いことのように言われた。しかし近代ではヘーゲルは哲学を教えて給料を取っている。
 ジャガイモだから売っていい。知識だから売ってはいけないという、譲渡対象の直接的な性質によって譲渡の可否が決定されるのではなくて、時代の文化によって、即ち「精神の媒介によって」決定される。またまた鶏が先か卵が先かという問題が起こる。譲渡が先か、外化が先か。外化されているから譲渡できると言うべきか。「精神の媒介によって」譲渡可能性が成り立ち、譲渡が許される以上は外化されていると言うべきか。

 譲渡が出来るためには、そのものが外化されていなければならない。始めから外的なジャガイモやピンであれば、そのまま譲渡すればいい。知識や熟練など、それ自体としては主体的な活動や精神的なものの場合には、「疎外化」によって初めて外化が成り立つ。
 例えば学問的な活動の場合、「学問的な活動は、かろうじてある外面的なものとなる。モノ(物件 Sache )は何か・まとまった、全体としての物が要求されている。学問や熟練はモノだろうか。モノというのも一つの側面、あるものの可能性ではある。熟練などがモノになるのは、私が疎外化するからである。モノとは私が外化の中でそれらに与える外面性であり、それらが外化の中で保ち続ける外面性(時間)である。私がモノを使用すべく他者に引き渡すとか、もしくはそのモノを彼に役立てる(祈祷するとかミサを上げるとか)とかいう関係ではそうなのである。また肉体労働も(時間において)」所有の疎外化に属する。なぜかと言えば、肉体労働もこのような疎外化においてのみ外面性となり、モノとなるからである。」( § 43 ノート)
 マルクスの草稿にはヘーゲルが精神労働のことばかり語っていると書かれているが、確かに祈祷だとか、ミサだとか、精神的な行為を他者のために捧げるという例をヘーゲルは好んで取り上げる。また著作権という所有権についても論じている。しかしこのマルクスが見るよしもなかったノートの引用で分かるように肉体労働も同じ疎外化によって譲渡可能になるのである。ここでヘーゲルが二度に亙って「時間」という言葉をメモしているのは、労働時間の制限が存在するから労働の譲渡は奴隷化にはならないという論点( § 67 本文)を念頭に置いているからである。ここでヘーゲルが「自由時間の存在が自由人であることを保証する」と述べたらわかりやすかっただろう。
 譲渡可能であるかどうかという問題は、疎外化が可能であるかどうかという問題に引き移される。

 「疎外化とは、壊滅的な廃棄ではなくて、分離一般である。このことは以下の節での諸規定のために重要となる点である。疎外化の際に、所有が現れて来る。所有が、そこで初めて生起するものとなって登場する。外化の中と疎外化への関係の中で初めて生ずるものとして登場する。これが使用という占有取得とは違う点である。モノは私が占有し、所有とすることができる。なぜならばモノは、その真理と概念に従って、一つのモノだからである。私と他者とはモノの本性に背いてあることをしでかしている。私が私を占有している限りで初めて、即ち私が奴隷ではないという限りで初めて、他者に対する私的権利を持っており、彼は私に対して、それを持っている。私は自己のないモノではない。私は固有の意志である。それはまず何よりも自分を左右することのできる意志である。これが、人格の存立にとって絶対的に必然的な条件であるということは明かである。もしも私が自分自身を奴隷にしてしまったとしよう。私は自己自身とは反対のことをすることになる。自由な意志ではないものでは決してないということ、自由な意志であるということ、それが私の自由な意志である。自由な意志とは自己を内容として持つ意志である。人倫性、宗教、私の内で絶対的であるもの、実体的なもの、本質と私が同一だという自由な自己意識、そこに思惟するものであること、叡智的であることが成り立ち、ただその限りで私は思惟するもの、人間なのであり、私は自分を私の存在以外のものにすることはできない。」( § 65 ノート)

 疎外化が可能であるかどうかの分かれ目は、自我の核心を失うかどうかにかかっている。その核心にあるものは、暗い深淵や洞穴のようなものではないし、硬いアトムのようなものでもない。真に存在するものは自己関係的である。私が私を所有する。所有の自己関係が自我の存在である。
 私が私を持つ。だから私は奴隷ではなくて、自由な人間なのだとヘーゲルは言う。しかし「私が私を持つ」という、まるで犬が自分の尾を噛んだような事態は何を指しているのか。英語では「自己自身を持つ」( possess oneself )と言えば「自制」するという意味である。「正気である」と言うのに「自分を集めている」( collect oneself )という言い方もある。自由とは自立であり、自立は自律という自己関係によって支えられている。
 この自己関係性をヘーゲルはスピノザの自己原因だという。「自己原因、即ち自由な原因として精神は、その本性が、実存するとしか考えられないものである。」( § 66 本文)言うまでもなく、ここで語られている「精神」とは、個人の人格のことである。スピノザの自己原因とは実体すなわち神の定義である。存在の原因を自分自身に持つもののことである。存在の原因を他にもたないのだから、他者に依存することがない。自分で自分の存在のスイッチを押すのが神であり、神が存在のスイッチを押すのが、被造物である。その神の規定が人格や自我にまで転用されたところで、疎外化の可能性が吟味されている。本当に内面的な自我の核心は疎外されてはならない。しかし、それが具体的にどのような基準となるかをヘーゲルが示したわけではない。
 人間の類的な本質こそが、疎外化してはならない核心で、それが生産物の意味だとすると、生産物を譲渡することは奴隷化になる。このような疎外論でも、何かを持つことが自己を持つことであり、そのものを譲渡すれば自己を失うという所有の存在論が下敷きにならざるを得ない。
 個人とか自我とかをヘーゲルはないがしろにしたのではないかと疑う人が多い。とんでもない。ヘーゲルはカント以上に人格性の擁護者である。それが疎外化の限界という彼の思想に現れている。
 そのようにして自立を保つ個人と個人との関係が、契約という場面を形づくる。それはいわば民法の世界である。



















































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