純粋な反省規定(同一性 区別 根拠)

 イ 同一性 Identität

 § 115 本質は自己の内で反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性である。

 この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象する限り、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われ得る。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、その内の一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、様々な規定性の差別を捨象してそれらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。
 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題が得られる。この命題は極めて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、従ってそれは、少なくとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。後者の場合には、後で分かるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。
 本質の諸規定を本質的な諸規定ととれば、それらは前提された主語の述語となる。そしてこの主語は、諸規定が本質的なのであるから、全てのものである。このようにして生じる諸命題は、普遍的な思惟法則として言い表されている。かくして同一の法則は、全てのものは自己と同一である、A は A である、と言われており、否定的には、A は A であると同時に非 A であることはできない、と言われている。この法則は真の法則ではなく、抽象的悟性の法則にすぎない。すでにこの命題の形式そのものがこの命題を否定している。およそ命題というものは、主語と述語との間に、同一のみならず区別をも持たなければならないのに、この命題は命題の形式が要求するところを果たしていないからである。しかし特にこの法則を否定しているのは、この法則に続く他のいわゆる思惟法則であって、それらはこの法則と反対のものを法則としているのである。よく人々は、この命題は証明こそ出来ないが、あらゆる意識はそれに従って動いており、そして経験は、全ての人が、この命題を聞くや否や、すぐにそれに賛成することを示している、と主張している。しかし我々は、そんないい加減な学校経験に対して、至る所に見られる経験を対立させることが出来る。それによれば、いかなる意識もこうした法則に従って思惟したり、表象したり、語ったりしはしないし、いかなる存在も、こうした法則に従って存在してはいない。このような自称真理法則に従って語るのは(遊星は遊星である、磁気は磁気である、精神は精神である、等々)、馬鹿らしいと思われている。これが到る所に見られる経験である。こんな法則を信じているのは、先生方だけであって、そんな先生方は、彼らが大真面目に講義していうる論理学と共に、とっくに常識にも理性にも信用を失っているのである。

 補遺 同一性はまず、我々が先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である。同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分かれる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識に対しても、その他全ての思惟および意識に対しても、高い意義を持つカテゴリーである。神の関する真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることから始まる、と言うことが出来る。そしてこのことは同時に、世界のあらゆる力と光栄とは神の前に崩れ去り、ただ神の力および光栄の映現としてのみ存在し得ることを意味する。人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。動物は、自分が自我であること、すなわち自己の内における純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである。思惟に対して同一性が持っている意義について言えば、何より大切なことは、有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性と、抽象的な、単に形式的な同一性とを混同しないことである。
 思惟は一面的であるとか、融通が利かないとか、内容がないとかいうような、特に感情および直観の立場から非常にしばしば思惟に加えられる非難は、思惟の働きがただ抽象的な同一性の定立にのみあるとする、誤った前提に基いているのである。そして本節で述べたような、いわゆる最高思惟法則を掲げることによって、こうした誤った前提を確認するものは、他ならぬ形式論理学である。もし思惟が抽象的同一性を出ないとすれば、我々はそれをこの上もなく無用で退屈な仕事と言わなければならないであろう。概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは、同時に自己の内に区別を含んでいる限りにおいてのみ、そうなのである。

 ロ 区別 Der Unterschied

 § 116 本質は、それが自己に関係する否定性、従って自己から自己を反発するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身の内における反照である。従って本質は、本質的に区別の規定を含んでいる。

 ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。いまや否定は、自己へ関係するものである本質の内にあるのであるから、同時に関係として存在する。即ちそれは区別であり、定立されて有るものであり、媒介されて有るものである。

 補遺 同一はいかにして区別となるかというような質問をする人があるとすれば、こうした質問の内には、同一性は、単なる同一性すなわち抽象的な同一性として、単独に存在するものであり、区別も同様に単独に存在する或る別なものである、という前提が含まれている。このような前提をしていては、提出された質問に対する答えは不可能である。同一を区別と別なものと見れば、そこに我々が持つのは区別だけである。進展の経路を問う者にとって、進展の出発点が全く存在しないのであるから、区別への進展を示そうにも、示しようがないわけである。従ってこうした質問は、よく考えて見ると、全く無意味である。こんな質問をする人が会ったら、我々はまず、彼は同一性という言葉のもとに何を考えているのかと聞いて見るといい。すると、その人が何も考えていないこと、その人にとって同一性とは空虚な名称にすぎないことが分かるであろう。なお、すでに考察したように、同一性は否定的なものではあるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく、有およびその諸規定の否定である。従って同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言い換えれば、自分自身から自己を区別するものである。

 § 117 (1)区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別である。差別の内にある時、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。従ってその関係はそれに対して外的な関係である。差別の内にあるものは、区別に対して無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するものの内に置かれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性であり、それらの不同一性としては、不等性である。

 比較というものは、相等性および不等性に対して同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異なった側面および見地でなければならない。にも拘らず悟性は、これら二つの規定を全く切り離し、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。
 差別も同じく一つの命題に変えられている。「全てのものは異なっている」とか、「互いに全く等しい二つのものは存在しない」という命題がそれである。ここでは全てという主語に、最初の命題において与えられていた同一性という述語とは反対の述語が与えられている。従って、最初の命題に矛盾する法則が与えられているわけである。しかし差別は外的な比較に属するにすぎないから、或るものは、それ自身としては、ひたすら自己と同一であり、この第二の命題は第一の命題と矛盾しない、という弁解も成立する。そうするとしかし、差別は、或るものすなわち全てのものに属さず、このような主語の本質的な規定をなさないことになり、第二の命題は全く語ることの出来ないものとなる。或るもの自身が、第二の命題に言われているように、異なっているとすれば、それは或るもの自身の規定性によってそうなのである。しかしこの場合考えられているのは、もはや差別性そのものではなくて、特定の区別である。これがライプニッツの命題の意味である。

 補遺 悟性が同一性を考察し始めるとき、それは実際はすでに同一性を超えているのであって、それが目前に持っているのは、単なる差別の姿の内にある区別である。例えば、我々が同一の原理といういわゆる思惟法則に従って、海は海である、空気は空気である、月は月である、等々と言う場合、我々はこれらの対象を相互に無関係なものと考えているのであり、従って我々が見ているのは、同一性ではなくて区別である。しかし、我々は諸事物を単に異なったものと見るに止まらず、さらにそれらを相互に比較し、そして比較によって相等性および不等性という規定を持つようになる。有限な学問の仕事は、大部分これらの規定を適用することからなっており、今日では学問的な取り扱いという言葉は、主として、研究対象を相互に比較することが全てだとする方法と考えられている。もちろん、こうした方法によって多くの非常に重要な成果があげられたことを否定してはならないし、この点から言って特に比較解剖学および比較言語学の領域における近代の大きな業績を忘れてはならない。しかし注意すべきことは、こうした比較の方法というものが知識のあらゆる領域で同様の成果を以て適用され得ると考えるのは、行き過ぎだということである。のみならず、この点は特に強調しておかなければならないが、単なる比較というものは、まだ学問の要求を究極的に満足させ得るものではなく、真の概念的認識の(欠くことの出来ないものではあるが)準備にすぎない。比較においては、現存している区別を同一へ還元することが重要であるのだから、数学こそその目的を最も完全に遂行する学問と言わなければならない。なぜ数学がこの目的を最も完全に遂行するかと言えば、量的な区別というものは全く外的な区別にすぎないからである。例えば、幾何学において我々は、質的に異なっている三角形と四角形とを、質的な区別を捨象することによって、大きさの点で互いに等しいとする。数学のこうした長所を経験科学も哲学もうらやむべきではない。そのことについて私はすでに § 99 の補遺で述べておいたが、なおこのことは単なる悟性的同一について先に注意したことからも明白である。ライプニッツが或るとき宮廷で差別の原理を述べたとき、廷臣や女官たちは庭を逍遥しながら、互いに区別できないような二枚の木の葉を見つけ出して彼の思惟法則を反駁しようとした、という話がある。これは明らかに形而上学を研究する安易な方法であって、今日なお人々はこうしたやり方を好んでいる。しかし、ライプニッツの命題について注意すべきことは、そこで言われている区別とは単に外的で無関心な差別ではなく、本質的な区別と解されねばならず、従って区別されているということが本性的に事物に属する、ということである。

 § 118 相等性とは、同じでないもの、互いに同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。従ってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互いに反照し得るものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に属した区別、特定の区別となる。

 補遺 単に差別されたものは互いに無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係し合い、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識の内にも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということを我々は認めているからである。区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明らかなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別し得ないような人に、我々は大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば「ぶな」と「かし」、寺院と教会)にしか相等性を見出し得ないような人を、我々は相等性を見出す優れた能力を持っている人とは言わない。つまり我々は、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである。にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或る時は学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或る時には、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている。こうしたことは特に自然科学において行われている。人々はそこで、一方では新しい、ますます多くの新しい物質、力、類、種、等々を発見しようとしており、これまでは単純と考えられていた物体が複合物であることを示そうとしている。そして近代の物理学者や化学者は、たった四つの、しかも単純でさえない元素で満足していた古代人を嗤っている。他方ではしかし彼らは、今度はまた単なる同一性をのみ眼中におき、例えば電気と化学的過程とを本質において同じものと見るに止まらず、消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程と見るのである。すでに § 103 の補遺で述べたように、人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存する全てのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なるℊ製的同一性の無価値を示すものなのである。

 § 119 (2)自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものではないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものではないという仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者の内に反照し、他者がある限りにおいてのみ存在する。従って本質の区別は対立であり、区別されたものは自己に対して他者一般をではなく、自己に固有の他者を持っている。言い換えれば、一方は他方との関係の内にのみ自己の規定を持ち、他方へ反省している限りにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である。
 
 本質の区別は、「全てのものは本質的に区別されたものである」、あるいは別な言い方によれば、「二つの対立した述語の内、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」という命題を与える。この対立の命題は、極めて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。このような矛盾した二つの命題を、比べることさえしないで、法則として並べておくということは、抽象に固有な無思想である。排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す、有限な悟性の命題である。A は +Aか-Aでなければならない、とそれは言う。しかしこれによってすでに、+でも-でもなく、しかも+Aとしても-Aとしても定立されている第三のもの、Aそのものが言い表されている。+Wが西へ向かっての 6 マイルを、-Wが東への 6 マイルを意味し、そして + と - とが相殺するとすれば、そこには対立なしにも対立を伴っても存在していた 6 マイルの道あるいは空間が残る。数や抽象的な方向に付けられる単なるプラスとマイナスでさえ、ゼロを第三のものとして持っている、と言うことが出来る。しかし、+ と - のような空虚な悟性的対立でも、まさに数や方向などのような抽象物においては、その場所を持っているということは否定できない。
 矛盾概念の説においては、一方の概念は例えば青であり(このような説においては、色のような感覚的表象さえ概念と呼ばれているのである)、もう一つの概念は非青である。従ってこのもう一つの概念は、例えば黄色というような肯定的なものではなくて、あくまで抽象的に否定的なものにすぎない。否定的なものはそれ自身の内においてまた肯定的なものでもあるということ(次節を見よ)、このことはすでに、他者に対立しているものは、他者の他者であるという規定の内にも含まれている。いわゆる矛盾概念の対立の空虚は、あらゆる事物には、上に述べたような対立した全ての述語のうち一方のみが属して他方は属さない、従って精神は白であるか白でないか、黄色であるか黄色でないかである、等々、というような、普遍的法則の言わば大げさな表現の内にはっきり表れている。
 人々は同一と対立とがそれ自身対立したものだということを忘れ、そのために、対立の原理をも、矛盾の原理の形で言い表された同一の原理と考えている。そして二つの互いに矛盾した表徴のいずれも属さないような概念(前段を見よ)、あるいはいずれも属するような概念(例えば四角の円)は論理的に誤っていると言う。しかし四角の円や直線的な円弧は同じようにこの命題に矛盾しているが、幾何学者は少ためらうことなく、円を直線的な辺からなる多角形と見、またそうしたものとして取り扱う。尤も、円のようなもの(その単なる規定性)は、まだ概念ではない。円の概念においては中心点と周辺とが同様に本質的であって、円はこの二つの表徴を持っている。しかも周辺と中心点とは互いに対立し矛盾したものである。
 物理学で大きな意義を持っている分極性という表象は、対立に関するより正しい規定を含んでいる。にも拘らず物理学は、思想に関しては、普通の論理学に頼っている。もし分極性という表象を発展させて、その内に含まれている思想に達したら、物理学は驚くであろう。

 補遺1 肯定的なものは再び同一性であるが、しかしより高い真理における同一性であって、それは自分自身への同一関係であると同時に、否定的なものでないものである。否定的なものは、それ自身としては、区別そのものに他ならない。同一そのものは、まず無規定のものである。これに反して肯定的なものは、自己同一なものではあるが、他のものに対するものとして規定されているものであり、否定的なものは、同一性でないという規定の内にある区別そのものである。即ち、否定的なものは自分自身の内における区別の区別である。人々は肯定的なものと否定的なものを絶対の区別と考えている。しかし両者は本来同じものであり、従って我々は、肯定的なものをまた否定的なものと呼ぶことも出来るし、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶことも出来る。例えば、財産と負債とは、特殊の、独立に存在する二種の財産ではない。一方の人、すなわち債務者にとって否定的なものは、他方の人、すなわち債権者にとっては肯定的なものである。東への道程の場合でも同じことであって、それは同時に西への道程である。肯定的なものと否定的なものとは、従って、本質的に制約し合っているもの、相互関係においてのみ存在するものである。磁石の北極は南極なしには存在し得ず、南極は北極なしには存在し得ない。磁石を切断すれば、一片には北極が、他方には南極があるというようなことはない。同様に電気においても、陽電気と陰電気とは独立に存在する別々の流動体ではない。一般に対立においては、区別されたものは自己に対して単に或る他物を持つのではなく、自己に固有の他者を持つのである。普通の意識は、区別されたものは相互に無関係であると考えている。例えば、我々は、私は人間であり、私の周囲には空気、水、動物、および他者一般がある、と言う。ここでは全てのものが別々になっている。哲学の目的な、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものと見ることにある。例えば、我々は無機的自然を単に有機的なものとは別なものとのみ見るべきではなく、有機的なものに必然な他者と見なければならない。両者は本質的な相互関係の内にあり、その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさにそのことによって他方に関係する限りにおいてのみ、存在するのである。同様に自然もまた精神なしには存在せず、精神は自然なしには存在しない。物を考える場合、「なお別なことも可能だ」という段階を脱するのは、一般に重要な一歩前進である。こういう言い方をする場合、我々はまだ偶然的なものから脱していないのであって、これに反して、先にのべたように、真の思惟は必然的なものの思惟である。現代の自然科学は、まず磁気において極として知られた対立を、全自然を貫いているもの、普遍的な自然法則と認めるに至っているが、これは疑もなく学問上本質的な進歩である。ただこの場合大切なことは、折角それまで進みながら、またしても無雑作に単なる差別を対立と同等なものと認めないことである。しかし人々は、よくそうしたことを行っている。例えば、人々は一方では正当にも色を二つの極のように対立するもの(いわゆる補色)と見ながら、他方ではまた、赤、黄、緑、等々を、互いに無関係な、また単に量的な区別と見ている。

 補遺2 我々は、抽象的悟性の命題である排中の原理に従って語る代わりに、むしろ「全てのものは対立している」と言うべきであろう。悟性が主張するような抽象的な「あれか、これか」は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものは全て具体的なもの、従って自分自身の内に区別および対立を含むものである。事物の有限性は、その直接的定有が、それが即自的にあるところのものに適合していないことにある。例えば無機的自然において酸は即自的には同時に塩基である。即ち、それに固有の他者に関係しているということのみが、その有をなしているのである。だから酸はまた対立の内に静かに止まっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである。一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないというのは、嗤うべきことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということである。揚棄された矛盾は、しかし、抽象的な同一性ではない。同一性はそれ自身対立の一項にすぎないからである。矛盾として定立された対立の最初の結果は根拠であって、それはその内に同一性ならびに区別を、揚棄され単なる観念的モメントへ落とされたものとして、含んでいるものである。

 § 120 肯定的なものとは、対自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、対自的でなければならない。しかしそれは同時に、否定的なものとして、こうした自己関係、すなわち自己の肯定的なものを、他のものの内にのみ持たなければならない。両者は従って定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であると共に自分自身の否定であるから、両者はは顕在的にも同じものである。両者はかくして根拠へ帰って行く。あるいは、直接的に言えば、本質的な区別は即自かつ対自的な区別であるから、それはただ自分自身から自己を区別するのであり、従って同一的なものを含んでいる。従って、区別の全体、即自かつ対立にある区別は、区別自身のみならず同一性も属するのである。自分自身へ関係する区別と言えば、それはすでに、この区別が自己同一的なものであることを言い現わしているのであり、対立したものは一般に、或るものとその他者、自己と自己に対立したものとを自己の内に含んでいるものである。本質の内在性がこのように規定されるとき、それは根拠である。


 ハ 根拠 Der Grund

 根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者に反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。

 全てのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異なったものとして規定することによっても、これを掴むことが出来ず、また或るものを単に肯定的なものとしても、単に否定的なものとして規定することによっても、掴むことが出来ない。或るものは、他のものの内に自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をなすものとして、或るものの本質であるようなものである。そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己の内へ反省するものではなく、他者の内へ反省する。根拠とは、自己の内にある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠である限りにおいてのみ、根拠である。

 補遺1 根拠は同一と区別との統一であると言う場合、我々はこの統一を抽象的な同一と考えてはならない。でないと、ただ名称が変わるだけで、思想から言えば、すでに真実でないものとして認識された悟性的同一を再び持つにすぎないからである。だから我々は、こうした誤解を防ぐために、根拠は同一と区別との統一であるに止まらず、また両者の区別でもある、と言うことも出来る。これによって、まず矛盾の揚棄として生じた根拠は、一つの新しい矛盾として現れる。しかしそれは、このようなものとして、自己の内に静かに止まっているものではなく、自分自身から自己を突き放すものである。根拠は、それが根拠づけられるものである限りにおいてのみ、根拠である。しかし根拠から出現したものは、根拠自身であり、ここに根拠の形式主義がある。根拠づけられたものと根拠とは同じ内容であり、両者の相違は、一方は単なる自己関係であり、他方は媒介あるいは定立されたものであるという、単なる形式上の相違にすぎない。我々が事物の根拠を問う場合、それは一般に、すでに述べたような( § 112 の補遺)反省の立場であって、我々は言わば事柄を二重に見ようとするのである。即ち、一度は直接態において、次にはそれがもはや直接態の内にないところの根拠において。これが十分な根拠の原理と呼ばれている思惟法則の簡単な意味でもあって、この法則が言い現わしているのは、事物は本質的に媒介されたものと見られねばならないということにすぎない。形式論理学がこの思惟法則を打ち立てる仕方は、その他の諸科学に悪い手本を示していると言わなければならない。というのは、形式論理学は、諸科学に対しては、それらの内容を媒介されたものとして考察することを要求しながら、自分では、この法則を、導出もせずその媒介を示しもしないで、掲げているからである。もし論理学者に、我々の思惟能力は、我々があらゆる場合に根拠を問わねばならないように出来ているのだ、と主張する権利があるとすれば、同じ権利を以て医者は、水に落ちたひとはなぜ溺れ死ぬのかと聞かれた場合、人間というものは水の中では生きられないように出来ているからだ、と答えることが出来よう。同様に法律学者も、犯罪者はなぜ罰せられるのかと聞かれた場合、市民社会は犯罪が罰せられずには済まないように作られているからだ、と答えることが出来よう。論理学が根拠の思惟法則を根拠づけなければならないということはしばらく問わぬとしても、論理学は少なくとも根拠とは何かという問いには答えなければならない。普通行われている、根拠とは帰結を持つものであるという説明は、一見私が上に述べた概念規定より明白で分かりいいように見える。しかし我々がさらに帰結とは何かと問い、帰結とは根拠を持つものであるという答えを得るとき、この説明の分かりやすさなるものは、私は先行の思惟過程の結果として明らかにしたものを、それが前提しているということにあるにすぎないことが分かる。論理学の仕事は、単に表象されたもの、従って把握も証明もされていない諸思想を、思惟の自己規定の諸段階として示すことにあるのであって、かくすることによって初めて、それらは把握され証明されるのである。日常生活でもまた有限な諸科学でも、人々は非常にしばしばこの反省形式を用い、その適用によって考察さるべき対象の本当の姿を探ろうとしている。認識のほんの日常的要求しか問題となっていない限り、こうした考察方法に異論を唱えることは少しもない。しかし、我々はそれと同時に、この方法は理論においても実践においても決して決定的な満足を与えることは出来ない、ということを注意しなければならない。なぜなら、根拠というものはまだ絶対的に規定された内容を持たないから、我々が或るものを根拠づけられたものと見る場合、我々は直接態および媒介態という単なる形式的相違を得るにすぎないからである。例えば、我々が電気現象を見てその根拠を問うとする。その問いに対して、電気がこの現象の根拠だという答えが与えられるならば、これは我々が眼前に直接見ていたものと同じ内容であって、ただそれが内面性の形式に移されたにすぎない。
 さらにまた根拠は、単に自己同一なものであるに止まらず、区別されてもいるから、同じ内容に対して様々な理由を挙げることが出来る。そして様々の理由というこの差別性は区別の論理に従って、同じ内容を肯定する理由および否定する理由という形における、対立にまで進んで行く。例えば盗みというような一行為を考えて見ると、それは一つの内容であるが、それには様々の区別され得る側面がある。それは所有の侵害である。が他方、困窮していた盗人は、それによって自分の必要を充たす手段を得たのである。さらにまた盗まれた人が自分の財産を善用していなかったという場合もあり得る。もちろん、この場合所有者の侵害ということが決定的な見地であって、他の諸見地はこれに譲らねばならないということは正しい。しかし根拠の思惟法則の内にはこのような決定は存在しない。普通この思惟法則は、単なる根拠一般ではなく十分な根拠を指すと解されているから、人々は、上に例として考察した行為について言えば、所有の侵害以外に挙げられたような諸見地は、理由ではあるが十分な理由ではない、と考えるかもしれない。しかし、十分な理由と言われるとき、この十分なという形容詞は余計なものであるが、そうでないとしたら、理由というカテゴリーを超えたものである。この形容詞が単に理由づける能力を言い表すにすぎないとすれば、理由はこうした能力を持つ限りにおいてのみ理由なのであるから、それは余計なものであり、同語反復である。兵士が命惜しさに戦場から逃亡する場合、彼の行為が義務に反しているのはもちろんであるが、彼にこのような行為をさせた理由が十分でないと主張することは出来ない。なぜなら、もしそうだったら、彼はその位置の止まったであろうからである。なお注意すべきことは、一方においてあらゆる理由が十分であると共に、他方においては、いかなる理由も十分ではないということである。なぜなら、すでに述べたように、理由というものは、まだ絶対的に規定された内容を持たず、従って自ら活動し産出するものでないからである。第三部で示されるように、このような絶対的に規定された、従って自己活動的な内容は、概念である。ライプニッツが十分な根拠という言葉を用い、事物をこの見地のもとに見ることを要求するとき、彼が問題にしているのは、こうした概念なのである。ライプニッツがその場合第一に念頭においているのは、今日なお多くの人に愛好されている単に機械的な考え方であって、これを彼は正当にも不十分と断定しているのである。例えば、血液循環のような有機的過程を単に心臓の収縮に帰するのは、単に機械的な考え方である。また、害悪の除去とか威嚇とか、その他これに類する外的理由を刑罰の目的と見る刑法理論も同じく機械的である。ライプニッツが形式的な根拠の思惟法則のような貧しいものに満足していたと考えるのは、彼をあまりにも不当に取り扱うものである。彼が主張した考察法は、概念的認識が問題になっている場合、単なる根拠を以て満足する形式主義とはおよそ正反対のものである。ライプニッツはこの見地から作用因と目的因とを対置し、作用因に立ち止らず、目的因にまで突き進むことを要求している。我々がこの区別を採用すれば、例えば光や温度や湿りは、植物の生長の作用因と見るべきものであって、それらを目的因と考えることは出来ない。そしてこの目的因は、すなわち植物そのものの概念に他ならない。ここでなお注意しておきたいことは、特に法律および道徳の領域で単なる理由に立ち止まるのが、ソフィストたちの立場であり、原理であるということである。ソフィスト的論法と言えば、正しいものや真実なものをねじ曲げて、一般に事物を誤った光の内に表現するのを目的とする考察法にすぎない、と普通考えられている。しかしこうした傾向が直ちにソフィスト的論法の内にあるわけではなく、その立場はまず理由づけの立場に他ならない。ソフィストたちがギリシアに現れたのは、ギリシア人が宗教および倫理の世界でもはや単なる権威や伝統に満足しなくなり、彼らに対して権威を持つ事柄を思惟に媒介された内容として意識しようという要求を感じていた時代である。ソフィストたちは、事物を考察する様々な見地を探し出すことを教えることによって、こうした要求を満足させるものを与えようとしたのである。そしてこの様々な見地とはまず理由に他ならない。しかし、すでに述べたように、理由はまだ絶対的に規定された内容を持たないから、我々は道徳や法律に適ったものに対すると同様に、それらに反するものに対しても、様々な理由を見つけ出すことが出来る。従ってどの理由が重要であるかを決定するものは、主観であることになり、どれを採るかは各人の個人的な心術および意図の問題となって来る。こうなると、絶対に妥当するもの、全ての人に承認されたものの客観的基礎が崩れてしまう。ソフィスト的論法が先に述べたような当然の悪評を招いたのは、こうした否定的な側面によるのである。ソクラテスは、周知のごとく、あらゆる点でソフィストたちと論争した。しかし彼はソフィストたちの議論に単に権威と伝統を対置することによってではなく、単なる理由というものの無定見を弁証法的に指摘し、それに対して正義や善、一般に普遍的なものあるいは意志の概念を主張することによって、彼らと論争したのである。今日でもなお、宗教以外の事柄に関する議論のみならず、説教さえ主として単なる理由付けによって行われることが多く、例えば、神に感謝すべきあらゆる可能な理由が挙げられるというようなことがなされているが、ソクラテスやプラトンがこうしたやり方を見たら、直ちにそれをソフィスト的論法と断言するところである。というのは、すでに述べたように、ソフィスト的論法がまず第一に問題とするのは、常に真実であり得るような内容ではなくて、あらゆるものを弁護することも出来れば攻撃することも出来るところの理由の形式だからである。今日のような反省と理由づけに満ちた時代には、あらゆるもの、最も悪く最も不合理なものに対してさえ、何かしかるべき理由を持ち出すことの出来ないような者は成功はおぼつかない。全て世の中の腐敗したものは、しかるべき理由があって腐敗したのである。理由を持ち出されると、人々は最初はたじたじとなりやすい。しかし理由というものが本来どんなものかが分かって来ると、人々はそんなものになかなか耳を傾けなくなり、またそんなものにもはや威圧されなくなる。

 § 122 本質はまず自己の内で反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、従って媒介の揚棄として定立されている。従ってこれは直接態あるいは有の復活である。が、この有は媒介の揚棄によって媒介されている有、すなわち現存在 Existenz である。

 根拠は絶対的に規定された内容を持たず、また目的でもない。従ってそれは活動的でも産出的でもなく、現存在は根拠から単に現れ出るにすぎない。従って特定の根拠と言ってもやはりそれは形式的なものである。言い換えれば、それはどんな規定性でもいいのであって、ただそれと連関している直接的な現存在との関係において、自己関係的なもの、肯定的なものとして定立されているものであればいいのである。それは根拠でさえありさえすれば、同時にしかるべき根拠でもある。というのは、しかるべきという言葉は、全く抽象的には、肯定的ということを意味するにすぎず、我々が何らかの仕方で明白に肯定的なものとして言い表し得る規定性は、全てしかるべきものであるからである。だから、我々は、あらゆるものに対して、何らかの根拠を見出し挙げることが出来、しかるべき根拠(例えば行動のしかるべき動機)なるものは、何ごとかを惹き起こすかもしれないし、また惹き起こさないかもしれない、結果を持つかもしれないし、また持たないかもしれない。例を以て示せば、しかるべき理由は、意志の内へ採り入れられて初めて何ごとかを惹き起こす動機となるのであり、意志が初めてそれを活動的なもの、原因とするのである。

 










































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