哲学史概観 (8) ベーコンとデカルト
<フランシス・ベーコン> ベーコン(1561~1626)は自然に対する人間の力による支配ということを哲学の目標とし、力とは知識であるとした。なぜなら人間が事物を支配し得るのは学問と技術だけだからである。しかし自然はそれ自体の法則にのみ従っているから、自然を支配するためには先ず自然に服従しなければならない。この人間の支配権は神の贈与によって人類のものになる。自然支配は発明や発見によってなされるが、発見は一つの新しい創造であり、神の御業の模倣であり、自然の再創造である。原罪に堕ちた人間は神の創造の機微に直接入ることは出来ず、それゆえ事物との交わりである実験を通して外から世界を知る他はない。
ルネサンスの魔術思想は人間の自然に対する画期的な観点を樹立した。それは、宇宙の理を知り、神に比肩する力と万有を支配する術を獲得しようとする魔術的精神を、傲慢と頽廃に陥らないように「神の業たる自然に対する敬虔と人間の悲境にたいする慈愛」というキリスト教精神によって制御・純化し、神が天地創造において人間に与えた自然の支配権を回復しようという思想である。
中世において形相は質料とは分離され、質料は物の本質たる形相の単なる担い手であるばかりか、悪の源泉とまで見なされ、質料を対象とする技術は全く評価されないものにされた。しかし、質料は質をもたないのだから悪ではなく、悪の源泉は悪のダイモーンであって形相的なものであり、であれば善のダイモーンと関係することによって、質料をより良いものへと加工する技術が可能だとするヘルメス主義の流れもあった。それは自然を模倣するというよりデーミウルゴスによる宇宙創造を模倣するのであって錬金術とも呼ばれた。錬金術とは大宇宙の創造を実験室という小宇宙の中で再現しようとする思想である。そこにはプラトンの理想を実現しようとする努力があった。たとえ質料から質がはく奪されても、残る量は数学と結びつきイデアの世界とつながるのである。こうして最下位の存在とされた質料は最上位の神と結びつき、小宇宙と大宇宙が照応し合う。その媒介をなしたのが天体の運行に関する学、占星術なのである。この占星術と錬金術とを結合させたヘルメス主義は、中世では「マギア」(魔術)と見なされた。それは悪魔との結託ではなく、マギアの元の意味つまりマギ(ゾロアスアター教の聖職者)の術(学)を意味していた。万物は一であり一は万物であるとするヘルメス主義の有機的自然観は、秩序と無秩序の均衡の上に成り立つ不安定なものであった。ルネサンスにおいて、この壊れやすい自然の無秩序を説得して、その力を利用しようとしたのが魔術師たちであった。しかし、ベーコンは魔術師の自然への内在的説得ではなく、自然を機械的技術により拷問にかけて審問し、自然を裸にし、これを操作すべきであるとした。
ガリレイにおいては実験より数学的定式化やそれからの演繹が主であり、ガリレイの実験は予め定立した数学的仮説の試験や対立仮説の反証の役割の域を出ず、ベーコンの実験の系統的使用の考案より消極的であり、それは原理的に思考実験であり、既成の原理の確認に、いわば事後的に留まった。これに対しベーコンは「自然の秘密は技術によって苦しめ悩まされるとき、よくその正体を現わす」といい、実験概念をいわば前向きに転換したのである。ベーコンの方法は不完全であったが、17世紀以後ベーコン的科学は、アカデミー中心の古典科学とは別な流れとして、化学、熱学、電磁気学、さらに解剖学、動植物学、鉱物学などの非数学的、観察・実験的、分類的な科学において展開し、イギリスを除いては長らく在野的、アマチュア的に留まった。
ベーコンは弁論術(レトリック)に、アリストテレスの説得術としての弁論術思想を基にプラトンの弁論術批判を考慮した合理的役割を与える。そこでは伝統的な知識注入の教師的方法に対して、発見的・創造的思考という証明的方法を強調して科学の教育方法論の端緒を開く。またスコラ的な形式偏重の体系式叙述法に対し、簡潔鋭利で多産なアフォリズム式を強調して、科学の文体論を述べる。
彼の思想形成において成長期に親から受けたカルヴィニズムの影響は無視できない。カルヴィニズムは世俗の営為を聖化し、秘蹟ではなく日常の業を重視する。
14歳の時ガラス職人の工房を訪ねて、哲学者たちの百の饒舌よりも、直接自然に手を下し自然を改造しようとするこうした職人の仕事の方がはるかに重要だとした。しかし、職人の技術的発見、発明は組織的でなく、普遍的洞察に基づいていない。彼は「自然の従僕にして通訳」である人間の「自然の通訳の正しい指標」となる「新しい道具(ノヴム・オルガヌム)」としてそれを打つ立てようとした。
彼は「新しい道具」として「帰納法」を提唱し、その補助手段として「幻影(イドラ)」の分析を行った。幻影とは精神がその悪しき性向によって抱く偏見であり、それには自然の本性ではなく無力な人間の本性を尺度とすることから生じる「種族の幻影」、素質、習慣、教育、談話、読書などを介して個人が抱く「洞窟の幻影」、対話による言語の不適当な使用に由来する「市場の幻影」、様々な哲学上の教説や論証の誤れる法則などに由来する「劇場の幻影」の四種類がある。これらの「幻影」を論破することによって、先ず従来の観念論的世界像を破壊し、経験的にのみ確認し得る現実的な自然法則の確立への道を準備した。それに答えるべきものが「帰納法」である。
ベーコンの帰納法は、一般的命題を独断的に結論する単純枚挙による帰納法とは逆に、適当な排除によって自然を分解し、否定的事例を十分に集めた後、肯定的事例について必然的結論を下すことにある。具体的には先ず多くの事例を集めて整頓し、それの表を作る。即ち、或る性質が存在する事例の本質及び現存の表、近似的な事例において上の性質が現れない事例の逸脱或いは欠如の表、上の性質が異なった程度で存在する事例の程度或いは比較の表である。次いで、このような展示表に示された事例を比較対照して、当の性質から偶然的要素を排除し、その性質の肯定的形相を正しく規定するのである。
かくして、帰納法の目差すところはこの形相の認識にある。形相とは何らかの単純性質(例えば光、熱、重さ)を、それらを感受し得るあらゆる種類の質料と基体とにおいて、支配し構成する純粋活動の法則である。従って、物体は単純性質の集合体とされる。そして、その構成要素の配列は潜在的図式機構と呼ばれ、また物体における生成変化は潜在的過程と言われる。かくして、形相の存在に必要な条件が満たされる度毎にその形相が現れ、その時にのみ直ちに単純性質の純粋活動を生じ、個別的物体を形成するのである。このように、形相は可変的な質料因ないし作用因を成す単純性質ないし純粋活動を恒常的な秩序立った仕方で構成し規定するがゆえに、形相はむしろ法則と言われる。そして、このような形相の発見によって初めて真の思索と自由な作業が生まれ、真の行動的学問が可能となる。
ところで、ベーコンの帰納法は排除法である。排除には際限がないから、その成果は暫定的で、得られた形相は帰結されたものというよりも、実験における観察の対象に留まっているものである。
ベーコンが自然の中に存在と運動と自然的必然性のみを想定したことは、彼が自然学における目的因を拒否しつつも、自然学を形而上学と連続して考え、法則すなわち形相による自然の物質的諸部分の配列、つまり、機械論的説明を目差したものである。従って、形相はあの潜在的図式機構及び潜在的過程と本質的に異なるところがなく、それは物質の諸部分の変化が到り着く究極的図式機構である。作用因が形相を運ぶ車と呼ばれるのもそのためである。しかし、まさしくその点にベーコンの機械論の限界がある。
潜在的過程が形相に向かうと言われるとき、それは大部分は感知できない微分子の変化による、連続的な質的過程と考える。彼は幻影は全て根本的には自然の微細が人間の悟性と感性の微細を超えていることに由来し、従って人間にそれは生具するものとした。それゆえ学問の進歩は悟性の内的改革によって為されず、逆に、幻影の論破によって悟性の働きは大部分排斥され、感覚を支持して専ら自然に語りかけるという実験的哲学が提唱されることになる。しかし、感性の微細も自然のそれには及ばないのだから、この実験哲学も行き詰る。しかしまた、この行き詰りを敢えて突破しようとするなら、悟性は再び幻影に囚われてしまうことになろう。
ここにおいて観想の立場が是認される。帰納による排除の後に残る形相は、自然界における最も普遍的なものでなければならない。それは不動の動者としての第一原因、ベーコンのいわゆる純粋活動の法則である。ベーコンにおける経験尊重の背後にはあるべき原理として、自然法則の必然性への確信がある。それゆえ彼は実験的哲学を提唱しながらもそれに徹することなく、実験はあくまで感覚の補助に甘んずることができたのである。
形相は因果の系列の究極において結論される吟味されないものである。それはその限り観想の対象となる外はない。真の合理主義は吟味を経ないものを受け入れない。しかし、それはベーコンにとっては幻影となろう。彼はプロティノスとともに行動は観想の衰えである、と言わねばなるまい。頂上に到った者にとって前進は後退を意味する。行動とはいわば観想にとっての迂路である。自然を支配するために自然に従うとはそういう意味である。そこにおいては見る者としての人間精神と、見られるものとしての自然との対立が明確に現れない。それはベーコンにおいて、行動的学問に不可欠な主体への反省と自覚が為されていない結果である。ベーコンにとって自然はなお、神の現れとして生ける自然であり、対象化し切れないものであった。彼はその根底において機械論に到り着く量の哲学をもちながらも、形相の探求において、質の哲学を脱していない。彼の到達した自然法則にさらに吟味を加えることによって自然は完全に対象化される。それはまた、そのような自然に対立する人間の考察をも強いる。そしてその時、ベーコンが可能的に展開していた量の哲学は機械論的自然観として定立される。それを果たしたのがデカルトとホッブスである。
<デカルト>
デカルト(1596~1650)はフランスに生まれ、20歳過ぎてオランダ、ドイツ、イタリアを旅し、30歳過ぎてオランダに定住し21年間を送り、最後の半年をスウェーデンで過ごした。
彼の生国フランスは、16世紀後半に旧教徒と新教徒との内戦を経験したが、最後にアンリ四世が旧教に改宗して王位につき、フランスを旧教国として安定させた。そして、次の王のもとで、枢機官宰相リシュリーが仕事を受け継ぎ、絶対王政への道を進む。封建貴族の権力を王権におさめるという中世末期以来の過程が、このあたりから近代国家の形成という段階に入るのである。それに従い、封建貴族に対し、大市民の貴族化した法官貴族が対立しつつ豊富な人材を搬出し王権による統一にも貢献した。デカルトの父はブルターニュの高等法院の法官であり、ポアトゥ州に領地をもつ小貴族で、王権に従順な法官貴族であった。デカルトも政治的には一生そういう考え方をもっていた。
リシュリーは、フランス国内で新教徒を抑え、新教徒の最後の砦であったラロシェル城を降し、イギリスの南フランスへの圧力を根絶する。だが大陸でのリシュリーの政策は、遠い昔からの因縁である、旧教派のドイツ皇帝やスペイン王に対抗して、新教徒やオランダ、デンマーク、スウェーデンなどの新教国に味方する。
しかし、ドイツにおいては再び内乱が始まり、それが三十年戦争として国際戦へと拡大した。リシュリーはオランダを助けてスペインを抑え、ドイツ新教諸侯やデンマークやスウェーデンと気脈を通じて、ドイツが統一国家として力をもつ道を塞ぐことに努めた。三十年戦争の起こりは、反動宗教改革の熱意を抱く皇帝フェルディナントニ世が、ボヘミアの新教徒を圧迫したことにあるが、それがたちまちドイツの新教諸侯連合と旧教諸侯連合との全面的戦いになったのである(1619年)。始めは旧教軍が優勢であったが、ドイツの新教側を助けるために、1625年にはイギリスの後押しでデンマーク王が侵入する。これは翌年ヴァレンシュタインに敗れたが、しかし、1630年にはフランスから戦費を受けてスウェーデン王が兵を出す。この戦いにおいて、ドイツ国民は敵味方から何度も略奪破壊を受け、その人口は三分の一になった。
その頃、スペインに叛いていたオランダは1600年頃には事実上独立していた。ポルトガル、スペインの東洋貿易を圧倒し新手のイギリスも抑えてオランダの経済力は大きなものであった。信仰や思想の自由も、当時のどの国よりも大きく認められていた。宗教裁判を逃れたユダヤ人や異端者や改宗者も受け容れた。スピノザの『エチカ』が匿名にせよ堂々と出版される場はここしかあり得なかったであろう。
デカルトの父は、息子が10歳のときジェズイット会のラフレーシ王立学院に入れた。そこで人文学、ラテン、ギリシアの古典、論理学、自然学、形而上学のスコラ哲学の全体を学び、8年あまりで学院を終えて、もう2年ほどポアチエの大学で医学と法学を学んだ。父の意向は子供をしっかりとした実際人に仕立て上げ、自分と同じ法官にしようとしたのであろう。こういう方針に従って、デカルトも学校を終えた後パリに出て世間を学び、オランダの志願兵になった。軍籍に身を置いて外国を旅行するということは当時よく行われ、それにオランダが選ばれたのは、当時のフランスの対外政策からして自然であった。
しかし、青年デカルトには習った学問はたいして役に立たないという深い失望があった。歴史は学問ではなく、物語にすぎず、人文学の道徳論は、徳を尊ぶべきとは教えるが、その徳とは何であるかの認識を教えず、土台ももっていない。スコラ哲学の論議の方法では、いつも蓋然的な結論に達し得るのみで、明証的な真理には到らないし、討論も相手をいい負かそうという動機が主になり、事柄の真を明らかにするという目標が忘れられているとした。デカルトは真理に達する方法として、まず分析によって明白な真なる前提(原理)に遡り、次いでその原理から総合によって、問題となっている主張を理由づけ証明する、ということでなければならないとした。
彼は世間に出て旅をすることは、時には猶予を許さない事態に出くわすこともあり、それを切り抜けるのは結局意志の力であるとした。また諸国諸地方の人の様々な生き方、風習は偶然的事情に基く単なる習慣に過ぎず、そこからは自らをも律し得る原理を新たに知ることもなかった。それは却って習慣を度外視したところに見られる人間理性の普遍性を分からせてくれた。よって確実な原理の探究は、全ての人間が具えている理性の方に向けなければならない。
デカルトは1618年志願兵としてオランダ滞在中にイサク・べークマンと知り合った。ベークマンは全ての物を基本的な粒子から成るとする原子論の考えをとり、そういう粒子の運動法則を数学的に考えることによって力学的自然観に至ろうとしていた。彼はデカルトと共同研究に携わり、デカルトに数学的自然学の構想を伝え、宇宙の認識にも役立つことを気づかせた。またデカルトは連続量と非連続量とを問わず、あらゆる量についての問題を一般的に解くことの出来る幾何学と代数学を一つにする新たな学問を考え始めた。
デカルトは次の年、三十年戦争が始まったドイツに向かう。しかし、戦闘はなく冬を越すことになる。当時、ドイツでは一種の神知をもって神秘的魔術的精神革命をはかると称する秘密結社「バラ十字会」の噂が盛んであった。それは思想的にはルネサンス期の思弁的自然哲学者パラケルススの影響の下にあり、デカルトはこれに興味と同感をもち、夢物語とともに「1619年11月10日、霊感にみたされて、驚くべき学問の基礎を見出した」と炉部屋で手記に記した。雑多な知識の集合は学問ではなく、学問は良識ある一人の人間が、眼前の事象について生得の理性によって成す推理の方が真実に近い。しかし彼は、哲学の基礎について何らかの決定を下すことはまだ時期尚早であるとし、その後9年間知的放浪を続けた。
彼は新しい哲学が完成され、それが道徳にも適用されて「決定的道徳」に至るまでの間にも出来るだけ善い生き方をしなければならないから、仮の生活方針として三つの格率を定めた。一つは生国の習慣、宗教は保ち中庸の意見に従う。二つ目は自己の決断をきっぱりさせること。三つ目は自分にはどうにもならない運命(摂理)は受容し、自己に打ち勝ち、不合理な欲望を消すこと、つまりストアの賢者の知恵である。
1625年パリに戻ったデカルトは3年間研究に没頭する。そして世間に噂を立てられたので、いよいよ自分の考えを構築しようと決心し、彼が座右の銘としたオヴィディウスの「よく隠れた者こそよく生きた者である」とセネカの悲劇『ティーエステス』からとった「万人に識られつつ唯おのれ自身には識られざる者は、死に臨んで死を恐れる」の句を実行に移すために1628年オランダに隠れ住むことにした。
デカルト哲学の形成に寄与した要素として、初期のアウグスティヌス神学、ベークマンの感覚的自然を超えた客観的自然(物体世界)の原子論、ケプラーのプラトン主義が推測される。
デカルトはパリに滞在中、キリスト教神学と接触し、知性に対する意志の意義が改めて自覚されるようになった。ここに含まれる伝統的な問題を見ると、まず、神そのものについて、知性と意志とのいずれを尊いと考えるかということがある。我々の精神のうちに真理を宿らせた神は、それ自身の知性のうちに真理の原型(イデア)をもっているが、この神的真理は、神の意志によっても左右されないものなのか、それとも神の意志が自由に定めたものなのか、ということである。プラトン主義からは、真理そのものは意志の裁定によらない独立性をもつと言わねばならないが、それではキリスト教の神も、ギリシアの神々のように運命の必然性に服することになるのではないか。こういうように神においても知性より意志が優位であるという考えは、オッカム主義と呼ばれた。デカルトはオランダ滞在の始めの時期に、オラトリオ修道会の神父や当時フランスの宗教界で問題化していたジャンセニウス派の考えに同感して、理性的真理の解釈で、理性的認識も神の自由な創造であるとするオッカム主義に近づいたことがある。『省察』で神が我々を欺くか欺かないか、ということが問題になっているが、これはこのオッカム主義の論点を取り上げているのである。
しかし、自由意志の問題は、もちろんもっと直接に、我々自身においても存在する。我々の自由意志の存在は、神の摂理(これが理性であるか意志決定であるかが、先に問題になった)との関係において、一つの驚異であり、奇跡である、と炉部屋のデカルトは書いた。「主は三つの驚異を行われた、すなわち無からの創造、自由意志、神人」。そして、この驚異をどう考えるかはアウグスティヌス以来の神学の大問題であった。我々の救いが、我々の自由意志に依存するのか神の摂理による決定(神の予定)にかかっているか、自力か他力かということであって、晩年のアウグスティヌスは他力の予定説を強調した。ルターやカルヴァンも予定説を強調する。それに反対して、デカルトが学んだ学院の教師たち、ジェズイットの神学者は、人間の意志の自由を救いに関して大幅に認めようとした。そしてカトリック内でも、このようなジェズイットの説に反対して、禁欲的教派であるジャンセニウス派(のちにパスカルが所属する)は、人間の意志の自由を抑えて神の予定と恩寵とを中心に考えた。
自由意志の主張とは、人間の意志が肯定と否定、ないし善と悪との、いずれをも選び得るという説であり、これに対し予定説とは、そのような選択の自由を否定して、ただ意志の自発的発動という形でのみ自由の存在を承認するものである。デカルトはオランダ滞在の初期には上述のように、真の自由は意志の選択の任意性にあるよりも、発動の自発性にあると考えていた。けれども、オランダにおいて、カルヴァン派神学者が予定説をもってデカルト哲学を攻撃するに至ったときには、デカルトは逆に選択意志の存在を主張したのである。
デカルトは『方法序説』の冒頭で「良識はこの世で最も公平に配分されている」と述べ、大切なことはその良識を正しく用いることにあるとし、そこで理性をよく導き、諸学において真理を求めるための方法を最初の問題にした。そのデカルトの方法とは演繹である。この演繹とは何よりも分析的方法である。彼はそれを数学から学んだ。数学の普遍的方法の学は秩序或いは度量を含む一切の事物に拡大されることによって、自然を機械的に見る数学的自然学を可能にする。また秩序立った認識の連鎖は認識を反省へと導き、諸学の統一を基礎付ける形而上学的原理の発見へと向かわせる。その方法を用いることによって我々の精神に明白になってくる対象に対し正しい判断を下すべき良識或いは理性が絶えず問題になる。人間の認識とは何であるか。またそれはどこまで及び得るか。そしてそのためには理性を以て十分なのか、という吟味は良識の当然の要求である。
そこで彼は、形而上学の絶対的始原を求める分析の手続きによって、自己の内外の感覚的世界の存在を体系的に否定し、また数学的真理も悪しき霊の存在を仮定するとき絶対的に真とは言えないとしてこれを斥ける。そして、この一切を疑うという誇張的懐疑の最中に、彼はその懐疑の根底に横たわる自己の存在、つまり、その疑っている「私は在る、私は存在する」という真理を発見する。この「私は疑う、ゆえに私は在る」という命題は、疑うことと、疑う私の存在とは別のものであるにも拘わらずその一方は必然的に他方を伴う。ところで懐疑は思惟の一様態であるから、思惟と思惟する私の存在とは各々もはや他のものへ分割できず、自ら明白に知られるべき単純本性としてなお区別され得るにしても、同様に両者は必然的結合を為している。また彼はこの思惟を感性及び悟性の区別を超えて意識一般として理解する。懐疑は想像や感覚の内容になお力を及ぼし得ても、想像意識、感覚意識という自己意識の直接的確実性の前では消えざるを得ないからである。かくして、彼は上の必然的結合の直観によって得られる「私は思惟する、ゆえに私は在る」なる命題を哲学の第一原理として立てた。この命題が「全て思惟するものは在る」という大前提を欠いた省略三段論法ではないかという指摘はデカルトの時代からあった。デカルトの拒否にもかかわらず直観説に与しない者は、直観の内容が明らかにされていないことをいう。
しかし、この自己意識はどの程度まで自己認識たり得るかを決定せねばならない。まず彼は、伝統的な物体論が感覚への素朴な信頼の上に立って、物体的自然を質的に規定しているのに対し、物体を延長と見なす。彼は蜜ろうの思考実験の分析から、その中には実体的形相というような隠れた力はないし、感覚的性質が実在的に宿って物体の性質を形成しているのでもないとした。物体の物体たるゆえんは、ただそれが延長をもつという量的・無機的規定を受けることによってのみであって、それ以外にはない。さらに認識という観点から見るに、延長そのものは感覚によっても想像力によっても捉えられない、ただ「精神の洞見」のみによって認識されるゆえに、そこに必然的に人間精神が開示され、「私はまさしく思惟するもの、すなわち精神、霊魂、悟性、理性である」ということが帰結されるとした。
このように彼は精神を、思惟する機能を付与せられた実体として理解した。実体とは存在するために自分自身の外何ものをも必要としないものであって、神のみが実体である。しかし、存在するために唯神の協力を要するのみで他のいかなる被造物からも独立している限り、精神と物体もまた実体概念のもとに理解される。従って、この精神的実体としての自己認識は、世界の中での自己の必然的な在り方、即ち「思惟するもの」として、「延長するもの」としての物体的実体から実在的に区別されるべき自己の存在を明らかにして、その認識の形而上学的確実性を目差すものに外ならない。
デカルトにおいて「私は在る」は「神は在る」とも必然的結合を為していた。彼における神の存在証明は、我々が無限の実体としての神の観念を有しているという事実に基いた自己の不完全性への反省と、神の完全性の理解という二つの契機に拠っている。彼は観念なる語に、その形相の直接的な知覚によって私がその同じ思惟自身を意識するところの各々の思惟の形相を理解した。従って、観念には、何らかの対象を表象するという場合と、その表象された対象に働きかけるという場合とがある。それは一面では思惟として意識現象であるが、他面では対象を志向する性格をもつという点で思惟そのものとは異なっている。私は世界に様々な事物の存在することをなお知らなくても、私がそれらの事物を思惟していることは知っている。全ての思惟の中心には知覚する同一の主体が常に存するのであるが、それらの思惟はまた私に様々な内容を提示する。従って、私の思惟においては、それがこのものの思惟となり或いはあのものの思惟となるように、その特殊性を規定するような何か或るものが認められる。この何か或るものがスコラ的に思惟の形相と呼ばれる。
かくして、観念は外的対象を志向し、我々にその影像を呈示する。この観念の外的対象に対するスコラ的・現象学的意味での志向的関係における観念を彼は観念の客観的実在性と呼ぶ。ところで観念はたとえ実在的であっても、それが客観的な存在、つまり我々の悟性に表象されているものである限り、もとの事物の存在よりも完全ではあり得ぬ。しかし、全ての存在には必ず原因があり、この原因の中にあるものはそれの結果の中にあるものよりも小さなものではありえない。かくして、あらゆる観念は自己の客観的実在性の実在的に存在する原因を有さねばならぬがゆえに、我々は究極の原因としての神の観念を得ることができる。しかるに、全てのものが原因をもつ以上神も原因をもつはずである。そして、彼はコギトから出発するのであるから、このように神の存在が自己原因であることを要請するような結果は思惟の内部に求められねばならない。ところで、私は思惟するものとして存在するが、その存在は思惟している限りのものであった。しかし私は実体であるから、或る永続性を有するものである。従って、私の思惟のこの実体的な永続性は、私によっては説明し切れぬ思惟内容、即ち神の観念の原因である神そのものによって担われねばならない。かくして、神は必然的に存在し、その自己自身によって存在する力によって私を連続的に新たに創造し、持続する個々の瞬間において保存するということを理解しなければならないのである。そして、我々の不完全性、完全な神への従属性がこのように思惟の実体そのものに規定されているがゆえに、神の観念は我々に生具していると言わねばならない。従ってまた、神を離れて思惟することは私の自由にならないのである。ここにおいて、神の存在に関するア・ポステリオリな証明はその存在論的証明に逢着する。それの最も端的な表現である「私は在る、ゆえに神は在る」なる直観は、神の存在証明が人間精神の本性の論証と一体を成すものであることを示しているのである。
かくして、神の存在が確証されると、その完全性に鑑みて神が欺瞞者であることは不可能であるから、既に一般的規則として立てられた、私が極めて明晰に判明に知覚するものは全て真である、ということはここに初めて必然的に真となる。我々は存在するものの相においてでなければ何ものをも把握し得ない。それゆえに、我々が何らかの観念を抱懐する限り、その観念はいかなるものであるか、またいかに解すべきかを知らずにはおれないはずであり、それゆえにまた、我々が神や物体の観念を有する限り、その存在へと目を向けねばならぬのである。
デカルトは観念の生具性を純粋悟性的に産出する能力の存在をしめすものとした。従って上述のように延長は純粋悟性によって知覚され、想像や感覚とのあらゆる関係から独立したものと考えられる。彼が延長のない形を判明に把握できなくとも形のない延長は判明に把握できるとするのもこのゆえである。しかし、このことは延長が分割されるという事実を否定するものではない。延長とは無際限に分割され得、その部分が我々に観察され得なくともなお想像され得るものなのである。それゆえ想像し得るということも延長の本質の一つである。
ここにおいて、類的に単一な物質と様々な形状に自由に分割されたその部分及びそれらの部分の場所的運動とによる、自然の全く機械的な説明が可能になる。世界にある一切の運動の原因は神であり、神の属性である不変性から運動量の恒存が導出され、個々の物体の運動法則として、いわゆる慣性の法則、直線運動の法則及び衝突の法則が導出され、これらは自然法則と呼ばれる。これらの法則に共通することは、目的論的原理を全く交えることなく、一切を場所的移動としての運動によって量的に考察することにある。かくして、自然学においてはこれらの幾何学的な基本法則に基いて宇宙の生成から物体の化学的特性、更には人体の生理に到るまで一切のものが機械的に説明されることになる。
彼は、延長的世界の個別化の原理やその仕組みを粒子説によって説明する。物体を構成する究極の微細な粒子として元素を想定し、その元素の形、大きさ、位置、運動の違いによってのみ各物体の輪郭が示され、その性質が構成される。自然現象や世界の構造もまたそれらによって機械的に説明される。そして世界全体はこれら微細な物質で隙間なく充たされており、空虚な空間(真空)は存在しない。空間も粒子で充ちている。
このように、デカルトの機械論的自然観は悟性と想像力との協働のもとに展開される。これは自然を思惟実体の精神と延長実体としての物体とに峻別するいわゆる物心二元論からの必然的帰結である。しかし、物体の存在は純粋数学や想像の対象である限り、なお可能的或いは蓋然的であるにすぎない。従って、上の自然観は自然に関する本質論であり、その限り明晰判明に理解され真なるものであるが、それはなお存在するものの相のもとに捉えねばならないのである。
精神と物体、確かに両者は実在的に区別されるが、それは二つの世界の区別ではあっても分断ではない。見る私と見られる物体とは同じ一つの経験的世界を共有しながら原理的に区別し得るというにすぎない。精神と物体はその意味で自然なつながりをもつ。
ところで、物体的自然の中には人間の身体も含まれる。人間精神は身体から実在的に区別されるが、それにもかかわらず、精神は身体と密接に結合して両者は一なるものを成している。しかし、精神はこのように身体の全身に結合されてはいても、脳実質の中央に位置して心の座とでも呼ばれるべき微小な腺(いわゆる松果腺)を介してとりわけ自己の機能をよく果たし、受け取る印象の多様性にも拘わらずその統一性を確保するのである。逆に言えば、精神が身体に働きかけるとき、精神は身体を各々の方向へ動かす自己の全体的努力をただ意識するだけである。従って、精神の働きは各々の運動への意志の傾きであり、他は腺運動を介した器官の配置に基く身体的運動があるのみである。かくして、心身の合一を考えることは、精神の中に先在する性向が身体器官の配置に対応するということを意味する。つまり、我々の精神が身体に向かうとき、その身体を介してもたらされる、その対象の形象が我々の精神の中にその形象に対応するような表象を呼び起こすのである。このことはまた、思惟そのものの中に留まる痕跡と脳髄の中に留まる痕跡とが各々精神及び身体の性向・配置として全く異質なものであるにも拘わらず、後者を介してのみ形象化され並置されるはずの様々な要素が、前者においては異なる深度を以て共存し得ることを示すものである。
かくして、精神は身体を介して外界に触れるとき、その表面的な心理生活が等質的で具体的な空間の中に繰り広げられることになる。それゆえに、そこに継起する感覚は等質的な記号を介して外界の実在を指示すると共に、心身の合一を理解する途は、ただ日常の生活と交際を用いることによってのみ拓かれるのである。またデカルトがこの心身合一の概念を思惟の延長という形式によって表現し、その限り純粋悟性的認識の対象となり得るものとしながら、他方、この概念は悟性だけによる場合にも想像力の助けを借りた悟性による場合にも漠然としか認知されず、感覚によってのみ明晰に認知される、と語るのもこのゆえである。
これは、翻って考えれば、感覚のもつ実践的機能を明らかにすることによって外界の事物の本質に関する感覚的認識の妥当性を斥けることを示すものに外ならない。感覚は外的事物が心身合一態としての全体としての私にとっていかなる価値を有するかを示す記号であって、感覚知覚をこのような関係として、すなわち感覚意識として捉える限りそれは明晰判明であるが、しかし、感覚がそれ自体において何であるかは全く認識され得ないのである。
かくして、外界の存在は感覚に拠り記号を介して指示され、延長を有するものとして明証的に認識されるのである。ここに心身合一なる概念が思惟の延長或いは物体的精神として、物体的事物の純粋悟性的認識の基礎と対象をなすものであることが明らかになる。思惟の延長とは精神が身体とのかかわりにおいて自己に生具の性向により対象化されたものに外ならない。即ち、自我の自己反省である。自我は対象化されて見る自我と見られる自我とに分裂する。そして、自己を反省する、対象化され得ぬ自我は普遍的自我として単に個別的瞬間的な現実を見るだけでなく、自然界の一切の現象を統括してみるのである。
ここにおいて我と物の対立は決定的となる。そして上のごとくデカルトの二元論が単純に、一方で我と物とを区別し他方でその結合を考える、といった図式で示され得ぬところに、理論的世界と実践的世界とを統括するデカルトの合理主義の最も顕著な姿が認められるのである。合理主義は唯一の原理から一切を演繹するという知性の統一性の主張である。デカルトはコギトの純粋思惟から出発するがゆえに、思惟と存在との一致においてのみ真理を認めた。そして、この一致が自我以外のものにも妥当すると考えたところに西欧的な合理主義の徹底化がみられる。即ち、「私が極めて明晰に判明に知覚するものは全て真である」という先の「一般的規則」がそれである。デカルトにとって、真理の確実な認識に到達し得る人間精神の全ての作用は「直観」と「演繹」だけであったが、後者は前者のいわば継起的複合であり、唯一の真なる直観に凝集されるべきものとされた。結局、人間の一切の認識の本質は「直観」である。ところで、直観とは純粋で注意深い精神の容易で判明な把握であって、必然的に単純なものにかかわる。単純な命題は自らにして現われるべきものであって探究され得るものではないからである。直観に要するこの「現前の明証」は事物の真理が提示される仕方の直接性そのものであり、それは同時に意識作用の単純性と不可分なのである。それゆえに、デカルトの真理概念は先ず上の「一般的規則」によって基礎づけられるのである。
次いでデカルトはこの規則を真と認めた上で神の存在証明に向かう。そして、神の存在の確認によって上の規則による対象一般の認識の確実性とその存在の帰結の妥当性とが保証される。ここに普遍的自我とそれの一切の対象との対立は神によって統一されるのである。しかも、その神はコギトから引き出されるがゆえに、上の保証がみごとに計られている。かくして、デカルトは「認識から存在への帰結は正しくない」というスコラの格率を転倒させて、「認識から存在への帰結は正しい」と述べることになるのである。
デカルトにおいて、心身の結合は厳密な意味で論証されるものではなく、むしろ生の事実として示されるものである。だが精神と身体との関係がはっきりしないということは、両者の二元論的分断を決して意味しない。そういう知的分析以前のところで我々はすでに心身が一体となった世界を生きているのである。
<パスカル>
ブレーズ・パスカル(1623~62)は、一応機械論もコギトも評価するがデカルトは神のことを考えていないという。パスカルは懐疑論のもつ矛盾にふれモンテニューのように理性の弱さを見極めて判断中止に甘んじようとしない。逆に彼は矛盾の事実において疑いから存在が明らかになることを暗示している。だが、その暗示はデカルトのように演繹によるものでも直観によるものでもなく、むしろ自然的直感による。しかし、この直感は自分自身の中で原理を自然に感知するということ以外何も確証をもたない。結局、信仰によらない限り確実性は得られないとするのがパスカルである。パスカルはデカルトと同じく人間が思考するという点に重要な意味を認めていることは、考えることにおいて人間の偉大さがあり、人間の価値と尊厳の全てがあるとする「考える葦」の断章からして明らかである。なぜ葦が弱いものの象徴として使われたかといえば、メシア預言、荊の冠と対をなす葦の杖、十字架上へ差し伸べられた葦の棒と、キリストの一生の大事な時点に三回も登場してくるところから「痛められた葦を折ることがない」(『マタイ伝』12-20)キリストを、「考える葦」の尊厳の守り手と考えてのことであろう。
デカルトの場合、思考は認識論的な概念にすぎなかった。パスカルは、考えることにおいて初めて人間は自分の置かれた状況に気づき、神を知り、人生の目的に目覚めるであろうという、道徳的傾斜の背景に強い宗教的要求があった。自然学の方法に対してはデカルトの演繹的推論よりも実験による証明を優位においた。
しかし、パスカルは「私はデカルトを許せない。彼は、世界を動き出させるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにいかなかった。それから先は、もう神に用はないのだ」(『パンセ』77)と批判する。だが、デカルトは世界が自然法則に従って動きかつ存続していることについても神の不断の協力が必要だという連続的創造説をとる。パスカルはそのことを知らぬはずはないのだが、にもかかわらず批判するのは、デカルトの考える神はひっきょう「哲学者の神」であって、彼の自然研究が愛と慰めの神であるキリスト者の神に結び付いてこないと見ているからだろう。
パスカルの父はデカルトと同じ法官貴族であった。パスカルは3歳の時母を亡くした。教育熱心な父は息子の非凡さを見て学校に入れず仕事も辞め財産も大部分パリ市債に替えその利子で暮らし息子の教育に専念した。
若きパスカルは幾何学的精神を駆使して彼を近代科学の最先端にまで押し上げた。だが、科学研究は世界のありさまを部分的に解明しても、無限な世界の究極に触れることもなければ世界全体の意味を問うこともない。その点で数学も、その深さにもかかわらず無益である。彼はこうした自覚を介して、かつてモンテニューがそうしたように「人間とは何か」という問いに答える為に人間の研究へ向かうのである。
パスカルはモンテニューに出会い、その外的権威や形式やごまかしに一切囚われない、事実に即した自由な思考に影響を受けた。またパスカルは、歴史やギリシア・ローマの古典の知識をモンテニューから学び、『パンセ』の前半にある聖書以外のラテン語の引用は大部分が『エセー』からのものであるくらいである。二人に共通する、現実の具体的な人間性の観察を通じての普遍的人間像を描写するという態度は、たとえ自分が構築した立派な理論でも、出来上がったものはそこで固定されてしまうが、精神は絶えず前進し続けることが可能であるから、人間の全てをもって人間の全部を直接探究することこそ最高の精神活動だとする、フランス文学特有の系列をなすモラリスト的な面からくるのである。
パスカルはカトリックの家に育ち、父から「信仰の対象となるものは、理性の対象とはなり得ない」と教えられた。この信仰と理性の完全な分離の習慣のおかげで、その旺盛な知的探究心を専ら宗教以外の方に向けられたのである。しかし、パスカルが23歳の時、王権に近いイエズス会と対立していたジャンセニウスを支柱にしたポール・ロワヤル運動に出会い回心をした。この対立は<デカルト>のところで述べたように、人間の原罪からの救済はキリストの贖罪の結果であり神の全くの恩恵であるが、その恩恵に与かるにあたっての人間側の努力にどの程度の意味を認めるかという昔からの大問題に絡む対立であった。すでに聖書の中でも、パウロはヨハネやことにヤコブに比べれば、人間の行いの無益を強調する方に傾いている。アウグスティヌスはパウロに近く、異端とされたペラギウスはヤコブよりもさらに自力を重んずるので非とされた。トマスはアウグスティヌスよりややヤコブに近く恩恵と自由意志との正統的調和を誇る。カルヴァンは徹底して恩恵絶対を唱え特定の人間が救われるか否かは世の始めから神のうちに予定されているとまでいう。そこでカトリックの正統からは、アウグスティヌスの線まではよいが、その外に出れば異端ということになる。反宗教改革のイエズス会はジャンセニウスからすればペラギウスの線までずれていると主張し、イエズス会はジャンセニウスをカルヴァンの線まではみ出していると主張し互いに異端呼ばわりしたのである。教皇も敵になって事態はポール・ロワヤル側にますます不利になり、そこで窮余の一策としてパスカルの筆の力を借りて世間を味方につけたのである。
キリスト者としてのパスカルは、権力者の支配する物質の世界の上に、学者の支配する精神の世界、さらにその上に、キリストの支配する愛の世界を設定した。「真理そのものではないが、真ではあるもの」が学者の世界であり、キリストに具現された愛こそが「実体的真理」なのである。
キルケゴールからガブリエル・マルセルに到るキリスト教実存主義の上流にパスカルがおり、さらに遡れば、旧約の『伝道の書』やヨブの叫びにまで到る。また18世紀のヴォルテールや、20世紀のヴァレリーもパスカルに影響された。
パスカルにとって無限と虚無の中間に位置する人間は、認識論的にもそのいずれをも究められない永遠の絶望の中にあり、なぜ世界が別の様にではなくこの様になっているのか、誰が一定の時間と空間とにおいて自分をそこへ置いたのか、自分は何をしにそこへ来たのか、死ねばどうなるのか、などの究極の問いについて全くの無知にさらされている悲惨さの中にある。悲惨と無知を慰めるために案出されたはずの気晴らしは、実は、悲惨の内の最大のものなのである。しかし、人間は自己の悲惨さを知り思考できる点で偉大さも持っている。そして人間における偉大さと悲惨さとの矛盾は神による救済において解決される。しかし、あらゆる神の存在証明は無益であるから、賭けによって神が在る方を自ら選び取るべきである。なぜならそれによって無限に幸福な無限な生が得られるからである。だが、賭けによる飛躍によってすぐに宗教の世界に達し得るわけではない。自らへりくだって心から神の感得を志向すべきである。心情による神の直感、そこにおいて神を知るという事態が成就する。その直感は幾何学的精神や繊細の精神とは別の次元に属する愛の秩序におけることである。そこにおいて初めて信仰が受け取られるのである。
ニコラ・マルブランシュ(1638~1715)もデカルトの機械論に全幅の賛意を示し、コギトについてもこれを認識の第一のものとして肯定している。ただ、その導出にデカルトのように懐疑ではなくスコラ的論理を用いた。「無はいかなる性質をも有しない。私は考える。ゆえに私は在る」とし、考えるという性質があるなら、その主体である私は無でなく存在するという、コギトの直観を形式論理によって言い当てたのである。だが、マルブランシュにとって重要であったのは、コギトより人間精神とは一体何であるかという、アウグスティヌス的な問題であった。デカルトの心身問題は理論的に未解決であったが、マルブランシュは心身の相互作用を引き起こしている真の原因は神であるとする。例えば腕を動かそうと欲する精神的意図と腕の動きとの間には直接の因果関係は全く見出されない。にもかかわらずそれらが連動しているのは、その精神的意欲が生ずる度毎にそれを、ゲーリンクス(1625~1669)と同じく、機会原因として、神が腕に身体的動きを与えているからであると捉える。逆に神は動物精気のある物理的動きが起こるのを機会に、精神に一定の知覚や情緒を生ぜしめる。このように精神と身体とを媒介してるのは神に他ならない。この説を採るならば、心身結合の秘密は神の意志の背後に隠れ、人間理性の及ばざるところとなる。彼らはデカルトの二元論を極端にまで推し進めたにすぎない。デカルトが精神と物体との統一を神の超越的媒介による強制的合成としたとすれば、彼らは率直に奇蹟とするのである。
ライプニッツがこの機会原因説を機械仕掛けの神であるとか、連続的奇蹟の導入であるとか批判するが、マルブランシュにとって地上における心身の相互作用とは、神の遠隔操作を受けているのではなく、それが本質的には神のイデアの内における出来事であるということなのである。
ルネサンスの魔術思想は人間の自然に対する画期的な観点を樹立した。それは、宇宙の理を知り、神に比肩する力と万有を支配する術を獲得しようとする魔術的精神を、傲慢と頽廃に陥らないように「神の業たる自然に対する敬虔と人間の悲境にたいする慈愛」というキリスト教精神によって制御・純化し、神が天地創造において人間に与えた自然の支配権を回復しようという思想である。
中世において形相は質料とは分離され、質料は物の本質たる形相の単なる担い手であるばかりか、悪の源泉とまで見なされ、質料を対象とする技術は全く評価されないものにされた。しかし、質料は質をもたないのだから悪ではなく、悪の源泉は悪のダイモーンであって形相的なものであり、であれば善のダイモーンと関係することによって、質料をより良いものへと加工する技術が可能だとするヘルメス主義の流れもあった。それは自然を模倣するというよりデーミウルゴスによる宇宙創造を模倣するのであって錬金術とも呼ばれた。錬金術とは大宇宙の創造を実験室という小宇宙の中で再現しようとする思想である。そこにはプラトンの理想を実現しようとする努力があった。たとえ質料から質がはく奪されても、残る量は数学と結びつきイデアの世界とつながるのである。こうして最下位の存在とされた質料は最上位の神と結びつき、小宇宙と大宇宙が照応し合う。その媒介をなしたのが天体の運行に関する学、占星術なのである。この占星術と錬金術とを結合させたヘルメス主義は、中世では「マギア」(魔術)と見なされた。それは悪魔との結託ではなく、マギアの元の意味つまりマギ(ゾロアスアター教の聖職者)の術(学)を意味していた。万物は一であり一は万物であるとするヘルメス主義の有機的自然観は、秩序と無秩序の均衡の上に成り立つ不安定なものであった。ルネサンスにおいて、この壊れやすい自然の無秩序を説得して、その力を利用しようとしたのが魔術師たちであった。しかし、ベーコンは魔術師の自然への内在的説得ではなく、自然を機械的技術により拷問にかけて審問し、自然を裸にし、これを操作すべきであるとした。
ガリレイにおいては実験より数学的定式化やそれからの演繹が主であり、ガリレイの実験は予め定立した数学的仮説の試験や対立仮説の反証の役割の域を出ず、ベーコンの実験の系統的使用の考案より消極的であり、それは原理的に思考実験であり、既成の原理の確認に、いわば事後的に留まった。これに対しベーコンは「自然の秘密は技術によって苦しめ悩まされるとき、よくその正体を現わす」といい、実験概念をいわば前向きに転換したのである。ベーコンの方法は不完全であったが、17世紀以後ベーコン的科学は、アカデミー中心の古典科学とは別な流れとして、化学、熱学、電磁気学、さらに解剖学、動植物学、鉱物学などの非数学的、観察・実験的、分類的な科学において展開し、イギリスを除いては長らく在野的、アマチュア的に留まった。
ベーコンは弁論術(レトリック)に、アリストテレスの説得術としての弁論術思想を基にプラトンの弁論術批判を考慮した合理的役割を与える。そこでは伝統的な知識注入の教師的方法に対して、発見的・創造的思考という証明的方法を強調して科学の教育方法論の端緒を開く。またスコラ的な形式偏重の体系式叙述法に対し、簡潔鋭利で多産なアフォリズム式を強調して、科学の文体論を述べる。
彼の思想形成において成長期に親から受けたカルヴィニズムの影響は無視できない。カルヴィニズムは世俗の営為を聖化し、秘蹟ではなく日常の業を重視する。
14歳の時ガラス職人の工房を訪ねて、哲学者たちの百の饒舌よりも、直接自然に手を下し自然を改造しようとするこうした職人の仕事の方がはるかに重要だとした。しかし、職人の技術的発見、発明は組織的でなく、普遍的洞察に基づいていない。彼は「自然の従僕にして通訳」である人間の「自然の通訳の正しい指標」となる「新しい道具(ノヴム・オルガヌム)」としてそれを打つ立てようとした。
彼は「新しい道具」として「帰納法」を提唱し、その補助手段として「幻影(イドラ)」の分析を行った。幻影とは精神がその悪しき性向によって抱く偏見であり、それには自然の本性ではなく無力な人間の本性を尺度とすることから生じる「種族の幻影」、素質、習慣、教育、談話、読書などを介して個人が抱く「洞窟の幻影」、対話による言語の不適当な使用に由来する「市場の幻影」、様々な哲学上の教説や論証の誤れる法則などに由来する「劇場の幻影」の四種類がある。これらの「幻影」を論破することによって、先ず従来の観念論的世界像を破壊し、経験的にのみ確認し得る現実的な自然法則の確立への道を準備した。それに答えるべきものが「帰納法」である。
ベーコンの帰納法は、一般的命題を独断的に結論する単純枚挙による帰納法とは逆に、適当な排除によって自然を分解し、否定的事例を十分に集めた後、肯定的事例について必然的結論を下すことにある。具体的には先ず多くの事例を集めて整頓し、それの表を作る。即ち、或る性質が存在する事例の本質及び現存の表、近似的な事例において上の性質が現れない事例の逸脱或いは欠如の表、上の性質が異なった程度で存在する事例の程度或いは比較の表である。次いで、このような展示表に示された事例を比較対照して、当の性質から偶然的要素を排除し、その性質の肯定的形相を正しく規定するのである。
かくして、帰納法の目差すところはこの形相の認識にある。形相とは何らかの単純性質(例えば光、熱、重さ)を、それらを感受し得るあらゆる種類の質料と基体とにおいて、支配し構成する純粋活動の法則である。従って、物体は単純性質の集合体とされる。そして、その構成要素の配列は潜在的図式機構と呼ばれ、また物体における生成変化は潜在的過程と言われる。かくして、形相の存在に必要な条件が満たされる度毎にその形相が現れ、その時にのみ直ちに単純性質の純粋活動を生じ、個別的物体を形成するのである。このように、形相は可変的な質料因ないし作用因を成す単純性質ないし純粋活動を恒常的な秩序立った仕方で構成し規定するがゆえに、形相はむしろ法則と言われる。そして、このような形相の発見によって初めて真の思索と自由な作業が生まれ、真の行動的学問が可能となる。
ところで、ベーコンの帰納法は排除法である。排除には際限がないから、その成果は暫定的で、得られた形相は帰結されたものというよりも、実験における観察の対象に留まっているものである。
ベーコンが自然の中に存在と運動と自然的必然性のみを想定したことは、彼が自然学における目的因を拒否しつつも、自然学を形而上学と連続して考え、法則すなわち形相による自然の物質的諸部分の配列、つまり、機械論的説明を目差したものである。従って、形相はあの潜在的図式機構及び潜在的過程と本質的に異なるところがなく、それは物質の諸部分の変化が到り着く究極的図式機構である。作用因が形相を運ぶ車と呼ばれるのもそのためである。しかし、まさしくその点にベーコンの機械論の限界がある。
潜在的過程が形相に向かうと言われるとき、それは大部分は感知できない微分子の変化による、連続的な質的過程と考える。彼は幻影は全て根本的には自然の微細が人間の悟性と感性の微細を超えていることに由来し、従って人間にそれは生具するものとした。それゆえ学問の進歩は悟性の内的改革によって為されず、逆に、幻影の論破によって悟性の働きは大部分排斥され、感覚を支持して専ら自然に語りかけるという実験的哲学が提唱されることになる。しかし、感性の微細も自然のそれには及ばないのだから、この実験哲学も行き詰る。しかしまた、この行き詰りを敢えて突破しようとするなら、悟性は再び幻影に囚われてしまうことになろう。
ここにおいて観想の立場が是認される。帰納による排除の後に残る形相は、自然界における最も普遍的なものでなければならない。それは不動の動者としての第一原因、ベーコンのいわゆる純粋活動の法則である。ベーコンにおける経験尊重の背後にはあるべき原理として、自然法則の必然性への確信がある。それゆえ彼は実験的哲学を提唱しながらもそれに徹することなく、実験はあくまで感覚の補助に甘んずることができたのである。
形相は因果の系列の究極において結論される吟味されないものである。それはその限り観想の対象となる外はない。真の合理主義は吟味を経ないものを受け入れない。しかし、それはベーコンにとっては幻影となろう。彼はプロティノスとともに行動は観想の衰えである、と言わねばなるまい。頂上に到った者にとって前進は後退を意味する。行動とはいわば観想にとっての迂路である。自然を支配するために自然に従うとはそういう意味である。そこにおいては見る者としての人間精神と、見られるものとしての自然との対立が明確に現れない。それはベーコンにおいて、行動的学問に不可欠な主体への反省と自覚が為されていない結果である。ベーコンにとって自然はなお、神の現れとして生ける自然であり、対象化し切れないものであった。彼はその根底において機械論に到り着く量の哲学をもちながらも、形相の探求において、質の哲学を脱していない。彼の到達した自然法則にさらに吟味を加えることによって自然は完全に対象化される。それはまた、そのような自然に対立する人間の考察をも強いる。そしてその時、ベーコンが可能的に展開していた量の哲学は機械論的自然観として定立される。それを果たしたのがデカルトとホッブスである。
<デカルト>
デカルト(1596~1650)はフランスに生まれ、20歳過ぎてオランダ、ドイツ、イタリアを旅し、30歳過ぎてオランダに定住し21年間を送り、最後の半年をスウェーデンで過ごした。
彼の生国フランスは、16世紀後半に旧教徒と新教徒との内戦を経験したが、最後にアンリ四世が旧教に改宗して王位につき、フランスを旧教国として安定させた。そして、次の王のもとで、枢機官宰相リシュリーが仕事を受け継ぎ、絶対王政への道を進む。封建貴族の権力を王権におさめるという中世末期以来の過程が、このあたりから近代国家の形成という段階に入るのである。それに従い、封建貴族に対し、大市民の貴族化した法官貴族が対立しつつ豊富な人材を搬出し王権による統一にも貢献した。デカルトの父はブルターニュの高等法院の法官であり、ポアトゥ州に領地をもつ小貴族で、王権に従順な法官貴族であった。デカルトも政治的には一生そういう考え方をもっていた。
リシュリーは、フランス国内で新教徒を抑え、新教徒の最後の砦であったラロシェル城を降し、イギリスの南フランスへの圧力を根絶する。だが大陸でのリシュリーの政策は、遠い昔からの因縁である、旧教派のドイツ皇帝やスペイン王に対抗して、新教徒やオランダ、デンマーク、スウェーデンなどの新教国に味方する。
しかし、ドイツにおいては再び内乱が始まり、それが三十年戦争として国際戦へと拡大した。リシュリーはオランダを助けてスペインを抑え、ドイツ新教諸侯やデンマークやスウェーデンと気脈を通じて、ドイツが統一国家として力をもつ道を塞ぐことに努めた。三十年戦争の起こりは、反動宗教改革の熱意を抱く皇帝フェルディナントニ世が、ボヘミアの新教徒を圧迫したことにあるが、それがたちまちドイツの新教諸侯連合と旧教諸侯連合との全面的戦いになったのである(1619年)。始めは旧教軍が優勢であったが、ドイツの新教側を助けるために、1625年にはイギリスの後押しでデンマーク王が侵入する。これは翌年ヴァレンシュタインに敗れたが、しかし、1630年にはフランスから戦費を受けてスウェーデン王が兵を出す。この戦いにおいて、ドイツ国民は敵味方から何度も略奪破壊を受け、その人口は三分の一になった。
その頃、スペインに叛いていたオランダは1600年頃には事実上独立していた。ポルトガル、スペインの東洋貿易を圧倒し新手のイギリスも抑えてオランダの経済力は大きなものであった。信仰や思想の自由も、当時のどの国よりも大きく認められていた。宗教裁判を逃れたユダヤ人や異端者や改宗者も受け容れた。スピノザの『エチカ』が匿名にせよ堂々と出版される場はここしかあり得なかったであろう。
デカルトの父は、息子が10歳のときジェズイット会のラフレーシ王立学院に入れた。そこで人文学、ラテン、ギリシアの古典、論理学、自然学、形而上学のスコラ哲学の全体を学び、8年あまりで学院を終えて、もう2年ほどポアチエの大学で医学と法学を学んだ。父の意向は子供をしっかりとした実際人に仕立て上げ、自分と同じ法官にしようとしたのであろう。こういう方針に従って、デカルトも学校を終えた後パリに出て世間を学び、オランダの志願兵になった。軍籍に身を置いて外国を旅行するということは当時よく行われ、それにオランダが選ばれたのは、当時のフランスの対外政策からして自然であった。
しかし、青年デカルトには習った学問はたいして役に立たないという深い失望があった。歴史は学問ではなく、物語にすぎず、人文学の道徳論は、徳を尊ぶべきとは教えるが、その徳とは何であるかの認識を教えず、土台ももっていない。スコラ哲学の論議の方法では、いつも蓋然的な結論に達し得るのみで、明証的な真理には到らないし、討論も相手をいい負かそうという動機が主になり、事柄の真を明らかにするという目標が忘れられているとした。デカルトは真理に達する方法として、まず分析によって明白な真なる前提(原理)に遡り、次いでその原理から総合によって、問題となっている主張を理由づけ証明する、ということでなければならないとした。
彼は世間に出て旅をすることは、時には猶予を許さない事態に出くわすこともあり、それを切り抜けるのは結局意志の力であるとした。また諸国諸地方の人の様々な生き方、風習は偶然的事情に基く単なる習慣に過ぎず、そこからは自らをも律し得る原理を新たに知ることもなかった。それは却って習慣を度外視したところに見られる人間理性の普遍性を分からせてくれた。よって確実な原理の探究は、全ての人間が具えている理性の方に向けなければならない。
デカルトは1618年志願兵としてオランダ滞在中にイサク・べークマンと知り合った。ベークマンは全ての物を基本的な粒子から成るとする原子論の考えをとり、そういう粒子の運動法則を数学的に考えることによって力学的自然観に至ろうとしていた。彼はデカルトと共同研究に携わり、デカルトに数学的自然学の構想を伝え、宇宙の認識にも役立つことを気づかせた。またデカルトは連続量と非連続量とを問わず、あらゆる量についての問題を一般的に解くことの出来る幾何学と代数学を一つにする新たな学問を考え始めた。
デカルトは次の年、三十年戦争が始まったドイツに向かう。しかし、戦闘はなく冬を越すことになる。当時、ドイツでは一種の神知をもって神秘的魔術的精神革命をはかると称する秘密結社「バラ十字会」の噂が盛んであった。それは思想的にはルネサンス期の思弁的自然哲学者パラケルススの影響の下にあり、デカルトはこれに興味と同感をもち、夢物語とともに「1619年11月10日、霊感にみたされて、驚くべき学問の基礎を見出した」と炉部屋で手記に記した。雑多な知識の集合は学問ではなく、学問は良識ある一人の人間が、眼前の事象について生得の理性によって成す推理の方が真実に近い。しかし彼は、哲学の基礎について何らかの決定を下すことはまだ時期尚早であるとし、その後9年間知的放浪を続けた。
彼は新しい哲学が完成され、それが道徳にも適用されて「決定的道徳」に至るまでの間にも出来るだけ善い生き方をしなければならないから、仮の生活方針として三つの格率を定めた。一つは生国の習慣、宗教は保ち中庸の意見に従う。二つ目は自己の決断をきっぱりさせること。三つ目は自分にはどうにもならない運命(摂理)は受容し、自己に打ち勝ち、不合理な欲望を消すこと、つまりストアの賢者の知恵である。
1625年パリに戻ったデカルトは3年間研究に没頭する。そして世間に噂を立てられたので、いよいよ自分の考えを構築しようと決心し、彼が座右の銘としたオヴィディウスの「よく隠れた者こそよく生きた者である」とセネカの悲劇『ティーエステス』からとった「万人に識られつつ唯おのれ自身には識られざる者は、死に臨んで死を恐れる」の句を実行に移すために1628年オランダに隠れ住むことにした。
デカルト哲学の形成に寄与した要素として、初期のアウグスティヌス神学、ベークマンの感覚的自然を超えた客観的自然(物体世界)の原子論、ケプラーのプラトン主義が推測される。
デカルトはパリに滞在中、キリスト教神学と接触し、知性に対する意志の意義が改めて自覚されるようになった。ここに含まれる伝統的な問題を見ると、まず、神そのものについて、知性と意志とのいずれを尊いと考えるかということがある。我々の精神のうちに真理を宿らせた神は、それ自身の知性のうちに真理の原型(イデア)をもっているが、この神的真理は、神の意志によっても左右されないものなのか、それとも神の意志が自由に定めたものなのか、ということである。プラトン主義からは、真理そのものは意志の裁定によらない独立性をもつと言わねばならないが、それではキリスト教の神も、ギリシアの神々のように運命の必然性に服することになるのではないか。こういうように神においても知性より意志が優位であるという考えは、オッカム主義と呼ばれた。デカルトはオランダ滞在の始めの時期に、オラトリオ修道会の神父や当時フランスの宗教界で問題化していたジャンセニウス派の考えに同感して、理性的真理の解釈で、理性的認識も神の自由な創造であるとするオッカム主義に近づいたことがある。『省察』で神が我々を欺くか欺かないか、ということが問題になっているが、これはこのオッカム主義の論点を取り上げているのである。
しかし、自由意志の問題は、もちろんもっと直接に、我々自身においても存在する。我々の自由意志の存在は、神の摂理(これが理性であるか意志決定であるかが、先に問題になった)との関係において、一つの驚異であり、奇跡である、と炉部屋のデカルトは書いた。「主は三つの驚異を行われた、すなわち無からの創造、自由意志、神人」。そして、この驚異をどう考えるかはアウグスティヌス以来の神学の大問題であった。我々の救いが、我々の自由意志に依存するのか神の摂理による決定(神の予定)にかかっているか、自力か他力かということであって、晩年のアウグスティヌスは他力の予定説を強調した。ルターやカルヴァンも予定説を強調する。それに反対して、デカルトが学んだ学院の教師たち、ジェズイットの神学者は、人間の意志の自由を救いに関して大幅に認めようとした。そしてカトリック内でも、このようなジェズイットの説に反対して、禁欲的教派であるジャンセニウス派(のちにパスカルが所属する)は、人間の意志の自由を抑えて神の予定と恩寵とを中心に考えた。
自由意志の主張とは、人間の意志が肯定と否定、ないし善と悪との、いずれをも選び得るという説であり、これに対し予定説とは、そのような選択の自由を否定して、ただ意志の自発的発動という形でのみ自由の存在を承認するものである。デカルトはオランダ滞在の初期には上述のように、真の自由は意志の選択の任意性にあるよりも、発動の自発性にあると考えていた。けれども、オランダにおいて、カルヴァン派神学者が予定説をもってデカルト哲学を攻撃するに至ったときには、デカルトは逆に選択意志の存在を主張したのである。
デカルトは『方法序説』の冒頭で「良識はこの世で最も公平に配分されている」と述べ、大切なことはその良識を正しく用いることにあるとし、そこで理性をよく導き、諸学において真理を求めるための方法を最初の問題にした。そのデカルトの方法とは演繹である。この演繹とは何よりも分析的方法である。彼はそれを数学から学んだ。数学の普遍的方法の学は秩序或いは度量を含む一切の事物に拡大されることによって、自然を機械的に見る数学的自然学を可能にする。また秩序立った認識の連鎖は認識を反省へと導き、諸学の統一を基礎付ける形而上学的原理の発見へと向かわせる。その方法を用いることによって我々の精神に明白になってくる対象に対し正しい判断を下すべき良識或いは理性が絶えず問題になる。人間の認識とは何であるか。またそれはどこまで及び得るか。そしてそのためには理性を以て十分なのか、という吟味は良識の当然の要求である。
そこで彼は、形而上学の絶対的始原を求める分析の手続きによって、自己の内外の感覚的世界の存在を体系的に否定し、また数学的真理も悪しき霊の存在を仮定するとき絶対的に真とは言えないとしてこれを斥ける。そして、この一切を疑うという誇張的懐疑の最中に、彼はその懐疑の根底に横たわる自己の存在、つまり、その疑っている「私は在る、私は存在する」という真理を発見する。この「私は疑う、ゆえに私は在る」という命題は、疑うことと、疑う私の存在とは別のものであるにも拘わらずその一方は必然的に他方を伴う。ところで懐疑は思惟の一様態であるから、思惟と思惟する私の存在とは各々もはや他のものへ分割できず、自ら明白に知られるべき単純本性としてなお区別され得るにしても、同様に両者は必然的結合を為している。また彼はこの思惟を感性及び悟性の区別を超えて意識一般として理解する。懐疑は想像や感覚の内容になお力を及ぼし得ても、想像意識、感覚意識という自己意識の直接的確実性の前では消えざるを得ないからである。かくして、彼は上の必然的結合の直観によって得られる「私は思惟する、ゆえに私は在る」なる命題を哲学の第一原理として立てた。この命題が「全て思惟するものは在る」という大前提を欠いた省略三段論法ではないかという指摘はデカルトの時代からあった。デカルトの拒否にもかかわらず直観説に与しない者は、直観の内容が明らかにされていないことをいう。
しかし、この自己意識はどの程度まで自己認識たり得るかを決定せねばならない。まず彼は、伝統的な物体論が感覚への素朴な信頼の上に立って、物体的自然を質的に規定しているのに対し、物体を延長と見なす。彼は蜜ろうの思考実験の分析から、その中には実体的形相というような隠れた力はないし、感覚的性質が実在的に宿って物体の性質を形成しているのでもないとした。物体の物体たるゆえんは、ただそれが延長をもつという量的・無機的規定を受けることによってのみであって、それ以外にはない。さらに認識という観点から見るに、延長そのものは感覚によっても想像力によっても捉えられない、ただ「精神の洞見」のみによって認識されるゆえに、そこに必然的に人間精神が開示され、「私はまさしく思惟するもの、すなわち精神、霊魂、悟性、理性である」ということが帰結されるとした。
このように彼は精神を、思惟する機能を付与せられた実体として理解した。実体とは存在するために自分自身の外何ものをも必要としないものであって、神のみが実体である。しかし、存在するために唯神の協力を要するのみで他のいかなる被造物からも独立している限り、精神と物体もまた実体概念のもとに理解される。従って、この精神的実体としての自己認識は、世界の中での自己の必然的な在り方、即ち「思惟するもの」として、「延長するもの」としての物体的実体から実在的に区別されるべき自己の存在を明らかにして、その認識の形而上学的確実性を目差すものに外ならない。
デカルトにおいて「私は在る」は「神は在る」とも必然的結合を為していた。彼における神の存在証明は、我々が無限の実体としての神の観念を有しているという事実に基いた自己の不完全性への反省と、神の完全性の理解という二つの契機に拠っている。彼は観念なる語に、その形相の直接的な知覚によって私がその同じ思惟自身を意識するところの各々の思惟の形相を理解した。従って、観念には、何らかの対象を表象するという場合と、その表象された対象に働きかけるという場合とがある。それは一面では思惟として意識現象であるが、他面では対象を志向する性格をもつという点で思惟そのものとは異なっている。私は世界に様々な事物の存在することをなお知らなくても、私がそれらの事物を思惟していることは知っている。全ての思惟の中心には知覚する同一の主体が常に存するのであるが、それらの思惟はまた私に様々な内容を提示する。従って、私の思惟においては、それがこのものの思惟となり或いはあのものの思惟となるように、その特殊性を規定するような何か或るものが認められる。この何か或るものがスコラ的に思惟の形相と呼ばれる。
かくして、観念は外的対象を志向し、我々にその影像を呈示する。この観念の外的対象に対するスコラ的・現象学的意味での志向的関係における観念を彼は観念の客観的実在性と呼ぶ。ところで観念はたとえ実在的であっても、それが客観的な存在、つまり我々の悟性に表象されているものである限り、もとの事物の存在よりも完全ではあり得ぬ。しかし、全ての存在には必ず原因があり、この原因の中にあるものはそれの結果の中にあるものよりも小さなものではありえない。かくして、あらゆる観念は自己の客観的実在性の実在的に存在する原因を有さねばならぬがゆえに、我々は究極の原因としての神の観念を得ることができる。しかるに、全てのものが原因をもつ以上神も原因をもつはずである。そして、彼はコギトから出発するのであるから、このように神の存在が自己原因であることを要請するような結果は思惟の内部に求められねばならない。ところで、私は思惟するものとして存在するが、その存在は思惟している限りのものであった。しかし私は実体であるから、或る永続性を有するものである。従って、私の思惟のこの実体的な永続性は、私によっては説明し切れぬ思惟内容、即ち神の観念の原因である神そのものによって担われねばならない。かくして、神は必然的に存在し、その自己自身によって存在する力によって私を連続的に新たに創造し、持続する個々の瞬間において保存するということを理解しなければならないのである。そして、我々の不完全性、完全な神への従属性がこのように思惟の実体そのものに規定されているがゆえに、神の観念は我々に生具していると言わねばならない。従ってまた、神を離れて思惟することは私の自由にならないのである。ここにおいて、神の存在に関するア・ポステリオリな証明はその存在論的証明に逢着する。それの最も端的な表現である「私は在る、ゆえに神は在る」なる直観は、神の存在証明が人間精神の本性の論証と一体を成すものであることを示しているのである。
かくして、神の存在が確証されると、その完全性に鑑みて神が欺瞞者であることは不可能であるから、既に一般的規則として立てられた、私が極めて明晰に判明に知覚するものは全て真である、ということはここに初めて必然的に真となる。我々は存在するものの相においてでなければ何ものをも把握し得ない。それゆえに、我々が何らかの観念を抱懐する限り、その観念はいかなるものであるか、またいかに解すべきかを知らずにはおれないはずであり、それゆえにまた、我々が神や物体の観念を有する限り、その存在へと目を向けねばならぬのである。
デカルトは観念の生具性を純粋悟性的に産出する能力の存在をしめすものとした。従って上述のように延長は純粋悟性によって知覚され、想像や感覚とのあらゆる関係から独立したものと考えられる。彼が延長のない形を判明に把握できなくとも形のない延長は判明に把握できるとするのもこのゆえである。しかし、このことは延長が分割されるという事実を否定するものではない。延長とは無際限に分割され得、その部分が我々に観察され得なくともなお想像され得るものなのである。それゆえ想像し得るということも延長の本質の一つである。
ここにおいて、類的に単一な物質と様々な形状に自由に分割されたその部分及びそれらの部分の場所的運動とによる、自然の全く機械的な説明が可能になる。世界にある一切の運動の原因は神であり、神の属性である不変性から運動量の恒存が導出され、個々の物体の運動法則として、いわゆる慣性の法則、直線運動の法則及び衝突の法則が導出され、これらは自然法則と呼ばれる。これらの法則に共通することは、目的論的原理を全く交えることなく、一切を場所的移動としての運動によって量的に考察することにある。かくして、自然学においてはこれらの幾何学的な基本法則に基いて宇宙の生成から物体の化学的特性、更には人体の生理に到るまで一切のものが機械的に説明されることになる。
彼は、延長的世界の個別化の原理やその仕組みを粒子説によって説明する。物体を構成する究極の微細な粒子として元素を想定し、その元素の形、大きさ、位置、運動の違いによってのみ各物体の輪郭が示され、その性質が構成される。自然現象や世界の構造もまたそれらによって機械的に説明される。そして世界全体はこれら微細な物質で隙間なく充たされており、空虚な空間(真空)は存在しない。空間も粒子で充ちている。
このように、デカルトの機械論的自然観は悟性と想像力との協働のもとに展開される。これは自然を思惟実体の精神と延長実体としての物体とに峻別するいわゆる物心二元論からの必然的帰結である。しかし、物体の存在は純粋数学や想像の対象である限り、なお可能的或いは蓋然的であるにすぎない。従って、上の自然観は自然に関する本質論であり、その限り明晰判明に理解され真なるものであるが、それはなお存在するものの相のもとに捉えねばならないのである。
精神と物体、確かに両者は実在的に区別されるが、それは二つの世界の区別ではあっても分断ではない。見る私と見られる物体とは同じ一つの経験的世界を共有しながら原理的に区別し得るというにすぎない。精神と物体はその意味で自然なつながりをもつ。
ところで、物体的自然の中には人間の身体も含まれる。人間精神は身体から実在的に区別されるが、それにもかかわらず、精神は身体と密接に結合して両者は一なるものを成している。しかし、精神はこのように身体の全身に結合されてはいても、脳実質の中央に位置して心の座とでも呼ばれるべき微小な腺(いわゆる松果腺)を介してとりわけ自己の機能をよく果たし、受け取る印象の多様性にも拘わらずその統一性を確保するのである。逆に言えば、精神が身体に働きかけるとき、精神は身体を各々の方向へ動かす自己の全体的努力をただ意識するだけである。従って、精神の働きは各々の運動への意志の傾きであり、他は腺運動を介した器官の配置に基く身体的運動があるのみである。かくして、心身の合一を考えることは、精神の中に先在する性向が身体器官の配置に対応するということを意味する。つまり、我々の精神が身体に向かうとき、その身体を介してもたらされる、その対象の形象が我々の精神の中にその形象に対応するような表象を呼び起こすのである。このことはまた、思惟そのものの中に留まる痕跡と脳髄の中に留まる痕跡とが各々精神及び身体の性向・配置として全く異質なものであるにも拘わらず、後者を介してのみ形象化され並置されるはずの様々な要素が、前者においては異なる深度を以て共存し得ることを示すものである。
かくして、精神は身体を介して外界に触れるとき、その表面的な心理生活が等質的で具体的な空間の中に繰り広げられることになる。それゆえに、そこに継起する感覚は等質的な記号を介して外界の実在を指示すると共に、心身の合一を理解する途は、ただ日常の生活と交際を用いることによってのみ拓かれるのである。またデカルトがこの心身合一の概念を思惟の延長という形式によって表現し、その限り純粋悟性的認識の対象となり得るものとしながら、他方、この概念は悟性だけによる場合にも想像力の助けを借りた悟性による場合にも漠然としか認知されず、感覚によってのみ明晰に認知される、と語るのもこのゆえである。
これは、翻って考えれば、感覚のもつ実践的機能を明らかにすることによって外界の事物の本質に関する感覚的認識の妥当性を斥けることを示すものに外ならない。感覚は外的事物が心身合一態としての全体としての私にとっていかなる価値を有するかを示す記号であって、感覚知覚をこのような関係として、すなわち感覚意識として捉える限りそれは明晰判明であるが、しかし、感覚がそれ自体において何であるかは全く認識され得ないのである。
かくして、外界の存在は感覚に拠り記号を介して指示され、延長を有するものとして明証的に認識されるのである。ここに心身合一なる概念が思惟の延長或いは物体的精神として、物体的事物の純粋悟性的認識の基礎と対象をなすものであることが明らかになる。思惟の延長とは精神が身体とのかかわりにおいて自己に生具の性向により対象化されたものに外ならない。即ち、自我の自己反省である。自我は対象化されて見る自我と見られる自我とに分裂する。そして、自己を反省する、対象化され得ぬ自我は普遍的自我として単に個別的瞬間的な現実を見るだけでなく、自然界の一切の現象を統括してみるのである。
ここにおいて我と物の対立は決定的となる。そして上のごとくデカルトの二元論が単純に、一方で我と物とを区別し他方でその結合を考える、といった図式で示され得ぬところに、理論的世界と実践的世界とを統括するデカルトの合理主義の最も顕著な姿が認められるのである。合理主義は唯一の原理から一切を演繹するという知性の統一性の主張である。デカルトはコギトの純粋思惟から出発するがゆえに、思惟と存在との一致においてのみ真理を認めた。そして、この一致が自我以外のものにも妥当すると考えたところに西欧的な合理主義の徹底化がみられる。即ち、「私が極めて明晰に判明に知覚するものは全て真である」という先の「一般的規則」がそれである。デカルトにとって、真理の確実な認識に到達し得る人間精神の全ての作用は「直観」と「演繹」だけであったが、後者は前者のいわば継起的複合であり、唯一の真なる直観に凝集されるべきものとされた。結局、人間の一切の認識の本質は「直観」である。ところで、直観とは純粋で注意深い精神の容易で判明な把握であって、必然的に単純なものにかかわる。単純な命題は自らにして現われるべきものであって探究され得るものではないからである。直観に要するこの「現前の明証」は事物の真理が提示される仕方の直接性そのものであり、それは同時に意識作用の単純性と不可分なのである。それゆえに、デカルトの真理概念は先ず上の「一般的規則」によって基礎づけられるのである。
次いでデカルトはこの規則を真と認めた上で神の存在証明に向かう。そして、神の存在の確認によって上の規則による対象一般の認識の確実性とその存在の帰結の妥当性とが保証される。ここに普遍的自我とそれの一切の対象との対立は神によって統一されるのである。しかも、その神はコギトから引き出されるがゆえに、上の保証がみごとに計られている。かくして、デカルトは「認識から存在への帰結は正しくない」というスコラの格率を転倒させて、「認識から存在への帰結は正しい」と述べることになるのである。
デカルトにおいて、心身の結合は厳密な意味で論証されるものではなく、むしろ生の事実として示されるものである。だが精神と身体との関係がはっきりしないということは、両者の二元論的分断を決して意味しない。そういう知的分析以前のところで我々はすでに心身が一体となった世界を生きているのである。
<パスカル>
ブレーズ・パスカル(1623~62)は、一応機械論もコギトも評価するがデカルトは神のことを考えていないという。パスカルは懐疑論のもつ矛盾にふれモンテニューのように理性の弱さを見極めて判断中止に甘んじようとしない。逆に彼は矛盾の事実において疑いから存在が明らかになることを暗示している。だが、その暗示はデカルトのように演繹によるものでも直観によるものでもなく、むしろ自然的直感による。しかし、この直感は自分自身の中で原理を自然に感知するということ以外何も確証をもたない。結局、信仰によらない限り確実性は得られないとするのがパスカルである。パスカルはデカルトと同じく人間が思考するという点に重要な意味を認めていることは、考えることにおいて人間の偉大さがあり、人間の価値と尊厳の全てがあるとする「考える葦」の断章からして明らかである。なぜ葦が弱いものの象徴として使われたかといえば、メシア預言、荊の冠と対をなす葦の杖、十字架上へ差し伸べられた葦の棒と、キリストの一生の大事な時点に三回も登場してくるところから「痛められた葦を折ることがない」(『マタイ伝』12-20)キリストを、「考える葦」の尊厳の守り手と考えてのことであろう。
デカルトの場合、思考は認識論的な概念にすぎなかった。パスカルは、考えることにおいて初めて人間は自分の置かれた状況に気づき、神を知り、人生の目的に目覚めるであろうという、道徳的傾斜の背景に強い宗教的要求があった。自然学の方法に対してはデカルトの演繹的推論よりも実験による証明を優位においた。
しかし、パスカルは「私はデカルトを許せない。彼は、世界を動き出させるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにいかなかった。それから先は、もう神に用はないのだ」(『パンセ』77)と批判する。だが、デカルトは世界が自然法則に従って動きかつ存続していることについても神の不断の協力が必要だという連続的創造説をとる。パスカルはそのことを知らぬはずはないのだが、にもかかわらず批判するのは、デカルトの考える神はひっきょう「哲学者の神」であって、彼の自然研究が愛と慰めの神であるキリスト者の神に結び付いてこないと見ているからだろう。
パスカルの父はデカルトと同じ法官貴族であった。パスカルは3歳の時母を亡くした。教育熱心な父は息子の非凡さを見て学校に入れず仕事も辞め財産も大部分パリ市債に替えその利子で暮らし息子の教育に専念した。
若きパスカルは幾何学的精神を駆使して彼を近代科学の最先端にまで押し上げた。だが、科学研究は世界のありさまを部分的に解明しても、無限な世界の究極に触れることもなければ世界全体の意味を問うこともない。その点で数学も、その深さにもかかわらず無益である。彼はこうした自覚を介して、かつてモンテニューがそうしたように「人間とは何か」という問いに答える為に人間の研究へ向かうのである。
パスカルはモンテニューに出会い、その外的権威や形式やごまかしに一切囚われない、事実に即した自由な思考に影響を受けた。またパスカルは、歴史やギリシア・ローマの古典の知識をモンテニューから学び、『パンセ』の前半にある聖書以外のラテン語の引用は大部分が『エセー』からのものであるくらいである。二人に共通する、現実の具体的な人間性の観察を通じての普遍的人間像を描写するという態度は、たとえ自分が構築した立派な理論でも、出来上がったものはそこで固定されてしまうが、精神は絶えず前進し続けることが可能であるから、人間の全てをもって人間の全部を直接探究することこそ最高の精神活動だとする、フランス文学特有の系列をなすモラリスト的な面からくるのである。
パスカルはカトリックの家に育ち、父から「信仰の対象となるものは、理性の対象とはなり得ない」と教えられた。この信仰と理性の完全な分離の習慣のおかげで、その旺盛な知的探究心を専ら宗教以外の方に向けられたのである。しかし、パスカルが23歳の時、王権に近いイエズス会と対立していたジャンセニウスを支柱にしたポール・ロワヤル運動に出会い回心をした。この対立は<デカルト>のところで述べたように、人間の原罪からの救済はキリストの贖罪の結果であり神の全くの恩恵であるが、その恩恵に与かるにあたっての人間側の努力にどの程度の意味を認めるかという昔からの大問題に絡む対立であった。すでに聖書の中でも、パウロはヨハネやことにヤコブに比べれば、人間の行いの無益を強調する方に傾いている。アウグスティヌスはパウロに近く、異端とされたペラギウスはヤコブよりもさらに自力を重んずるので非とされた。トマスはアウグスティヌスよりややヤコブに近く恩恵と自由意志との正統的調和を誇る。カルヴァンは徹底して恩恵絶対を唱え特定の人間が救われるか否かは世の始めから神のうちに予定されているとまでいう。そこでカトリックの正統からは、アウグスティヌスの線まではよいが、その外に出れば異端ということになる。反宗教改革のイエズス会はジャンセニウスからすればペラギウスの線までずれていると主張し、イエズス会はジャンセニウスをカルヴァンの線まではみ出していると主張し互いに異端呼ばわりしたのである。教皇も敵になって事態はポール・ロワヤル側にますます不利になり、そこで窮余の一策としてパスカルの筆の力を借りて世間を味方につけたのである。
キリスト者としてのパスカルは、権力者の支配する物質の世界の上に、学者の支配する精神の世界、さらにその上に、キリストの支配する愛の世界を設定した。「真理そのものではないが、真ではあるもの」が学者の世界であり、キリストに具現された愛こそが「実体的真理」なのである。
キルケゴールからガブリエル・マルセルに到るキリスト教実存主義の上流にパスカルがおり、さらに遡れば、旧約の『伝道の書』やヨブの叫びにまで到る。また18世紀のヴォルテールや、20世紀のヴァレリーもパスカルに影響された。
パスカルにとって無限と虚無の中間に位置する人間は、認識論的にもそのいずれをも究められない永遠の絶望の中にあり、なぜ世界が別の様にではなくこの様になっているのか、誰が一定の時間と空間とにおいて自分をそこへ置いたのか、自分は何をしにそこへ来たのか、死ねばどうなるのか、などの究極の問いについて全くの無知にさらされている悲惨さの中にある。悲惨と無知を慰めるために案出されたはずの気晴らしは、実は、悲惨の内の最大のものなのである。しかし、人間は自己の悲惨さを知り思考できる点で偉大さも持っている。そして人間における偉大さと悲惨さとの矛盾は神による救済において解決される。しかし、あらゆる神の存在証明は無益であるから、賭けによって神が在る方を自ら選び取るべきである。なぜならそれによって無限に幸福な無限な生が得られるからである。だが、賭けによる飛躍によってすぐに宗教の世界に達し得るわけではない。自らへりくだって心から神の感得を志向すべきである。心情による神の直感、そこにおいて神を知るという事態が成就する。その直感は幾何学的精神や繊細の精神とは別の次元に属する愛の秩序におけることである。そこにおいて初めて信仰が受け取られるのである。
ニコラ・マルブランシュ(1638~1715)もデカルトの機械論に全幅の賛意を示し、コギトについてもこれを認識の第一のものとして肯定している。ただ、その導出にデカルトのように懐疑ではなくスコラ的論理を用いた。「無はいかなる性質をも有しない。私は考える。ゆえに私は在る」とし、考えるという性質があるなら、その主体である私は無でなく存在するという、コギトの直観を形式論理によって言い当てたのである。だが、マルブランシュにとって重要であったのは、コギトより人間精神とは一体何であるかという、アウグスティヌス的な問題であった。デカルトの心身問題は理論的に未解決であったが、マルブランシュは心身の相互作用を引き起こしている真の原因は神であるとする。例えば腕を動かそうと欲する精神的意図と腕の動きとの間には直接の因果関係は全く見出されない。にもかかわらずそれらが連動しているのは、その精神的意欲が生ずる度毎にそれを、ゲーリンクス(1625~1669)と同じく、機会原因として、神が腕に身体的動きを与えているからであると捉える。逆に神は動物精気のある物理的動きが起こるのを機会に、精神に一定の知覚や情緒を生ぜしめる。このように精神と身体とを媒介してるのは神に他ならない。この説を採るならば、心身結合の秘密は神の意志の背後に隠れ、人間理性の及ばざるところとなる。彼らはデカルトの二元論を極端にまで推し進めたにすぎない。デカルトが精神と物体との統一を神の超越的媒介による強制的合成としたとすれば、彼らは率直に奇蹟とするのである。
ライプニッツがこの機会原因説を機械仕掛けの神であるとか、連続的奇蹟の導入であるとか批判するが、マルブランシュにとって地上における心身の相互作用とは、神の遠隔操作を受けているのではなく、それが本質的には神のイデアの内における出来事であるということなのである。
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