フィヒテ 『全知識学の基礎』 (2)

 第三根本命題
 フィヒテは、第三根本命題を、第一根本命題と第二根本命題とを対立させ、その間の矛盾を解決するという仕方で導出する。そして、第三根本命題は形式の側からは限定され、ただ内容の側からのみ無制約的だという。それは、この命題によって立てられる活動に対する課題は、先行する二つの命題によって端的に与えられるが、しかし、課題の解決はそうではない、ということを意味する。この解決は、無制約的に端的に理性の絶対命令によって生じる。
 さて、第一根本命題と第二根本命題とから、次の二つの推論が生じる。
 (1)非我が定立されている限り、自我は定立されていない。なぜなら、非我によって自我は全く廃棄されるから。しかるに、非我は自我の中に定立されている。なぜなら、非我は反立されているが、あらゆる反立は自我の同一性を前提し、この自我の中において定立がなされ、そして、定立されたものに対して反立がなされるのであるから。
 ゆえに、非我が自我の中に定立されている限り、自我は自我の中に定立されていない。
 (2)しかし、非我は、自我の中に(同一的意識の中に)自我が定立されており、これに向かって非我が反立され得る限りにおいてのみ、定立され得るのである。
 しかるに、非我は同一的意識の中に定立されるべきである。
 ゆえに、同一的意識の中に、非我が定立されるべき限り、自我もまた定立されていなければならない。
 明らかにこの二つの結論は矛盾する。そうすれば、当然、これの前提としての、かの二つの根本命題も矛盾し、それ自身を廃棄せねばならないことになる。
 しかるに、もし、その通りであるとすれば、意識の同一性、あるいは我々の知の絶対的基礎が廃棄されることになる。そこで、ここに新たな課題が生じなければならない。即ち、意識の同一性が廃棄されることなしに、先の推論が正しくあり得るように媒介するXを見出すことである。そして、これは端的に理性の絶対命令によって生じるのである。
 ではXとは何か。そもそも、対立は自我ないしその意識の同一性を基盤とするものであるから、Xも意識としての自我の内になければならない。このようにフィヒテは、非我の反立は自我、意識内のことであることを確認した上で、自我も非我も自我の根源的働きの産物であると同時に、意識すらも自我の第一の根源的働き、即ち自我の自己定立の産物であることを再確認する。そしてその上で、「いかにしてAとーA、存在と非存在、実在性と否定性は、それらが否定され廃棄されることなしに共に考えられるか」と問う。ここでフィヒテは対立項の関係を、相互に制限し合う関係以外にありえないとして確定した後で、対立項は自我の根源的働きの産物であるが故に、こうした制限作用はこの根源的働き(フィヒテはYと名づけている)に他ならないと考える。もとより制限とは、あるものの実在性の全面的否定ではなく、部分的否定である。従って、制限作用はあるかないかではなく、一部分ある、あるいは一部分ない、という可分性即ち量的可能性を示す。こうして対立者の媒介であるXこそこの可分性に他ならないことが明らかにされる。
 このようにYの働きによって「自我も非我も可分的に定立される」のであるが、このYの働きは反立の働きに後行するのでもない。換言すれば、前者は後者によって初めて可能とされるとして考察されることはできない、というのは、すでに証明されたように、Yの働きなしには、反立は自己自身を廃棄し、従って、不可能であろうからである。さらに、Yの働きは反立の働きに先行するのでもない。なぜなら、これはただ反立を可能ならしめるためにのみ企てられたのであり、可分者なしには可分性は無であるから。それゆえに、Yの働きは、直接反立活動の中にそしてこれと共に生じるというようなものである。「両者(Yの働きと反立)は一にして同一であり、ただ反省において区別されるにすぎない。かくして自我に非我が反立されるや否や、反立を受ける自我と反立される非我とは可分的に定立されるのである」。ここにフィヒテは「制限される自我」とそれに「反立される非我」と純粋能動性としての「絶対的自我」の関係を次のようにいう。「従って、自我は自我に非我が反立される限りにおいて、それ自身絶対的自我に反立されている」。むろん、ここでは非我は「制限される自我」に対して反立される「負量」(カントの概念でいうところの)であり、決して絶対的自我に対して反立されるのではない。これをカテゴリーとして見れば、規定あるいは限定、即ち制限性のカテゴリーである。制限性の内にはすでに量のカテゴリーが与えられている。というのは、或るものを制限するとは、その実在性を否定によって全く廃棄することではなく、部分的にのみ廃棄することであるから。従って制限という概念の内には、実在性および否定性の概念の他に、可分性、量の能力一般という概念も存在している。
 かくて第一根本命題で表わされた絶対的自我は「不可分」であるものの、第ニ根本命題において非我と対立する自我は「可分的」であり、その限り自我と非我とは不可分な自我の内で制限し合い、両立することができる。また可分的自我と可分的非我とは絶対的自我に反立している。
 フィヒテはここで三つの根本命題導出の歩みは尽くされたとして、第三根本命題を次のように導出する。
 「自我は自我の内で可分的自我に可分的非我を反立する」

 反立(Antithese)は、「互に同等とされたものにおいて、これらが反立的である徴表(Merkmal)を求める活動」であり、反立は何らかの綜合(Synthese)を前提にして行われる。従って、純粋な分析的判断は決して存在し得ないから、フィヒテは従来は分析と呼ばれていたものを、反立と呼んでいるのである。それに対して、綜合とは「反立者の内に、それらがその点においては同等であるような徴表を求める活動」とされる。このようにフィヒテにおいては、「反立は綜合なしには可能ではなく、綜合は反立なしには可能ではない」のであって、反立と綜合の両者は不可分に結びついているのである。両者は「反省」において区別されるにすぎない。
 ところで、反立の働きは第ニ根本命題が表現するものであるが、フィヒテは、この反立と綜合が依拠する論理的規則は第三根本命題であるという。とするならば、第ニ根本命題は第三根本命題に包摂される命題ということになる。そこにはどういうことがあるのか。フィヒテはその導出過程で「Aと非A、存在と非存在、実在性と否定性が、いかにしてそれらを廃棄することなしに、意識の同一性の中で一つに考えられ得るか」と問い、その解答として「二つの反対者相互の制限作用」である根源的働きYを導く。この根源的働きにおいて産出されるのが「可分性」(Teilbarkeit)である。この結果、この働きを通じて「自我も非我も可分的に定立される」ことになる。実は、第ニ根本命題である「非我の反立」は、可分的非我の可分的自我に対する反立として、ここにおいて初めて実在性を獲得することになるのである。ただしYの働きは反立の働きの後行するのでも、先行するのでもなく、むしろ、反立活動の中に、そしてこれと共に生じるのだと、フィヒテは語っていた。この意味は、絶対的自我の自己定立は、非我の反立と共になされるのであるが、それは直ちに「反立を受ける自我と反立される非我とが可分的に定立される」ことに他ならないということである。それを表わすのが第三根本命題、即ち「自我は自我において可分的自我に可分的非我を反立する」に他ならない。ここに第三根本命題は、自我の自己定立である第一根本命題の具体相を語っているというべきであろう。これが勝義の第三根本命題である。この根本命題が第ニ根本命題を包摂しているのは当然と言えよう。
 第三根本命題が「根本綜合」として、自我と非我とを綜合するものであることは言うまでもないが、しかし、それは単に第一根本命題の自我と第ニ根本命題の非我とを同一階型に並べて、互いに制限し合うように結合したものではない。第一根本命題の「絶対的自我に対して反立されては・・・非我は端的に無である。」からである。なぜなら、もし絶対的自我に非我を対立させるとしたら、絶対的自我の外に演繹不可能な絶対的なものを想定せねばならないからである。この点で、フィヒテは断固として、超越論的哲学の立場を貫いているのである。
 従って、自我に非我が反立されるためには、絶対的自我は自ら「下降」して、非我と同等なる「より低い概念」において、非我と対立するのではなければならない。このようにして初めて、「自我と非我とは、相互的可制限性の概念によって、同等とされ、反立されるとともに、両者自身が、可分的実体(Substanz)としての自我におけるあるもの(偶性Akzidenzen)であり、何ものもこれに同等でなく、何ものもこれに反立的でない、絶対的不可制限的主体としての自我によって定立されている」 即ち、「絶対的自我」の中において、自我と非我とが互いに制限し合う姿を、綜合の側面と反立の側面とから見ることができる。
 かくして、フィヒテにおいては、綜合は、相対立するものを止揚して、これを宥和する統一ではなく、むしろ、自らの反面に常に対立を保持している。相対立するものが、まさに対立という姿において結びつくことが、とりもなおさず綜合なのである。そこには対立の消滅する統一があるのではなく、むしろ対立のゆえの統一がある。フィヒテの無限の活動としての統一は、このようなものとして考えられなくてはならない。「我々は、かの根本命題の叙述において、それが表現する根源的活動、即ち、反立的なるものを第三者において結合する活動は、反立の活動なくしては可能ではなかったということ、また反立の活動は、同様に結合の活動なくしては可能ではなかったということ、それゆえに、両者は、実際は不可分離的に結び付けられており、ただ反省において区別され得るということを知った」。かくて、第三根本命題が「自我は自我の内で可分的自我に対し可分的非我を反立する」というとき、そこでは、「可分的自我」と「可分的非我」とを、「自我の中に」おいて反立せしめつつ綜合するところの「不可分的」なる「絶対的自我」が、常にその根底に考えられていることを忘れてはならない。絶対的自我の「不可分的」は言うまでもなく「可分的」を否定して、これを越えると共に、また、これを自らの「中に」あらしめるような構造をもっていなければならない。こうして、綜合と対立との究極根拠は絶対的自我である。「特定の仕方で反立をなし結合をなす必然性は、第三根本命題に直接基いており、また一般に結合をなす必然性は第一の、最高の、端的に無制約的な根本命題に基いている」
 しかし、第三根本命題と共に、全く新しい思想の層が始まる。即ち、抽象的・形式的な一般概念としての自我が、具体的・質料的な理性の総体性へと変化する。ここにおいて発出論的弁証法が始まり、知識学は超越論的な道から形而上学的な道へ移行する。従って、ここに、超越論的論理の類と例は、発出論的論理の全体と部分の関係に移行し、自我の下には、自我の中に置き換えられる。こうして経験的現実性が、弁証法的に詐取された、知の総体性という概念から、弁証法的技巧によって、呼び戻される。
 フィヒテは、これをカントの直観的悟性から得たと考えられる。もともと、直観的方法は、量的なるものの世界に対してのみ適用され得るとすれば、フィヒテが第三根本命題において、数学的類比をもって、量的可能性の概念を導入したのは適切であった。自我は全てを包摂する領域となり、特殊は、あたかも空間におけるように、全く自我の制限によって生じるのである。
 第三根本命題からも、一つの論理的法則が生まれる。自我および非我という特定の内容を捨象して、可分性という概念が対立したものを合一するその形式だけを残せば、論理学上の理由律が得られる。これは「Aは部分的に非Aであり、非Aは部分的にAである」という定式に表現される。理由は、あらゆる対立が自己の対立物と或る目印において等しい限り、関係の理由であり、あらゆる等しいものが、それと等しいものと或る目印において対立させられている限り、区別の理由である。
 
 この第三根本命題は以下の知識学の一切の内容(論理的自我と実践的自我)の基盤である。一切の自我と非我との論理的実践的諸関係は潜在的にはすでに第三根本命題に含まれており、そこから展開し出される。換言すれば、以下では論理的自我と実践的自我の基本的なあり方の根拠、さらにその根拠という風に次々と導出されていく。それはカントのカテゴリーの超越論的演繹で見られたような自己遡及的な根拠づけの方法を継承したものといえる。この方法は、第三根本命題において自我と非我とが結合されると共に区別されていたことに基いて、一方で互に異なったものにおいて共通点、「関係の理由」を求める「綜合的方法」と、他方で互に等しいものにおいて相違点、「区別の理由」を求める「分析的方法」ないし「反立的方法」である。その意味でここで「理由律」が基礎づけられている。しかも綜合は区別なしには、また区別は綜合なしにはあり得ず、互に他を前提し合っている。反省が綜合の内に或る「区別の理由」を見出すことによって区別を求め、その区別されたものにおいて新たな「関係の理由」を見出すことによって区別されたものを綜合し、その綜合の内に新たな「区別の理由」を見出すことによって綜合されたものを区別する・・・というようにして、弁証法的に進行する。当初理論的自我に関してこのような弁証法的な導出が徹底的に行われ、最後に「それ以上完全に結び付けられない対立物」に到り、そこから「実践的部門の領域へ移行する」。
 従って、その形式的特性に関して我々が『知識学の概念について』で認めたように、フィヒテの知識学において、確かに「自己自身によって規定された」第一根本命題をもとにした諸根本命題が、傘下の全ての派生的命題に対して「普遍的」な原理をなすと同時に、論理学を基礎づける「実在的」原理であることが了解されよう。

 第ニ部 理論的知識の基礎

 まず、第三根本命題「自我は自我の内で可分的自我に可分的非我を反立する」の中に、次の対立する命題が含まれている。
 (1-A) 「自我は非我を自我によって制約されたものとして定立する」
 (2-A) 「自我は自己自身を非我によって制約されたものとして定立する」
 (1-A)は、実践的自我、即ち自我の非我に対する能動的な働きかけを示すものであり、それによって実践的知識学を基礎づけ、(2-A)は、理論的自我、即ち非我からの受動的な触発を示し、それによって理論的知識学を基礎づける。しかも、本来、理性はただ実践的であり、実践能力が理論的能力を可能にするのであるが、しかし、反省においては、実践的命題の可思惟性は、理論的命題の可思惟性に基くために、たとえ、基礎づけの関係においては、実践的能力が先であっても、反省的進行にあたっては、理論的能力が先立たなくてはならない。言い換えれば、行為する自我によって制限さるべき非我は、最初はまだ存在していないから、それが理論的部分で果たして実在性を得るかどうかわかるまで、我々は待たねばならないからである。こうして、『基礎』においては、まず後者が第二部「理論的知識の基礎」で扱われる。

 [交互規定の総合]
 理論的知識学の基本的命題は、「自我は自己自身を非我によって制約されたものとして定立する」である。フィヒテはこの命題から出発して、一貫した方法で、まず、分析によってこの中に存する対立契機を見出し、これを総合する一層深い根拠へ遡る。そして、更に対立を見出して、これが総合的根拠を究めるというようにして進んでいき、ついに理論的自我の究極根拠である生産的構想力に到達する。そして、この経過の中で、一方においては自我の活動形式としての範疇を演繹し、他方においては、自我の深まりのそれぞれの段階に応じて、従来の哲学の諸立場を位置づけ、究極的立場としての知識学の根源性を示そうとする。
 さて、理論的知識学の基本的命題には、次の二つの命題が含まれている。
 (1-B) 「非我は(能動的に)自我を規定(限定)する」
 (2-B) 「自我は(絶対的活動によって)自己自身を規定(限定)する」
それ故、自我は規定されると同時に規定する。この矛盾は上述の根本命題、従って意識の統一を廃棄するおそれがあるので、我々は上の対立をその内に合一しているような一つの総合を見出さなければならない。この総合は、実在性と否定性との内に含まれている能動および受動の概念が、可分性という概念の内に和解を見出すことによって到達される。従って、この矛盾は第三根本命題における制約、ないし規定の関係によって解決され、区別されたニ命題が再び次のように総合される。
 「自我は部分的に自己を規定し、部分的に規定される」
 これは「交互規定による総合」と呼ばれる。即ち、自我と非我とが量的に交互に制約され、一方の量は、これに反立されたものの量によって定立され、また、その逆も行われる、という相互限定の関係である。言い換えれば、自我が自己の内に実在性の部分を定立するだけ、それだけ自我は非我の内に否定性の部分を定立し、そして、自我が非我の内に実在性の部分を定立するだけ、それだけ自我は自己の内に否定性の部分を定立するのである。
 明らかに、これは、先の第三根本命題の制約の概念を一層深め、具体化したものに他ならない。制約一般によっては単に量が確立されるだけであり、いかにして、及びどういう仕方でということは究明されない。それに対し、交互規定による総合では、自我と非我との交互的な交替が確立されるのである。これはカントの関係一般の範疇に照応する。しかもこれは以下の「因果性の総合」「実体性の総合」「独立的活動と交互的能動受動との総合」の全てを貫く論理となる。この交互規定において、全ての基底が単独にではなく、それと対立する規定との関係の内で捉えられるような関係の存在論が認められる。

 [因果性の総合]
 次に、(1-B)の「非我は自我を規定する」という命題が更に分析される。全ての実在性は活動的であるから、非我が能動的に自我を規定するということは、非我は自己の内に実在性をもっていることになり、また逆に第一根本命題から全ての実在性は自我にあり、非我にはないはずである。即ち、「非我は自我を規定する」という命題には次の対立する命題が含まれている。
 (1-C) 「非我は自己自身の内に実在性をもつ」
 (2-C) 「非我は自己自身の内に全く実在性をもたない」
 これらの両命題の矛盾はもはや交互規定の綜合によっては解決できない。これにおいては、実在性の絶対的総体を可分的として、これの部分を任意に廃棄することによって、自我と非我とに交互的にこれを定立するということは主張されたが、しかし、我々は、一体、いかにして自我の実在性から部分を廃棄し得るに到るか、は未だ触れられていない。この問題は交互規定そのものの可能性の根拠に関する問題であり、従って、我々は一層深く自我の根源へ迫らねばならない。
 そのためには、まず、先の命題における実在性の概念そのものにおけるニ犠牲の解決から始めなくてはならない。即ち、自我は自己を定立するものであり、これが本来の意味における「存在(Sein)」である。またそれは「能動性」であり、積極的な絶対的な実在性である。そして、この能動性の反対が「受動性」であり、積極的な絶対的な否定性である。だから非我の内に実在性があり自我の内で実在性が廃棄されているとすれば、自我には活動の反対、すなわち「受動性」があることになる。その点を踏まえて、(1-C)及び(2-C)の両命題は交互規定によって次のように総合される。
 「非我はそれ自体において実在性をもたないが、自我が受動的である限りにおいて実在性をもつ」
これは「因果性の総合」と呼ばれる。能動の帰せられるものが原因、即ち本源的実在、受動の帰せられるものが結果と呼ばれ、両者を結合して考える場合、因果作用と名づけられる。そしてこれはラインホルトにおける表象と客観との関係に照応する。

 [実体性の総合]
 これに対し、さらに(2-B)の「自我は自我自身を規定する」という命題が分析される。この命題には次の対立した命題が含まれている。
 (1-D) 「自我は規定するものである」
 (2-D) 「自我は規定されるものである」
 この両命題は、自我は、一にしてまさに同一の状態において、能動的であると同時に受動的であることを表わし、自我は能動性によって、その受動性を規定し、受動性によって、その能動性を規定する、また実在性と否定性を同時にもつ、ということを意味する。この自我自身における能動と受動の関係は、活動性即ち実在性の全体と部分の関係と捉え直される。即ち、自我の内にはまず、絶対的な量、絶対的な総体性としてのあらゆる実在が定立されており、この限りにおいて自我は最も大きな円に譬えられる。活動の一定量、即ち活動の最も大きな円の内にある一つの限定された範囲は、やはり実在であるが、活動の総体と較べると、総体の否定或は受動である。
 そこから相互規定によって、次のように総合される。
 「自我は自己の実在性の絶対的全体の内に含まれている全ての領域の下で、絶対的自発性によって特定の領域へ自己を定立する限りにおいて、そして、単にこの絶対的定立のみが反省され、領域の限界が捨象(抽象)される限りにおいて、自我は規定するものである。・・・自我はこの特定の領域の内に定立されているものとして観察され、そして特定の自発性が捨象される限りにおいて、規定されている」。
 求められていた媒介はこれによって見出されたのであって、それは「実体性の総合」と呼ばれ、ラインホルトにおける主観と表象の関係に照応するものである。自我は、一切の実在を包括する全円周と見られる限り、実体であり、この円周内の特定の範囲に定立される限り、偶有的である。実体なしに偶有は考えられない。なぜなら、我々が或る物を特定の実在と認識するには、それを前もって実在一般あるいは実体に関係させなければならないからである。実体はあらゆる変化の総括であり、偶有は変化する他のものと共に変化する特定のものである。本源的に存在する実体はただ一つ自我だけであって、この唯一の実体の内に一切の可能な偶有性、従って一切の可能な実在が定立されているのである。自我のみが絶対に無限であり、私が思う、私が行為する、はすでに一つの限定である。これを見れば、フィヒテの説はスピノザ主義であり、ただヤコービが名づけたように逆立ちした、観念論的スピノザ主義である。

 [独立的活動と交互的能動受動との総合]
 さて、上述のようにして、交互規定は因果性と実体性とへ具体化され、深められた。我々は、自我が同時に規定しかつ規定される根拠を求めて、これを交互規定によって、自我が自己の中へ特定の量の否定性を定立すると同時に自我は非我へ特定の量の実在性を定立し、またその逆も行われる、として解決した。そして、それでは、実在性はどこへ定立されるか、に関しては、因果性の総合によって、受動性を自我へ、それと等量の能動性を非我へ定立すべきである、と答え、最後に、いかにして自我の中へ受動性が定立され得るか、に関しては、実体性によって、自我における受動性は減少された能動性に他ならない、と答えた。かくて問題とその解決との徐々なる進展によって、自我の構造の深みが開示されるに到るのである。
 ところが、ここに一つの循環論が見出される。即ち、もともと、自我は能動性そのものであって、減少された能動性を定立することはできないから、このことが可能であるためには、非我の能動性が先行し、これが自我の能動性の一部を廃棄して、減少された能動性を定立せしめるのではなければならない。ところが、因果性の総合によれば、この非我の能動性は自我の受動性によって定立されなくてはならない。かくて、循環論は、「自我は非我へ能動性を定立することなしには、自己の中へ何らの受動性をも定立し得ない。しかし、自我は自己の中へ受動性を定立することなしには、非我の中へ何らの能動性をも定立し得ない」として示される。換言すれば、一方で因果性の総合は自我の受動性によって生じるが、それは実体性の総合における自我の一層少ない程度の活動によって可能になる。他方、実体性の総合における自我の一層少ない程度の活動は非我の活動によって、つまり因果性の総合によってしか可能ではない、という循環に陥るのである。こうして、自我は他方なくしては一方をなし得ない。自我は端的にはいずれをもなし得ない。そこで次のように言われなくてはならない。
 (1) 「自我は能動性を非我に定立する限りにおいて受動を定立するのでもなく、また、自我は受動性を自己の中へ定立する限りにおいて非我へ能動性を定立するのでもない。即ち、自我は一般に定立しない」
 しかし、上述の因果性の総合によれば、次のように言えるはずである。
 (2) 「自我は受動性を自己の中に定立すべきである。そして、その限り、非我へ能動性を定立すべきである。また、その逆が成立すべきである」
 そこでこの二つの命題が交互規定によって次のように総合される。
即ち、一面においては、自我は、非我へ能動性を定立する限り、自己の中へ受動性を一部分定立する、しかし、自我は、非我へ能動性を定立する限り、自己の中へ受動性を一部分定立しない。またその逆が成立する。それと同時に、他面において、自我は、自我の中へ能動性を定立する限り、非我へ受動性を一部分だけ定立し、それが自我の中へ能動性を定立する限り、非我へ能動性を一部分定立しない。
 つまり、自我の受動性と非我の能動性との交互規定は或る点では成立するが、別の点では成立しない。同様のことが、自我の能動性と非我の受動性との関係についても言える。かくして、自我の内に受動性を定立しない非我の能動性の部分と、非我の内に受動を定立しない自我の能動性の部分があることになり、それらが「独立的活動」と呼ばれる。他方、交互規定が成り立つ場面は「交互的能動受動」と呼ばれる。
 そして「独立的活動」と「交互的能動受動」との相互規定による総合が次のように認められる。
 (1-E) 「交互的能動受動によって独立的活動が規定される」
 (2-E) 「独立的活動によって交互的能動受動が規定される」
 (3-E) 「独立的活動と交互的能動受動の総合」
 
 [交互規定の実質(根拠)]
 交互的能動受動によって独立的活動が規定されるとは、交互的能動受動の可能性の根拠を求めて、独立的活動に到ることを意味する。ここでは交互規定の実質に関する関係根拠が問題になる。この関係根拠は、反省においては交互規定によって定立されはするが、交互規定及びこれを介して交替するものからは独立なものとして定立される。それは、交互規定の領域を自らの内に包摂するような領域(X)でなければならない。
 因果性の交互規定の場合、その関係根拠には「観念的根拠」と「実在的根拠」とがある。(1-E)の命題を因果性の総合に適用すれば、自我における受動性から、その根拠として、非我の能動性が推論される。この場合、前者は後者の観念的根拠である。観念的根拠は自我の受動性であるが、実在的根拠は非我の能動性であり、いわゆる物自体である。ただしその際非我の独立的活動の範囲は、自我の受動性の範囲に留まる。ともあれ、ここに「表象の説明」をめぐって、実在的根拠に依拠する「独断的実在論」と観念的根拠に依拠する「独断的観念論」とが対立し、「批判的観念論」が両者の総合を図ろうとする。だがこの問題は結局知識学の理論的部門では決着がつけられず、自我の自己限定を解明する実践的部門に持ち越されることになる。
 また、(1-E)の命題を実体性の交互規定に適用すれば、交替から独立な自我の活動として、行為するもしないも自由な、自我の絶対的活動が定立される。しかし、それは絶対的活動性一般ではなく、一つの交替の範囲内に留まる。

 [交互規定の形式]
 独立的活動によって交互的能動受動が規定されるとは、いかなる意味であるか。フィヒテはここで交替の実質と形式を区別する。上述の(1-E)の命題は交替の実質に関するもので、そこでは交替は起こっているものとして仮定され、その上で交替の項の可能根拠が問題とされた。それに対して、(2-E)の命題では交替の形式を問題とする。即ち、いかにして一般に交替が行われるかを問う。かかる交替の可能根拠が「移行」である。
 (2-E)の命題を因果性の総合に適用すれば、換言すれば、因果性における交互的能動受動は、交替からも交替項からも独立な「非定立による定立(奪取による付与)、あるいは移譲」という形式によって可能となるが、この働きは自我に帰する。つまり自我は自己の活動を非我に移譲することによって、非我と自我との因果的関係が生じる。
 (2-E)の命題を実体性の交互規定に適用すれば、換言すれば、自体性における交互的能動受動はそれから独立な「定立を介した非定立」即ち「疎外」という形式によって可能となるが、この働きも自我に帰する。つまり自我(構想力)は交替の一項Aを「絶対的全体」として定立すると、それを介して他項Bを「減少された活動」として定立し、疎外する。

 [独立的活動と交互的能動受動の相互規定とその実質と形式の総合]
 最後に(1-E)と(2-E)の両命題が総合される。詳しく言えば、(a)「独立的活動」における実質と形式との総合と、(b)「交互的能動受動」における実質と形式との総合との、(c)その両者の総合が、因果性の場合と実体性の場合において解明される。換言すれば、交互的能動受動と独立的活動が互に交錯的に規定されるとき、さらに、これの形式と実質とを区別すれば、次の三つの命題が同様に成立する。
 (a) 「交替の形式から独立なる能動性は、実質から独立なる能動性を規定し、またその逆が成立する。即ち、両者は相互に規定し合い、かつ総合的に合一されている」
 (b) 「交替の形式はその実質を制約し、またその逆が成立する。即ち、両者は相互に規定し合い、かつ総合的に合一されている。
 (c) 「総合的統一としての交替は総合的統一としての独立的活動を制約し、またその逆が成立する。即ち、両者は相互に規定し合い、それら自身総合的に合一されている」
 まず、このabcを一般的に明らかにして、因果性と実体性に適用しなくてはならない。
 我々は、ここで、全体の構造の把握をいっそう容易にし、生産的構想力の特性を明らかにするために、『基礎』の叙述の順序を、因果性と実体性の概念を軸にして、これに上のabcを織り込む方法と、abcを軸として、これに因果性と実体性を組み合わせる方法とを並べて記述することにした。

 因果性と実体性の概念を軸にした仕方

 [因果性の場合]
 (a)自我は上述のように実在性を非我へ移譲するが、このことは一方で自我が自己の活動を定立しないことによって、非我が活動すると言えるが(独断的観念論)、他方で非我が活動することによって自我が自己の活動を定立しないとも言える(独断的実在論)。これらを批判的観念論が総合しようとするが、ここではただ自我が「規定する作用であると同時に、規定されるものである」という事態を確定するに留まる。この事態が自我から発するか非我から発するかは、上述のごとく「無知」に甘んじざるを得ない。
 (b)因果関係にある一方(例えば結果)は他方(原因)が「消滅することによって生じる」が、それは一方と他方が「本質的に対立している」ことによるし、またその逆でもある。
 (c)自我と非我とが自我の移譲によって本質的に結ばれているが故に、一方と他方とは本質的に対立しつつ相互に廃棄しあう関係にあるが(量的観念論)、逆に一方と他方が対立していないと一方の非定立による他方の定立は出てこない(量的実在論)。そこから、結局、自我は一方を立てれば他方を立てられないという「関係」(主観と客観の関係)の内に立つものとして自己を定立する、つまり自己を有限化する限りでのみ、自我である(量的批判的観念論)。
 [実体性の場合] 
 (a)自我は行為するもしないも自由だが、Aを「全体性」として定立する場合、それによってBを除外する。しかしAは逆にBとの関係では「非全体性」として定立され得る。そこから無限定なAと無限定なBとを含む「高次の領域」、A+Bが立て得る。この二つの場合は相互に規定し合っている。一方で自我は或るものを除外し、それを客観として立てることを介して、定立一般という高次の領域が可能になる。他方で高次の領域を定立するので、自我はその内でAを立て、Bを除外し、それを客観として立て得る。
 (b)AがBを除外すると、Aが全体を満たす。Bが定立されAが除外されBと共に無限定な領域とされると、無限定なA+Bが全体を満たすのであった。だがむしろ真の全体性は、Aという「限定されたもの」とA+Bという「限定可能なもの」とが互いに限定されている「関係」そのものである。これが「実体」と呼ばれる。それはむしろ自己を限定して初めて、従って或る部分を客観として除外して初めて、限定との関連で、主観と客観の一切を含む全体として可能となる関係である。それ故、実体は「何か諸属性の担い手である、特殊な基体(Substrat)」ではなく、相互に排斥し交替する諸属性の「関係」に他ならない。
 (C)かくて、一方で主観と客観との対立物を総括する自我の活動(A+B)という条件の下に、排斥し合う交替項(A⇔B)の「遭遇(Zusammentreffen)」が生じる。他方で、交替項の遭遇という条件の下に自我の絶対的活動が成り立つ。それは、一言で言えば、「自我にとって障害が存する」という事態に他ならない。障害は、自我が外に向かった努力が自己の内へ追い返されたところに、障害として現れてくるし、逆に障害があって初めて自我の自己限定があり得る。
 この事態は自我と障害の両者の間に限界が認められることに他ならない。限界は両者に共通なものであり、そこで両者をまとめるものである。自我が限界を越えて外に向かう努力は無限性であるが、それはまさに限界づけによる限界を不可欠の前提としている。「無限性がなければ限界づけもなく、限界づけがなければ無限性もない。無限性と限界づけとは同一の総合的項(限界)において合一されている」。ただし、無限性と限界づけとが限界において合一されているのは、何か均衡状態という静的な状態としてあるのではない。無限性は常に自己の限界を越えていくものである。ただし、それが次の瞬間には再び新たな限界に突き当たるが。換言すれば、無限性と限界づけの対立構造が(それは形式的には常に同じであるが)、内容的にたえず代わって行き、進展していく。
 この運動は次のような自我の自己限定と自己超越という仕組みによって生じる。自我は障害による限界づけに抗して限界を乗り越えていくが、それは自我が自己を無限性と規定することである。つまり自己という言わば基体に、それから区別して無限の活動という述語を付けることになる。しかしその活動はあくまでも自我のそれであるはずだから、活動を自己という基体に帰属させると、この活動は限定されてしまい、もはや無限ではなくなってしまう。かくて活動はこの有限化された状態を再び新たに乗り越えていかねばならなくなる。フィヒテは言う。「自我が無限であることは、つまり、自我が自己を無限に定立することである。即ち、自我は自己を無限性という述語によって限定する。つまり、自我は自己自身を無限性の基体として自己自身(自我)を限界づけ、自己自身(基体)を自己の無限な活動(述語)から区別する(その両者はそれ自体においては同一物なのだが)。・・・この無限に進みゆく活動を自我は自己から区別するのだが、しかしこの活動は自我の活動でなければならない。この活動は自我に帰属させられるべきである。従って自我は分割も区別もされない唯一同一の活動の内で、同時にこの活動を再び自己の内に取り入れなければならない(A+BをAによって限定しなければならない)。しかし自我がこの活動を自己の内に取り入れるとなると、この活動は限定されてしまっており、従って無限ではない。けれどもこの活動は無限であるべきである。かくてこの活動は自我の外に定立されねばならない」。
 このように「自我が自己自身の内でまた自己自身となす交替」、つまり「自己自身との抗争の内に存し、それによって自己自身を再生産する」ものが、上述のように実体性の総合における独立的活動の部分とみなされたところの、「構想力」に他ならない。

 abcを軸にした仕方

 [(a)の場合]
 交替の形式から独立なる能動性は、実質から独立なる能動性を規定し、またその逆が成立する。そして、両方が総合的に合一される。交替の形式から独立なる能動性は、交替の一つの項から他の項への移行(2-E)である。実質から独立なる能動性は、交替を可能ならしめるものを両項の中へ定立する能動性X(1-E)である。
 (1)前者が後者を規定するとは、移行そのものが、それにおいて移行が行われる当のものXを基礎づけるということである。
 (2)後者が前者を規定するとは、それにおいて移行が行われる当のものが、活動としての移行を基礎づけるということである。
 (3)両者が総合的に合一されるとは、単なる移行によって、それにおいて移行が行われる当のものが、交替の両項の中へ定立されるということである。これらの項が交替項として定立されことによって、これらの項の間に直接に交替が行われるということである。ここでは、「移行は自己自身によって基礎づけられている」。それは「絶対的活動」であり、「絶対的移行」である。
 <因果性>
 上の(a)一般的解明をまず「因果性」に適用する。「因果性」においては、交替の形式から独立なる能動性は、「非定立による定立」「移譲」(2-E)であり、交替の実質から独立なる能動性は、非我の独立的活動である(1-E)。
 (1)前者によって後者が規定されるということは、非我の能動性が、自我の非定立によって、ただその限りにおいて定立されるということである。「非定立による定立なくしては、非我の能動性はない」。ここにおいては、非我の全ての実在性は、ただ、自我から移譲されたものであり。この立場は「独断的観念論」を基礎づける。
 (2)後者によって前者が規定されるとは、非我の独立的活動が移譲を可能ならしめるということである。「非我の能動性なくしては、非定立による定立はない」。ここにおいては、非我の独立的活動は、即ち物自体が前提されていなくては、移譲がなされない。この立場は「独断的実在論」を基礎づける。
 (3)両者が総合的に合一されるとは、両者が一にしてまさに同一であるということ、即ち、「自我が自己の中にあるものを定立しない」ということと、「自我が非我の中へあるものを定立する」ということとが同一であるという意味である。この立場は「観念論と実在論との中道(Mittelweg)」としての「批判的観念論(kritischer Idealismus)」である。
 さて、「自我が自己の中にあるものを定立しない」ということと、「自我が非我の中へあるものを定立する」ということとの同一性を、フィヒテは「間接的定立」と名づける。この総合が今までの総合より一歩深い構造を有することは明らかである。フィヒテは、非我はあるものを自我の中に定立しないという場合には、非我は自我に対して性質上反立されているとし、このような根拠を「実在根拠」と名づけ、これに対し、自我はあるものを自己の中に定立しないという場合には、量の上から自己に反立されているのであるとなし、かかる根拠を「観念根拠」と名づける。そして、実在根拠と観念根拠とが一にしてまさに同一であるという点に、今の総合の「より深い意味」があるということができる。これはカントの経験の可能の制約と対象の可能の制約とが同一であるという立場でもあろう。
 ただ、この立場は、「全交替の根拠そのものは何であるか」に関しては、これを「理論的知識学の限界の外」の問題として、無知に安んずるのである。それは、理論的知識学の根本命題が、「自我は、自己を制約されたものとして定立する」ということであり、理論の立場が本来、この命題の内部におけるのものである以上、当然でなくてはならない。そして、理論の限界を把握して、その領域を明らかにするところに、批判の批判たるゆえんも存するのである。
 <実体性>
 次に、上の(a)の一般的解明を「実体性」に適用する。「実体性」における形式の能動性は「定立による非定立」であり、それは、「あるものを、他のものを定立されたとして定立することによって、定立されぬとして定立する」ことである。重要なことは、ここでは「定立されぬ」ものは「滅却」されるのではなくて、単に「除外」されるだけであるということである。かくて、フィヒテはこれを、「限定され、満たされ、そして、その限り(その中に含まれたるものの)総体を所持する領域からの除外」として現わす。これに対し、実質の能動性は、「このような、限定された領域との両者を内に含む、より高い領域の定立」に他ならない。
 (1)形式の能動性が実質の能動性を限定するとは、あるものが絶対的総体から除外される限りにおいてのみ、より包括的な領域が定立されるということ、「除外なくしてはより包括的なる領域はない」ということを意味する。非我に対する自我の優位を示すこの立場は「質的観念論(qualitativer Idealismus)」と名づけられる。
 (2)逆に、実質の能動性が形式の能動性を限定するとは、より包括的なる領域が端的に定立されてあり、これによって初めて自我の活動として除外が可能となるということを意味する。ここでは、自我の自己定立は、「自我の中に存しない定立一般の根拠」によって限定されており、この立場は「質的実在論(qualitativer Realismus)」と称される。
 (3)両者が総合的に合一されるとは、自我の除外の活動によって、より包括的領域が可能となり、かつその逆が成り立ち、両者の一つが一方的に他を基礎づけるのではなくて、むしろ、「両者は自我の一にしてまさに同一の活動」であるということを意味する。つまり、それは観念根拠と実在根拠との同一ということであり、この立場は「批判的観念論(kritischer Idealismus)」に他ならない。

 [(b)の場合]
 交替の形式はその実質を限定し、またその逆が成立する。そして両方が総合的に合一される。交替の形式は交替項の「干渉(Eingreifen)であり、交替の実質は、交替項における、この干渉においておこるところの能動性と受動性である。これは「関係」と称される。
 (1)前者が後者を限定するとは、干渉が関係を限定するということであり、
 (2)逆に、後者が前者を限定するとは、関係が干渉を限定するということである。
 (3)最後に両者が総合的に合一されるとは、項の単なる関係によって、すでに項の干渉が定立されており、そして、項の干渉によって、同時に項の関係が定立されているということ、「項の干渉と項の関係とは一にしてまさに同一である」ことを意味する。
 これは「絶対的干渉」と称される。
 <因果性>
 上の(b)の一般的解明を、まず「因果性」へ適用する。これにおいては、交替の形式は「消滅による生起(Entstehen durch ein Vegehen)」であり、交替の実質は「本質的対在(Entgegensein)」である。
 (1)前者が後者を限定するとは、「交替項が相互に廃棄し合うがゆえに、またその限りにおいて、これらは本質的に反立されている」ということを意味する。
 (2)後者が前者を限定するとは、「本質的に反立されてあることが相互的廃棄を限定する」ということを意味する。
 (3)両者が総合的に合一されるとは、単なる対在から相互的廃棄が生じ、またこの逆が成立する。両者が、「一にしてまさに同一」なることに他ならない。
 <実体性>
 次に、(b)の一般的解明を「実体性」へ適用する。ここにおいては、交替の形式は「交替項が相互に除外し、除外される」ことである。即ち、「絶対的総体からの交替項の相互的除外」である。交替の実質は「総体そのものの可限定性」である。
 (1)前者が後者を限定するとは、相互的除外が総体を限定するということである。例えば、端的に定立されたAによってBが除外されるならば、その限りAが総体である。そして、Bが反省され、従って、Aが総体として考察されないならば、その限りA+Bが総体として限定されるべきである。ただ、この場合、いずれが総体であるかは、単に相対的であり、ただ「関係による」他に限定根拠はない。
 (2)後者が前者を限定するとは、総体の可限定性が相互的除外を限定するということである。限定されたものAか、限定され得べきものA+Bかのいずれかが絶対的総体であり、それによって、他方は絶対的総体ではない。従って、絶対的な除外されたるものである。ここには総体の絶対的限定根拠が存するのである。
 (3)両者が総合的に合一されるとは、総体限定の絶対的根拠と相対的根拠とは一にしてまさに同一であるべきである。関係が絶対的であるべきであるということである。即ち、AもA+Bも絶対的総体たるべきではなく、むしろA+Bによって限定されたAが絶対的総体でなくてはならない。「限定され得べきものは限定されたものによって、限定されたものは限定され得べきものによって、限定されるべきである」。ここから生じる統一が今求められている総体である。即ち、「総体の本質は関係の完全性に存する」。

 







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