フィヒテ 『自然法の基礎』 (2)

 第四節 第三定理
 人間は、自己の外になおも別の人間を想定し得るためには、自己自身が彼らと権利関係と呼ばれる特定の関係に立っている、と想定しなくてはならない。

 証明
 (1)主体はいまや、自分の内なるものについての究極根拠を自己の中に含むとして自己を措定し、また主体は他者もやはり、当人の内にこのように現れるものの究極根拠として措定した。主体は、自己をこうした他者から自己を区別することができなくてはならない。この区別は、主体の実働性の根拠がどの程度まで自己の内にあり、また自己の外にあるかを区別し得る場合に限って可能である。主体の行為は、形式面では他者の促しに応答するという他者の行為に制約されているが、質料の面からも、行為の領分が指定されているということで制約されている。しかし主体は、自分に指定されたこの領分の内で選択し(選択は、どれでも自分が選べるという可能性の概念把握であり、自己の自由と自立性を構成する。またこの領分では他者は無限定のままにしていたから選択できない)、自分の最も身近な、身体という境界規定を自分に与え、自己を絶対に自由な存在として、身体的行為とそれにまつわる事柄の唯一の根拠として自己を措定し、それによって他者から自己を全面的に切り離し、個体性として、自分の実働性を自分だけに帰することができるようになる。
 (2)主体は、自己を個体として、しかも一定の領分を通じて自由な個体として規定し、同時に、他者の個体を自己に対置し、別の領分を通じて規定する。『基礎』の第三原則によると、対置させられた自我と非我とを可分性の概念によって合一すれば、自我と非我という特定の内容が捨象され、対置されたものを可分性の概念によって合一するという単なる形式だけが残り、根拠律と呼ばれる論理的命題が得られる。対置されたものはいずれも、それに対置されたものと一つの徴表において等しく、等しいものはいずれも、それに等しいものと一つの徴表において対置される。このような徴表が根拠と呼ばれる。第一の場合は関係づけの根拠であり、第ニの場合は区別立ての根拠である。
 他者は対立する主体によって自由だと措定されているが、他者はその自由を自ら質料的に制限した。つまり、自分の形相的自由によって可能であるような諸々の行為の領分を、自分自身によって制限したのである。さらに、他者は促しによって、自分の自由を、目的の概念によって制限した。
 即ち、個体Aが個体Bを自由な存在者として認識することは、BがAを自由な者として扱う、つまり、Bが自分の自由をAの自由の概念によって制限することによって制約されている。だか、この扱い方は、Bに対してAが行為する仕方によって制約されている。逆に、Aが行為する仕方は、BがAに対して行為する仕方とBの認識とによって制約されている。そしてこのことは限りなく続く。従って、自由な存在者相互の関係は、知性と自由とを通じた交互実働の関係である。AとBとが相互に承認し合うのでなければ、どちらも相手を承認することはできない。また、両者とも相手を自由な存在者として扱うのでなければ、どちらも相手をそのように扱うことはできない。
 この相互承認の概念は、我々の法論全体がそれに基くところの重要な概念である。そこで次のような三段論法によって、一層判明なものにしよう。

 [大前提]:私は、ひとりの他人を人間として扱う限りで、彼に対して、私を人間であると認めるように要求できる。

 (1)この命題は、自分の良心の前で私を認めるような道徳的承認ではなく、また他の人間の前で私を認めるというような国家的承認でもなく、私と彼の意識とに従って、即ち共通の意識に従って、私を人間として認めるということである。更にこれは、私をして人間一般としての承認することでもなく、特定の個体Cが私を人間として承認したということである。
 (2)承認は概念把握ではなく、実際に感性界で行為することである。また、概念に反する行為だけはしないということではなく、概念にふさわしい仕方で行為し、実際にCと交互作用の関係に入るということである。
 (3)相手に対する実効的働きかけがなければ、互いの存在の表象すら持っているかどうか知ることはできない。

 [小前提]:しかし私は、全ての他人に対して、あらゆる可能な場合に亙って、私を人間として承認するよう要求しなくてはならない。

 (1)私がCとの対立において私を個体として、また人間として措定するのは、私が私に自由に選択した領分を排他的に帰すからであり、また私が彼にも同様に別な領分を帰すからである。しかしそれは、彼が彼の選択の際に、私のために或る領域を空けておいたからである。
 (2)しかし、個体Cは、私を蓋然的にでも承認していなくては私に対して行為できず、このことを私が措定しなければ、彼をそのように行為するものとして措定できない。だが、この二つの命題の間の結合は定言的である。つまり制約(彼を私が人間として承認したということ)が与えられるなら、制約されたものが必然的に想定されねばならない。そしてこの理論的整合性によって強要され、蓋然的承認は定言的承認になる。
 ここでは対立するものが合一されるということが起こっている。ただ今のところは、合一点は私の意識の中にある。 そして合一は、私が意識を持ち得るということによって制約されている。彼は彼で、私が彼を承認するための条件を充たしており、その条件を私の側でも充たすようにと指示する。そして、私は私の側から、彼を現実に承認し、私を定言的に承認するよう彼を拘束せよ、つまり、彼の承認に従って、彼を同様に扱うように私を拘束せよ、という条件を付け加える。我々二人は、我々の存在によって相互に結び付けられ、互に拘束されているわけである。相手が理性的であるなら、それにふさわしく振る舞うはずであり、相手をそれにふさわしい仕方で扱うはずだということが行為の基礎になる。その行為の実績によって、お互いの今後の振る舞いについて予想ないし期待を抱き合って振る舞わねばならない。
 (3)私は個体Cと実働的に相互関係をもたざるを得ないが、しかしCは、どのように措定されていようと、特定の感覚的存在者であると同時に人間でもあると措定されている。前者は感性的述語によって、後者は承認によって措定されている。二つの述語が合一されて初めて、彼は、私によって一般的に措定され、私にとって初めて認識の客体となる。それゆえ、ある行為が、一方では先行の行為の感性的述語と関連し、他方では彼が私を承認したことと関連し、この双方によって規定されている限りで、私はその行為を彼に関係づけられるのである。
 (4)私とCの間に妥当することは、私と私が交互作用の関係に入るどんな理性的個体との間にも妥当する。

 [結論]:私は私の自由を他人の自由の可能性の概念によって制限しなくてはならない。
 
 理性的存在者の間のいま演繹された関係、即ち、各人が自分の自由を他人の自由によって制限するという条件のもとで、各人が自分の自由を他人の自由の可能性の概念によって同様に制限する、という関係が権利ないし法の関係である。そして今確立した公式が権利の命題である。
 この関係は個体の概念から演繹されている。それゆえ、証明されるべきことが証明されたわけである。さらに、それに先だって個体の概念が自己意識の条件であることが証明されていた。従って、権利ないし法の概念そのものが自己意識の条件である。だから、この概念はア・プリオリに、つまり理性の純粋形式から、自我から演繹されているのである。

 系
 自己の中に権利の概念が現れないような人間はいない。そして、いかなる人間も孤立して存在することはできないのだから、権利概念の適用事例が必然的に現れる。
 演繹された権利の概念は人倫法則には何ら関わりをもたずに演繹された。しかも、権利概念の演繹はただ一つしか可能でないのだから、その概念にはすでに、それが人倫法則からは演繹できないことの事実上の証明が含まれている。
 カントは『人倫の形而上学』で、法と道徳の区別を立法における動因の違いから説明する。ある行為を義務とし、同時にそれを動因にするような立法は道徳的であるのに対し、義務観念以外の他の動因をも許す立法は法理的である。しかし、フィヒテはここで別な仕方でそれを区別する。法則の形式からすると、人倫の法則は当為を命ずるが、権利法則は、自分の権利を行使してもよいと許可するだけである。妥当様式からしても、人倫法則は端的に例外なしであるが、権利法則は、この国家に居たければ、というような条件つきである。また、人倫法則が関わるのは、自分の在り方を自分だけで決定するという絶対的自立性であるのに対し、権利の概念は感覚界に現れるものだけに関わり、他者との共存という目的のために要求される。
 人倫法則が権利概念に新しい認可を与えるかどうかは、自然法論に属する問いではない。自然法の領域ではカント的な意味での善意志は問題にならない。いかなる人間も善意志を持たないという場合でも、法は強制されねばならない。
 交互実働の関係は、感覚界で自分の自由を発現することによってのみ生じるから、心の中に留まるものは、法の領域ではない。
 フィヒテ以前の社会契約論では、自然状態にあって人間は個体としてすでにできあがってると、独断的に仮定されていた。しかしフィヒテにとっては、人間は共同関係においてのみ、現実的な個体となる。そしてこの共同性は、各人の自由による自由の制限なしには成り立たない。また、ホッブスが平和と社会状態を実現するために自然法による自然権(自由)の制限を唱え、自由と自然法の対立を強調するのに対し、フィヒテは、自由を実現するために自由によって自由を拘束する、という考え方をとる。

 第二部 権利概念の適用可能性の演繹

 第五節 第四定理 

 人間は、自己の実働的個体として措定することができるためには、自己に物質的身体を帰属させ、これによって当の実働的個体を規定するのでなくてはならない。

 証明
 人間は自己を理性的な個体(人格)として措定するが、それは、人間が自己に自分の自由のための領分を排他的に帰属させることによってである。他のいかなる人格も、この人格だけに割り当てられた領分で選択することはできない。これが人格の個体的性格を構成する。この証明は、相互承認の行為を分析し、その行為によって何が起こるかを見ることで果たされ得る。
 (1)主体は主語であり、領分は述語である。主語と述語は常に反措定されている。しかるに、主体はその領分を自己に帰属させ、この領分によって自己を規定する。この主体とは、まず単なる自我性である。それに対し、排他的な領分が反措定される。主体はそうやって自己を限局することで実質的自我もしくは人格を得る。領分が反措定されるとは、その領分は自己内還帰する活動によって現存しないとして措定されるわけで、それは自我から独立した世界に属するということである。
 (2)この領域は自我の根源的で必然的な活動によって措定される。即ち、それは直観され、そのことによって実質的なものとなる。この直観は、常識的意味ではなく、超越論的意味である。この直観する働きそのものによって、自我(理性)は自己自身へ還帰し、直観と直観されるものとを同時に与える。
 さらに、自己自身を活動として直観する自我は、その活動を、内的にあちこちと運動し、一から他へと迅速に移るような、線を引く(Linienziehen)働きとして直観する。この線は知識学において根源的で純粋な拡がりであり、時間と空間に共通なものであり、時間と空間はこの拡がりから初めて成立する。なお、空間中の線は、つまり空間の中に拡がっているものの境界は、この根源的な線とは全く別のものである。領分の産出も線の中で行われ、それによって拡がりのあるものになるのである。カントが空間と時間を予め前提したのに対し、フィヒテは、時空が直観形式であることは認めるが、時空を自我の活動から導出する。
 (3)この領分は規定されたものであるから、産出作用は限界があり、産物は悟性の中で完結した全体として把握される。人格はこの産物によって規定される。こうして領分は、空間中に拡がってその空間を占める制限された物体として措定される。
 (4)この物体は、人格のあらゆる可能な自由な行為の圏域として措定される。人格が自由であるとは、人格が目的の概念の構想のみによって、この概念に対応する客体の原因になる、人格はその意志そのものによってのみ原因になるということである。というのは、目的の概念を構想するとは欲するという意味だからである。よって人格は、欲しているものをその物体の内に産出せねばならない。また、物体は、自由な行為の領分そのものであるから、この物体と領分の両概念は互に汲み尽し合う。人格はこの物体の中以外では、意志によって直接的に実働する原因ではありえない。だから、その物体の所与の変化から、その変化に対応する人格の特定の概念を推論し得る。
 (5)それでは、物体はどのような仕方で、中断もしないで持続しつつ、それでいて、予期される通りに不断に変化し得るか。即ち、物質とは無限に可分的なものであり、多様なものである。多様なものの相互関係とは形式であるが、物体の諸部分が形式を構成する限りで同一でなくてはならないのに対し、形式そのものは変化可能である。だから、概念によって直接的には、諸部分間の運動、つまり形式の変化が発生する。即ち、物体において人格の実働性の概念は、諸部分相互の位置の変化を通じて表現される。この関係において個々の部分として考えられるものは、分肢である。また、個々の分肢が運動している場合、この運動する分肢との関係でその全体であるものは静止している。同様に、この運動する分肢との関係でその部分であるものも静止している。つまり、それは何ら固有の運動をしないが、それの目下の全体にあたる分肢との共通の運動はする。物体のこうした性状は分節と呼ばれる。演繹された物体は必然的に分節しており、またそうしたものとして措定されねばならない。
 我々はそうした物体の持続性と同一性に、人格の持続性と同一性を結び付ける。またそうした物体を、完結して分節した全体として措定し、この物体の中に我々を直接的に我々の意志による原因として措定する。こうした物体こそ、我々の身体と呼ばれるものである。

 第六節 第五定理 

人格は、自己に身体を帰属できるには、その身体を他人の人格の影響を受けると措定し、またこの影響によってその身体を更に立ち入って規定しなければならない。

 証明
 (1)第二定理によると、人格は、自分に対する実効的働きかけ(促し)を措定しなければ、自己を意識的に措定できない。促しは、特定の人格、個体に起こる。人間は人間一般としてではなく、個体としてしか措定できないからである。
 人間に対して実働がなされるということは、人間の活動が部分的に廃棄されるという意味であり、この廃棄によって初めて、知性に対して一つの客体が成立する。従って、人間の包括的領分である身体の内なる能力も制止されねばならない。即ち、身体は実効的働きかけを受けねばならない。
 ところで人格は起こっている実効的働きかけを自分自身に関係づけるべきである。人格は、一時的に廃棄された活動を、可能な活動の一部として措定すべきである。こうして意識が可能であるためには、人格の特定の活動が廃棄されていると同時に廃棄されない。
 (2)人格の活動は全て、分節された身体の一定の規定である。それゆえ、人格の或る活動が制止されていることは、分節された身体の一定の規定が不可能であるという意味である。しかし、(1)により、人格は不可能であるとされるまさにその規定を、不可能であるべきがゆえに、可能であるとして措定しなければならない。そして実際に措定しなければいかなるものも措定し得ないのだから、その規定を現実に産出しなければならない。とはいえこの活動は、廃棄されたとして措定するために産出する。
 また人格は、分節の所与の規定を、それが廃棄されているというときですら、意志によって回復し得るから、このときにおいて、自分の身体を全体的に帰属させるべきである。
 身体が人格に帰せられている場合、人格のあらゆる活動は分節された身体の一定の規定、即ち器官であるが、この分節(器官)は、他人からの促しの影響が私の意志によって変様されるか否かによって、変容される器官(高次の器官)、されない器官(低次の器官)と二重の仕方で規定され措定される。
 促しの知覚が成立するためには、人格はその実効的働きかけ(促し)を甘受し、それに身を委ね、自分の器官にもたらされる変様を廃棄してはならないが、同時に人格はその器官の変様を、自分の内面で低次の器官に影響を与えないような仕方で、自由に模写、模倣しなければならない。さもなければ、分節された身体の同じ規定が、知覚された規定としてだけでなく、産出された規定として、他人の実働性によって生じたのではなく、当の主体固有の実働性によって生じたものとして、存在することになってしまうからである。まず促しが甘受され、その後客体の形態が内的に模写され、その輪郭が活動的に描き出されねば、およそ見ることなどできない。発話において音声を産み出す器官と同じ器官によってその同じ音声を内面で模倣せねば、およそ聞くことはできない。ただこの内的原因性が外的器官にまで及んでしまうと、しゃべることになってしまい、聞くことにはならない。
 このように規定された人間の分節された身体とは、明らかに感官である。
こうして、低次の器官が、身体がその外部の客体や他人と初めて関係するゆえんのものであり、他人の影響に服することがあり得るが、高次の器官は決して影響を受けず、人格の自由に依存しているのである。
 (3)人間は、主体の自由をこのように前提することによって自由を促しの様式に制限した限りにおいてのみ、人間であるが、それでも、要求された推論が可能であるべきならば、反対の仕方で促された場合でも成立しなければ、主体の自己制限の根拠など到底想定しえない。
 反対の仕方とは、それを受け入れるか否かがもっぱら私の意志の自由に依存している促しの反対、即ち、受容が私の意志の自由に左右されない促しのことである。こういう促しはいかにして可能であろうか。
 それは、少なくとも高次の器官の媒介によって直接的に廃棄されてはならないから、私の身体はその形式によって拘束され、動作の点で全面的に制止されねばならない。そうすれば、、こうした全面的制止からそれに対する反省も形相面ではなく、質料の面から必然的に帰結するだろう。それは意志の自由の自己制限ではない、強制を感じることであって、そういう制止の条件として、私の外部に、私の身体の自由な運動に抵抗するような堅い物質を措定しなくてはならない。
 堅い物質は、私の自由の全部を制止するわけではない。もしそうなら、人格の自由は根絶され、感覚界に対しても私は死せるものとなってしまう。だから私は、私の身体の残りの部分の自由な活動によって、強制を除去でき得るのでなくてはならず、身体は技能によって間接的に抵抗する物理的力をもたねばならない。しかしそうなると、それを発揮する器官は、それ自身堅くて丈夫な物質から合成されていなければならない。だがそれによって、この器官の外部のこうした物質に対し自由意志は優越することになり、堅い物質は機械的法則にだけ従って働くものに成り下がる。
 私の身体がそういう堅い物質から成り立つなら、他人も同じ物質から成り、同じ力を持つことになる。仮に他人が私を単に物質としてしか見なさないなら、私が単なる物質と見なすもの全てに対して実効的に働きかけるのと同じ仕方で、彼は私に働きかけたことであろう。しかし、今までの証明でわかるように、他人はこのように実働したわけではない。私について単なる物質という概念をもっていたわけではなく、人間(理性的存在者)という概念をもっており、この概念によって自分の自由を制限したのである。こうして今や初めて、推論は完全に正当化され、必然的となっている。即ち、私に対する実効的働きかけの原因は人間という原因以外ではない。
 これによって人間どうしの交互作用の基準が確立されたことになる。
 (4)身体が物質的なものであるから、器官も物質的なものであり、外なる物質によって必然的に変様されており、一定の形態を維持している。主体の意志はこうした形態を廃棄するかもしれないから、この意志を押しとどめなければならない。それゆえ、この形態を産み出した物質は、単なる意志でその諸部分を切り離すことのできるような堅い物質ではなく、より細やかでより微細な物質(動物精気)である。こうした微細な物質が、感覚界において要請される促しの条件として、必然的に措定されねばならない。また、私は単なる意志によって、低次の器官による高次の器官の触発を媒介として、この一層微細な物質に対して促し返す能力をもつ。なぜなら、高次の器官の中に産出された規定を破壊しないため、またこれと直接結合しているより微細な物質に別の規定を与えるために、私は低次の器官のこうした運動を押しとどめなければならないからである。こうして、その一層微細な物質は、私にとって、単なる意志によって変様可能なものである。
 高次の器官とは、より微細な物質によって変様されるものであり、低次の器官とは、力づくでしか分離されない堅い物質によって制止させられ得るものである。そして、このように規定することによって、身体が使用されるケースに、第一に、高次の感官として使用される場合、第二に、道具として使用される場合がある。
 第一のケースとは、或る人格が他の人格に促されている場合は、高次の器官が、より微細な物質の特定の形式によって、その一部分を変様されながらもその形態を維持する、そしてその上で、人格が、これに関係する限りでの低次の器官の運動を押しとどめつつ、その高次の器官の一部分において、この所与の特定の変様を自ら産み出す、つまりその特定の運動を内的に模倣する場合である。これが高次の感官としての身体使用である。このような高次の感官とは、先の二重の器官呈示の際に確認した例示から、五感の内特に視覚と聴覚が想定される。因みに高次の感官に対して、低次の器官の運動が制止されて、人格が抵抗を感じたときに、身体は低次の感官として使われている。このような低次の感官とは、五感の内の触覚であろう。
 第二のケースとは、人格の意志によって、高次の器官に変様がもたらされ、さらに、その意志に低次の器官が合目的的に動かされるべきだという意志が伴っている場合に、低次の器官が、制止されず意図された通りに運動を起こす、またその運動から人格の目的に応じて、意図された通りに物質の変様が結果するという場合である。これが道具としての身体使用である。
 低次の器官の運動が意図された通りに起こらない(高次の器官の運動は、当人が生きている限りいつも起こる)場合には、それは制止されており、抵抗が感じられる。その時には身体は低次の感官として使われている。人間が人間として交互実働することは、常に高次の感官を媒介にして生じる。
 (5)ここで新たな論難が現れる。これに答えた後で人間の身体が完全に規定されたことになる。それは、これまでの議論では、私は他人の促しに従うのでなければ、自己意識に達しえないが、そうなると、私の他人への自由な促し返しの発現の可能性も、他人の促しが起こるか否かに依存することになってしまう。私は単に能力の面からではなく、現実によって理性的存在者へと初めて作られるから、他人の促しが起こらなかったら、私は決して現実に理性的になることはなかったであろう。それゆえ、私の理性性は、他人の恣意に依存していることになる。
 この問題に答えるためには、他人は既にその根源的な促しにおいて、私を理性的存在者(人間)として扱うようにと、人間としての整合性によって拘束されており、しかも私によってそのように強要されているのである、言い換えると、他人は既にその根源的促しにおいて、同時に私に依存してもいるのであり、このような関係こそが理性的存在者間の交互実働である、と前提するより他はない。従って、私は、促しに先立って(もちろん私は私を措定していないから)決して自我ではない(なぜなら、私自身の措定はなんといってもこの促しによって制約され、この促しによってのみ可能だから)が、しかしそれでも、私は実働すべきである、私は実働することなしに実働すべきである、ということになる。
 実働なしに実働するとは、活動なしに実働するということであり、それは単なる能力を意味する。しかし能力という観念的概念に実働性、つまり実在性という述語を帰するのは、空疎な思想である。ところで感覚界における人格の全能力は、いうまでもなくその身体の概念において、現実化されている。それゆえ、私が身体によって実働せずとも、私の身体の方は実働し、活動的であらねばならない。それは、身体が単に空間中に現存在することによって、またその形態によって、実働することを意味する。それはどのようにして可能か。
 上述のように、より微細な物質は高次の器官そのものの運動によって変様されることによって、理性的存在者相互の交互的な促しの手段になると想定されているが、しかし今の場合には、人間の身体は、その静止状態において促しを産むべきであるので、人間相互間の交互実働の媒体であるより微細な物質は、単なる静止形態において変様され、これに従って他の可能な理性的存在者の高次の感官を変様する、というように措定されていなければならないことになる。それゆえに、以前に想定された微細な物質が、更に規定づけられねばならない。
 一方で、微細な物質は、人格がそれを揺り動かすことができる場面を含めて考察すれば、そのような場面として我々は発話の例を示し得る。このような物質とは空気である。他方で、微細な物質は、このような物質性格とは区別されて、我々の器官にとって変様不能なものでなければならず、空気が振動しても不動で揺るぎないものであって、さらに我々の姿がそこに刻印される物質は光である。従って、私の外なる人格が私に向かって実働するならば、私の身体は彼にとって見ることができ、光という媒体を通じて彼に現象するのでなければならないし、また現象していなければならないのである。
 この場合に、私が理性的存在者であると前提しなければ、彼には理解したり概念的に把握したりすることがおよそできないものであるはずであるから、彼に対して私の身体が、私の人格を感覚界で代理するものであると見なさねばならないと、必然的に要求することが、いかにして可能かという問題が生じる。
 我々が或る現象を概念的に把握したといえるのは、認識の完全な全体、つまり、その全ての部分に関してそれ自体の内で基礎づけられているような全体を獲得する場合であり、個々のものが全てのものによって、すべてのものが個々のものによって基礎づけられたり説明されたりする場合である。説明途上にある場合、考えがいまだ動揺して固まっていない場合、我々は依然として認識の或る部分から他の部分へと駆り立てられる。それゆえ、私は或る現象を一定の仕方でしか理解できない、ということは、私はその現象の個々の部分によってたえず或る一定の点へと駆り立てられる、という意味である。そして、こうした点に達して初めて、私は自分の集積作業を秩序づけ、集積されたものを認識の全体へと総括することができるのである。それゆえ、私は或る人間的身体の現象を、それが理性的存在者の身体であると想定することによってしか概念把握し得ない、ということは、私は、その諸部分を集積する際、それを理性的存在者の身体として考えざるを得なくなるような点に達するまでは止まることはできない、という意味である。我々はこの発生的証明を厳密に行うべきである。その主要契機だけでも挙げておきたい。
 まず、人間の身体はなによりも、ひとつの全体として、有機的に組織された自然産物である。自然産物にあっては個々の各部分はその内的力によって自己自身を産み出し、こうして全部分が全体を産み出すが、このことによって自己を維持する。とはいえ、これだけでは動物との区別が明らかでなく、その点を示さねばならない。有機的組織の産物として、分節は動物にも人間にも帰属される性状である。動物の分節化については、限定された自由運動という概念において完全に総括し得る。動物の分節はその随意運動に限定づけられている。ところが人間の身体はこの概念によって把握され得るものではない。人間の分節は、無限に亙って考えられ得る運動を示唆するはずだからである。つまり、人間は、自己の身体を完成されたものとしてそのまま受容しているのではなく、自らそれを自己形成する。人間に在るものは、分節の規定性ではなく、もっぱら無限に亙る規定可能性である。それは身体の形成ではなく、形成適合性にすぎない。人間はそれであるべきものに成らねばならない。しかも、人間は何といっても対自的存在者であるべきなのであるから、自己自身によってそう成らねばならない。人間は、自らの身体を自分にとって自由な領域として扱うのであり、人間の身体を完全に規定するためには、その一定の必然的性状を示すだけでは不十分なのである。人間身体の形成適合能力、即ちその一定の自己形成が確認されなければ、人間は自由な存在者としての自己を完全には自覚し得ない。人間性の特徴は形成適合性そのものである。即ち、人間の姿には自分自身の概念以外のいかなる概念をもあてがうことができない、という不可能性によって、どんな人間も、他人を自分と同類のものと見なすよう、内的に強いられているのである。それでは、形成適合性という人間の特性に基くこのような不可能性は、人間の身体のどこに最も顕著に現れるのであろうか。
 
 系
 カントは人格を目的として扱い、決して手段として扱ってはならない、と説く。人格の特徴は理性性もしくは自由であるが、『純粋理性批判』の二律背反において、現象世界内に自由があるかどうかは決定できないとした。それならば、我々が他の人格と出会うのは現象界の中においてなのだから、現象界で出会われるものが理性ないし自由を具えているということどのように判定できるのかという、他我認識の問題の解決が実践的に重要となってくる。だから、カントの定言命法は、どのような特定の客体が理性的存在者かという問いに答えられない限り、適用されないし、実在性をもたない。
 人間はそもそも、他の人間の自由な援助がなければ、生まれて間もなく死んでしまう。そういう人間の動物としての不完全さが要請するところの交互伝達こそ、その問いの答えであることを立証する。人間は無力に生まれついたものを、擁護し、教育することによって、自己自身を類として維持する。こうして理性は自己自身を産出する。
 人間において最初の最も重要な器官は、皮膚の前面に拡がる触覚器官であろう。これは身体がその外部の客体と初めて関係するゆえんとなるものだからである。しかし、こうして形成適合性や交互伝達といった人間性の特徴に着目すれば、既に形成された人間を最も特徴づけるのは、眼と口を具えた表情豊かな顔であるといえる。顔は、我々が自然の手から抜け出る当初は、やわらかい塊であり未完成なものであるが、人間は、自らの形成適合力によって、これを形成していくのである。だから、他人に対して私が、その身体を、私の人格を感覚界で代理するものとして主張し得るのは、特にその顔においてであるといえる。そしてこのことで同時に、この顔において身体論と他者論との必然的連関が示される。人間にとって、人間の姿は、必然的に神聖不可侵である。

 第七節 確立された諸命題によって権利概念の適用が可能となっていることの証明

 (1)人格は人格として絶対に自由であり、自分の意志にだけ依存するが、また、互に影響し合うものでもある。いかにして自由な存在者同士の共同性が可能か。これが法学の根底にある課題である。
 これまで我々はこの可能性の外的な諸制約を挙げ示してきた。我々は、こうした前提に立った場合の、人格や感覚界のあるべき在り方を説明してきた。例えば、諸人格は、各人が、身振りや音声などによって、他者の高次の感官だけに実効的に働きかける限りでのみ、それゆえ実効的働きかけを受容するかどうかを他者の自由に委ね、低次の器官には全く手をつけたり妨げたりしない、つまり身体の物理的接触によって相手の身体に影響を与えない限りでのみ、互に相手を人格として扱うことになるのである。
 我々の諸命題の証明はこうした共同性の前提だけに基いており、この前提それ自体は自己意識の可能性に基いている。それゆえ、これまでなされてきた全ての推断は、私は私である、という要請から間接的推理を経て導出されており、従ってこの要請と同様に確実である。我々は、体系的行程を通じて、いまやこうした交互実働の内的制約の究明にまで導かれる。
 自由な存在者は感覚界に現前するということだけによって、人格としての承認を他の自由な存在者に強いる。この根源的で必然的な交互実働が、あらゆる随意な交互実働の根底に存する。このことが今後の法論の出発点となる。この捉え方によって彼らの意欲を含む全ての概念が規定されるのだから、彼らの意欲と行為は全て矛盾律によって制約される、つまり思考の強制が生じる。
 しかし、実情はそうなっていない。各人は物質を変様させる能力を総じて自分に帰し、各人は他者の身体をも形成に適合した物質として措定しようと欲することもできる。それゆえ、定言命法の妥当性は、もっぱら、各人が整合的かどうかに左右される。しかるに整合性は意志の自由に左右される。
 (2)なぜ理性的存在者は整合的であるべきか、またそれに従って自己に定言命法を与えるべきなのかについては、絶対的な理由を挙げることはできない。ただ、仮言的理由を挙げることは可能である。即ち、もし、人格間に絶対的共同性が成立すべきなら、共同体の成員はその法則を自分に与えねばならない、と。もし、各人が、自由な存在者としての人格の共同性を廃棄するような実効的働きかけを欲しないなら、各人はこの法則を受け入れ、それによって自分の意志の自由を制限すること、また、意志の制限の根拠としては、自由な存在者の間には共同性があるべきである、ということ以外にないから、各人がこの根拠に基いて、かの法則を受け入れたということ、これである。
 各人は必然的に自由な人格の共同性を欲せざるを得ないなら、かの法則を各人が自分に与える必然性も提示できるが、このことは今まで確立してきた諸前提からは提示されない。人間が自己意識に達するべきであるなら、従って人間と成るべきであるなら、必然的に他者に対して促さねばならない。人間に対する促しなくして人間はない、ということは交互関係にある命題である。しかし、たとえ自己意識が措定されても、人間は他者にいつでも理性的な仕方で促し続けねばならない、ということは措定されているわけではないし、これから証明されるべき後件を証明根拠として用いなければ、そこから導出できないのである。
 だから、自由な存在者間の持続的な共同性の成立の要請は、任意の要請として、各人が自分だけに課せる要請として今の場合現れる。いかなる人といえども、単にそう意志するだけで他者とのこうした共同性を実現できない。共同性は共同的意欲によって制約されている。
 (3)いまや、権利の概念の適用可能性は完全に保証されており、その限界もはっきりと挙げられている。人間であれば誰でも、理性的存在者として承認し、権利の可能な主体として承認するように、内的に強いられている。
 権利概念によって規定され権利概念に従って判定されるべきものの可能性も証明されている。それは、自由で理性的な存在者達の相互的な実効的働きかけ(促し)である。
 法律一般である限りでの権利法則は、以上のように規定されている。この法則が現実に妥当し行使される場合には、これは、各人が自由をもってして持続的にこの法則を自分自身に対する法則にすることによってのみ起こり得る、ということも示された。

 第三部 権利概念の体系的適用すなわち法論

 第八節 法論の区分の演繹

 (1)自然こそ複数の自由な存在者が感覚界で共存することを欲するものである。なぜなら、自然は理性ならびに自由へと仕上がることができる幾つかの身体を産み出したのであるから。それゆえ自然こそが、各個人の自由が残りの全ての個人の自由の可能性によって制限されている、ということを欲するものであろう。
 さてまずは、確立されている権利法則をもう一度分析すると、それは例外なき法則たるべきであり、いったん受容したなら無条件に命令すべきである。次に、各人はこの法則に従って、感覚界において自分の量的で質料的な自由な行為の範囲を、制限すべきである。また各人は他者の自由の可能性によって自分の質的で形相的な自由を制限すべきである。しかし、各人の自由な行為の及ぶべき範囲は、その法則によっては全く規定されていない。ここから、人間がそもそも自由である、もしくは人格であるということには何が属するのか、という問いが立てられる。これに属するものの総体が自由な存在者の共存の可能性の条件と見なされ得るので、その限りでこの総体は権利と呼ばれる。同じ理由から、自由と人格性の条件は、ここでは、物理的力によってその侵害が可能である限りでのみ示される。
 この権利は、人格としての人格の単なる概念の内に存し、その限り、根源的権利と呼ばれる。根源的権利の理論は、人格性の概念を単に分析して、そこに含まれるものの他者による侵害の程度、また権利法則によればどの程度まで侵害されるべきでないか、ということを調べることであり、この理論が我々の法論の第一章をなす。
 (2)これらの判断は仮言的である。即ち、もし自由な存在者達が共存すべきであるなら、上述の法則を自らに課さねばならない。ゆえに権利法則は制約された条件付きの法則である。この法則は、それを自分に与えなかった人に対する私の振る舞いに適用することはできない。私はその目的のために相手の根源的権利を尊重するのに、当の目的がなくなっているからである。だから私は、法則に服していたにも拘らず、やはり法則に従って、この特定の人格の自由を尊重するよう拘束されることはないのである。その場合、私は相手の自由と人格性とを侵害することが許される。それゆえ、私の権利は強制権である。各人格には、強制権の適用事例が存在するか否かを判断する権利がある。この判断は裁決である。各人は自分自身に対する裁判官であり、相手を裁く裁判官である。裁判権なくして強制権はない。或る人物が他人の根源的権利を侵害する場合、強制権は現れる。それゆえ、第一章でこれらの根源的権利が樹立された後には、これらの権利が侵害されるのはいかなる場合かが明らかになる。それでも、体系的見通しをつけるために、強制権が現れるケースを個別に列挙したり、精密に規定したりすることは余計なことではない。これは法論の第二章でなされる。
 (3)強制権一般には、また強制権が個々に適用される各事例には、それなりの根拠がある。しかし、根拠づけられるものは全て必然的に有限であり、その根拠以上には及ばない。強制権は、根源的権利が侵された場合にしか発動されない。強制権は蒙った被害によって、質的にも、量的にも、正確に規定される。
 しかし、他者が特定のケースだけ権利法則を尊重しなかっただけでなく、そもそも権利法則を法則と認めなかった場合、不正な行為が一度でもなされると、これまで不正行為を働かなかったのは別の理由があったからだということを示しているから、そうした他者とは安全に共存できないことは明らかである。それゆえ、被害者は相手の自由を剥奪し、感覚界での共同関係を再びとる可能性を完全に廃棄する権利をもつ。その限り強制権は無限であるが、その他者が法則を受容すれば、強制権はただちになくなる。その観点からすると、強制の限界は制約されている。
 それでは、この制約は、つまり他者が権利法則に心から服するということは、どのようにして与えられるか。
改心の念の約束などによって与えられるわけではない。誠実さを信用する根拠がないからである。被害者は強制を継続するであろう。そうなると加害者の方も自分の全自由が危機にさらされ、抵抗せざるを得ない。改心は常に可能であるからである。従って、強制の限界を決定する要因は、外的な法廷に対して合法であるような仕方で与えられることはできず、決定根拠は各人の良心に基く。ここには権利をめぐる解決し難い係争があるように見える。根拠なくして根拠づけられるものは可能でなく、根拠づけられるものなくして根拠は可能ではない。即ち、相互に相手を放免する可能性は未来の全経験によって制約され、未来の経験の可能性は相互に相手を放免することによって制約されているのである。この循環の問題は、知識学において証明された矛盾除去の方法に従って、二つの項が総合的に合一されることで解決される。それは、相互に相手を放免することと未来の経験は、まさしく同一でなければならない、相互に放免し合うことの内には、望まれている未来の経験全体が既に含まれており、それによって保証されねばならない、ということである。この要求はいかにして可能か。相手の心根を知るすべはないから、今後は互に物理的に侵害不可能であることを、確信できるような仕方で、未来の安全を保証せねばならない。それは、当事者双方が信用し力において勝る第三者に、目下の決裁を委ねると同時に、将来の争いの裁判権を何の留保も付けずに任せるということで果たされる。また、第三者の方から訴えがなされることがあってはならない。当事者の一方が、裁判官の判決に従うことができる場合、彼は相変わらず権利を手にするが、他方、相手の方は彼を信用していないので、この条件がある限り契約に応じることはできないからである。それゆえ両人は、その物理的力と権利判断を、つまり彼らの全ての権利を、第三者に無条件に服せしめなければならない。
 (4)私は他者の権利が成立するために必要とされる以上に私の自由を放棄するわけにはいかないが、私は私の全ての権利を第三者の裁量と権力に委ねるべきである。ただし、この服従によって、権利法則に従って私の側に属する私の全自由が確保されていなければ、この権利委譲は不可能であり、矛盾している。私はこの条件がなければ、理性的仕方で服従はできないし、またいかなる人も服従を要求できない。ゆえに私は、この条件が成立しているかを判断できるのではなくてはならない。従って、望まれている判断は服従に先立って可能であるべきであり、また実際に下されているのでなくてはならない。それゆえ、服従状態においては、未来の全経験が服従に先立って現前しているべきである。即ち、私の権利の限界内で、私の完全な安全が私に保証されるべきである。してみると、現れ得る可能な事例に権利法則が適用される、将来の権利判断の規範が、私の吟味に付せられなければならない。そうした規範が実定法である。
 私自身が吟味し認可した法律に服従するなら、自分が必然的にもたざるを得なかった自分固有の不変の意志に、即ち私の権利能力一般を制約している私の意志に服するのである。
 (5)法律は権力でなければならない。そして、法律の力以外の力が私に向けられることは全く不可能であることを、確信できるのでなければならない。それならば、法律はいかにして権力となるか。求められる権力は或る意志に依存するものでなくてはならないだろう。このような意志は誰もがその意志の適法性に頼れるのでなくてはならない。従って、求められるべき意志は、それが法律を欲する場合にのみ権力を有するような意志でなければならない。
 自由な存在者に対する優越力は、複数の自由な存在者が一体となることによってのみ生じる。権力は彼らが法律を欲することに依存するなら、彼らの権力が依拠している彼らの一体化は、この一体化の唯一の紐帯は権利の意欲でなければならない、ということに依存していなければならない。その権利は、この場合、特定の傾向性や仕事などをもった特定数の人間が寄せ集まるのだから、そうした特定数の人間に適用される権利であり、即ち、彼らの実定法である。そして、法律がその拘束力を獲得するのは、個人がこの特定の人民集団と一体化して公共体を作ることを承諾することによってである。公共体のこうした意志は、実効的に働いて個人的意志を抑制すべき場合に、常に能動的であり実効的に働く。個々の力が公共体の力と一つに融け合うためには、何といっても服従する者には彼を完全に確信せしめる保証が与えられるべきである。
 各人が正当に要求できる最も強力で唯一十全な保証は、社会そのものの存在が法律の実効性に結び付けられていることである。法律は必然的に所業(行為の結果)たるべきである。法律が確実に常に所業となるのは、逆に所業が法律である場合である。結合体において将来一個人によって起こされてかまわないものは、それがこの個人によって今回起こされるということ(結果)だけによって、法的になり、そうすることに悦びを感じる全ての人によって起こされても構わないという場合、各人のそれぞれの行為が普遍妥当的な法律を現実に与える場合、である。こうした結合体にあっては、いかなる不正義も必然的に万人に関わることになる。いかなる悪事も公共の厄災である。一個人にふりかかったことについて、彼を擁護し、彼に彼の権利を与え、不正を処罰する、ということが万人の関心事であらねばならない。こうして保証は十全なものとなり、法律は常に実効的に働くが、決してその限界が踏みにじられないことも明らかである。なぜなら、踏みにじることもまた、万人にとって法律に適ったこととなってしまうからである。
 こうした結合体に参加する人は、たとえその自由を放棄するのであってもやはり自由を維持するし、また自由の放棄によって自由を維持するのである。結合体の概念によってあらゆる矛盾が解決され、結合体の実現によって法、即ち正義の支配が実現される。法の支配を欲する人は誰であれ、こうした結合体を必然的に欲せざるを得ない。それゆえ、結合体の概念によって我々の研究範囲は閉じられたことになる。結合体の概念のより詳しい分析は、第三章で述べられる。






 
 

 

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