フィヒテとシェリングの哲学体系の差異 要約 (1)
緒論
ラインホルトによるフィヒテとシェリングの混同がもたらした現状に対して、両哲学の差異を明晰にすることが、この論述の主要な動機である。
カテゴリーの演繹という原理において、カント哲学は真の観念論であり、この原理こそはフィヒテが純粋で厳密な形式において抽出し、カント哲学の精神と呼んだものである。一方、物自体によって客観的に表現されているのは、対立の空虚な形式以外の何ものでもないにも拘らず、その物自体が実体化され、独断主義者のいう物のように絶対的な客観性として措定されている。また、カテゴリーそのものが知性の静止した死せる仕切りとされる一方、最高の原理とされ、スピノザの実体のような、絶対者の語られる表現は否定されるようになった。その結果、批判哲学の名のものとに、否定的論弁が、哲学に取って代わるようになった。
カントが理性としての同一性そのものを哲学的反省の対象とする場合には、同一性はひとりでに消滅する。悟性が理性によって取り扱われていたとすれば、反対に理性は悟性によって取り扱われることになるのである。カテゴリーによる客観的な諸規定の他に、感性と知覚の巨大な経験的領域、絶対的なアポステリオリテートが存続する。それに対しては、反省的判断力の主観的格率だけがアプリオリテートとして示される。すなわち、非同一性が絶対的な原則に高められるのである。
自我=自我という形をとった純粋な自己思惟、主観と客観の同一性はフィヒテ体系の原理である。だが、思弁がおのれ自身から概念を立て、その概念の外に出て、自らを体系へと形成するや否や、思弁はおのれ自身とその原理を放棄し、この原理に戻ることはない。それゆえ、原理そのものである超越論的直観は、多様性がそこから演繹されるものであるに拘わらず、この多様性に対立するという不当な立場を取ることになる。体系の絶対者が示されるのは、哲学的反省によって捉えられ、それが現象する姿においてのことにすぎない。そして、反省によって絶対者に与えられるこの規定性、すなわち有限者と対立は除去されることはないのである。
原理をなす主観ー客観は主観的な主観ー客観であることが明らかとなる。従ってそこから演繹されたものは純粋な意識、自我=自我の制約という形を得ることとなる。この無限累進において、超越論的直観は失われ、自我は自我に等しくあるべきだという原理に変わるのである。理性は克服不可能な対立の内に措定され、したがって悟性へと引き下げられているのである。
ラインホルトにおいては、フィヒテの体系が真の思弁、したがって哲学であるという面が看過されているばかりか、シェリングの体系がフィヒテの体系から区別され、主観的な主観ー客観に対し自然哲学において客観的な主観ー客観を対立させ、両者を主観より高次のものにおいて結合されているものとして提示するという面が見落とされているのである。
シュライエルマッハーの『宗教講話』のような諸現象が思弁の要求に直接関わることがないにしても、それら諸現象があり、受容されているということは哲学への要求を示す。要求されている哲学によれば、自然がカントやフィヒテによって被った冷遇に対して償いを受け、理性自身が内的な力に基いておのれ自身を自然へと形成することで自然と調和させられることになる。
第一章 今日の哲学的営為にみられる種々の形式
悟性は、絶対的措定を行うという点で理性を模倣する。措定されたものがそれ自体において対立したもの、したがって有限者にすぎないとしても、絶対的措定というこの形式そのものによって、悟性は理性のみかけを自分に与える。悟性が理性的否定作用を一つの所産に変え固定するならば、悟性は益々甚だしくみかけを装うことになる。無限者は、有限者に対立させられる限り、このような悟性によって措定された理性的なものである。この無限者は、理性的なものであっても、それだけでは有限者の否定を表わすにすぎない。悟性はかかる無限者を固定して、有限者に完全に対立させる。反省は、有限者を止揚して理性に高まったのだが、理性の活動を対立の中に固定した結果、再び悟性へと転落したのである。かつては、精神と物質、霊魂と肉体、信仰と悟性、自由と必然等々といった形式の下で理性の所産は意味をもち、そして、人間の関心事の一切がここに結びついていた。この対立は、文化情況の進展とともに理性と感性、知性と自然、そして一般的概念としては、絶対的主観性と絶対的客観性との対立という形式に移行している。
合一する力が人間の生から消え失せ、対立項が、それらの生き生きした関係と交互作用を失って自立的になった時、哲学の要求が生ずる。その限りでは、固定した主観性と客観性との対立を止揚し、叡知界と実在界という既成化した存在を生成として把握し、所産としてのそれらの存在を産出作用として把捉することは偶然事であるが、しかし、与えられた分裂の下では必然的な試みである。
宗教において形づくられるような最高の美的完全性が活発であり得たのは、ただ文化情況が一定の段階に至るまで、言い換えれば一般的な野蛮状態ないし蕃民状態においてであった。進展する文化はこの完全性と袂を分かち、悟性が自己を確信するようになった。両者は、相手に生じることが互にとって意味を持たない全く隔絶した領域に分離した。
おのれ自身をもって始める哲学にもしある種の前提が設けられるべきだとすれば、哲学の要求こそその前提であると言うことができる。哲学の前提とは、言明された要求以外の何ものでもない。要求が言明されて反省に対して措定されているのであるから、二つの前提が存在するはずである。
その一つは、絶対者そのものである。絶対者こそが求められる目標である。絶対者は既に現存している。そうでなければ、どのようにして求められ得ようか。理性が絶対者を産出するのは、諸々の制限から意識を解放することによってのみである。制限のこの止揚は無制限性が前提されていることに制約されている。
もう一つの前提は、意識が全体性から外へ出てしまっていること、すなわち、存在と非存在、概念と存在、有限性と無限性とへの分裂であろう。分裂の立場にとっては絶対的総合は彼岸であり、分裂の諸々の規定性に対立した無規定的なもの、無形態なるものである。絶対者は夜である。そして、光は夜よりも若く、両者の区別は、光が夜から歩み出ることと同様、絶対的差異である。無が最初のものであり、そこから全ての存在、有限者の全ての多様性が現れているのである。だが、哲学の課題は、これら二つの前提を合一すること、存在を非存在の中へ生成として、分裂を絶対者の中へその現象として、有限者を無限者の中へ生として措定することにある。
しかし、哲学の要求を哲学の前提として表現することは不適切である。というのも、これによっては、要求が反省の形式を受け取ることになるからである。
もし哲学の要求が前提として語られるならば、それが受け取るであろう形式によって、この要求から哲学的思索の道具、すなわち理性としての反省への移行が生じる。絶対者が意識に対して構成されるべきである。これが哲学の課題である。だが、反省の産出作用は、その所産と同様制限されたものにすぎない。それゆえ、これは矛盾である。絶対者は反省され措定されなければならない。だがそうすることによって絶対者は措定されず、むしろ止揚されている。というのも、絶対者は措定されたことによって、制限されたからである。この矛盾の媒介が哲学的反省である。この時、何よりもまず示されねばならないことは、この反省にどこまで絶対者を捉える能力があるのか、また、どこまでこの反省は、思弁としての自らの仕事において、絶対的直観と総合される必然性と可能性とを有しているのか、さらに、絶対者が反省の所産、意識の中で構成された絶対者であり、意識されたものであると同時に意識されざるものとしてなければならないのと同様、反省がそれだけでは主観的でありつつ完全である必然性と可能性とをどこまで有しているのか、ということである。
反省は存在と制限の能力である。だが、反省は理性としては、絶対者への関係を有しているのであり、この関係によってのみ理性なのである。その限り反省は、自己自身を否定し、全ての存在と制限されたものを絶対者に関係させることによって否定する。しかし同時に、まさに絶対者と関係することによって、制限されたものは存立するのである。
理性は、否定的絶対者の力として、したがって絶対的否定作用として、しかも同時に、対立的な客観的全体性と主観的全体性とを措定する力として示される。まず、理性は、悟性をしてそれ自身を超えさせ、悟性なりの仕方で一つの全体を構成すべく駆り立てる。理性は悟性を誘って客観的全体性を産出させるのである。いかなる存在も、措定されているがゆえに、対立したものすなわち制約されたものであるとともに制約するものである。悟性が自らのこれらの制限を補完するのは、これらに対立した諸々の制限を制約として措定することによってであるが、この諸々の制限も同様な補完を必要とする。かくして悟性の課題は無限に拡張されることになる。反省は、この点では、単に悟性的であるにすぎないように見える。だが、必然性の全体へこのように悟性を導くことには理性が関与しており、理性が密かに働いているのである。理性が悟性を限界なきものとする時、悟性とその客観的世界は無限の富を没落とみなすことになる。というのも、悟性が産出する存在は全て、規定されたものであり、そして、規定されたものは自らの前後に無規定的なものを持ち、かくして存在の多様性は二つの夜の間に支えなく位置しているからである。すなわちこの多様性は無の上に存しているのである。なぜなら、無規定的なものは悟性にとっては無であり、無に終わるからである。悟性の頑迷さがなしうることは、規定されたものと無規定なものとの、有限性と課された無限性との対立を合一せずに併存させ、存在を、自らにとって等しく必然的な非存在に対立させて固定することである。そうすることで悟性は自らを破壊してしまう。有限者と無限者との対立は、その一方が措定されている限り、他方は止揚されているという意味を持つからである。理性はこのことを認識しているがゆえに、悟性そのものを止揚してしまっている。理性にとって、悟性の措定作用は非措定として、その所産は否定として現れる。悟性をこのように否定すること、言い換えれば、対立させることのない理性の純粋措定作用は、もし理性が客観的無限性に対立させられるならば、主観的無限性は客観的世界に対立した自由の王国であることになろう。だが、こうした形式においては、この王国それ自身が対立し制約されたものである。それゆえ、理性は対立を完全に止揚するために、この王国の自立性をも否定しなければならない。理性が対立する両者を否定するのは、両者を合一することによってである。なぜなら、両者が対立項として存在するのは、ただ両者が合一されていないがゆえであるからである。合一において、両者は同時に存立している。というのも、対立するもの、したがって制限されたものは、合一させられることによって絶対者に関係させられているからである。しかし、対立し制限されたものは、およそ絶対者の中で、すなわち同一性として措定されている限り、それだけで存立しているのではない。制限されたものは、対立的な、したがって相対的な全体性の一方に属している限り、必然的であるか自由であるかのいずれかである。だが、それが両全体性の総合に属している限り、その制限は消滅し、それは自由であると同時に必然的、意識的なものであると同時に意識されざるものである。有限者と無限性とのこの意識された同一性、感性的世界と叡知的世界、必然的世界と自由な世界という二つの世界の意識における合一が知である。有限者の能力としての反省と、それに対立する無限者は、理性において総合されており、理性の無限性は有限者を自己の内に包含しているのである。
反省が自己自身を対象とする限り、反省が従う最高の掟は自己を否定することである。この掟は理性によって反省に与えられ、これによって反省は理性となる。反省は、あらゆるものがそうであるように、絶対者の中でのみ存立するのであるが、反省である限り、それは絶対者に対立している。したがって、存立するためには、反省は自己破壊という掟を自分に与えねばならない。反省が自らを自力で絶対的なものとして構成しようとするならば、その内在的法則とは矛盾律であろう。すなわち、反省によって措定されたものが存在しまた存続するという法則である。反省はこの法則によって、自分の諸々の所産を絶対的に全く対立したものとして固定し、そして、悟性のままに留まって理性にならないこと、自分の仕事に固執することを自分の永遠の法則とするのであろう。反省のこの仕事は、絶対者との対立においては無に他ならない。そして、制限されたものとして、この仕事は絶対者に対立しているのである。
対立の中に措定される場合、理性は悟性的なものとなり、またその無限性は主観的無限性となる。それと同様、思惟としての反省作用を表現する形式も、まさしくこのような両義性を持ちうるのであり、このように誤用されうる。
反省は、絶対者への関係を有する限りにおいてのみ理性であり、その活動が知である。だが、この関係によって反省の所産は消え失せ、ただ関係のみが存続する。この関係が認識の唯一の実在性なのである。それゆえ、孤立化された反省ないし純粋な思惟を否定するという真理以外のいかなる真理も存在しない。しかし、絶対者は、哲学的思索において反省によって意識に対して産出されるのであるから、これによって、絶対者は客観的全体性、知の全体、諸々の認識の有機的組織となる。この組織においては、あらゆる部分が同時に全体である。というのも、部分は絶対者への関係として存立しているからである。他者を自己の外部にもつ部分としては、いかなる部分も制限されたものであり、ただ他者によってのみ存在している。制限として孤立化されるならば、いかなる部分も欠陥のあるものとなる。部分が意味と意義を有するのは、ただ全体との関連によってのみである。したがって、個別的諸概念がそれだけで、また個別的な諸々の認識が、知として語られることはできない。個々の経験的知識は多量に存在しうる。それらは、経験の知である限り、経験において、すなわち概念と存在、主観と客観との同一性において、自らの正当性を示す。だが、それらの知識はまさに次のような理由からして、何ら学的ではない。すなわち、それらは、制限された相対的同一性においての正当化を有するだけであり、意識の中で有機的に編成された認識全体の必然的部分として正当化されることもなく、それらにおいては、絶対的同一性、絶対者への関係が思弁によって認識されることもないのである。
諸命題の有機的組織としての体系に対して、反省の根底にある絶対者は、体系にとっては反省のやり方に従って、最高の絶対的根本命題としても存在するはずであるという要求が立てられうる。だが、このような要求は既にそれ自身において無効である。反省によって措定されたもの、つまり命題は、それだけでは制限されたもの、制約されたものであり、自らの基礎づけのために他の命題を必要とする等々というように無限に続くからである。仮に、絶対者が、思惟によってまた思惟にとって妥当な根本命題で表現され、そこでは形式と質料とが同一であるとすれば、まず、形式と質料との単なる同一性が措定され、不等性が排除されることになる。そして根本命題はこの不等性によって制約されている。この場合、根本命題は絶対的ではなく、欠陥あるものであり、悟性概念、抽象物のみを表現する。あるいは、形式と質料とが不等性として同時に根本命題に含まれていて、命題が分析的であると同時に総合的であるということになれば、根本命題は二律背反となり、それゆえ、命題ではない。根本命題は、命題である限り、悟性の法則下にあり、自己矛盾せず、自己を止揚せず、措定されたものである。だが二律背反となれば、根本命題は自己を止揚することになる。体系そのものがその原理である絶対者を命題あるいは定義の形式で表現する時は、この迷妄はそれだけ自分を正当なものとみなす。この形式は、しかし根本においては二律背反であり、それゆえ、単なる反省そのものに対して措定されたものとしては自己を止揚する。例えば、スピノザの実体の概念は、原因であると同時に結果であり、概念であると同時に存在であると説明される。これは、対立項が合一されて矛盾となっているがゆえに、概念であることを止めるのである。スピノザにおけるような定義による始元ほどに拙劣な外観を呈する哲学の始元はない。この始元は、知の諸原理を基礎づけ、究明し、演繹すること、一切の哲学を意識の最高の諸事実に苦労して還元すること等々とは極めて稀な対照をなしている。だが、理性が反省作用の主観性から自己を純化してしまっている場合には、哲学そのものをもって哲学を始め、理性を即座に二律背反を伴うものとして登場させるスピノザのかの無邪気さもしかるべく評価されうるのである。
絶対的同一性としての絶対者に、反省が加わることによって、絶対的同一性において一つであったものが分離する、悟性的反省の立場においては、それゆえに、そこに総合と反定立という二つの別々の命題が立てられる。フィヒテのA=Aという第一命題とA=AあるいはA=Bという第二命題が悟性的にみられたらそれにあたる。しかし、その真の姿は、まずAが措定されるとき、その措定されたものは制限されたものであるがゆえに、Aではない。つまり、Aは措定されたものであると同時に措定されざるものである。この事態は分裂と同一性が同時に同じ場において成立していることを意味する。反省は分離を措定すると同時に、同一性を呼び起こしたのである。ここにおいてあるのは、第一命題と第二命題との総合である。両命題はそのような関係を離れては成立しえない。第一命題は、第二命題の含んでいる不等性を捨象する限りにおいて存立するものであるがゆえに、第二命題に制約されている。また、第二命題が命題として成立するためには、あるものへの関係を必要とするものであるがゆえに、第一命題に制約されている。
両命題は、矛盾の命題である。ただし逆の意味においてのことであるが。同一性の命題である第一命題は、矛盾=0であることを表わしている。第二命題は、第一命題に関係している限り、矛盾も無矛盾と同様に必然的であることを表わしている。両命題は共々、命題としては、ポテンツ(勢位)の上で同等の、それだけで措定されたものである。A=Aは、主語(主観)としてのAと客語(客観)としてのAの同一性と同時に、両者の差異を含んでいる。同様に、A=Bは、AとBの差異とともに、両者の同一性を含んでいるのである。
悟性は、AがBとして措定されていることを、Aの反復としてしか捉えないのである。すなわち、悟性はただ同一性のみを固持して、AがBとしてあるいはBにおいて措定され、反復されることによって、非Aという別のものが措定され、しかも、この非AがAとして、したがってAが非Aとして措定されていることを捨象する。単に思弁のもつ形式的なもののみが反省され、知の総合が分析的形式の内で確保されるならば、二律背反、つまり自己自身を止揚する矛盾が、知と真理の最高の形式的表現である。
思弁が単なる反省の側から見られる限り、絶対的同一性は対立し合うものの総合において、したがって二律背反の形をとって現れる。絶対的同一性は自己を差異化して諸々の相対的同一性となる。この相対的同一性は、なるほど制限されており、その限り悟性にとってあり、二律背反ではない。とはいえ、同時に、相対的な同一性といえども同一性であるがゆえに、純粋な悟性概念ではない。そして、相対的同一性が同一性たらざるをえないのは、哲学においては絶対者への関係を欠いたまま措定されたものは存立しえないからである。しかし、この絶対者への関係という面から言えば、制限されたものでさえどれも相対的同一性であり、その限り反省にとっては二律背反的なものである。そして、これが知の消極的な側面であり、理性に支配されると自己破壊を来す形式的なものである。この消極的側面の他に、知は積極的な側面、つまり直観を持っている。純粋知、すなわち直観なき知は、矛盾において対立し合うものの否定である。他方、直観は、対立項のこの総合を欠くならば、経験的で、所与的で、無意識的なものである。超越論的知は反省と直観の両者を合一する。それは概念であると同時に存在でもある。直観が超越論的なものとなることによって、経験的直観では分離されていた主観的なものと客観的なものとの同一性が意識されるに至る。知は、超越論的なものとなる限り、概念とその制約、あるいは両者の二律背反、主観的なものを措定するばかりでなく、同時に客観的なもの、存在をも措定する。哲学知においては、直観されたものは、同時に知性と自然との活動であり、同時に意識と無意識的なものとの活動である。直観されたものは、観念的世界と実在的世界の両方の世界に同時に帰属する。観念的世界に帰属するのは、それが知性の内に、したがって自由の内に措定されているからである。実在的世界に帰属するのは、それが客観的全体性の内にその位置を占め、必然性の連鎖の一環として演繹されるからである。反省もしくは自由の立場に立つならば、観念的なものが第一のものであって、実在および存在は図式化された知性であるにすぎない。必然性もしくは存在の立場に立つならば、思惟は絶対的な存在の図式であるにすぎない。超越論的知の内では、存在と知性の両者は合一されている。同様に、超越論的知と超越論的直観は一にして同じものである。知と直観という表現の相違は、観念的要因と実在的要因のいずれかが優勢であることを示すにすぎない。
直観を欠くならば、哲学することは諸々の有限性の際限のない系列を辿ることになり、存在から概念への移行、もしくは概念から存在への移行は、正当化されざる飛躍であることになる。このように哲学することが形式的な哲学的思索と呼ばれる。というのも、物も概念もそれだけでは絶対者の形式であるにすぎないからである。この哲学的思索は、超越論的直観の破壊、すなわち存在と概念の克服しえない対立を前提としている。超越論的直観においては全ての対立が止揚されており、知性による知性にとっての宇宙の構成と、客観的なものとして直観され独立に現象する宇宙の組織との区別は全て否定されている。この同一性の意識を産み出すことが思弁である。そして、思弁の内では観念性と実在性とは一つのものであるがゆえに、思弁は直観なのである。
直観は、理性によって要請されるが、制限されたものとしてではなく、反省の仕事の一面性を補完するために要請される。すなわち、直観と反省が相互に対立し続けるのを止め、一つのものになるように要請される。要するにこの要請という方法の全体は、反省の一面性から出発することの内にのみその根拠を持つ。この一面性は、その欠如を補完するために、そこから排除され対立させられたものを要請する必要があるわけである。だが、この見解においては、理性の本質は間違った地位を与えられている。というのも、ここでは、理性が自足したものではなく、欠如せるものと考えられているからである。しかし、理性が自己を絶対的なものと認識するならば、反省から出発するかの遣り口が終わるところから哲学が始まる。すなわち、理念と存在の同一性から哲学が始まる。
制限されたものは多様なものだから、絶対者に対する制限されたもののこの関係も多様なものである。したがって、哲学的思索はこの多様性そのものの関係づけを目指さなければならない。知の全体性、学の体系を産出する要求が生じなければならない。そのことによって初めて、諸関係の多様性が偶然性から解放される。というのも、諸関係が知の客観的全体性の連関の内で地位を与えられ、その客観的な総体が成就されるからである。自己を体系にまで構成することのない哲学的思索は、諸制限からの絶えざる逃避である。それは、自己を確信し、自己について明晰となっている理性の純粋な自己認識というよりは、むしろ自由に向けての理性の苦闘である。元々自由な理性とその行為は一つのものであり、理性の活動は理性そのものの純粋な現れなのである。
理性のこの自己産出において、絶対者は自己に形態を与え、客観的全体性となる。この客観的全体性は、それ自身の内で担われ完成された全体であって、根拠を自己の外に持たず、始め、中間、終わりを通じて自己自身によって根拠づけられている。
真正な思弁は、体系の内で完全な自己構成には至らなくとも、必ずや絶対的同一性から出発する。絶対的同一性の主観的なものと客観的なものへの分裂は、絶対者による産出である。したがって、根本原理はまったく超越論的であり、この立場からは、主観的なものと客観的なものとの克服不可能な対立は存在しない。だが、そのことによって、絶対者の現象は対立なのである。つまり、絶対者はその現象の内には存在せず、絶対者とその現象の両者がそれ自身対立する。現象は同一性ではない。この対立を超越論的に止揚することはできない。すなわち、自体的には対立が存在しないというようにすることはできない。このために、現象はただ否定されているにすぎないが、それにもかかわらず、それは同様に存在すべきなのである。かくて、絶対者はその現象において自己を啓示していると主張されることになろう。したがって、絶対者は現象そのものの内で自己を措定しなくてはならない。すなわち、現象を否定するのではなく、それを同一性にまで構成しなくてはならない。ところが、絶対者とその現象の間に因果関係が立てられるならば、それは偽りの同一性である。というのも、この関係の根底には克服しえない対立が存在するからである。この関係においては、対立する二つのものが存立することになるが、しかも異なる身分においてのことである。したがって、合一は暴力によるものであり、一方が他方を自己の支配下に置くことになる。一方が支配し、一方が従属する。統一は、相対的であるにすぎない同一性では強制されたものである。かくて、体系はその哲学に反して独断論になってしまっている。すなわち、客観性を絶対化する実在論、もしくは主観性を絶対化する観念論になっている。たとえ、両者が真の思弁に由来するものであろうとも。
哲学上の独断論である純粋独断論は、傾向という点でも、対立の内に留まっている。因果関係、より完全な形式においては交互作用としての因果関係、すなわち知性的なものの感性的なものへの作用ないし感性的なものの知性的なものへの作用が、純粋独断論では根本原理として支配的である。だが、一貫した実在論と観念論では、たとえ因果関係が支配するように見え、前者では主観が客観の所産として、後者では客観が主観の所産として措定されようとも、因果関係は従属的な役割を演ずるにすぎない。いや因果関係は本質的には止揚されている。なぜなら、産出作用は絶対的産出作用であり、所産は絶対的所産だからである。換言すれば、所産は産出作用の外では存立を得ず、産出作用に先立ちそれから独立に存立する自立的なものとして措定されてはいないからである。しかし、純粋な因果関係、すなわち独断論の形式的な原理においては、事情は異なる。この場合、所産はAによって措定されたものであると同時に、Aによって措定されざるものである。したがって、Aは全くただ主観であり、A=Aは悟性的同一性を表現するにすぎない。だが、超越論的な仕事においてたとえ哲学が因果関係を用いることがあっても、主観に対して現象するBは、それが対立しているということそのことからして、単なる可能性であり、あくまでも可能性に留まる。すなわち、それは偶有性であるにすぎない。かくて、思弁の真の関係、すなわち実体性の関係が因果関係のみかけのもとで超越論的な原理となっているのである。確かに、絶対的同一性のみが存在し、そこであらゆる差異と対立するものの存立とが止揚される限り、超越論的哲学はいかなる因果関係の実在性も認めない。ところが、現象が同時に存立し、したがって絶対者の現象への関係、それも現象の否定とは別の関係が存在するとされる限り、この哲学は因果関係を導入し、現象を従属的なものとするのである。この哲学は、それゆえ、超越論的直観を単なる主観的なものとなし、客観的なものとはしない。つまり、同一性を現象の内に措定しない。A=AとA=Bは両者とも無制約なままであり、A=Aのみが妥当すべきである。しかし、このことは、この同一性が単なる当為ではない真の総合において提示されてはいないということである。かくして、フィヒテの体系では、自我=自我が絶対者である。理性の全体性は非我を措定する第二命題を伴う。自我と非我の両者の措定というこの二律背反において、総体が出揃っているばかりではない。両者の綜合も要請される。だが、この総合には依然対立が残る。体系の思弁は対立するものの止揚を要求するが、体系そのものは対立するものを止揚しない。体系が行き着く絶対的総合は、自我=自我ではなくて、自我は自我に等しかるべしというものである。絶対者は超越論的観点にとっては構成されているが、現象の観点にとっては構成されていない。双方の観点はなお矛盾し合っている。同一性が同時に現象の内に措定されておらず、また同一性がやはり完全には客観性に移行していないがゆえに、超越論的であることそのことが対立するもの、主観的なものなのである。
第二章 フィヒテの体系の叙述
フィヒテの体系の基礎は知的直観であり、思惟自身の純粋な自己思惟、純粋な自己意識、自我=自我、「われあり」である。絶対者は主観ー客観であるが、自我こそは主観と客観のこのような同一性である。
通常の意識においては、自我は対立の内にある。哲学は客観に対するこの対立を説明しなければならない。対立を説明するということは、対立が他のものによって制約されていることを示すことであり、よって対立を現象として証明することを意味する。経験的意識が純粋意識の内で完全に根拠づけられており、純粋意識によって制約されているだけではないということが経験的意識について証明されるならば、それによって両者の対立は止揚されている。つまり、もし説明が完全であるならば、すなわち、純粋意識と経験的意識の部分的な同一性が示されているだけではないというのであればである。同一性が部分的でしかないことになるのは、経験的意識に残された側面があり、その面からすれば経験的意識は純粋意識によって規定されておらず、無制約であるような場合のみである。そして、純粋意識と経験的意識が最高度の対立の両項として振る舞うにすぎないのであるから、経験的意識が無制約である限り、純粋意識それ自身が経験的意識によって規定され、制約されていることとなろう。このようなあり方では、関係は相互関係となるであろう。それは互に規定し規定されていることを含むが、相互作用の内にあるものの克服しえない対立を前提するものであって、それゆえ分裂を絶対的同一性の内で解消することが不可能であることを前提するものである。
超越論的哲学が目指すのは、次のことだけである。すなわち、経験的意識をその外にあるものから構成するのではなく、内在的な原理から、原理の能動的な流出または自己産出として構成することである。経験的意識に対立している限り、知的直観、思惟の純粋な自己思惟は、概念として、すなわち一切の多様なものを捨象し、主観と客観の一切の不等性を捨象するものとして現れる。
これまで、我々は体系の純粋に超越論的な側面を記述してきた。そこにおいては、反省は何ら力を持たず、理性によって哲学の課題が規定され、記述されているのである。この真に超越論的な側面があるために、反省が支配している別の面は、その出発点から捉えることも、全体として捉えておくことも益々困難である。反省が理性的なものを転倒させて悟性的なものとしているのだが、その悟性的なものには常に超越論的側面への帰路が開かれているからである。したがって、示されなければならないのは、この体系には二つの立場、思弁の立場と反省の立場が本質的に属しており、しかも後者が従属的な地位を有するというわけではなく、両者が体系の中心点で全く必然的で結合されないままであるということである。換言すれば、自我=自我は思弁の絶対的原理であるが、この同一性は体系によっては示されないのである。客観的な自我は主観的自我に等しくならない。両者は全く対立し合ったままである。自我はその現象ないし措定作用の内におのれを見出すことがない。自己を自我として見出すためには、自我はその現象を否定しなければならない。自我の本質とその措定作用は一致しない。自我は自己にとって客観的とならないのである。
フィヒテは、知識学において、自分の体系の原理を呈示するために諸原則(三根本命題)という形式を選んでいるが、その不適切さについては先に問題とされた通りである。第一の原則は、自我が自己自身を措定する絶対的な措定作用であり、無限な措定作用としての自我である。第二の原則は絶対的な反措定作用であり、言い換えると無限な非我を措定することである。第三の原則は前ニ者の絶対的結合であるが、それは自我と非我を完全に分かち、無限な領域を可分的自我と可分的非我に分配することによってなされる。これら三つの絶対的原則は自我の三つの絶対的な活動を示している。絶対的活動がこのように複数個あるということから直ちに結果するのは、これらの活動と原理が相対的なものにすぎないということであり、それらが意識の全体性の構成に組み入れられる限り、観念的な構成要素にすぎないということである。ここにおいては、自我=自我は他の絶対的活動に対立している。このような立場では、自我=自我は、経験的意識に対立している限りの自己意識という意義しか持たない。そのようなものとして、それは経験的意識の捨象によって制約されており、第二原則と第三原則が制約されているのと同じく、第一原則も制約されているのである。絶対的活動の内容が全く知られていないとしても、その複数性がすでにこのことを直接に示している。哲学的反省は、根源的同一性に由来するとしても、まさしくこの同一性の真の本質を記述するために全く対立し合っているものを呈示することによって始め、それを結合して二律背反とするのである。これが、反省が絶対者を呈示する唯一の方法である。それは、絶対的同一性を直ちに概念の領域から取り去り、主観と客観を捨象する同一性としてではなく、主観と客観の同一性として構成するために他ならない。この同一性は次のように捉えられることはできない。すなわち、自己自身を措定する純粋な措定作用と純粋な反措定作用のいずれもが一にして同一の自我の活動であるというようにである。そのような同一性であれば決して超越論的な同一性ではなく、超越的な同一性だということになろう。対立し合うものの克服不可能な矛盾は存続するであろうし、両者の結合は活動という一般的概念の内での結合に還元されることとなろう。要求されているのは超越論的結合である。そこでは、二つの活動の対立そのものが止揚され、観念的な要素から真の、観念的であると同時に実在的な総合が構成されるのである。これを与えるのが第三原則、自我は自我の内で可分的自我に対して可分的非我を対立させる、というものである。無限の客観的領域、反措定されたものは、絶対的自我でも絶対的非我でもなく、対立し合うものを包摂し、対立し合う要素に満たされた領域である。それらの要素は、一方が措定されているだけ他方は措定されておらず、一方が増加するだけ他方は減少するという関係にあるのである。
だが、この総合においては、客観的自我は主観的自我に等しくない。主観的自我は自我であり、客観的自我は自我+非我である。この総合の内では根源的同一性は示されない。純粋意識、自我=自我と経験的自我=自我+非我は、後者が構成される一切の形式をもってしても対立したままである。第三命題が語るこの総合の不完全さは、第一命題の活動と第二命題の活動が全く対立した活動である場合には避けられえない。あるいは、根本において総合は全く可能ではない。総合が可能であるのは、自己自身を措定する作用と反措定作用が観念的要素として定立されている場合のみである。決して概念であってはならない活動が観念的な要素としてのみ取り扱われねばならないということは、なるほど、自己自身に矛盾しているように思われる。自我と非我、主観的自我と客観的自我、結合されるべきものが活動ー措定作用および反措定作用として表現されようが、産物ー客観的自我および非我と表現されようが、それ自身においても同一性を原理とする体系にとっても何の違いもない。全く対立し合っているというそれらの性格によって、それらは直ちに観念的にすぎないものとなるのである。フィヒテはそれらの純粋な観念性を認めている。対立し合っているものは、フィヒテにとっては、総合の前では総合の後とは何か全然別のものである。総合の前では、それらはただ対立し合ったものにすぎず、それ以上のものではないというわけである。一方は他方でないものであり、他方は一方でないものである。一切の実在性を欠いた単なる観念であり、加うるに単なる実在性の観念である。一方が登場するとともに、他方は否定されている。だが、一方は他方の対立物であるという述語の下でのみ登場することができるのであり、したがって、一方の概念と同時に他方の概念が登場し、一方を否定するのであるから、一方すらが登場しえない。したがって、何も存在してはいないわけである。そして、気づかれない間にあの単に対立し合っているにすぎないものの下に基体を押し入れ、それらについて考えることを可能にしたものは構想力の有り難い虚構であったにすぎない。対立し合う要素が観念的であるということから次のことが結果する。すなわち、それらは総合の活動の外では何ものでもないということであり、総合の活動によってのみそれら相互の対立とそれら自身が措定されているのであって、それらの対立は総合の能力を理解させようとする哲学的構想力のためにのみ用いられているにすぎないということである。そうであるとすれば、生産的構想力とは絶対的同一性が活動として示されたものだということになるであろう。この活動が産物たる限界を措定することによって、同時に、対立し合うものを制限し合うものとして措定しているにすぎないのである。生産的構想力が対立物によって制約された総合の能力として現れるということは、反省の立場に対して妥当するにすぎないこととなろう。反省は対立し合うものから出発し、直観を両者の結合として捉えるにすぎないのである。だが、同時に、哲学的反省は、このような見方を反省に属する主観的な見方として示すために、次のようにして超越論的観点を回復しなければならない。すなわち、あの完全に対立し合う活動を観念的要素以外の何ものとも認めず、絶対的同一性を顧慮すれば全く相対的な同一性であると認識することによってである。絶対的同一性においては、経験的意識はその反対物たる純粋意識と同様止揚されている。純粋意識は、経験的意識を捨象するものとして、対立を帯びているのである。この意味においてのみ、自我は対立し合う二つの活動の超越論的中心点であり、両者に対して無差別なのである。それらの間の完全な対立は、それらが観念的であることに対してのみ意義を有するにすぎない。
だが、第三原則で表現されている総合においては、客観的自我は自我+非我であり、総合は不完全である。すでにこの総合の不完全さがそれ自体次のような疑惑を喚起する。すなわち、対立し合う活動は相対的な同一性、観念的な構成要素としてのみみなされるわけにはいかないのではないか、ということである。人がそのようにみなしうるのは、総合に対するこれらの関係にのみ目を向け、第三の活動と同様二つの活動が有している絶対性という称号を捨象する場合であろうというわけである。
だが、自己自身を措定する作用と反措定作用は互にこのような関係に入るはずはないし、総合の活動に対してもそうである。自我=自我は絶対的な活動であり、どのように考えても相対的同一性および観念的同一性とみなされるわけにはいかない。この自我=自我に対しては、非我はあくまで対立したものである。だが、それらを結合することが必要であり、思弁の唯一の関心である。しかるに、全く対立し合っているものを前提にしてどのような結合が可能であろうか。明らかに、本来何の結合も可能ではないようである。あるいは、それらの対立の絶対性が少なくとも部分的に否定され、第三の原則が必然的に登場せざるをえないとはいえ、対立が根底にあるがゆえに部分的な同一性が可能であるにすぎない。絶対的同一性はなるほど思弁の原理ではあるが、それの表現である自我=自我とともに規則に留まるにすぎない。その無限の遂行が要求されているが、体系において成就することはないのである。
主要な点は次のことを証明することでなければならない。すなわち、自己自身を措定する作用と反措定の作用は、体系においてはあくまで対立し合う活動であるということである。フィヒテの言葉はなるほどこのことを直接に語ってはいる。だが、この克服不可能な対立は、まさしくその下でのみ生産的構想力が可能である制約であるとされている。生産的構想力は理論的能力としてのみ自我であるにすぎないのであって、対立を超えることはできないのである。実践的能力にとっては対立はなくなる。そして、実践的能力こそは対立を止揚するものである。したがって、証明されるべきことは、実践的能力にとっても対立は克服不可能であり、実践的能力においてすら、自我は自我として自己を措定するわけではなく、客観的自我は同様に自我+非我であって、実践的能力は自我=自我に行き着くことはないということである。逆に、対立が克服不可能であることが、体系の最高の総合が不完全であることから明らかとなる。この総合において、対立は依然として存在しているのである。
ラインホルトによるフィヒテとシェリングの混同がもたらした現状に対して、両哲学の差異を明晰にすることが、この論述の主要な動機である。
カテゴリーの演繹という原理において、カント哲学は真の観念論であり、この原理こそはフィヒテが純粋で厳密な形式において抽出し、カント哲学の精神と呼んだものである。一方、物自体によって客観的に表現されているのは、対立の空虚な形式以外の何ものでもないにも拘らず、その物自体が実体化され、独断主義者のいう物のように絶対的な客観性として措定されている。また、カテゴリーそのものが知性の静止した死せる仕切りとされる一方、最高の原理とされ、スピノザの実体のような、絶対者の語られる表現は否定されるようになった。その結果、批判哲学の名のものとに、否定的論弁が、哲学に取って代わるようになった。
カントが理性としての同一性そのものを哲学的反省の対象とする場合には、同一性はひとりでに消滅する。悟性が理性によって取り扱われていたとすれば、反対に理性は悟性によって取り扱われることになるのである。カテゴリーによる客観的な諸規定の他に、感性と知覚の巨大な経験的領域、絶対的なアポステリオリテートが存続する。それに対しては、反省的判断力の主観的格率だけがアプリオリテートとして示される。すなわち、非同一性が絶対的な原則に高められるのである。
自我=自我という形をとった純粋な自己思惟、主観と客観の同一性はフィヒテ体系の原理である。だが、思弁がおのれ自身から概念を立て、その概念の外に出て、自らを体系へと形成するや否や、思弁はおのれ自身とその原理を放棄し、この原理に戻ることはない。それゆえ、原理そのものである超越論的直観は、多様性がそこから演繹されるものであるに拘わらず、この多様性に対立するという不当な立場を取ることになる。体系の絶対者が示されるのは、哲学的反省によって捉えられ、それが現象する姿においてのことにすぎない。そして、反省によって絶対者に与えられるこの規定性、すなわち有限者と対立は除去されることはないのである。
原理をなす主観ー客観は主観的な主観ー客観であることが明らかとなる。従ってそこから演繹されたものは純粋な意識、自我=自我の制約という形を得ることとなる。この無限累進において、超越論的直観は失われ、自我は自我に等しくあるべきだという原理に変わるのである。理性は克服不可能な対立の内に措定され、したがって悟性へと引き下げられているのである。
ラインホルトにおいては、フィヒテの体系が真の思弁、したがって哲学であるという面が看過されているばかりか、シェリングの体系がフィヒテの体系から区別され、主観的な主観ー客観に対し自然哲学において客観的な主観ー客観を対立させ、両者を主観より高次のものにおいて結合されているものとして提示するという面が見落とされているのである。
シュライエルマッハーの『宗教講話』のような諸現象が思弁の要求に直接関わることがないにしても、それら諸現象があり、受容されているということは哲学への要求を示す。要求されている哲学によれば、自然がカントやフィヒテによって被った冷遇に対して償いを受け、理性自身が内的な力に基いておのれ自身を自然へと形成することで自然と調和させられることになる。
第一章 今日の哲学的営為にみられる種々の形式
悟性は、絶対的措定を行うという点で理性を模倣する。措定されたものがそれ自体において対立したもの、したがって有限者にすぎないとしても、絶対的措定というこの形式そのものによって、悟性は理性のみかけを自分に与える。悟性が理性的否定作用を一つの所産に変え固定するならば、悟性は益々甚だしくみかけを装うことになる。無限者は、有限者に対立させられる限り、このような悟性によって措定された理性的なものである。この無限者は、理性的なものであっても、それだけでは有限者の否定を表わすにすぎない。悟性はかかる無限者を固定して、有限者に完全に対立させる。反省は、有限者を止揚して理性に高まったのだが、理性の活動を対立の中に固定した結果、再び悟性へと転落したのである。かつては、精神と物質、霊魂と肉体、信仰と悟性、自由と必然等々といった形式の下で理性の所産は意味をもち、そして、人間の関心事の一切がここに結びついていた。この対立は、文化情況の進展とともに理性と感性、知性と自然、そして一般的概念としては、絶対的主観性と絶対的客観性との対立という形式に移行している。
合一する力が人間の生から消え失せ、対立項が、それらの生き生きした関係と交互作用を失って自立的になった時、哲学の要求が生ずる。その限りでは、固定した主観性と客観性との対立を止揚し、叡知界と実在界という既成化した存在を生成として把握し、所産としてのそれらの存在を産出作用として把捉することは偶然事であるが、しかし、与えられた分裂の下では必然的な試みである。
宗教において形づくられるような最高の美的完全性が活発であり得たのは、ただ文化情況が一定の段階に至るまで、言い換えれば一般的な野蛮状態ないし蕃民状態においてであった。進展する文化はこの完全性と袂を分かち、悟性が自己を確信するようになった。両者は、相手に生じることが互にとって意味を持たない全く隔絶した領域に分離した。
おのれ自身をもって始める哲学にもしある種の前提が設けられるべきだとすれば、哲学の要求こそその前提であると言うことができる。哲学の前提とは、言明された要求以外の何ものでもない。要求が言明されて反省に対して措定されているのであるから、二つの前提が存在するはずである。
その一つは、絶対者そのものである。絶対者こそが求められる目標である。絶対者は既に現存している。そうでなければ、どのようにして求められ得ようか。理性が絶対者を産出するのは、諸々の制限から意識を解放することによってのみである。制限のこの止揚は無制限性が前提されていることに制約されている。
もう一つの前提は、意識が全体性から外へ出てしまっていること、すなわち、存在と非存在、概念と存在、有限性と無限性とへの分裂であろう。分裂の立場にとっては絶対的総合は彼岸であり、分裂の諸々の規定性に対立した無規定的なもの、無形態なるものである。絶対者は夜である。そして、光は夜よりも若く、両者の区別は、光が夜から歩み出ることと同様、絶対的差異である。無が最初のものであり、そこから全ての存在、有限者の全ての多様性が現れているのである。だが、哲学の課題は、これら二つの前提を合一すること、存在を非存在の中へ生成として、分裂を絶対者の中へその現象として、有限者を無限者の中へ生として措定することにある。
しかし、哲学の要求を哲学の前提として表現することは不適切である。というのも、これによっては、要求が反省の形式を受け取ることになるからである。
もし哲学の要求が前提として語られるならば、それが受け取るであろう形式によって、この要求から哲学的思索の道具、すなわち理性としての反省への移行が生じる。絶対者が意識に対して構成されるべきである。これが哲学の課題である。だが、反省の産出作用は、その所産と同様制限されたものにすぎない。それゆえ、これは矛盾である。絶対者は反省され措定されなければならない。だがそうすることによって絶対者は措定されず、むしろ止揚されている。というのも、絶対者は措定されたことによって、制限されたからである。この矛盾の媒介が哲学的反省である。この時、何よりもまず示されねばならないことは、この反省にどこまで絶対者を捉える能力があるのか、また、どこまでこの反省は、思弁としての自らの仕事において、絶対的直観と総合される必然性と可能性とを有しているのか、さらに、絶対者が反省の所産、意識の中で構成された絶対者であり、意識されたものであると同時に意識されざるものとしてなければならないのと同様、反省がそれだけでは主観的でありつつ完全である必然性と可能性とをどこまで有しているのか、ということである。
反省は存在と制限の能力である。だが、反省は理性としては、絶対者への関係を有しているのであり、この関係によってのみ理性なのである。その限り反省は、自己自身を否定し、全ての存在と制限されたものを絶対者に関係させることによって否定する。しかし同時に、まさに絶対者と関係することによって、制限されたものは存立するのである。
理性は、否定的絶対者の力として、したがって絶対的否定作用として、しかも同時に、対立的な客観的全体性と主観的全体性とを措定する力として示される。まず、理性は、悟性をしてそれ自身を超えさせ、悟性なりの仕方で一つの全体を構成すべく駆り立てる。理性は悟性を誘って客観的全体性を産出させるのである。いかなる存在も、措定されているがゆえに、対立したものすなわち制約されたものであるとともに制約するものである。悟性が自らのこれらの制限を補完するのは、これらに対立した諸々の制限を制約として措定することによってであるが、この諸々の制限も同様な補完を必要とする。かくして悟性の課題は無限に拡張されることになる。反省は、この点では、単に悟性的であるにすぎないように見える。だが、必然性の全体へこのように悟性を導くことには理性が関与しており、理性が密かに働いているのである。理性が悟性を限界なきものとする時、悟性とその客観的世界は無限の富を没落とみなすことになる。というのも、悟性が産出する存在は全て、規定されたものであり、そして、規定されたものは自らの前後に無規定的なものを持ち、かくして存在の多様性は二つの夜の間に支えなく位置しているからである。すなわちこの多様性は無の上に存しているのである。なぜなら、無規定的なものは悟性にとっては無であり、無に終わるからである。悟性の頑迷さがなしうることは、規定されたものと無規定なものとの、有限性と課された無限性との対立を合一せずに併存させ、存在を、自らにとって等しく必然的な非存在に対立させて固定することである。そうすることで悟性は自らを破壊してしまう。有限者と無限者との対立は、その一方が措定されている限り、他方は止揚されているという意味を持つからである。理性はこのことを認識しているがゆえに、悟性そのものを止揚してしまっている。理性にとって、悟性の措定作用は非措定として、その所産は否定として現れる。悟性をこのように否定すること、言い換えれば、対立させることのない理性の純粋措定作用は、もし理性が客観的無限性に対立させられるならば、主観的無限性は客観的世界に対立した自由の王国であることになろう。だが、こうした形式においては、この王国それ自身が対立し制約されたものである。それゆえ、理性は対立を完全に止揚するために、この王国の自立性をも否定しなければならない。理性が対立する両者を否定するのは、両者を合一することによってである。なぜなら、両者が対立項として存在するのは、ただ両者が合一されていないがゆえであるからである。合一において、両者は同時に存立している。というのも、対立するもの、したがって制限されたものは、合一させられることによって絶対者に関係させられているからである。しかし、対立し制限されたものは、およそ絶対者の中で、すなわち同一性として措定されている限り、それだけで存立しているのではない。制限されたものは、対立的な、したがって相対的な全体性の一方に属している限り、必然的であるか自由であるかのいずれかである。だが、それが両全体性の総合に属している限り、その制限は消滅し、それは自由であると同時に必然的、意識的なものであると同時に意識されざるものである。有限者と無限性とのこの意識された同一性、感性的世界と叡知的世界、必然的世界と自由な世界という二つの世界の意識における合一が知である。有限者の能力としての反省と、それに対立する無限者は、理性において総合されており、理性の無限性は有限者を自己の内に包含しているのである。
反省が自己自身を対象とする限り、反省が従う最高の掟は自己を否定することである。この掟は理性によって反省に与えられ、これによって反省は理性となる。反省は、あらゆるものがそうであるように、絶対者の中でのみ存立するのであるが、反省である限り、それは絶対者に対立している。したがって、存立するためには、反省は自己破壊という掟を自分に与えねばならない。反省が自らを自力で絶対的なものとして構成しようとするならば、その内在的法則とは矛盾律であろう。すなわち、反省によって措定されたものが存在しまた存続するという法則である。反省はこの法則によって、自分の諸々の所産を絶対的に全く対立したものとして固定し、そして、悟性のままに留まって理性にならないこと、自分の仕事に固執することを自分の永遠の法則とするのであろう。反省のこの仕事は、絶対者との対立においては無に他ならない。そして、制限されたものとして、この仕事は絶対者に対立しているのである。
対立の中に措定される場合、理性は悟性的なものとなり、またその無限性は主観的無限性となる。それと同様、思惟としての反省作用を表現する形式も、まさしくこのような両義性を持ちうるのであり、このように誤用されうる。
反省は、絶対者への関係を有する限りにおいてのみ理性であり、その活動が知である。だが、この関係によって反省の所産は消え失せ、ただ関係のみが存続する。この関係が認識の唯一の実在性なのである。それゆえ、孤立化された反省ないし純粋な思惟を否定するという真理以外のいかなる真理も存在しない。しかし、絶対者は、哲学的思索において反省によって意識に対して産出されるのであるから、これによって、絶対者は客観的全体性、知の全体、諸々の認識の有機的組織となる。この組織においては、あらゆる部分が同時に全体である。というのも、部分は絶対者への関係として存立しているからである。他者を自己の外部にもつ部分としては、いかなる部分も制限されたものであり、ただ他者によってのみ存在している。制限として孤立化されるならば、いかなる部分も欠陥のあるものとなる。部分が意味と意義を有するのは、ただ全体との関連によってのみである。したがって、個別的諸概念がそれだけで、また個別的な諸々の認識が、知として語られることはできない。個々の経験的知識は多量に存在しうる。それらは、経験の知である限り、経験において、すなわち概念と存在、主観と客観との同一性において、自らの正当性を示す。だが、それらの知識はまさに次のような理由からして、何ら学的ではない。すなわち、それらは、制限された相対的同一性においての正当化を有するだけであり、意識の中で有機的に編成された認識全体の必然的部分として正当化されることもなく、それらにおいては、絶対的同一性、絶対者への関係が思弁によって認識されることもないのである。
諸命題の有機的組織としての体系に対して、反省の根底にある絶対者は、体系にとっては反省のやり方に従って、最高の絶対的根本命題としても存在するはずであるという要求が立てられうる。だが、このような要求は既にそれ自身において無効である。反省によって措定されたもの、つまり命題は、それだけでは制限されたもの、制約されたものであり、自らの基礎づけのために他の命題を必要とする等々というように無限に続くからである。仮に、絶対者が、思惟によってまた思惟にとって妥当な根本命題で表現され、そこでは形式と質料とが同一であるとすれば、まず、形式と質料との単なる同一性が措定され、不等性が排除されることになる。そして根本命題はこの不等性によって制約されている。この場合、根本命題は絶対的ではなく、欠陥あるものであり、悟性概念、抽象物のみを表現する。あるいは、形式と質料とが不等性として同時に根本命題に含まれていて、命題が分析的であると同時に総合的であるということになれば、根本命題は二律背反となり、それゆえ、命題ではない。根本命題は、命題である限り、悟性の法則下にあり、自己矛盾せず、自己を止揚せず、措定されたものである。だが二律背反となれば、根本命題は自己を止揚することになる。体系そのものがその原理である絶対者を命題あるいは定義の形式で表現する時は、この迷妄はそれだけ自分を正当なものとみなす。この形式は、しかし根本においては二律背反であり、それゆえ、単なる反省そのものに対して措定されたものとしては自己を止揚する。例えば、スピノザの実体の概念は、原因であると同時に結果であり、概念であると同時に存在であると説明される。これは、対立項が合一されて矛盾となっているがゆえに、概念であることを止めるのである。スピノザにおけるような定義による始元ほどに拙劣な外観を呈する哲学の始元はない。この始元は、知の諸原理を基礎づけ、究明し、演繹すること、一切の哲学を意識の最高の諸事実に苦労して還元すること等々とは極めて稀な対照をなしている。だが、理性が反省作用の主観性から自己を純化してしまっている場合には、哲学そのものをもって哲学を始め、理性を即座に二律背反を伴うものとして登場させるスピノザのかの無邪気さもしかるべく評価されうるのである。
絶対的同一性としての絶対者に、反省が加わることによって、絶対的同一性において一つであったものが分離する、悟性的反省の立場においては、それゆえに、そこに総合と反定立という二つの別々の命題が立てられる。フィヒテのA=Aという第一命題とA=AあるいはA=Bという第二命題が悟性的にみられたらそれにあたる。しかし、その真の姿は、まずAが措定されるとき、その措定されたものは制限されたものであるがゆえに、Aではない。つまり、Aは措定されたものであると同時に措定されざるものである。この事態は分裂と同一性が同時に同じ場において成立していることを意味する。反省は分離を措定すると同時に、同一性を呼び起こしたのである。ここにおいてあるのは、第一命題と第二命題との総合である。両命題はそのような関係を離れては成立しえない。第一命題は、第二命題の含んでいる不等性を捨象する限りにおいて存立するものであるがゆえに、第二命題に制約されている。また、第二命題が命題として成立するためには、あるものへの関係を必要とするものであるがゆえに、第一命題に制約されている。
両命題は、矛盾の命題である。ただし逆の意味においてのことであるが。同一性の命題である第一命題は、矛盾=0であることを表わしている。第二命題は、第一命題に関係している限り、矛盾も無矛盾と同様に必然的であることを表わしている。両命題は共々、命題としては、ポテンツ(勢位)の上で同等の、それだけで措定されたものである。A=Aは、主語(主観)としてのAと客語(客観)としてのAの同一性と同時に、両者の差異を含んでいる。同様に、A=Bは、AとBの差異とともに、両者の同一性を含んでいるのである。
悟性は、AがBとして措定されていることを、Aの反復としてしか捉えないのである。すなわち、悟性はただ同一性のみを固持して、AがBとしてあるいはBにおいて措定され、反復されることによって、非Aという別のものが措定され、しかも、この非AがAとして、したがってAが非Aとして措定されていることを捨象する。単に思弁のもつ形式的なもののみが反省され、知の総合が分析的形式の内で確保されるならば、二律背反、つまり自己自身を止揚する矛盾が、知と真理の最高の形式的表現である。
思弁が単なる反省の側から見られる限り、絶対的同一性は対立し合うものの総合において、したがって二律背反の形をとって現れる。絶対的同一性は自己を差異化して諸々の相対的同一性となる。この相対的同一性は、なるほど制限されており、その限り悟性にとってあり、二律背反ではない。とはいえ、同時に、相対的な同一性といえども同一性であるがゆえに、純粋な悟性概念ではない。そして、相対的同一性が同一性たらざるをえないのは、哲学においては絶対者への関係を欠いたまま措定されたものは存立しえないからである。しかし、この絶対者への関係という面から言えば、制限されたものでさえどれも相対的同一性であり、その限り反省にとっては二律背反的なものである。そして、これが知の消極的な側面であり、理性に支配されると自己破壊を来す形式的なものである。この消極的側面の他に、知は積極的な側面、つまり直観を持っている。純粋知、すなわち直観なき知は、矛盾において対立し合うものの否定である。他方、直観は、対立項のこの総合を欠くならば、経験的で、所与的で、無意識的なものである。超越論的知は反省と直観の両者を合一する。それは概念であると同時に存在でもある。直観が超越論的なものとなることによって、経験的直観では分離されていた主観的なものと客観的なものとの同一性が意識されるに至る。知は、超越論的なものとなる限り、概念とその制約、あるいは両者の二律背反、主観的なものを措定するばかりでなく、同時に客観的なもの、存在をも措定する。哲学知においては、直観されたものは、同時に知性と自然との活動であり、同時に意識と無意識的なものとの活動である。直観されたものは、観念的世界と実在的世界の両方の世界に同時に帰属する。観念的世界に帰属するのは、それが知性の内に、したがって自由の内に措定されているからである。実在的世界に帰属するのは、それが客観的全体性の内にその位置を占め、必然性の連鎖の一環として演繹されるからである。反省もしくは自由の立場に立つならば、観念的なものが第一のものであって、実在および存在は図式化された知性であるにすぎない。必然性もしくは存在の立場に立つならば、思惟は絶対的な存在の図式であるにすぎない。超越論的知の内では、存在と知性の両者は合一されている。同様に、超越論的知と超越論的直観は一にして同じものである。知と直観という表現の相違は、観念的要因と実在的要因のいずれかが優勢であることを示すにすぎない。
直観を欠くならば、哲学することは諸々の有限性の際限のない系列を辿ることになり、存在から概念への移行、もしくは概念から存在への移行は、正当化されざる飛躍であることになる。このように哲学することが形式的な哲学的思索と呼ばれる。というのも、物も概念もそれだけでは絶対者の形式であるにすぎないからである。この哲学的思索は、超越論的直観の破壊、すなわち存在と概念の克服しえない対立を前提としている。超越論的直観においては全ての対立が止揚されており、知性による知性にとっての宇宙の構成と、客観的なものとして直観され独立に現象する宇宙の組織との区別は全て否定されている。この同一性の意識を産み出すことが思弁である。そして、思弁の内では観念性と実在性とは一つのものであるがゆえに、思弁は直観なのである。
直観は、理性によって要請されるが、制限されたものとしてではなく、反省の仕事の一面性を補完するために要請される。すなわち、直観と反省が相互に対立し続けるのを止め、一つのものになるように要請される。要するにこの要請という方法の全体は、反省の一面性から出発することの内にのみその根拠を持つ。この一面性は、その欠如を補完するために、そこから排除され対立させられたものを要請する必要があるわけである。だが、この見解においては、理性の本質は間違った地位を与えられている。というのも、ここでは、理性が自足したものではなく、欠如せるものと考えられているからである。しかし、理性が自己を絶対的なものと認識するならば、反省から出発するかの遣り口が終わるところから哲学が始まる。すなわち、理念と存在の同一性から哲学が始まる。
制限されたものは多様なものだから、絶対者に対する制限されたもののこの関係も多様なものである。したがって、哲学的思索はこの多様性そのものの関係づけを目指さなければならない。知の全体性、学の体系を産出する要求が生じなければならない。そのことによって初めて、諸関係の多様性が偶然性から解放される。というのも、諸関係が知の客観的全体性の連関の内で地位を与えられ、その客観的な総体が成就されるからである。自己を体系にまで構成することのない哲学的思索は、諸制限からの絶えざる逃避である。それは、自己を確信し、自己について明晰となっている理性の純粋な自己認識というよりは、むしろ自由に向けての理性の苦闘である。元々自由な理性とその行為は一つのものであり、理性の活動は理性そのものの純粋な現れなのである。
理性のこの自己産出において、絶対者は自己に形態を与え、客観的全体性となる。この客観的全体性は、それ自身の内で担われ完成された全体であって、根拠を自己の外に持たず、始め、中間、終わりを通じて自己自身によって根拠づけられている。
真正な思弁は、体系の内で完全な自己構成には至らなくとも、必ずや絶対的同一性から出発する。絶対的同一性の主観的なものと客観的なものへの分裂は、絶対者による産出である。したがって、根本原理はまったく超越論的であり、この立場からは、主観的なものと客観的なものとの克服不可能な対立は存在しない。だが、そのことによって、絶対者の現象は対立なのである。つまり、絶対者はその現象の内には存在せず、絶対者とその現象の両者がそれ自身対立する。現象は同一性ではない。この対立を超越論的に止揚することはできない。すなわち、自体的には対立が存在しないというようにすることはできない。このために、現象はただ否定されているにすぎないが、それにもかかわらず、それは同様に存在すべきなのである。かくて、絶対者はその現象において自己を啓示していると主張されることになろう。したがって、絶対者は現象そのものの内で自己を措定しなくてはならない。すなわち、現象を否定するのではなく、それを同一性にまで構成しなくてはならない。ところが、絶対者とその現象の間に因果関係が立てられるならば、それは偽りの同一性である。というのも、この関係の根底には克服しえない対立が存在するからである。この関係においては、対立する二つのものが存立することになるが、しかも異なる身分においてのことである。したがって、合一は暴力によるものであり、一方が他方を自己の支配下に置くことになる。一方が支配し、一方が従属する。統一は、相対的であるにすぎない同一性では強制されたものである。かくて、体系はその哲学に反して独断論になってしまっている。すなわち、客観性を絶対化する実在論、もしくは主観性を絶対化する観念論になっている。たとえ、両者が真の思弁に由来するものであろうとも。
哲学上の独断論である純粋独断論は、傾向という点でも、対立の内に留まっている。因果関係、より完全な形式においては交互作用としての因果関係、すなわち知性的なものの感性的なものへの作用ないし感性的なものの知性的なものへの作用が、純粋独断論では根本原理として支配的である。だが、一貫した実在論と観念論では、たとえ因果関係が支配するように見え、前者では主観が客観の所産として、後者では客観が主観の所産として措定されようとも、因果関係は従属的な役割を演ずるにすぎない。いや因果関係は本質的には止揚されている。なぜなら、産出作用は絶対的産出作用であり、所産は絶対的所産だからである。換言すれば、所産は産出作用の外では存立を得ず、産出作用に先立ちそれから独立に存立する自立的なものとして措定されてはいないからである。しかし、純粋な因果関係、すなわち独断論の形式的な原理においては、事情は異なる。この場合、所産はAによって措定されたものであると同時に、Aによって措定されざるものである。したがって、Aは全くただ主観であり、A=Aは悟性的同一性を表現するにすぎない。だが、超越論的な仕事においてたとえ哲学が因果関係を用いることがあっても、主観に対して現象するBは、それが対立しているということそのことからして、単なる可能性であり、あくまでも可能性に留まる。すなわち、それは偶有性であるにすぎない。かくて、思弁の真の関係、すなわち実体性の関係が因果関係のみかけのもとで超越論的な原理となっているのである。確かに、絶対的同一性のみが存在し、そこであらゆる差異と対立するものの存立とが止揚される限り、超越論的哲学はいかなる因果関係の実在性も認めない。ところが、現象が同時に存立し、したがって絶対者の現象への関係、それも現象の否定とは別の関係が存在するとされる限り、この哲学は因果関係を導入し、現象を従属的なものとするのである。この哲学は、それゆえ、超越論的直観を単なる主観的なものとなし、客観的なものとはしない。つまり、同一性を現象の内に措定しない。A=AとA=Bは両者とも無制約なままであり、A=Aのみが妥当すべきである。しかし、このことは、この同一性が単なる当為ではない真の総合において提示されてはいないということである。かくして、フィヒテの体系では、自我=自我が絶対者である。理性の全体性は非我を措定する第二命題を伴う。自我と非我の両者の措定というこの二律背反において、総体が出揃っているばかりではない。両者の綜合も要請される。だが、この総合には依然対立が残る。体系の思弁は対立するものの止揚を要求するが、体系そのものは対立するものを止揚しない。体系が行き着く絶対的総合は、自我=自我ではなくて、自我は自我に等しかるべしというものである。絶対者は超越論的観点にとっては構成されているが、現象の観点にとっては構成されていない。双方の観点はなお矛盾し合っている。同一性が同時に現象の内に措定されておらず、また同一性がやはり完全には客観性に移行していないがゆえに、超越論的であることそのことが対立するもの、主観的なものなのである。
第二章 フィヒテの体系の叙述
フィヒテの体系の基礎は知的直観であり、思惟自身の純粋な自己思惟、純粋な自己意識、自我=自我、「われあり」である。絶対者は主観ー客観であるが、自我こそは主観と客観のこのような同一性である。
通常の意識においては、自我は対立の内にある。哲学は客観に対するこの対立を説明しなければならない。対立を説明するということは、対立が他のものによって制約されていることを示すことであり、よって対立を現象として証明することを意味する。経験的意識が純粋意識の内で完全に根拠づけられており、純粋意識によって制約されているだけではないということが経験的意識について証明されるならば、それによって両者の対立は止揚されている。つまり、もし説明が完全であるならば、すなわち、純粋意識と経験的意識の部分的な同一性が示されているだけではないというのであればである。同一性が部分的でしかないことになるのは、経験的意識に残された側面があり、その面からすれば経験的意識は純粋意識によって規定されておらず、無制約であるような場合のみである。そして、純粋意識と経験的意識が最高度の対立の両項として振る舞うにすぎないのであるから、経験的意識が無制約である限り、純粋意識それ自身が経験的意識によって規定され、制約されていることとなろう。このようなあり方では、関係は相互関係となるであろう。それは互に規定し規定されていることを含むが、相互作用の内にあるものの克服しえない対立を前提するものであって、それゆえ分裂を絶対的同一性の内で解消することが不可能であることを前提するものである。
超越論的哲学が目指すのは、次のことだけである。すなわち、経験的意識をその外にあるものから構成するのではなく、内在的な原理から、原理の能動的な流出または自己産出として構成することである。経験的意識に対立している限り、知的直観、思惟の純粋な自己思惟は、概念として、すなわち一切の多様なものを捨象し、主観と客観の一切の不等性を捨象するものとして現れる。
これまで、我々は体系の純粋に超越論的な側面を記述してきた。そこにおいては、反省は何ら力を持たず、理性によって哲学の課題が規定され、記述されているのである。この真に超越論的な側面があるために、反省が支配している別の面は、その出発点から捉えることも、全体として捉えておくことも益々困難である。反省が理性的なものを転倒させて悟性的なものとしているのだが、その悟性的なものには常に超越論的側面への帰路が開かれているからである。したがって、示されなければならないのは、この体系には二つの立場、思弁の立場と反省の立場が本質的に属しており、しかも後者が従属的な地位を有するというわけではなく、両者が体系の中心点で全く必然的で結合されないままであるということである。換言すれば、自我=自我は思弁の絶対的原理であるが、この同一性は体系によっては示されないのである。客観的な自我は主観的自我に等しくならない。両者は全く対立し合ったままである。自我はその現象ないし措定作用の内におのれを見出すことがない。自己を自我として見出すためには、自我はその現象を否定しなければならない。自我の本質とその措定作用は一致しない。自我は自己にとって客観的とならないのである。
フィヒテは、知識学において、自分の体系の原理を呈示するために諸原則(三根本命題)という形式を選んでいるが、その不適切さについては先に問題とされた通りである。第一の原則は、自我が自己自身を措定する絶対的な措定作用であり、無限な措定作用としての自我である。第二の原則は絶対的な反措定作用であり、言い換えると無限な非我を措定することである。第三の原則は前ニ者の絶対的結合であるが、それは自我と非我を完全に分かち、無限な領域を可分的自我と可分的非我に分配することによってなされる。これら三つの絶対的原則は自我の三つの絶対的な活動を示している。絶対的活動がこのように複数個あるということから直ちに結果するのは、これらの活動と原理が相対的なものにすぎないということであり、それらが意識の全体性の構成に組み入れられる限り、観念的な構成要素にすぎないということである。ここにおいては、自我=自我は他の絶対的活動に対立している。このような立場では、自我=自我は、経験的意識に対立している限りの自己意識という意義しか持たない。そのようなものとして、それは経験的意識の捨象によって制約されており、第二原則と第三原則が制約されているのと同じく、第一原則も制約されているのである。絶対的活動の内容が全く知られていないとしても、その複数性がすでにこのことを直接に示している。哲学的反省は、根源的同一性に由来するとしても、まさしくこの同一性の真の本質を記述するために全く対立し合っているものを呈示することによって始め、それを結合して二律背反とするのである。これが、反省が絶対者を呈示する唯一の方法である。それは、絶対的同一性を直ちに概念の領域から取り去り、主観と客観を捨象する同一性としてではなく、主観と客観の同一性として構成するために他ならない。この同一性は次のように捉えられることはできない。すなわち、自己自身を措定する純粋な措定作用と純粋な反措定作用のいずれもが一にして同一の自我の活動であるというようにである。そのような同一性であれば決して超越論的な同一性ではなく、超越的な同一性だということになろう。対立し合うものの克服不可能な矛盾は存続するであろうし、両者の結合は活動という一般的概念の内での結合に還元されることとなろう。要求されているのは超越論的結合である。そこでは、二つの活動の対立そのものが止揚され、観念的な要素から真の、観念的であると同時に実在的な総合が構成されるのである。これを与えるのが第三原則、自我は自我の内で可分的自我に対して可分的非我を対立させる、というものである。無限の客観的領域、反措定されたものは、絶対的自我でも絶対的非我でもなく、対立し合うものを包摂し、対立し合う要素に満たされた領域である。それらの要素は、一方が措定されているだけ他方は措定されておらず、一方が増加するだけ他方は減少するという関係にあるのである。
だが、この総合においては、客観的自我は主観的自我に等しくない。主観的自我は自我であり、客観的自我は自我+非我である。この総合の内では根源的同一性は示されない。純粋意識、自我=自我と経験的自我=自我+非我は、後者が構成される一切の形式をもってしても対立したままである。第三命題が語るこの総合の不完全さは、第一命題の活動と第二命題の活動が全く対立した活動である場合には避けられえない。あるいは、根本において総合は全く可能ではない。総合が可能であるのは、自己自身を措定する作用と反措定作用が観念的要素として定立されている場合のみである。決して概念であってはならない活動が観念的な要素としてのみ取り扱われねばならないということは、なるほど、自己自身に矛盾しているように思われる。自我と非我、主観的自我と客観的自我、結合されるべきものが活動ー措定作用および反措定作用として表現されようが、産物ー客観的自我および非我と表現されようが、それ自身においても同一性を原理とする体系にとっても何の違いもない。全く対立し合っているというそれらの性格によって、それらは直ちに観念的にすぎないものとなるのである。フィヒテはそれらの純粋な観念性を認めている。対立し合っているものは、フィヒテにとっては、総合の前では総合の後とは何か全然別のものである。総合の前では、それらはただ対立し合ったものにすぎず、それ以上のものではないというわけである。一方は他方でないものであり、他方は一方でないものである。一切の実在性を欠いた単なる観念であり、加うるに単なる実在性の観念である。一方が登場するとともに、他方は否定されている。だが、一方は他方の対立物であるという述語の下でのみ登場することができるのであり、したがって、一方の概念と同時に他方の概念が登場し、一方を否定するのであるから、一方すらが登場しえない。したがって、何も存在してはいないわけである。そして、気づかれない間にあの単に対立し合っているにすぎないものの下に基体を押し入れ、それらについて考えることを可能にしたものは構想力の有り難い虚構であったにすぎない。対立し合う要素が観念的であるということから次のことが結果する。すなわち、それらは総合の活動の外では何ものでもないということであり、総合の活動によってのみそれら相互の対立とそれら自身が措定されているのであって、それらの対立は総合の能力を理解させようとする哲学的構想力のためにのみ用いられているにすぎないということである。そうであるとすれば、生産的構想力とは絶対的同一性が活動として示されたものだということになるであろう。この活動が産物たる限界を措定することによって、同時に、対立し合うものを制限し合うものとして措定しているにすぎないのである。生産的構想力が対立物によって制約された総合の能力として現れるということは、反省の立場に対して妥当するにすぎないこととなろう。反省は対立し合うものから出発し、直観を両者の結合として捉えるにすぎないのである。だが、同時に、哲学的反省は、このような見方を反省に属する主観的な見方として示すために、次のようにして超越論的観点を回復しなければならない。すなわち、あの完全に対立し合う活動を観念的要素以外の何ものとも認めず、絶対的同一性を顧慮すれば全く相対的な同一性であると認識することによってである。絶対的同一性においては、経験的意識はその反対物たる純粋意識と同様止揚されている。純粋意識は、経験的意識を捨象するものとして、対立を帯びているのである。この意味においてのみ、自我は対立し合う二つの活動の超越論的中心点であり、両者に対して無差別なのである。それらの間の完全な対立は、それらが観念的であることに対してのみ意義を有するにすぎない。
だが、第三原則で表現されている総合においては、客観的自我は自我+非我であり、総合は不完全である。すでにこの総合の不完全さがそれ自体次のような疑惑を喚起する。すなわち、対立し合う活動は相対的な同一性、観念的な構成要素としてのみみなされるわけにはいかないのではないか、ということである。人がそのようにみなしうるのは、総合に対するこれらの関係にのみ目を向け、第三の活動と同様二つの活動が有している絶対性という称号を捨象する場合であろうというわけである。
だが、自己自身を措定する作用と反措定作用は互にこのような関係に入るはずはないし、総合の活動に対してもそうである。自我=自我は絶対的な活動であり、どのように考えても相対的同一性および観念的同一性とみなされるわけにはいかない。この自我=自我に対しては、非我はあくまで対立したものである。だが、それらを結合することが必要であり、思弁の唯一の関心である。しかるに、全く対立し合っているものを前提にしてどのような結合が可能であろうか。明らかに、本来何の結合も可能ではないようである。あるいは、それらの対立の絶対性が少なくとも部分的に否定され、第三の原則が必然的に登場せざるをえないとはいえ、対立が根底にあるがゆえに部分的な同一性が可能であるにすぎない。絶対的同一性はなるほど思弁の原理ではあるが、それの表現である自我=自我とともに規則に留まるにすぎない。その無限の遂行が要求されているが、体系において成就することはないのである。
主要な点は次のことを証明することでなければならない。すなわち、自己自身を措定する作用と反措定の作用は、体系においてはあくまで対立し合う活動であるということである。フィヒテの言葉はなるほどこのことを直接に語ってはいる。だが、この克服不可能な対立は、まさしくその下でのみ生産的構想力が可能である制約であるとされている。生産的構想力は理論的能力としてのみ自我であるにすぎないのであって、対立を超えることはできないのである。実践的能力にとっては対立はなくなる。そして、実践的能力こそは対立を止揚するものである。したがって、証明されるべきことは、実践的能力にとっても対立は克服不可能であり、実践的能力においてすら、自我は自我として自己を措定するわけではなく、客観的自我は同様に自我+非我であって、実践的能力は自我=自我に行き着くことはないということである。逆に、対立が克服不可能であることが、体系の最高の総合が不完全であることから明らかとなる。この総合において、対立は依然として存在しているのである。
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