イエナ体系草稿Ⅱ 論理学と形而上学(9)

 B 実践的な自我
 理論的な自我が形式的な、しかし絶対的な自分への反照として自分を見出してきたとするならば、その自我は実践的な反照としては絶対的に行届かされた反照として自分を見出さねばならない。
 この形式的で絶対的な反照は一重なものとして自分を自分に対向して個別性として、自我の本質それ自体である被規定性として見出すのであり、そして自我はこの被規定性を、この対置関係を止揚しなければならない。自我は同様に被規定性の側からすれば自分に同等とならねばならず、条件の全き体系を、イデア的な発源を自分へ取り戻さねばならない。この被規定性は類の、現存する本質としての絶対的な本質の否定として定立だからである。

 この被規定性の止揚は常に自我によってその同じ被規定性の規定であり、その生産物は合成物、常に繰り返し新たに規定されて他の自然本性を本質的に有していたはずの合成物であり、そして単子の仕方からして、自我の規定が他に向けられている時、もしその他がなければ自我はないからである。そして自我の否定は抽象にすぎず、全く同様に他の自我がその自我に取って代わらねばならないのである。
 自我は被規定性一般であるのではなく、自我の本質に同等な被規定性あるいは絶対的な被規定性であり、類の止揚として定立された現存である。自我は絶対的な被規定性であり、絶対的に普遍であり他の全体である。被規定性は、自らが個別性としてはそれ自体で普遍的な被規定性であることによって、自分を絶対的な被規定性へと昂めてきたのである。規定された自我は理論的な自我として自我なのである。自我が規定された自我として自分を自らの絶対的な反照に対向して定立する限り、自我は理論的な自我であることを、被規定性を自らの固有で根源的な被規定性としてではなく定立することを止めてしまってはいないのである。被規定性は自我それ自体ではないのである。被規定性を自分へと取り戻すこと、根源的として認識することは、その被規定性の止揚として定立することである。被規定性は個別性一般において絶対的な被規定性へ自分を昂めてきた。類は対置関係の、現存の否定の定立としてそれ自体で無限性であり、そしてそれをここにおいてなお否定の定立とすることは、否定の定立とされた単一性がいかなる被規定性でもなく、絶対的な被規定性であり、普遍と同じ一重である無限性の認識である。一つの個別的自我は全く世界過程の仮説に属するのであり、この仮説においては多くの個別的な自我が、自分へ反照したものの交互に受動的で行動的でもある一つの多性が現れる。
 この現存は実在化された類において自分を止揚するのであり、被規定性を類からの由来として、無関心な分離として定立するはずだった自我は、自分における先の段階へと還帰したのである。被規定性は普遍的な自我に対する分離としては純粋に差異ある被規定性である。自我は全ての自分を自分の内に取り戻したからである。自我は自らの固有な円環と他の円環との円環であり、対置されたものの自分にあっての円環であり、そして対置されたものにとってはそれ以上の何ものも残ってはいない。自我へと還帰するこの被規定性は無限性それ自体であり、類において現存する自分にあって止揚された比関係である。そしてこの無限性はこのことをもって直接的にはまさに、自我を見出す反照と自我それ自体である反照との、あるいは自分を見出す反照とその反照が自分を見出すことによって反照それ自体にすぎないその反照との、それら双方の反照の単一性である。
 自我はただ自分を見出しつつある一つの自我としてあるにすぎず、自我が自分を見出す少し前は、自我は分離されずにいるということが、だが自我は自我それ自体の見出すことであるというこのことが、自我の絶対的な無限性である。そして自我が自分では未だなお自分を見出していないという対置関係が、実践的な自我の対置関係である。自我の内へと沈められた被規定性は、自分を自分へ関係づけるにすぎない同等なものとして定立された無限である。自我は自らの個別性において普遍である。自我の根源的な被規定性は自我の絶対的な個別性、自我の無限性であり、被規定性それ自体にあっての止揚された被規定性であるが、この止揚された被規定性のみが規定された自我として独り見かけであり、この見かけを実践的な自我が止揚するのである。理論的な自我が、その自我の対置は普遍であると認識するように、実践的な自我は、事実上この対立は普遍それ自体であり、この被規定性は絶対的な被規定性であると認識するのである。自我は理論的な精神一般として、それにとっては被規定性がそれ自体で絶対的な被規定性、無限性であるその当の実在化された実践的な自我として、絶対的な精神なのである。

 C 絶対的な精神

 概念が自らの実在性において他の概念になり、このことによって総体性として、自分への反照として他の圏へと移行するというこれまでの進行はここで停止する。総体性は絶対的な総体性である。全ての被規定性が自分を止揚してしまっており、あるいは絶対的な被規定性それ自体だからである。認識は自分として、自らが自分に閉されてあることによって、絶対的な精神において実在化されている。認識の理念は、個別性を、現存を表現し、多が無関心なものとして、いずれもが自らの反対物を無視するものとしてある定義の側と、普遍性である一重な被規定性の形態における先の開き拡げられた個別性を自分に有する他方の側とが一であるということである。認識はそれがために形式的なのだが、それは認識の自分への反照が十全であるだけだからであり、一般に個別性は同時にそれの反対物、普遍性でもあるからである。しかし先の個別性は他の規定を自分から閉め出す規定された個別性である。その個別性は純粋な個別性としては点であり、一重であるが、しかしそれがためにその個別性の被規定性の多累性に対立され、これら被規定性の閉め出しとしてはその個別性の対立した質なのである。この個別性はこれら質の単一性であるが、しかし個別性とはいえ、否定的な一であり、ただ他の一への関係において閉め出されたにすぎぬ一であって、その個別性へと関係づけられた被規定性、それら被規定性の否定的な単一性がその個別性ではない被規定性への関係においてあるのではなく、むしろ全体、無関心な普遍性にすぎず、この普遍性が被規定性を否定的にではなく触発するのである。その個別性は自らの対置によってのみこの全体であり得たはずであり、これら対置がしかし閉め出されているからである。個別性はそれがために量的な仕方でのみ否定的であり、あるいは個別性は外的に制限されている。そして個別性の制限の肯定的な否定は個別性それ自体ではなく、他の否定であり、同時に制限による個別性への新たな定立でもあるが、これら制限は個別性において、個別性にとって同様に無関心である。この個別性は自らの被規定性において一重な個別性として定立され、全ての被規定性がその個別性へと再述されているので、普遍の特殊性として、この個別性は規定され、絶対的ではない特殊性にすぎず、そして普遍は、自分を度として、いかにも特殊性の全き総体性を自分の内へ包含しはするが、しかしこれら特殊性は同様に相互に無関心なのである。
 証明は普遍のこの度あるいは普遍の構築であるが、この構築は、定義がそれら被規定性に普遍性が点として対置されている純粋な被規定性へと分割するようにではなく、それら自体が全体の本性を自分にあって有する分割部分へと分割するのであり、その証明において同じ分割部分を相互関係によって補足し、その結果、普遍は分割部分の普遍的な単一性として、否定的な単一性として描出し、そして普遍でも個別でもあるが、この個別はしかし今は真の意義において、その普遍において包含され対置された被規定性への関係における否定的な一という意義において個別なのである。認識のこの概念は形式的な自分へと還帰することである。普遍は自分へと分割される。規定は外部の規定ではない。普遍は素量ではなく、素量が普遍の内に包含されているのである。しかし被規定性の相互無関心性、被規定性が全体の本性を自分において有し規定されそして自分にあってであるという無関心性は自分を同時に止揚する。証明の運動は、被規定性が事実上は相互に差異あり、関係においてあるにすぎず、したがって理念的であり、そして最初の度は恣意的で外的な度ではなく、否定的な単一性によってのみ規定され、無関心に現象するものの相互関係を有し、その結果、全体の個別化は絶対的な単一性、その全体において現象する被規定性、絶対的な被規定性なのであるが、それは被規定性全てがその全体へと落ちることによってであり、そしてその全体はしたがって被規定性の単一性であるが、この単一性においては被規定性が同様に止揚されているということを示すのである。
 全体は、最初のモメントとしては、受動的、自分への関係、自分と同等として現象し、そして全体の分離は何か或るものとして現象するが、これに対しては絶対的な偶然とし、全体は無関心であり、その何か或るものを全体は他としては触発しないのである。そして度の意味はここにおいては全く隠されたものであり、言い得ないものである。分割部分の相互関係は現れつつ、その無関心性を止揚する。分割部分は自分を比関係として、モメントとして示すが、モメントは単一性として自分を多性と比関係させ、その結果、単一性と多性とは同等なのである。これまでの無関心な比関係は真の比関係になり、そして先には普遍の外部でこの普遍に他の比関係があったように、今や普遍それ自体の比関係がある。これまでの分割部分はこうして全体として自分を分割部分に対して比関係させるのであり、そしてその全体が一なる全体の分割部分であり、これら分割部分が全体として自分を分割部分と比関係させるということによって、これまでの分割部分は、分割部分が全体であり、そしてその全体から分離した他の分割部分それ自体がその全体と同等であることにより、自らの被規定性において理念的であり、この被規定性がそれの反対物であるがゆえに、止揚され、そして全体は絶対的な個別性である。その個別性の否定はその個別性自体であり、そして多への閉め出しの関係なしにその個別性なのである。そして分割部分としての現象の現存は現象の存在がそれ自体で差異ある関係であることによって、現象のイデア性と十全に落ち合うのである。全体の先の現存は、その全体の度に対置されている全体として、全体それ自体の比関係である。全体は普遍と特殊の両モメントとしてこの対置関係の単一性であるが、これら両モメントは相互に同等であり、そして両モメントの前者は全体を全体のモメントとして表現し、後者は同じ全体を度として、同様に全体のモメントとして表現する。その結果この度は十全に自分へと還帰してしまっている。なぜならその度は多性でないだけではなく、モメントからなる多性でもないのであり、そしてこれらモメントは差異あるモメントとして自らの関係にすぎない度であり、そしてこの関係が全体であるからである。この反照の向け換え点は、度がただ差異ある度として、差異ある関係として自分を示すにすぎず、そして比関係へと、モメントとしての分割部分の存在へと移行するということである。先の最初の度はこれからしてそれ自体ではこの比関係によってのみ第二の度であり、その比関係は偶然的な何ものでもないのであり、証明において必然性として現象するものは必然的な内容、構築の規定であり、したがってその比関係は、自らが差異ある単一性である限りは、自分をただ構築するにすぎないのであるが、それはその差異ある単一性が初めての証明において現象するのと同様である。

 この認識においては個別は普遍と閉じ合されている。しかしこうして自分へと運動する全体はいまだ認識に対する一つの規定された内容なのである。認識はただ認識のこの運動にすぎず、この運動は絶対的に自分なのである。認識のモメントはしかし認識自体ではなく、こうして認識は形式的であり、個別性は認識において絶対的な個別性であり、外へと向け換えられた個別性である。無関心な分割は未だそれがそれと差異ある分割とへの分割であるという
洞察をもっては始められてはいない。認識の過程のこれら双方のモメントは未だ単一性として、最初のものとして、絶対的な内容として定立されていない。このことがあって初めて、先の最初の分割は直ちに全体それ自体によってあるのである。認識は内容として分割されるそれ自体ではなく、認識は内容にあって直接的にこの必然性である。
 証明において初めて構築の必然性が自分を示す。この構築の必然性は証明の分割でなければならない。こうして全く認識は自分として定立されている。
 自分のこの理念は形而上学を実在化するが、それは認識が自らの固有な内容になり、反照の円環がこの運動として、自らの円環を通り抜けるということによってである。形式的な認識は、循環から自分を区別する円環として、自分の内に閉されており、自らの内容の被規定性に対して無関心であり、一つの単子であり、あるいは理念でもあるが、この理念は自らの被規定性によっては触発されないが、しかしこの理念は、自らに多があるということによって規定されている。そして理念に多があるというのは、その多が自分を自分への関係として受動的であり、外的な被規定性を有し、絶対的な被規定性としては多に対向してはいないということによってなのである。否定的な単一性と普遍が両モメントとして、一度だけ理念にあることによいって、互に他から歩み出すことは分割だからである。両モメントの単一性、全く円環は自分に立ち向かいはしないからである。

 認識は自分にあっての理念であり、理念一般である。この単子は無差異なものの被規定性であり、そのことゆえに自分へと向けられ、その結果その単子は外部のものを否定し、無視する。その単子の被規定性はこの否定的な側を外に有しているにすぎない。その被規定性はこのことをもって自分における総体的な実体性比関係であり、そしてその被規定性の実在化は同じ実体性比関係の仕方に従っている。それは先の全く理念的な比関係においては、関係の内に立つものが本質的にはその比関係が関係においてそれとしてあるものにすぎないが、それに反してここにおいては実在化において外部の関係への歩みが認識へと閉ざされた円環であるということにすぎない。存在の比関係が普遍において自分を実在化するように、単子は最高の本質において、絶対的な同等性において自分を実在化するが、この同等性においては対立され二重化された認識が絶対的で一重な単一性に留まってきたのである。最高の本質は絶対的な普遍として、自分にあっての全体、反照それ自体の全体、自分に同等であること、全体の止揚である。最高の本質は絶対的な本質のモメント、絶対的な単一性、そして一重性であるべきである。単子あるいは理念は、無関心な多性であることによって、それら単子の相互運動においては一般にただ自分を止揚することのみができるにすぎない。なぜならその単子の被規定性は、その単子が閉め出す限りでは、比関係の意識を有するにすぎないという性格をとるからである。その比関係は単子において理念的だと規定され、肯定的な単一性及び否定的な単一性が単子において同時に無関心なのである。したがって世界過程あるいは類過程にあって自分を止揚するのは、単子にとっては規定された単子として形式的な認識をもたらした被規定性が消えゆくというということなのである。
 ここにおいては、単子の本質の否定性、普遍性があるにすぎない。我々にとっては理念としてのこの普遍が認識に対して向け換えられているのだが、この理念は現存する理念からなる比関係の否定的な単一性としてあり、あるいは実在的に留まる類、一つの無限性が認識に対して向け換えられているが、この無限性にとっては単子の被規定性は外へと、単子の自体維持における、あるいは単子の理念におけるこの被規定性にとってのように、向け換えられた被規定性ではなく、一つの被規定性なのである。そして両被規定性の無差異においては両被規定性の被規定性が没する。単子の自体維持は単子の他の認識の否定である。この他の認識は単子と同様に認識であり、単子の否定はこの他の認識においては同様に止揚された否定になる。単子の自体維持は自分を昂めるが、それは単子の他の認識の否定が自分を止揚することによってであり、それは、その他の認識が単子にとって単子それ自体になることである。否定は他の認識の否定ではなく、本質的に個別としての単子の否定である。そして否定は単子にとっては絶対的な普遍性の彼岸なのである。

 自体維持の過程のモメントは規定の外的な止揚及び類となることであり、他方のモメントはその止揚された外的な否定の止揚及び単子と同等な存在としての被規定性の存在であり、単子にとっての存在であるが、しかし同時に単子にとっての、被規定性一般の止揚でもあり、絶対的な自分の成である。被規定性は単子になり、先の単子は認識になる。それから単子にとっては、その被規定性が単子に同等であり、そのようにして単子の本質が単子にとって止揚されている。こうして単子は外的なものを閉め出す被規定性として否定であり、自分にとって止揚されているのであり、そして単子にとってはただ本質的な存在のみが外部のものとして、絶対的な彼岸としてあるのである。事実上この外部のものは我々にとって単子の内部のものである。単子は自らに根源的な被規定性として自らの被規定性と落ち合う。単子にとっては単子の彼岸は最高の本質であり、そして単子は個別性として止揚されている。最高の本質はしかし事実上は類であり、この類においては個別性は止揚された個別性として、無化されたのではなく、無限性の零を通過した個別性としてあるにすぎないが、単子にとっては無化された個別性としてあるのである。個別性の自体維持は渇望にすぎず、この渇望が、先の零を通過して個別性を救うという、また被規定性の剥ぎ取りをもって個別性を不死だとして、絶対的な個別性として、維持するという、そのことへ向かっていくのである。

 個別性は事実上は、単子の対置を自分として直観するというそのことによって止揚されているのだが、それは外的な、量的な被規定性としてであり、絶対的な、純粋な個別性としてであり、一重な同等なものとしてである。しかし個別性が同等であるのは未だ単子にとってではなく、この単子にとって個別性は自分を無化するにすぎない。個別性はしかし事実上は自分を無化しないから、この無化は当為にすぎない。個別性は絶対的で一重な個別性として自我であるが、この自我にとって被規定性は、外部の被規定性としてではなく、自分を無化を当為とするような被規定性として規定されているのである。そして自我は自分にとってはただ理念にすぎない。単子は理念としてこの被規定性において自分に立ち向かわされており、あるいは自分にあって理念的な単子にとっては、自我にとっては、自我は未だないのである。自我はしたがって被規定性の自分を全く閉め出したのである。単子はただ自分への関係においてあるにすぎず、あるいはその単子は自我の根源的な被規定性であり、一つの普遍、自分にあって被規定性として止揚されたものなのである。しかし再び無化されるものにすぎず、もはや自分と自我による規定との合成物ではなく、自我によって端的に規定された合成物なのである。しかし自我はそれ自体でこの規定であり、普遍性と特殊性との合成物、自分に対置されたものなのである。この他方の自我は自我に同等である。しかし両自我は自分にあっては不同等なものである。個別性は普遍性において、その個別性がもはや外的な個別性ではないという具合にのみ消えいったのであるが、しかし個別性はなお同じ鎖あるいは線であり、ただ相違する単子によって止揚された個別性としてのみそうなのである。
 単子は自分で規定された単子なのである。しかし単子はこうして自分から自分を分離し、自由になり、そして被規定性が理念の絶対的な被規定性として認識されることによって、単子は無限性であり、そして実践的な単子は自分を本質的には無限だと認識する。その結果、単子が個別的な単子として普遍的な単子としての自分に立ち向かい、そして単子が自らの個別性を絶対的な個別性として定立する。理論的な自我は自分を最高の本質として、その内へと理論的な自我の実在化が我々にとっては移行してしまったものとして、あるいは理論的な自我を自らの絶対的な彼岸として定立してしまったものとして見出すのである。理論的な自我は自分を絶対的に同等なものとして見出すが、この同等なものは全ての被規定性の消失から由来している。理論的な自我は自分においてその対置を自分として、反照の閉ざされた円環として見出す。理論的な自我は精神であり、理性的である。不死性と最高の本質の彼岸への渇望はより低次な圏への精神の還帰である。それは精神が自分にあって不死であり、そして最高の本質だからである。
 しかしこの精神はそれ自体が形式的な精神、最高の本質ではあっても、絶対的な本質、絶対的な精神ではない。その精神は自らにとってはただ自分に対置されたものの一方の側にすぎず、その精神の見出しはただ分離によってであるにすぎないからである。その精神は自分を現存するとして見出すのではなく、現存を一つの否定された本質として見出すのであり、自らの自由性において概念把握され得ぬ制限の内に閉じ込められている。その精神は、不同等なものを、被規定性を、彼岸として見出すのである。

 しかしこの被規定性は我々にとっては無限性である。根源的な被規定性は自我の自由性の彼岸に存している被規定性としてあり、一重で自分に同等なものとして、関係としてある。しかしこの被規定性は類の過程の被規定性としては、自らが自分に関係づけられているがゆえに、それ自体では反照の先の絶対的に一重なものであり、この一重なものとして自我は自分を見出したのである。
 自我は自分を見出した一重な反照として対立し、そして被規定性を止揚するという自らの被規定性として、被規定性に対して向け換えられている。自我は、自らの被規定性からして、一つの個体あるいは一つの個別に対してと自分に対して向け換えられているのではなく、根源的で普遍的な被規定性として、自分にあっての被規定性として、あるいは事実上、普遍に対して向け換えられている。自我の自体維持は自分を見出した反照としての自我の維持であり、否定された個別性、類であるところの個別性としての自我の維持である。形式的な精神に対置されたものは個別性が類の内にあるような個別性であり、無限性である。そして実践的な自我は、もはや自分へ関係づけるのではなく、類としての自分へと関係づけるのである。自我は普遍的な自我として維持するのである。自我は一つの欺きにすぎず、それは自我が自分を被規定性に対して向け換えることに実践的であろうと欲したことによってであるが、それは自我が自分をそれへと向け換えるその当のものが自我それ自体であり、そして自我それ自体が、自らが見出した通り、一重な無限性であるからである。自我がそれへと向け換えるその当のものは一重それ自体あるいは無であり、自分を自分へ関係づけることであり、受動的なものである。自分を見出した自我あるいは精神は両反照の単一性であり、関係である。両反照の一方は自分を維持する反照であるが、この反照は普遍になっているのであり、他方は類の反照、普遍的な反照であるが、この反照は自分において絶対的な個別性を有している。この精神は自分において完了している。精神をなお我々にとって、また精神が精神にとって実践的たらしめるところのものは何であるか。それは精神が両反照の単一性として自分に到来し、自らの他を自分の外部に有し、そしてその他に対して自分を維持しようと欲するということであり、我々にとってそれは、精神が自分を同等なものとして認識しはしたが、しかし不同等それ自体を自分と認識したのではなく、あるいは未だ無限性を無限性として認識したのでもない。精神は我々にとっては無限であるが、しかし未だ自分にとってそうなのではなく、自分にとっては精神はただ自分に同等であるにすぎない。精神は自分を直観しはするが、しかし無限性を直観するのではなく、自分を他の自我として直観するのでもない。
 形式的な精神は自分にとって形式的なのだが、それはその精神が一重なものとして自分に反照の無限性を対向させ、無限性の純粋な概念を対向させるというように形式的なのである。なぜなら無限性の実在性は比関係でも、類の過程でもないからであり、それは類の過程への実在を、その精神が自分に同等だと定立するからである。その精神はしかし自分に自分からの無限性を対置する。無限性は、その精神が自分を現存するとして、固定した点として止揚したからである。この止揚はその精神の対象であるが、しかし止揚されたものとしてあるのである。その精神が自分を見出したということは、その精神が自分を止揚したということである。止揚されたものはその精神にはそれに対してその精神が実践的である一つの純粋に否定的なものであり、止揚されたものはその精神の無である。
 その精神の現存に対してではなく、その同じ精神の無に対して、その精神は向けられている。その精神の現存は、自分を精神として見出したということであり、そしてその精神が精神として戦うところのもの、無なのである。その精神が精神であるということによって、その精神の自体維持は、見出された無として、その精神の絶対的な自分を自分へと関係づけることであり、認識への関係である。その精神の否定は自分を見出していなかったことに対して、精神ではないことに対して向けられており、自分で他なのである。しかし自分で他であるものはその精神の反対物であり、自分を自分にあって止揚するものであり、無なのであり、そして再びその反対物、絶対的な非静であり、絶対的な概念、無限性なのである。
 精神はしたがって自分を見出したこととして維持し無に対して、無限性に対して向けられており、精神の自分との同等性はこの絶対的な不同等性に対して向けられている。しかし無、無限性、絶対的な不同等性はそれ自体で絶対的に一重なもの、絶対的に自分へと還帰したものであり、端的にはただ自分を自分に関係づけるものにすぎず、そして無、無限性、絶対的な不同等性は精神と同じである。精神は他としての他を見出すのであり、それも絶対的に他の他として、自分を止揚する他として見出すのである。あるいは精神はただ自分を自分として直観するのみならず、また他の他としての他の他を自分として直観する。精神は自分に同等であり、そして他の他に同等である。他は自分を止揚し、自分に同等なのである。
 この単一性は絶対的な精神である。いかにして無限なものが有限なものになるのか、あるいはいかにして無限なものが出てくるのかということは問われることが出来ないのであり、そしてこのような概念欠落の諸表現が何であるのかということは問われることが出来ないのである。なぜなら自分と同等なものは無限を同等として認識し、そして自分を自分に同等として、無限として認識し、あるいは他様にあるものから自分に到来する自分に同等なものとして認識するのである。精神が無限性をこうして認識することによって、精神は自分を概念把握するが、それは精神の概念把握は、精神が他の自分へと関係づけられたとして自分を定立するということだからである。精神は自分を概念把握する。
 このことが絶対的な精神の絶対的な循環である。自分を自分と同等だとして見出したものは、自分に不同等であり、それはそれ自体とは別のものである一として自分を直観するのであり、それは無限である。そしてこの無限性はそのものそれ自体であるが、それは他が他それ自体の反対物であり、その他が自分に同等なものであり、そしてこの自分に同等なものが精神であり、この精神がこうして不同等なものにおいて自分を直観するからである。
 絶対的な精神においては構築と証明とは絶対的に一である。先の分割は、証明において自分を一として描出する。すなわちこの証明においては自分と同等な単一性と無限性とは自分を一として定立するのであり、そして自分に同等な単一性と無限性との双方のみが独りまた構築の分割両部分なのである。構築それ自体は構築として必然的である。なぜなら構築はそれ自体で証明と一であり、あるいは精神は自分にあって、精神が自分を精神として見出すということであり、そしてその内において精神が自分を見出すもの、あるいはむしろ精神が自分として見出すものは無限性であり、精神はただこの自分を見出すものとしてのみあり、そしてこの自分を見出すものは自分と自分の他への精神の分割の必然性であり、自分にとってである絶対的な他あるいは精神それ自体にあっての他、無限であるその当のものであるからである。
 絶対的な精神は一重な、あるいは自分を自分へ関係づける無限性である。この一重な本質は無限として直接的に他のものであり、その本質それ自体の反対物である。その本質は一重なもの、自分を自分へ関係づけるものとして規定され、受動的なものであり、そして自分と同等なものはこの自らの他に立ち向かう。自分と同等なものが他であるということは、自分を他への関係として定立するということである。そしてこの他は、先の最初の他としての、自分に同等としての他である。しかしこの他は、あるいは受動的なものは無限であり、自分の反対物であり、受動的なものは他においてある他である。同様に行動的なものは反対物それ自体であり、自分に同等なものにおいてある他のものである。そして他、自分を維持しそして他の否定としての自分と同等な精神の関係、すなわち自分を自分へと関係づけるものは直接的にはこうしてその他とは別の他の他であり、あるいは自分に到来する存在である。精神が他を否定することは直接的には他の存在であるが、それは他の否定が自分を自分へと関係づけることであり、そして他はまさにこの自分へと関係づけることであるからである。

 絶対的な精神は自分と同等なものであり、この自分と同等なものが自分をただ自分へとのみ関係づけるのである。精神としての精神にとってはまさに自分へのこの関係が受動的なものである。なぜなら精神的なものとは、自分と同等なものがその自分に同等なものの他において自分を見出すということだからである。自分に同等なものはしかし自分を他として見出すその当のものではない。自分と同等な精神はそれがために精神が自分として見出すまさにこの他それ自体なのである。精神の自分への関係はしかし、この他としては、直接的には同様に精神それ自体の反対物、あるいは精神が自分として見出すその当のものなのである。精神の自分へのこの関係、精神それ自体にあって同時に精神それ自体の他であるところのものは無限なものである。無限なものは論理学の第一部あるいは了解性の論理学と名づけられる。単一性あるいは自分との同等性は自分で絶対的に他のものになる。単一性は多なるものになり、そして全体は、単一性と多性との自分に同等で無関心な単一性としては、自分で無限になるのであり、この無限性は無限として端的に自らの自分にとってであることの内において、そして無限なものは、単一性の他として、同時にただ自らの対置されたものへの関係においてのみ、自分にとって定立し、自分でそうした単一性として、あるいは比関係としてあり、それ自体で他の、そしてこのことをもって二重化された、比関係なのであるが、それはこの比関係が同様に他一般の性格をもって記号づけられているからである。無限なものの分割並びに無限なものの分割部分それ自体の存在は、まさにそれがために、いかなる無関心な存在でもなく、自分を自分にあって止揚するものであり、それは定立されたものが自分にあってはそのものとしてその定立されたものが定立されているその当のものとは絶対的に別の他の定立されたものであるということによって成立する。定立のこの他は他の内へと定立されたものの移行である。そして定立され、自分を自分へと関係づける無限性は同時に自分にあって他の定立になるべき自分における運動であり、そして捉われていない自分を自分へと関係づけることは反対に自分において無限である。
 一重な関係の体系としての無限は、この一重な関係は自らの反対物になり、無限性になり、そして自分を対置された双方の無限に、あるいは比関係に分割するが、この無限はこの一重な関係のこの構築において自分に同等なものにと、自分への運動の円環にと移行したのである。この体系の全き内部の運動は自分にあって現れるのである。運動させられたものはしかし理念的なものであり、止揚されたものとしてのみ定立されている。認識は無限性の自分であり、絶対的な不同等性における絶対的に同等なものであり、一重な関係と無限性との単一性であるが、この一重な関係と無限性とはこの単一性において分かれ落ちたのであり、そしてそれら自体でその単一性の絶対的な双方の腕あるいは双方のモメントなのだが、その結果、この第二の腕は不同等な腕として再び無限性それ自体であり、一重な関係それ自体もただ最初のモメントにすぎないのである。
 認識は自分を他あるいは無限性へと関係づける精神としての自分であるが、無限性の側からは精神は、自分へと関係づけられたとして自分で他の自分に同等なものであるとみなされており、あるいは精神自らの側からは、精神が自らの他、無限性から自分へと到来すると見なされている。そして再び初めて無限性と認識とは対立関係を作るのであり、あるいは認識それ自体にあっての対置関係を、あるいは定立されている対置関係を作るのである。無限性、他は、ここにおいて初めて自分にとってなのである。そして認識それ自体と認識の内容とは認識それ自体にとって分かれ落ちるが、それは先にはただ我々にとってのみ無限なものは自分を分割したにすぎず、自分にとってはしかし無関心に分かれ落ちたのである。無限なものは自らのモメントにおいて本質的に関係づけられているが、その無限なものにとっては無限はそのように関係づけられてはいなかったのであって、本質的には無限なものの内部のもの、あるいは定立されていないものだったのである。
 認識は初めてそれら双方のモメントであり、認識はそれらモメントの本質的な関係、対置された無限性であり、そして認識にとっては無限はその同じモメントの互に他から分け維持することとして、無関心な内容としてあるのである。我々にとってはこれまではこの無関心性があった。換言すれば我々は無関心な単一性、互に並んであるいは互に他に次いでであったし、またその同じ互に並んであるいは互に他に次いでの運動でもあった。無限は自らの成において我々の対象になった。無限の他はまた認識の運動より以外の我々にとっての他でもあったのである。こうして認識の運動、差異あるとして、モメントとして定立することはここにおいては無関心な内容へと関係づけられたとして定立されている。認識において初めて現存するこの対置関係は無限性のモメントであり、それも自分への関係としてそうなのであるが、この自分への関係は自分で一つの他になり、差異の内へとあるいは精神への関係の内へと到来し、この精神は無限から、自分にあっての他からとして、自分へと到来するが、しかし自分にと他から到来しつつあるとしては、この他を自らの対置関係として有する。
 形而上学は精神のモメントであるが、この精神が自分を見出して来たのであり、自分にあってであり、自らの他において自分を見出すのである。認識に対置されたものがそれ自体で認識になり、その内容は精神になり、それ自体で精神になり、そしてこうして精神は自らの他において自分を見出したのである。我々にとって自らの本質における自分であったその無限は、こうして精神それ自体にとって無限なのである。こうして自らの他において自分を自分として見出した精神は純粋にただ自分へとのみ関係づけられているのであって、他へと関係づけられているのではない。換言すれば精神は再び自らの最初のモメントであり、一重な関係一般であり、あるいは一重な関係の実在性におけるその同じ一重な関係であり、無限性である。

 精神のこの最初のモメントは絶対的な本質の理念であり、ただ絶対的な精神としてのみあり、精神が自分への自らの関係から自分で他のモメントになるというこのことである。その自分への関係は精神にとって、換言すればこの関係それ自体にとって、無限なものであり、我々にとって、換言すれば認識、自分へと到来する精神にとってこの最初のモメントは他なのである。こうして精神であり、無限において自分を見出す精神は自分へとのみ関係づけられており、あるいは精神は自分に同等である。精神は再び自らの最初のモメントであり、そして自分へと十全に還帰している。
 しかしこの還帰も未だ精神それ自体の一つの他なのである。精神のこの全き理念はただ理念であるにすぎず、その全き理念それ自体は自分で最初のモメントである。精神は、自分への還帰のこの運動として、自分にあっての内において、認識の内容において、自分を見出したのであり、そしてただ自らの他におけるこの単一性としての精神であるにすぎないからである。精神はこうしてただ絶対的な精神であるにすぎないのである。しかし精神は自分にはそれ自体で絶対的な精神であるのではなくて、自分を絶対的な精神として認識したのでもない。精神は我々にとってこのものであるのであって、精神それ自体にとってなのではない。形而上学は精神の成であり、そして精神は理念としてあるのである。この精神は絶対的な精神であり、他のものを自分として定立し、自分へと還帰する無限性である。しかしこの還帰は再び一重な関係あるいは無限性それ自体であり、自らの最高頂で精神は再び自らの最初へと、自らの端緒へと還帰するが、この端緒は再びただこの端緒であるにすぎず、一重な関係と対立した最初のものとしての無限性とに分離する無限性である。無限性は、自らが今や精神からの無限性としてなったように、精神それ自体として、無限性を認識したのではなく、再び他としてそうしたにすぎない。しかし精神によって認識されたこの他はこのことをもって一つのそうした他なのである。他はそれ自体で精神の、自らの無限性から打ち付け合された自分を見出すことであり、一つの解消し得る単一性である。そして精神として呈示されているこの循環のみが独り自分で他のものであり、自分を他において見出すことなのである。
 精神であるこの循環はこの循環を走り向けるその当のものそれ自体であり、しかもなお精神形象においてそうであるが、この循環は自らのモメントにおいて決して自分を忘れないのであって、そしてそれらモメントにおいては絶対的な精神としては自分にとってではなかったはずである。精神はただ一重な循環であるにすぎず、その同じ循環の全てのモメントにおいてではなく、ただ他としてのみ、あるいは自分へと関係づけることとしてのみ、無限性において、認識の反照において、ただ精神であるにすぎないが、この精神が自分で精神になり、自分が見出され再びただ自分にとってのみある精神としては自分に到来し、自分が見出されて自分で他のものであるこの精神としては自分に到来せず、精神としては自分に到来せず、そして精神には精神それ自体が精神として立ち向かっており、その精神は一つの精神に対する諸勝利としての無限性のこの落下から自分へと還帰し、そして同様に永久に還帰しているからなのである。還帰のこの総体性は初めて自分にあってであり、そしてもはや他へと移行することはない。精神は絶対的なものであり、そしてその絶対的なもの、精神の理念は初めて絶対的に実在化されているのだが、それは精神それ自体のモメントがこの精神であることによってであり、しかしその際にはまた、もはやいかなる、それを越えて出て行くこともないのである。
 
 精神の理念、あるいは他において自分を自分として直観する精神は直接的には再び絶対的な精神として自分を自分へと関係づける精神である。他は無限性としての絶対的な精神であり、そしてその精神の自体を認識することにとっては、あるいは自らの他から一重で絶対的で自分を自分へと関係づける精神がエーテルであり、絶対的な物質であり、そして精神が自らの他それ自体において自分を見出した精神であるということが自分の内に閉された、そして生命ある自然なのである。自然は同時に自分を自分へと関係づける精神として、他として、無限としてのその同じ精神として、そして絶対的な精神の本質としてあるのである。自然は自分を実在化する精神の最初のモメントである。
 































































 

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