実存主義とモラル(1)
キルケゴールは『死に至る病』の冒頭で、人間を自己自身に関係する関係と定義した。ヤスパースはこれを実存の定義として踏襲している。ハイデガーも現存在という人間存在の規定にその定義は生かされている。『存在と時間』における現存在分析は、人間という存在は自己の存在に対して責めを負った存在であることを明らかにする。これによれば自己関係とは自己存在に対する責めの関係であり、実存としての各人は本来的な自己存在を実現すべく定められているのである。
かかる現存在分析は、ハイデガーにとって実存論的人間学を可能ならしめる基礎論である。彼はそのことに関連してヤスパースの『世界観の心理学』をもって実存論的人間学の構想であるとみなしている。すなわち、そこにおいては人間とは何であるかが、人間が本質的にそれであり得るものから問われ規定されているからだと言うのである。ハイデガーがこのように述べているのは良心論の最後の箇所である。彼にとって、人間が本質的にそれであり得るのもとは存在的なものに対する存在論的なものである。存在論的なものはかかる人間存在の本来的な存在可能性であり、各人によって実現されなくてはならない可能性である。しからば、存在論的なものとの結びつきを可能にする根拠、その結びつきを実証するものがなくてはならない。ハイデガーにとって良心がそれである。我々は存在論的に本来的自己の可能性を了解するとき、良心によってそれを実現すべく呼びかけられているのである。すなわち、これによって各人が己の存在に責めを負っていることが証しせられるのである。
このようにハイデガーは存在論的責めという思想によって道徳の基礎づけを意図している。それのみではない。彼にとって、どんな行為も過ちを避けられないのは、個々の経験の事実にのみ由来することではなく、むしろ根源的責めに基づいて、行為がそのつど既に他の人々との共同存在において他の人々に責めを負っているという本質的事態に由来することである。このように根源的責めという思想は他人に対する責任の観念をも基礎づけているのである。確かに形式的には現存在分析は倫理学の基礎づけを含んでいる。
しかし実質的にはどうであろうか。それは倫理学の基礎理論として満足すべきものであろうか。答えは否である。ハイデガーは責めということを基礎づけるにあたって、悪をもって善の欠如態と規定する立場の批判に出発している。欠如ということは事物存在に関する観念であり、したがってこれによれば善も悪も、また善悪判定の基準である道徳法則も事物存在についての算定と同一の立場で取り扱われていると言うのである。善悪は事物存在ではなく現存在である人間存在に関する観念であり、これに即して基礎づけられなくてはならない。そのためには、欠如の観念の内にも認められる否定性にのみ注目して、これを現存在の構造から基礎づけるべきだということになる。かく考えるハイデガーにとってはカントの道徳法則も事物存在の存在論の立場にあることになる。しかし果してそうであろうか。カントが道徳法則を自然法則とのアナロジーによって論述していることは確かである。けれども、しかるがゆえに定言命法の意味内容は事物的であろうか。定言命法は、汝端的ななすべし、と命ずる。それに対する違反は悪である。ところでカントは終始一貫して、悪をもって善の欠如態とみる考えを批判した。彼にとって悪はプラスとしての善に対するゼロとしての欠如態ではなく、マイナスとしての否定態である。この否定は倫理的秩序の転倒ということに他ならない。転倒は欠如ではない。それは事物の存在には認められないことであり、人間の自由に由来することである。倫理的責めの観念はこの自由に基づく転倒ということと深く結びついている。かくして、欠如の観念に出発して定立された存在論的責めのみによっては倫理的責めを基礎づけ得ないことになる。自由には自由の定めがある。これが道徳法則の本質である。したがってカントの定言命法の内には、人間が本質的にそれであり得るもの、すなわち現存在の本来的構造となるべき要素が含まれているはずである。さらにまた、他人に対する責任、一般に共同存在をハイデガーの本来的自己の自己性にのみによって積極的に基礎づけ得るかについても疑わしい。
『存在と時間』における人間存在論はこれを決意主義と言い換えてもよいであろう。良心の呼びかけに応じてそれを実現するものは決意である。決意性には必然的に無規定性が属しており、この無規定性は現存在のあらゆる事実的・被投的な存在可能を性格づけている。決意性は決意としてのみ、己自身を確信するのである。決意は存在的には無規定性に基づくが、存在論的には規定的であり、選択の基準を有する。ハイデガーにおいて人間は存在論的には死における存在である。それゆえに死が決意の存在論的基準であるとみなしてよい。ハイデガーにとって決意性は死への先駆であり、決意は死の覚悟に基づいている。したがって、様々な可能性の内から、自己にとって非本来的であり偶然的であるものを排除して本来的なものを選ぶことは死の覚悟に基づいてのみ可能である。
しかし、死の覚悟は決意的選択に対して積極的には実は何も目標を与えることが出来ないのである。ハイデガーの現存在分析において死の先駆は存在論的には自己の被投性を引き受けることと等根源的である。すなわち死は逆転して各人にその本来的な既存を指し示す。死の覚悟は己の過去存在・既存性を己の運命として引き受けることになる。この運命はハイデガーにとって共同体の、民族の出来事をも意味している。運命を死の覚悟に代わる、決意の存在論的基準とみなしてよいであろう。しかし、我々個々人が自己の運命として引き受ける可能性は民族の伝承や伝統のほんの一部分であるはずである。我々の既存性は、我々が個人として選び得る範囲を遙かに越えている。我々が何を基準として、その内から或るものを、己の運命として選び取るのであろうか。『存在と時間』の決意主義はかく問うことを無意味であると見なしている。しかし、我々は問わざるを得ないであろう。死の覚悟にさえ基づいておれば、全ての選択が真であり善であるのか。一切は許されるのか、ナチスを選ぶこともまた許されるのか、と。
ハイデガーにおける決意主義の意義とその限界を突き止めるためには、我々は実存哲学の先駆者であるキルケゴールとニーチェの倫理思想を概観しておかねばならない。
キルケゴールは『不安の概念』の一つの注で次のようなプラトンからの物語を引用している。「エピメテウスは人間に各種の天性を附与した後で、ゼウスに問うた、善と悪を選ぶ能力はその他の天性を配分したときにしたのと全く同じ仕方で配分すべきでしょうか、・・・ゼウスは答えた、この能力だけは万人に等しく配分せよ、それはあらゆる人間に等しく本質的に属すべきものだからだ、と」。倫理的なものは人間の人間としての本質である。それは外から与えられる知識でも技能でもない。しかしそれがそれとして常に自覚されているとは限らない。キルケゴールは、『あれか、これか』の第二部においてその自覚を論述している。その箇所で、自己選択が同時に善悪の差別であることが述べられている。自己選択とは個々の対象の選択に原理的に先行し、その種の選択をなす主体性の確立である。これによって自己は内外の所与性に埋没した受動的状態を脱却する。この自己選択は同時に善悪の観念の確立である。ということは、自己とは倫理的自己であり、これ以外ではないことを意味している。自己選択と同時に善悪の視界が成立し、個々の行為はこの視界の内に配置されることになるのである。善、したがって倫理的なものは普遍的なものである。それゆえ倫理的個人が自ら定立する課題は自己自身を普遍的個人に変化させることである。換言すれば倫理的実存の実現すべき課題は個別と普遍との総合である。しかもこの総合は抽象的でなく具体的でなくてはならない。自己選択は根源的で原理的な選択であるが、しかし抽象的ではなく、具体的状況に即しており、したがって普遍性もこれを離れては実現し得ないからである。キルケゴールは個普の具体的総合を、私の義務という思想の内に見出している。
カントは理性的存在者としての人間に出発した。実践理性の内には普遍的妥当的義務の観念が宿っている。しかしカントの論述には、個普の総合ということがくらまされてむしろ個体が一般者の内に消失するような危険がまつわりついている。キルケゴールの倫理的実存は自己選択に出発する。この選択はまさに自己確立として個人のなし能うことである。と同時に個人の実現すべき課題である。自己選択は同時に当為の意識を伴うことである。
キルケゴールの実存思想においては実存は倫理的実存に止まらず、宗教的実存の段階へと上昇していく。しかしこれによって倫理的なもののもつ意味内容が変化するのではない。彼において宗教的実存にまで至らざるを得ないのは、倫理的な自己実現の課題が限界にぶつかるからであり、これによる有限性の意識のゆえである。このことを『死に至る病』での人間の定義と結び付けて言えば次のようになる。人間は自己自身に関係するところの関係そのものである。関係は総合である。これについて、人間は無限と有限との、時と永遠との、自由と必然との総合であるが、倫理的なものが人間にとって最高の課題であり続けるということは、この種の総合に個普の総合が常に付け加わっていることを意味している。総合は質的に対立する両項の総合としてまさに弁証法的であり、自己生成は常に限界に遭遇する。宗教的実存における責めの意識は次の段階では罪の意識となる。これは絶対者の意識の深まりであると共に倫理的意識の深まりである。このように、キルケゴールの実存思想には倫理的なものに対する誠実さが貫徹しているのである。
ニーチェにとっては従来の道徳は人間を高揚するものではなく動物に堕落させるものである。本来未確定なる人間が道徳によって枠に嵌め込まれた。これは人間の矮小化であり動物化である。道徳とは評価の体系であり、しかもこれの無制約的な妥当性を要求し、これによって善悪の観念が成立する。道徳は善悪の対立を人間の生の内に持ち込むことによって、それを確定化しその未確定な創造性を疎外する。ニーチェの道徳批判は道徳による生のかかる自己疎外の批判である。この批判において道徳は自己目的ではなく、生を維持し促進する手段であると見なされる。したがって道徳の意義は相対的であり、生に対するその機能を果たさなくなれば放棄されるべきである。
しかしニーチェはこれによって道徳性のものを否定し去ることができたであろうか。現実のキリスト教的道徳が無制約的ではなく実は弱々しい生の表現であることを暴露することは、直ちに道徳の概念に内在する無制約性を否定することになるのであろうか。彼の言う道徳的解釈の根源となる道徳以外のものとは生のことである。ここからニーチェの道徳批判には生物学的生を無制約者とする一種の自然主義が流れている。かく道徳は生物学的生に還元され、これによってその不自然もまた自然に由来すると解釈される。かかる道徳の自然化は解釈上の方法としては有意義であるが、しかしそれ以上に出て、全ての道徳を生物学的生の表現とする自然主義の立場をとることは人間的生のまさしく固定化に他ならない。かかる態度はニーチェ自身の道徳批判の対象とならざるを得ないはずである。
人間的生は生物学的生より以上である。従来の道徳が自己欺瞞的であるとしても、道徳的意識の内に含まれている無制約的な要求を生物学的生に帰着させることは不可能である。だから彼も善悪の観念の成立を人間の歴史における深さの発見であることを認めている。だから、ニーチェにとって道徳的意志は何ものにも拘束されない無制約的意志でもある。これは生の創造性の即応する意志である。道徳はそれを阻むような固定した価値体系の定立であってはならない。道徳の高い段階とはそのような対立を克服したところに成立する生と道徳との統一である。この高次の道徳にとって、真理の試金石は力の感情の高揚である。したがって生命力の高揚が道徳の規準であり目標であると言ってよい。しかしその生命力は生物学的なものではもはやないはずである。ニーチェの非道徳主義は善悪の此岸ではなく、まさしく善悪の彼岸に無制約性を実現することである。これこそ彼の道徳批判の厳しい精神である。ニーチェの道徳批判は道徳そのものの妥当性の根源に向かっている。それは無制約性を装って固定化している一切の道徳観を打破する威力を具えている。したがって現代の倫理思想はニーチェの批判に耐えるものでなければならない。
キルケゴールの倫理思想は、実存の倫理性は決意のみに基づいては成立しないことを示していた。それは普遍性との媒介を不可欠な条件としているのである。ニーチェのそれは、一見したところ一切の普遍性を打倒する非道徳主義であるが、ニーチェ自身の内には厳しい倫理的要求が含まれていた。それは普遍性との媒介を経たより高き段階において実現するものであることを示唆している。したがって、普遍性との何らかの媒介なしには実存倫理は可能ではないということになる。
ハイデガーの決意主義は後期においては放棄されていると言わざるを得ない。後期のハイデガーにおいては実存とは、存在の明るみの内に立つことである。これに応じて自由ももはや決意の自由ではない。自由は存在者をあるがままに在らしめることである。しかし存在そのものは非隠蔽性と隠蔽性との総合である。これが存在の真理である。存在は存在者を顕わならしめると共に、それ自らからは隠れている。真理が隠蔽されていることと、隠蔽されていることが真理であることとは本質的に相違する。隠蔽が真理であり、このことが最高の基準であると確定すれば、露わになっているものを越えて隠された真実のものを求めようとすることは無意味であろう。残された生活態度は、露わになっているものの非隠蔽性の内に直ちに存在そのものの隠蔽性を読み取ることになる。これは在るものを在るがままに受け取る受動的態度となるであろう。
そういうハイデガーに対して決意主義を徹底したのはサルトルである。彼は『存在と無』において一切を虚無化する自己意識の自由に徹底し、自他の人間関係をも自他が相互に主観と客観として対立抗争する「まなざし」の関係としてのみ基礎づけた。しかしそれによっては倫理的な人間関係を積極的に基礎づけることは不可能である。そのサルトルが『実存主義はヒューマニズムである』においては道徳法則に積極的意味を与える。サルトルは決意を普遍性の観念と結びつけるのである。我々はサルトルのこの実存主義的ヒューマニズムの内に、ニーチェの道徳批判を媒介としてカントの定言命法がまさしく反復されているのを見る。
サルトルの場合、その種の義務の普遍妥当性は各人の自己意識における無制約的自由によって分析的に基礎づけられていると言ってよい。なぜならいかなる意味においても自由に先行する「存在」はないからである。しかしキルケゴールによって、またハイデガーによって洞察されているように、人間的自由は絶対的ではなく有限的である。その点からすれば、普遍妥当的義務の観念は自由の定めとして各人の自由の意識に対して総合的な意義をもつものである。そして、そのような普遍妥当的義務を媒介にして、我々はその義務のみによっては尽されないところの自己にとっての無制約的要求を意識するのである。その媒介がなければ無制約的要求と恣意的欲望との区別がつかないであろう。したがって実存倫理の主張も普遍妥当的な規範意識を自らの試金石としなくてはならない。
嘘言を方便として是認することは道徳的には矛盾に陥る他ない。しかしその種の普遍妥当的法則に由来する当為によって当為の全てが汲み尽くされるのではない。そのことは、その種の法則を杓子定規的に固定化する態度がまさしく非道徳的であるという事態によってよく示されている。我々は道徳法則を行為の原理の試金石として反省することによって恣意を脱却する。我々は道徳法則に対して責めを感ずると同時に、自己に課せられたより深き当為を自覚する。道徳法則に対する己の例外的行為に基づいて新たな道徳法則を客観的に定立することはおよそ不可能である。そのような方法によって自己弁明をなし得ぬことが我々に責めを感じさせるのである。しかしそれと共に、我々はより深きより高き当為を感ずる。ヤスパースの『哲学入門』の術語的区別を使えば、道徳的なものに対する倫理的なものを感ずる。これは実存倫理的なものである。
それは良心の考察に始まるであろう。良心を介して道徳的なものから倫理的なものへの移行がなされるからである。良心は善悪を判別する形式であり場である。我々は己の良心において、少なくとも、自分が善と感じていることを為しているか、それとも悪と感じていることを為しているか、これを明証的に知っている。その点で良心は誤ることはない。この良心は各人に固有なものである。良心に普遍的な良心はない。良心のこの個別性のゆえに、良心において感じられる善は道徳法則に基づく普遍的な善に還元されない。その善の内容は実存の背負っている個性的な歴史性と結びついている。しかし良心における善悪の区別は未だ形式的である。私が善と感じているものが内容的にも善であるとは速断し得ない。その点で良心は誤り得る。良心の声は決して神の声ではない。我々は善悪の内容について己の思想を広め深めねばならない。そこに交わりへの要求、就中、我と汝という実存的交わりへの要求が生じる。かくして実存倫理は新たな立場から自他の連関を回復するのである。この段階は内容的には愛の倫理である。愛は意志の対象ではなく、愛から倫理的行為への意志が生ずるのである。愛は憎に対立する。愛は存在を志向し、憎は非存在を志向する。ヤスパースがこの愛の段階をメタフィージッシュと名づけているのは、愛において自己の存在が超越者から贈られたように感じられるからである。ヤスパースにおいては愛は根源への愛であると同時に、実存と実存との交わりへの愛である。しかしヤスパースにおける実存的交わりは、我と汝という関係を十分には基礎づけていない。その基礎づけは哲学的な難問である。
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役割分担の主体としての自我は、限定された自我である。意識を媒介として、他者によって限定された自我である。しかし、この限定は、自我の根底にまで達しない。役割のことをペルソナ、つまり仮面とも呼ぶように、役割は、自我の全てを吸収することは出来ない。役割は、自他の区別を超越した非人称的意識(それは、大衆社会における大衆の意識である)と、役割の中に吸収しきれぬ余剰としての自我との不完全な媒介である。したがって、大衆社会における大衆の意識は、常に欲求不満によって付きまとわれている。その際どいバランスを保っているものこそ、多種多様な役割関連の網目なのである。それゆえ、大衆はこの網目の中で少しでも、欲求をより有利により多く充足させ得る役割にありつこうとして、懸命の努力をするのである。
役割連関の場においても、自他は、互に交換可能な身体的図式の担い手として、互に本質的区別をもたない。自他の区別は、それぞれ異なる相手に対してそのつど異なった役割を担いつつ、一人でいかなる組み合わせの役割の束を担うか、という点によってのみ、決まるであろう。かくて、交換可能な役割の束に他ならぬ者としての個人は、役割連関の網目の一つにすぎず、固有の自我をもたない。あるいは、自我は、義理のしがらみにがんじがらめとなった者の懐く後ろめたい人情という余剰としてのみ、存在する。ここで決定的に支配している者は、我でも、他人でもなく、むしろ網の全体、あるいは、役割の交換を可能ならしめている非人称的意識そのものである。
しかし、理論的に抽象化された役割連関ではなく、現実の役割連関は、必ず一定のヒエラルキーを含んでいるのであって、その限りでは、決定的支配者は、非人称的意識だけではない。完全な形における役割交換を阻んでいるもの、いわば支配のベクトルとも言うべき匿名の偏向力がどこから生ずるか、という問題を考えるならば、自他未分化の領域というものが一つの抽象であり、仮象であることは明らかであろう。
それゆえ、役割連関の中に、共同存在の原点を求めようとする社会は、自我の超越性を知らぬ社会であり、その時々の権力の支配に従順な社会である。一人称(したがって二人称)を表わす単語が十個以上もあるという日本語の中に反映している日本の従来の社会構造が、そういう性格を強くもっていることは否定できないであろう。それは、いわば自他未分の役割連関という仮象の中に未だなお眠っている社会である。役割の束としての自己を突き破る自我を、未だ知らぬ社会であると言わねばならない。
自我の超越性というと、人はカントやフッサールの超越論的な自我を思い浮かべるかもしれない。しかし超越性とは、ここでは全ての意識領域からの超越を意味している。これに対し、上の超越論的自我は、いずれも、意識自身に内在する自我であると主張されてきた。
今、身体との関連から、二つの自我存在の区別を考えると、事態は明らかとなろう。すでに対象化された存在としての自我は、客観的な時空間の中に置かれたものとしての身体、いわば身体の「外側から見られた存在」を引き受けつつ、それと一体化している。これに対して、非対象的全体としての自我は、客観的・延長的時空間の中に措定され得ないものであり、いわば身体の「内側から見られた存在」とも呼ぶべきものである。つまり、「内側から見られる」限り、身体的存在の限界は皮膚の表面化に止まるのではなく、むしろ、存在は身体を原点、あるいは湧点として皮膚の表面を越え、限りなく周囲に溢れ、広がりつつ、ついに、存在者の全体にまで滲透し、これを一つの地平にまとめあげてしまうからである。サルトルが『嘔吐』の中で描いたマロニエの根に関わるロカンタンの体験は、この非対象的自我存在の体験に他ならない。このようにして形成される地平が、構想力の場である。つまり構想力は、内側から見られた存在を見る意識である。そして、構想力によって産出される全ての像は、この存在の現象に他ならない。それは知覚が外側から見られた存在つまり対象的存在の非人称的意識への現象であるのと全く同断である。
こうして、我々の自我は、身体がもつ二重性、つまり、それが外側から見られた存在であるとともに、内側から見られた存在でもあるという二重性によって、決定的に規定されている。純粋な自己意識(つまり構想力)の土台としての自我は、後者、つまり、内側から見られた存在としての身体に他ならない。
いわゆる役割連関の中における「我」は、すでに非人称的意識によって媒介され、対象化された自我であって、その限りにおいて、身体の外側から見られた存在と内側から見られた存在との限定された統一である。我はまた、ここでは人間は平等でありつつ、しかも、厳としてヒエラルキーが存する。これらの事実が、役割連関の中の自我にとって、全ての存在者は、外側からと同時に内側からも見られている、つまり、知覚的に、かつ、構想力的に見られているということに他ならない。人間は常に、自己の身体的存在のあり方に準じて、他の存在者を見るのである。
では、役割連関の中の相手たる「他我」はいかにして発見されるのであろうか。自我が非人称的意識を媒介として、自己の対象性を引き受けることによって、はじめて、自我の周囲の外側から見られた存在の中に、つまり対象的自然の中に、存在を内側から見る意識、つまり自我の構想力の機能に正確に適合するような運動をなしつつあるものが発見される。これをフッサールのいうように感情移入と呼ぶのは誤解を招きやすい。つまり対象的運動に対して、これとは別個の感情を移入するのではなく、特定の対象的運動が、それを見る自我の運動に関する構想力の作用に正確に対応することが発見されるのである。つまり、或る物体の動き(表情をも含めて)と私の構想力の働きとの間に正確な「双関」関係が成立するのである。この事実によって、はじめてこの特定の物体は、一個の「身体」として措定され、かつ、また、私の構想力とのこの対応関係にも拘わらず、私の意志によってこれを実際に動かすことの不可能性を通して、他なる身体として確定される。つまり、この身体を動かしている他なる自我が確信されるのである。かくて、他我の存在は、対象的知覚と構想力との統一を通して、類比的に確信されるのであって、決して、直接に認識されることはない。類比的ということは、私の自我が、対象的身体を引き受けた瞬間に、すでに私の構想力は対象的構想力となって、自己の身体の動きを図式として、つまり、改めて空間へ対象化することなしに把握しているのである。それゆえ、私が他の身体において発見するのは、自分と共通の身体図式であるといえよう。そして、この自他共通の身体図式を介して、私は、私の周囲に働きつつある他の対象的構想力とその背後にある他我の存在とを確信するのである。
しかし、私と他人とは、役割連関の中で、限定された内と外との統一、つまり、対象的構想力および身体的図式を媒介として、互に了解し合っているが、この媒体は、自我と他我とをそれらの存在の全体において媒介する能力はないのである。
いま、全体性として捉えられた他我を真の汝(ブーバー)と考えれば、役割連関の相手は、対象性(それ性)を通して捉えられた限りにおける汝であり、役割というマスクを通して捉えられた限りにおける汝なのである。絶えず交換的に流動する役割の束の背後にある人間は、その限りでは、万人の誰ででもあって、しかも誰ででもないような両義的存在である。このような両義的存在は、役割的マスクによって、ただ不完全に媒介されているにすぎない。新しい役割を引き受ける毎に、新しい別個の自我になってゆくような、役割的自我にとって、真理への関心は好奇心という形態を取らざるを得ないであろうし、相手との対話も相互の役割的マスクの許容する範囲を超えれば、世間話としてしか行われ得ないであろう。そして、これらを全て貫いて、役割的連関の両義性に発する曖昧さがつきまとうのである。
しかし、人間は、役割的連関なくして、生きることは出来ない。問題は、自我と他我の全体性を回復することであり、役割的マスクに囚われない、自由で、全面的なコミュニケーションへの通路を切り拓くことであろう。そのためには、相互の構想力の閉鎖性が突破されねばならない。構想力が、サルトルにおけるように、欠如せる自己存在の全体を先取的に志向する意識に止まる限りは、自他の相克は避け難いからである。
自我が内側から見られた限りにおける身体的存在であるとするならば、自我は徹頭徹尾、有限性によって貫かれていると言わねばならない。自我は、自己を限定する外面性から解放され、より内面的になるに従って、自分が死に定められていることを明瞭に感得する。自我は、生れると共に、すでに死の中へ投げ込まれているのであって、死は可能性であると共に、事実性であり、未来であると共に、過去である。言い換えれば、死は現実的であり、現在的なのである。死の可能性は既定の事実として与えられている。かくて、自我は、自らの根拠を自らの中にもたぬことが明らかとなる。自我は自らにとってすでに他者なのである。かくて死の喜ばしき訪れを素直に受け入れる自我は、自我の殻を粉砕するであろう。全てを包括する自我の地平は、いまや、他我に対して開かれたものとなるであろう。なぜなら、自我は他我の他者性を、すでに予め、自己の根底から受容してしまっているからである。
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キルケゴールが一時いかにヘーゲル主義に心酔していたかは、1835年の頃に企てたマギター論文がファウスト、ドン・キホーテ、さまよえるユダヤ人などの民間伝承を主材としたヘーゲル風の中世精神史であったことによって疑いべくもない。しかし彼はやがて、理性あるいは精神のイデーの内に解消し切れない人生の暗黒面を凝視しつつ、個別者を超越者に関係づけて実存者として確立することに主力を注いだのである。
この際我々に想い起こされるのは、ヘーゲルが『精神の現象学』のC理性に対して総論の意義をもつ箇所において述べている次のような言葉である。一体意識は対象に様々の態度をとるが、この態度がどのようなものであるかは、その際の意識が世界精神のどのような段階に立っているかによって決まることである。理性の場合も同じである。理性が無媒介に登場してくるときには、理性が現にあるということだけが抽象されるが、しかしこの現にあることの本質と自体とは絶対的な概念であり、それが生成してきた運動である。すなわちカントやフィヒテの理性は実はそれ以前の歴史によって媒介されたものであるにも拘わらず、彼らにおいては無媒介に登場してきているがゆえに、理性としての機能を十分に発揮し得ていないとヘーゲルは言っているのであるが、同様なことは類比的にキルケゴールの実存についても言えるのではないか。彼は反理性主義者であるのは、実存の無媒介的登場によることなのである。
しかし、キルケゴールにおいても実存はただ無媒介にのみ登場しているのではない。これについては下の諸点が挙げられ得るが、これらについて論ずることによって、実存もまた一種の理性、すなわち実存理性をもたざるを得ないことが明らかになろう。
1)最初は段階説である。実存思想は美的実存-倫理的実存-宗教的実存という系列を形づくると言われるが、初めの二つの段階は実存ではなく生活とも言われるべきものであって、真に実存と呼ばれるに相応しいのは第三の段階だけである。だから実存は初めの二つの段階によって媒介されて登場していることになる。上に美的と言ったものは、エステーティシュのことであるが、これはただ美的を意味するだけでなく、これに先立って感性的を意味する。キルケゴールはこれをヘーゲル的に直接的、無媒介的とも呼んでいるが、要するに享受欲、幸福を追求する生活であり、ヤスパースのダーザインすなわち現存在にあたるものである。
しかし、この場合にはたとえ感性的であるにしても最早直接的ではなく反省に媒介されたものである。『あれか-これか』の第一部に収められている『誘惑者の日記』に、詩人にとって美は直接に与えられるものではなく、総合を経たものであるとある。ここにはすでにヘーゲルの精神ないし理性がなお感性に埋もれた形においてであっても働いており、総合するに際しては、悟性の反省が働いている。
2)『不安の概念』の序論において、美学-倫理学-教義学-心理学-第二倫理学という学問分類の系列を立てている。美はカントにおいても無関心性において成立するものであり、美学の立場は没自己的であって、ゆえに本来的自己になろうと決断するところの倫理学に、キルケゴールは移って行く。この移行に飛躍があることは明らかである。彼は1836年6月4日に自殺未遂事件を起こし、その後改心して一定の職業について家庭生活に入らんと決意していた。しかし『あれか-これか』の第二部において展開したところの倫理的生活はヘーゲルの人倫思想に、精神の倫理学に基づくものである。ところで、この人倫思想は家族-市民社会-国家の体系をなすが、国家はキルケゴールの捨てざるを得なかったものである。彼は1830年11月近衛隊に入ったが、わずか四日で除隊となった病弱の身であったからである。しかし彼は残った家族-市民社会においてもその座をもたぬ例外者であることを自覚した。
前コリント書6-19には「汝らの身は聖霊の宮」とあり、後コリント書6-16には、「我らは生ける神の宮」とあるが、こういう意味において彼は己が身を神の住み給う清き宮として立てんとしたのであるが、このことが彼に己が身の罪悪深重であって、むしろ悪の巣窟であることを自覚させ、神をただいたずらに遠く高いところへと去らせた。建徳の重視が彼をしてヘーゲルと訣別させた原因である。ヘーゲルは建徳をもって感傷的なお説教にすぎずとしたが、ヘーゲルにとっては楽園における無垢は、教養や文化すなわちビルドゥングが得られるためには、この無垢の無差別を砕いて差別へと移行せざるを得ず、そこに罪があっても、これはむしろ不可避のものであり、また罪のもたらす善悪の対立も和らぎによって跡形もなく消え去ると考えたがゆえに、建徳を深刻には考えなかった。ところでキルケゴールにとっては罪について教えるものはキリスト教の教義学であるが、しかしこれは罪の事実であることを教えるだけで、それがどうして起こったかを知らせるものではないから、彼は心理学に移り、罪について知った上で第二倫理学を建てようとするのである。この系列は、現存在から悟性の反省を媒介として精神の高みにまで登ったキルケゴールが改めて罪を自覚することによって現存在の低みに転落しながらも、遠く高く去った超越者を仰ぎつつ、また罪という現実を見極めつつ、現実に真実に存在しようとしたこと、すなわち実存しようとしたこと、したがって彼においても実存はただ無媒介にのみ登場しているのではなく、悟性の反省と精神ないし理性によって媒介せられて登場していることは明らかである。
3)有限や必然に徹しつつ無限であり可能性を失わず、また無限であり可能性を孕むと言っても、有限な必然性の制約を忘れぬ時にのみ、実存は成立する。ところで「死ぬる病」すなわち絶望はこういう関係が失われるところに生ずるのであるから、したがって絶望とは失関のことである。失関であるから、絶望には有限のみあって無限のないもの、必然のみあって可能のないもの、ないしこれらの逆がある。これに対して関係が保たれている時には、自己は現実に存在する。すなわち実存する。だから実存するのは、かかる意味において可能性が解放されせられていなくてはならないが、この可能性が実存者をして真に祈ることを可能にする信仰であると、キルケゴールは言う。すなわち人間は空気なくしては呼吸することができないが、この空気にあたるものが信仰だと言うのである。しかし彼が空気と呼んだものは、これを理性とも呼び得る。理性をもって一種の自由な空気、自由な空間にあたるものとするのである。例外者は、普通の枠の内には占めるべき座は見出されないが、これを開発するものが理性であり実存理性なのである。
しかし、自己はあくまでも関係である。だから可能性と言っても必然性を離れるならば、地についた実存的可能性とはならないが、この際の必然性の制約こそは限界状況に他ならない。ここに限界状況の経験が実存に不可欠なるゆえんがある。しかしどうしようもない限界状況の経験に即して可能性を開発し得るのは、対立する両項を遙かに越えた超越者から来る一種の呼び声を聴き取ることによる。上の実存理性を誠実と呼ぶこともできるが、それは、その時々の悟性と精神によって媒介されており、その広さや深さはこの媒介の如何によることになるであろう。
4)限界状況はこれを一般的に言えば、死・苦・争・責によって代表させることができるが、争と責とは明らかに人間関係なくしてはあり得ぬものであり、苦もまた多く社会関係に基づくものであり、そして死はもとより本来的には己の死であり、またこの場合に実存的意義をもつにしても、近親者の死は己の死と殆ど同じ意義をもち得るものである。こう考えると、限界状況は人間関係なくしてはあり得ぬものであり、実存理性はいわゆる交わりの理論とならねばならないが、しかし交わりの問題は、キルケゴールにおいては『あれか-これか』第二部の倫理的生活によって取り上げられただけで、その後はほとんど姿を消している。それは、ヘーゲルが我なる我々ないし我々なる我としての精神の成立が、殊にそれをもって非連続の連鎖とするときには(『精神の現象学Ⅵの終わり)その深き意義を認めるべきであるとしても、自己と他者との関係にはかかる精神にはしょせん解消し切らぬものがあって、関係の両項を遙かに高く超えた包越者に根源を求めざるを得ない。だから自己と他者との場合こそキルケゴールが関係に与えた規定を最もよく満足しているにも拘わらず、彼はこれを取り上げないのである。しかし全く取り上げないのでもない。それは『不安の概念』が悪魔的なものを論ずる場合である。悪魔的なものは交わりを断ち閉鎖的である。それを一事に専念するから連続的であり、一貫的である。しかし一事の繰り返しであるから、退屈を招く。かくてそれは突発的なものとなって現れて来ることになり、一貫的であるかのように見えて一貫的でないことになる。だから真の一貫性を与えるものは他に対して胸襟を開いた交わりであるというのである。ここにキルケゴールにおいても実存的交わりの取り上げられる余地があり、またそれが現存在と悟性と精神との立場における交わりによって媒介され、またこれらを生かす余地があり、第二倫理学はこのことを志向していたとも言える。
哲学者たちにとっては時はすでに完了しており、彼らの関心するところは過去のことばかりであるが、実存者は未来に向かって生成することにのみ専念するとキルケゴールが言った場合、それはヘーゲルの歴史哲学に反対していることは明らかである。しかし彼にはおよそ歴史観がないかと言うと、決してそうではない。彼のマギスター論文はルネッサンスを目指した中世精神史であり、『断片』におけるソクラテスとイエスとの対照もギリシア思想とキリスト教を頂点とするヘブライ思想の対照であり、晩年のデンマーク教会を攻撃した際の彼はパウロ復興ないし使徒復興の立場をとるものであった。いったい彼のキリスト教観は父ミケルの感化によって敬虔主義の色彩の強いものであるが、しかし根本においてはデンマーク教会の伝統であるルター主義によって立つものであり、したがってその信仰義認は彼の承認するところであるが、晩年には牧師の結婚などに関してルターを批判しつつ、使徒の時代に帰らんとした。しかしルターのパウロ復興が実際にはただ単にパウロの昔に帰らんとするものではなく、その真の精神を当代に生かさんとするものであったと同じことが彼にもあることは、フランス革命以来の当代についての批判が彼にもあることによって明らかである。
以上のようにしてキルケゴールにおいても実存は必ずしも無媒介に登場しているわけではないが、全体として見れば無媒介たるを免れぬ。この無媒介を媒介に転ずるときにのみ実存の概念は初めて確立する。そこに実存と理性の問題はあるのである。
* * *
矛盾律の支配する世界が究極のものであるなら、根本において在るのは連続だということになる。ならば断絶は根本ではなくなる。だとすれば断絶を前提とする破壊や創造も根本的には意味をなさなくなる。ライプニッツが、モナドは一挙にして生まれ一挙にして死ぬと言ったのは、この間の消息を理解していたからであろう。だから無からの創造が受容できないならば、破壊とか創造は根本的な意味を失ってしまう。だが無からの創造というようなことは、客観的には成り立たない。そうでなければ、それは当然あるべきように在ったのであるから、客観的同一の場において、それとして説明可能なはずである。がもしそういう形で説明可能なものであるならば、根本において他の場合と同じことになるから、その瞬間を取り立てていう必要はない。
だが断絶の場においてしか成り立たない破壊とか創造とかいうことが、そうだと受け取られるのは何によってであろうか。断絶であるならば、前後がなく、したがって共通と言われるべき何ものもないはずであるから、それがそうであることも受け取られ得ないはずである。しかもなおそれは明らかに破壊であり創造であると受け取られている。その限りでそれは肯定されているのである。断絶はその限りで超えられている。
そこにあるのは、断絶が断絶の否定において初めて断絶であるということである。断絶は断絶であることにおいて、その度毎に超えられているのである。モナドとモナドとの出会いにおいて、そこには窓がないのだから、初めから客観的同一を前提する連続はあり得ない。相対するのは独立な主体である。その限りその間には超え難い断絶がある。しかも自己を習うことの極限において、自己が超えられるとき、すでに互いの自己は断絶のままに面と面を合わせて対話の場にいるのである。そのとき、破壊と創造という断絶は断絶のままに受け容れられているのである。本来的には連続しているはずのないものが、しかも連続であったのだと気づかされるのである。破壊と創造が成り立つのは、対話が成り立つところ、単伝と面授の成り立つところにおいてである。そこに断絶が断絶のままに連続する場は成り立たない。非連続の連続は、もし言い得るならば、断絶が断絶のままに超えられるところに現に成り立つし、歴史的に成り立ってきたのである。
真善美と言われる価値をいわば統一するところに成り立つという聖なる価値にしても、超越的当為として妥当すると考えられる価値にしても、そこに考えられているのは、価値に関する連続である。この考えはもともとカントの合目的性の考えを前提しているが、これは連続の理論を前提として初めて成り立つものである。個と普遍の連続において価値が承認されている。その連続の根拠が客観にあるのではなく、主観にあるのだとしても、この主観のア・プリオリな連続的自己同一が前提となっていることに変わりはない。
また志向的価値観ということを言うにしても、対象の本質と志向的体験との間には連関があると言い、そこに宇宙的体験が考えられているのだから、結局は宇宙に対する共感のようなものが考えられていることになる。その考えが根本における同一と連続を前提していることは間違いない。だからそこでは破壊と創造は根本的な問題ではない。例えば天才における歴史の破壊と創造とか見えるものも、全体としての宇宙的なものにおいて処を得るのであり、一時的表面的な問題であるにすぎない。というのは、問題の扱い方が客観的だからである。客観的には破壊と創造は一時的現象、変化のひと駒にすぎない。
『ツァラトゥストラ』には、価値の破壊者は創造者であると書かれている。これまでの一切の価値を否定することは、そのまま同時に、あたりを照らすものとなる。だがこのことは、もし重荷に耐える精神(ラクダ)に対する、自由な強奪の精神(ライオン)に止まることを意味するならば、単なる破壊であって、創造ではない。ライオンをもなし得ないことをなし得るものが同時にそこにいなければならない。そこに創造が成り立つ。それが小児であるという。小児は無垢であり、忘却であり、新しい始まりであり、戯れである。つまり何ものにも捉われない境地である。それは一つの自ら回る輪である。それは聖なる肯定である。創造にはこの聖なる肯定が必要なのである。この三つの変様は、時を隔てて起こることではなく、いわば一つのことの三面に他ならない。だから、破壊と創造は別のことであっては意味をなさない。けれどもこのことにおいて人間の出会うもの、それは孤独である。投げられた石は落ちて来る。この瞬間を受け止めることが生きていることだとされる。その意味で破壊の瞬間は創造の瞬間である。そこに根拠の輪が回る。だがしかし、それは過去と未来の別れ目に進んで立ち、それらを共に受け容れることである。ここに破壊と創造は瞬間において交わる。だがそのことが成就することは、異質の瞬間に立つことであり、孤独な自らに出会うことである。
この意味で、独りで自らとなることは、目を覚ましていることである。一切価値の転倒において創造を読むものとして、独り目覚めて悲劇の主人公となることである。こうして自ら回る根拠の輪の主体となることは、価値倫理学のように、歴史の中に融け込むことを意味するのであろうか。今先述べたことはすでに永劫回帰を暗示しているが、この回帰の輪の中に消えゆくことを意味するのであろうか。
かかる現存在分析は、ハイデガーにとって実存論的人間学を可能ならしめる基礎論である。彼はそのことに関連してヤスパースの『世界観の心理学』をもって実存論的人間学の構想であるとみなしている。すなわち、そこにおいては人間とは何であるかが、人間が本質的にそれであり得るものから問われ規定されているからだと言うのである。ハイデガーがこのように述べているのは良心論の最後の箇所である。彼にとって、人間が本質的にそれであり得るのもとは存在的なものに対する存在論的なものである。存在論的なものはかかる人間存在の本来的な存在可能性であり、各人によって実現されなくてはならない可能性である。しからば、存在論的なものとの結びつきを可能にする根拠、その結びつきを実証するものがなくてはならない。ハイデガーにとって良心がそれである。我々は存在論的に本来的自己の可能性を了解するとき、良心によってそれを実現すべく呼びかけられているのである。すなわち、これによって各人が己の存在に責めを負っていることが証しせられるのである。
このようにハイデガーは存在論的責めという思想によって道徳の基礎づけを意図している。それのみではない。彼にとって、どんな行為も過ちを避けられないのは、個々の経験の事実にのみ由来することではなく、むしろ根源的責めに基づいて、行為がそのつど既に他の人々との共同存在において他の人々に責めを負っているという本質的事態に由来することである。このように根源的責めという思想は他人に対する責任の観念をも基礎づけているのである。確かに形式的には現存在分析は倫理学の基礎づけを含んでいる。
しかし実質的にはどうであろうか。それは倫理学の基礎理論として満足すべきものであろうか。答えは否である。ハイデガーは責めということを基礎づけるにあたって、悪をもって善の欠如態と規定する立場の批判に出発している。欠如ということは事物存在に関する観念であり、したがってこれによれば善も悪も、また善悪判定の基準である道徳法則も事物存在についての算定と同一の立場で取り扱われていると言うのである。善悪は事物存在ではなく現存在である人間存在に関する観念であり、これに即して基礎づけられなくてはならない。そのためには、欠如の観念の内にも認められる否定性にのみ注目して、これを現存在の構造から基礎づけるべきだということになる。かく考えるハイデガーにとってはカントの道徳法則も事物存在の存在論の立場にあることになる。しかし果してそうであろうか。カントが道徳法則を自然法則とのアナロジーによって論述していることは確かである。けれども、しかるがゆえに定言命法の意味内容は事物的であろうか。定言命法は、汝端的ななすべし、と命ずる。それに対する違反は悪である。ところでカントは終始一貫して、悪をもって善の欠如態とみる考えを批判した。彼にとって悪はプラスとしての善に対するゼロとしての欠如態ではなく、マイナスとしての否定態である。この否定は倫理的秩序の転倒ということに他ならない。転倒は欠如ではない。それは事物の存在には認められないことであり、人間の自由に由来することである。倫理的責めの観念はこの自由に基づく転倒ということと深く結びついている。かくして、欠如の観念に出発して定立された存在論的責めのみによっては倫理的責めを基礎づけ得ないことになる。自由には自由の定めがある。これが道徳法則の本質である。したがってカントの定言命法の内には、人間が本質的にそれであり得るもの、すなわち現存在の本来的構造となるべき要素が含まれているはずである。さらにまた、他人に対する責任、一般に共同存在をハイデガーの本来的自己の自己性にのみによって積極的に基礎づけ得るかについても疑わしい。
『存在と時間』における人間存在論はこれを決意主義と言い換えてもよいであろう。良心の呼びかけに応じてそれを実現するものは決意である。決意性には必然的に無規定性が属しており、この無規定性は現存在のあらゆる事実的・被投的な存在可能を性格づけている。決意性は決意としてのみ、己自身を確信するのである。決意は存在的には無規定性に基づくが、存在論的には規定的であり、選択の基準を有する。ハイデガーにおいて人間は存在論的には死における存在である。それゆえに死が決意の存在論的基準であるとみなしてよい。ハイデガーにとって決意性は死への先駆であり、決意は死の覚悟に基づいている。したがって、様々な可能性の内から、自己にとって非本来的であり偶然的であるものを排除して本来的なものを選ぶことは死の覚悟に基づいてのみ可能である。
しかし、死の覚悟は決意的選択に対して積極的には実は何も目標を与えることが出来ないのである。ハイデガーの現存在分析において死の先駆は存在論的には自己の被投性を引き受けることと等根源的である。すなわち死は逆転して各人にその本来的な既存を指し示す。死の覚悟は己の過去存在・既存性を己の運命として引き受けることになる。この運命はハイデガーにとって共同体の、民族の出来事をも意味している。運命を死の覚悟に代わる、決意の存在論的基準とみなしてよいであろう。しかし、我々個々人が自己の運命として引き受ける可能性は民族の伝承や伝統のほんの一部分であるはずである。我々の既存性は、我々が個人として選び得る範囲を遙かに越えている。我々が何を基準として、その内から或るものを、己の運命として選び取るのであろうか。『存在と時間』の決意主義はかく問うことを無意味であると見なしている。しかし、我々は問わざるを得ないであろう。死の覚悟にさえ基づいておれば、全ての選択が真であり善であるのか。一切は許されるのか、ナチスを選ぶこともまた許されるのか、と。
ハイデガーにおける決意主義の意義とその限界を突き止めるためには、我々は実存哲学の先駆者であるキルケゴールとニーチェの倫理思想を概観しておかねばならない。
キルケゴールは『不安の概念』の一つの注で次のようなプラトンからの物語を引用している。「エピメテウスは人間に各種の天性を附与した後で、ゼウスに問うた、善と悪を選ぶ能力はその他の天性を配分したときにしたのと全く同じ仕方で配分すべきでしょうか、・・・ゼウスは答えた、この能力だけは万人に等しく配分せよ、それはあらゆる人間に等しく本質的に属すべきものだからだ、と」。倫理的なものは人間の人間としての本質である。それは外から与えられる知識でも技能でもない。しかしそれがそれとして常に自覚されているとは限らない。キルケゴールは、『あれか、これか』の第二部においてその自覚を論述している。その箇所で、自己選択が同時に善悪の差別であることが述べられている。自己選択とは個々の対象の選択に原理的に先行し、その種の選択をなす主体性の確立である。これによって自己は内外の所与性に埋没した受動的状態を脱却する。この自己選択は同時に善悪の観念の確立である。ということは、自己とは倫理的自己であり、これ以外ではないことを意味している。自己選択と同時に善悪の視界が成立し、個々の行為はこの視界の内に配置されることになるのである。善、したがって倫理的なものは普遍的なものである。それゆえ倫理的個人が自ら定立する課題は自己自身を普遍的個人に変化させることである。換言すれば倫理的実存の実現すべき課題は個別と普遍との総合である。しかもこの総合は抽象的でなく具体的でなくてはならない。自己選択は根源的で原理的な選択であるが、しかし抽象的ではなく、具体的状況に即しており、したがって普遍性もこれを離れては実現し得ないからである。キルケゴールは個普の具体的総合を、私の義務という思想の内に見出している。
カントは理性的存在者としての人間に出発した。実践理性の内には普遍的妥当的義務の観念が宿っている。しかしカントの論述には、個普の総合ということがくらまされてむしろ個体が一般者の内に消失するような危険がまつわりついている。キルケゴールの倫理的実存は自己選択に出発する。この選択はまさに自己確立として個人のなし能うことである。と同時に個人の実現すべき課題である。自己選択は同時に当為の意識を伴うことである。
キルケゴールの実存思想においては実存は倫理的実存に止まらず、宗教的実存の段階へと上昇していく。しかしこれによって倫理的なもののもつ意味内容が変化するのではない。彼において宗教的実存にまで至らざるを得ないのは、倫理的な自己実現の課題が限界にぶつかるからであり、これによる有限性の意識のゆえである。このことを『死に至る病』での人間の定義と結び付けて言えば次のようになる。人間は自己自身に関係するところの関係そのものである。関係は総合である。これについて、人間は無限と有限との、時と永遠との、自由と必然との総合であるが、倫理的なものが人間にとって最高の課題であり続けるということは、この種の総合に個普の総合が常に付け加わっていることを意味している。総合は質的に対立する両項の総合としてまさに弁証法的であり、自己生成は常に限界に遭遇する。宗教的実存における責めの意識は次の段階では罪の意識となる。これは絶対者の意識の深まりであると共に倫理的意識の深まりである。このように、キルケゴールの実存思想には倫理的なものに対する誠実さが貫徹しているのである。
ニーチェにとっては従来の道徳は人間を高揚するものではなく動物に堕落させるものである。本来未確定なる人間が道徳によって枠に嵌め込まれた。これは人間の矮小化であり動物化である。道徳とは評価の体系であり、しかもこれの無制約的な妥当性を要求し、これによって善悪の観念が成立する。道徳は善悪の対立を人間の生の内に持ち込むことによって、それを確定化しその未確定な創造性を疎外する。ニーチェの道徳批判は道徳による生のかかる自己疎外の批判である。この批判において道徳は自己目的ではなく、生を維持し促進する手段であると見なされる。したがって道徳の意義は相対的であり、生に対するその機能を果たさなくなれば放棄されるべきである。
しかしニーチェはこれによって道徳性のものを否定し去ることができたであろうか。現実のキリスト教的道徳が無制約的ではなく実は弱々しい生の表現であることを暴露することは、直ちに道徳の概念に内在する無制約性を否定することになるのであろうか。彼の言う道徳的解釈の根源となる道徳以外のものとは生のことである。ここからニーチェの道徳批判には生物学的生を無制約者とする一種の自然主義が流れている。かく道徳は生物学的生に還元され、これによってその不自然もまた自然に由来すると解釈される。かかる道徳の自然化は解釈上の方法としては有意義であるが、しかしそれ以上に出て、全ての道徳を生物学的生の表現とする自然主義の立場をとることは人間的生のまさしく固定化に他ならない。かかる態度はニーチェ自身の道徳批判の対象とならざるを得ないはずである。
人間的生は生物学的生より以上である。従来の道徳が自己欺瞞的であるとしても、道徳的意識の内に含まれている無制約的な要求を生物学的生に帰着させることは不可能である。だから彼も善悪の観念の成立を人間の歴史における深さの発見であることを認めている。だから、ニーチェにとって道徳的意志は何ものにも拘束されない無制約的意志でもある。これは生の創造性の即応する意志である。道徳はそれを阻むような固定した価値体系の定立であってはならない。道徳の高い段階とはそのような対立を克服したところに成立する生と道徳との統一である。この高次の道徳にとって、真理の試金石は力の感情の高揚である。したがって生命力の高揚が道徳の規準であり目標であると言ってよい。しかしその生命力は生物学的なものではもはやないはずである。ニーチェの非道徳主義は善悪の此岸ではなく、まさしく善悪の彼岸に無制約性を実現することである。これこそ彼の道徳批判の厳しい精神である。ニーチェの道徳批判は道徳そのものの妥当性の根源に向かっている。それは無制約性を装って固定化している一切の道徳観を打破する威力を具えている。したがって現代の倫理思想はニーチェの批判に耐えるものでなければならない。
キルケゴールの倫理思想は、実存の倫理性は決意のみに基づいては成立しないことを示していた。それは普遍性との媒介を不可欠な条件としているのである。ニーチェのそれは、一見したところ一切の普遍性を打倒する非道徳主義であるが、ニーチェ自身の内には厳しい倫理的要求が含まれていた。それは普遍性との媒介を経たより高き段階において実現するものであることを示唆している。したがって、普遍性との何らかの媒介なしには実存倫理は可能ではないということになる。
ハイデガーの決意主義は後期においては放棄されていると言わざるを得ない。後期のハイデガーにおいては実存とは、存在の明るみの内に立つことである。これに応じて自由ももはや決意の自由ではない。自由は存在者をあるがままに在らしめることである。しかし存在そのものは非隠蔽性と隠蔽性との総合である。これが存在の真理である。存在は存在者を顕わならしめると共に、それ自らからは隠れている。真理が隠蔽されていることと、隠蔽されていることが真理であることとは本質的に相違する。隠蔽が真理であり、このことが最高の基準であると確定すれば、露わになっているものを越えて隠された真実のものを求めようとすることは無意味であろう。残された生活態度は、露わになっているものの非隠蔽性の内に直ちに存在そのものの隠蔽性を読み取ることになる。これは在るものを在るがままに受け取る受動的態度となるであろう。
そういうハイデガーに対して決意主義を徹底したのはサルトルである。彼は『存在と無』において一切を虚無化する自己意識の自由に徹底し、自他の人間関係をも自他が相互に主観と客観として対立抗争する「まなざし」の関係としてのみ基礎づけた。しかしそれによっては倫理的な人間関係を積極的に基礎づけることは不可能である。そのサルトルが『実存主義はヒューマニズムである』においては道徳法則に積極的意味を与える。サルトルは決意を普遍性の観念と結びつけるのである。我々はサルトルのこの実存主義的ヒューマニズムの内に、ニーチェの道徳批判を媒介としてカントの定言命法がまさしく反復されているのを見る。
サルトルの場合、その種の義務の普遍妥当性は各人の自己意識における無制約的自由によって分析的に基礎づけられていると言ってよい。なぜならいかなる意味においても自由に先行する「存在」はないからである。しかしキルケゴールによって、またハイデガーによって洞察されているように、人間的自由は絶対的ではなく有限的である。その点からすれば、普遍妥当的義務の観念は自由の定めとして各人の自由の意識に対して総合的な意義をもつものである。そして、そのような普遍妥当的義務を媒介にして、我々はその義務のみによっては尽されないところの自己にとっての無制約的要求を意識するのである。その媒介がなければ無制約的要求と恣意的欲望との区別がつかないであろう。したがって実存倫理の主張も普遍妥当的な規範意識を自らの試金石としなくてはならない。
嘘言を方便として是認することは道徳的には矛盾に陥る他ない。しかしその種の普遍妥当的法則に由来する当為によって当為の全てが汲み尽くされるのではない。そのことは、その種の法則を杓子定規的に固定化する態度がまさしく非道徳的であるという事態によってよく示されている。我々は道徳法則を行為の原理の試金石として反省することによって恣意を脱却する。我々は道徳法則に対して責めを感ずると同時に、自己に課せられたより深き当為を自覚する。道徳法則に対する己の例外的行為に基づいて新たな道徳法則を客観的に定立することはおよそ不可能である。そのような方法によって自己弁明をなし得ぬことが我々に責めを感じさせるのである。しかしそれと共に、我々はより深きより高き当為を感ずる。ヤスパースの『哲学入門』の術語的区別を使えば、道徳的なものに対する倫理的なものを感ずる。これは実存倫理的なものである。
それは良心の考察に始まるであろう。良心を介して道徳的なものから倫理的なものへの移行がなされるからである。良心は善悪を判別する形式であり場である。我々は己の良心において、少なくとも、自分が善と感じていることを為しているか、それとも悪と感じていることを為しているか、これを明証的に知っている。その点で良心は誤ることはない。この良心は各人に固有なものである。良心に普遍的な良心はない。良心のこの個別性のゆえに、良心において感じられる善は道徳法則に基づく普遍的な善に還元されない。その善の内容は実存の背負っている個性的な歴史性と結びついている。しかし良心における善悪の区別は未だ形式的である。私が善と感じているものが内容的にも善であるとは速断し得ない。その点で良心は誤り得る。良心の声は決して神の声ではない。我々は善悪の内容について己の思想を広め深めねばならない。そこに交わりへの要求、就中、我と汝という実存的交わりへの要求が生じる。かくして実存倫理は新たな立場から自他の連関を回復するのである。この段階は内容的には愛の倫理である。愛は意志の対象ではなく、愛から倫理的行為への意志が生ずるのである。愛は憎に対立する。愛は存在を志向し、憎は非存在を志向する。ヤスパースがこの愛の段階をメタフィージッシュと名づけているのは、愛において自己の存在が超越者から贈られたように感じられるからである。ヤスパースにおいては愛は根源への愛であると同時に、実存と実存との交わりへの愛である。しかしヤスパースにおける実存的交わりは、我と汝という関係を十分には基礎づけていない。その基礎づけは哲学的な難問である。
* * *
役割分担の主体としての自我は、限定された自我である。意識を媒介として、他者によって限定された自我である。しかし、この限定は、自我の根底にまで達しない。役割のことをペルソナ、つまり仮面とも呼ぶように、役割は、自我の全てを吸収することは出来ない。役割は、自他の区別を超越した非人称的意識(それは、大衆社会における大衆の意識である)と、役割の中に吸収しきれぬ余剰としての自我との不完全な媒介である。したがって、大衆社会における大衆の意識は、常に欲求不満によって付きまとわれている。その際どいバランスを保っているものこそ、多種多様な役割関連の網目なのである。それゆえ、大衆はこの網目の中で少しでも、欲求をより有利により多く充足させ得る役割にありつこうとして、懸命の努力をするのである。
役割連関の場においても、自他は、互に交換可能な身体的図式の担い手として、互に本質的区別をもたない。自他の区別は、それぞれ異なる相手に対してそのつど異なった役割を担いつつ、一人でいかなる組み合わせの役割の束を担うか、という点によってのみ、決まるであろう。かくて、交換可能な役割の束に他ならぬ者としての個人は、役割連関の網目の一つにすぎず、固有の自我をもたない。あるいは、自我は、義理のしがらみにがんじがらめとなった者の懐く後ろめたい人情という余剰としてのみ、存在する。ここで決定的に支配している者は、我でも、他人でもなく、むしろ網の全体、あるいは、役割の交換を可能ならしめている非人称的意識そのものである。
しかし、理論的に抽象化された役割連関ではなく、現実の役割連関は、必ず一定のヒエラルキーを含んでいるのであって、その限りでは、決定的支配者は、非人称的意識だけではない。完全な形における役割交換を阻んでいるもの、いわば支配のベクトルとも言うべき匿名の偏向力がどこから生ずるか、という問題を考えるならば、自他未分化の領域というものが一つの抽象であり、仮象であることは明らかであろう。
それゆえ、役割連関の中に、共同存在の原点を求めようとする社会は、自我の超越性を知らぬ社会であり、その時々の権力の支配に従順な社会である。一人称(したがって二人称)を表わす単語が十個以上もあるという日本語の中に反映している日本の従来の社会構造が、そういう性格を強くもっていることは否定できないであろう。それは、いわば自他未分の役割連関という仮象の中に未だなお眠っている社会である。役割の束としての自己を突き破る自我を、未だ知らぬ社会であると言わねばならない。
自我の超越性というと、人はカントやフッサールの超越論的な自我を思い浮かべるかもしれない。しかし超越性とは、ここでは全ての意識領域からの超越を意味している。これに対し、上の超越論的自我は、いずれも、意識自身に内在する自我であると主張されてきた。
今、身体との関連から、二つの自我存在の区別を考えると、事態は明らかとなろう。すでに対象化された存在としての自我は、客観的な時空間の中に置かれたものとしての身体、いわば身体の「外側から見られた存在」を引き受けつつ、それと一体化している。これに対して、非対象的全体としての自我は、客観的・延長的時空間の中に措定され得ないものであり、いわば身体の「内側から見られた存在」とも呼ぶべきものである。つまり、「内側から見られる」限り、身体的存在の限界は皮膚の表面化に止まるのではなく、むしろ、存在は身体を原点、あるいは湧点として皮膚の表面を越え、限りなく周囲に溢れ、広がりつつ、ついに、存在者の全体にまで滲透し、これを一つの地平にまとめあげてしまうからである。サルトルが『嘔吐』の中で描いたマロニエの根に関わるロカンタンの体験は、この非対象的自我存在の体験に他ならない。このようにして形成される地平が、構想力の場である。つまり構想力は、内側から見られた存在を見る意識である。そして、構想力によって産出される全ての像は、この存在の現象に他ならない。それは知覚が外側から見られた存在つまり対象的存在の非人称的意識への現象であるのと全く同断である。
こうして、我々の自我は、身体がもつ二重性、つまり、それが外側から見られた存在であるとともに、内側から見られた存在でもあるという二重性によって、決定的に規定されている。純粋な自己意識(つまり構想力)の土台としての自我は、後者、つまり、内側から見られた存在としての身体に他ならない。
いわゆる役割連関の中における「我」は、すでに非人称的意識によって媒介され、対象化された自我であって、その限りにおいて、身体の外側から見られた存在と内側から見られた存在との限定された統一である。我はまた、ここでは人間は平等でありつつ、しかも、厳としてヒエラルキーが存する。これらの事実が、役割連関の中の自我にとって、全ての存在者は、外側からと同時に内側からも見られている、つまり、知覚的に、かつ、構想力的に見られているということに他ならない。人間は常に、自己の身体的存在のあり方に準じて、他の存在者を見るのである。
では、役割連関の中の相手たる「他我」はいかにして発見されるのであろうか。自我が非人称的意識を媒介として、自己の対象性を引き受けることによって、はじめて、自我の周囲の外側から見られた存在の中に、つまり対象的自然の中に、存在を内側から見る意識、つまり自我の構想力の機能に正確に適合するような運動をなしつつあるものが発見される。これをフッサールのいうように感情移入と呼ぶのは誤解を招きやすい。つまり対象的運動に対して、これとは別個の感情を移入するのではなく、特定の対象的運動が、それを見る自我の運動に関する構想力の作用に正確に対応することが発見されるのである。つまり、或る物体の動き(表情をも含めて)と私の構想力の働きとの間に正確な「双関」関係が成立するのである。この事実によって、はじめてこの特定の物体は、一個の「身体」として措定され、かつ、また、私の構想力とのこの対応関係にも拘わらず、私の意志によってこれを実際に動かすことの不可能性を通して、他なる身体として確定される。つまり、この身体を動かしている他なる自我が確信されるのである。かくて、他我の存在は、対象的知覚と構想力との統一を通して、類比的に確信されるのであって、決して、直接に認識されることはない。類比的ということは、私の自我が、対象的身体を引き受けた瞬間に、すでに私の構想力は対象的構想力となって、自己の身体の動きを図式として、つまり、改めて空間へ対象化することなしに把握しているのである。それゆえ、私が他の身体において発見するのは、自分と共通の身体図式であるといえよう。そして、この自他共通の身体図式を介して、私は、私の周囲に働きつつある他の対象的構想力とその背後にある他我の存在とを確信するのである。
しかし、私と他人とは、役割連関の中で、限定された内と外との統一、つまり、対象的構想力および身体的図式を媒介として、互に了解し合っているが、この媒体は、自我と他我とをそれらの存在の全体において媒介する能力はないのである。
いま、全体性として捉えられた他我を真の汝(ブーバー)と考えれば、役割連関の相手は、対象性(それ性)を通して捉えられた限りにおける汝であり、役割というマスクを通して捉えられた限りにおける汝なのである。絶えず交換的に流動する役割の束の背後にある人間は、その限りでは、万人の誰ででもあって、しかも誰ででもないような両義的存在である。このような両義的存在は、役割的マスクによって、ただ不完全に媒介されているにすぎない。新しい役割を引き受ける毎に、新しい別個の自我になってゆくような、役割的自我にとって、真理への関心は好奇心という形態を取らざるを得ないであろうし、相手との対話も相互の役割的マスクの許容する範囲を超えれば、世間話としてしか行われ得ないであろう。そして、これらを全て貫いて、役割的連関の両義性に発する曖昧さがつきまとうのである。
しかし、人間は、役割的連関なくして、生きることは出来ない。問題は、自我と他我の全体性を回復することであり、役割的マスクに囚われない、自由で、全面的なコミュニケーションへの通路を切り拓くことであろう。そのためには、相互の構想力の閉鎖性が突破されねばならない。構想力が、サルトルにおけるように、欠如せる自己存在の全体を先取的に志向する意識に止まる限りは、自他の相克は避け難いからである。
自我が内側から見られた限りにおける身体的存在であるとするならば、自我は徹頭徹尾、有限性によって貫かれていると言わねばならない。自我は、自己を限定する外面性から解放され、より内面的になるに従って、自分が死に定められていることを明瞭に感得する。自我は、生れると共に、すでに死の中へ投げ込まれているのであって、死は可能性であると共に、事実性であり、未来であると共に、過去である。言い換えれば、死は現実的であり、現在的なのである。死の可能性は既定の事実として与えられている。かくて、自我は、自らの根拠を自らの中にもたぬことが明らかとなる。自我は自らにとってすでに他者なのである。かくて死の喜ばしき訪れを素直に受け入れる自我は、自我の殻を粉砕するであろう。全てを包括する自我の地平は、いまや、他我に対して開かれたものとなるであろう。なぜなら、自我は他我の他者性を、すでに予め、自己の根底から受容してしまっているからである。
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キルケゴールが一時いかにヘーゲル主義に心酔していたかは、1835年の頃に企てたマギター論文がファウスト、ドン・キホーテ、さまよえるユダヤ人などの民間伝承を主材としたヘーゲル風の中世精神史であったことによって疑いべくもない。しかし彼はやがて、理性あるいは精神のイデーの内に解消し切れない人生の暗黒面を凝視しつつ、個別者を超越者に関係づけて実存者として確立することに主力を注いだのである。
この際我々に想い起こされるのは、ヘーゲルが『精神の現象学』のC理性に対して総論の意義をもつ箇所において述べている次のような言葉である。一体意識は対象に様々の態度をとるが、この態度がどのようなものであるかは、その際の意識が世界精神のどのような段階に立っているかによって決まることである。理性の場合も同じである。理性が無媒介に登場してくるときには、理性が現にあるということだけが抽象されるが、しかしこの現にあることの本質と自体とは絶対的な概念であり、それが生成してきた運動である。すなわちカントやフィヒテの理性は実はそれ以前の歴史によって媒介されたものであるにも拘わらず、彼らにおいては無媒介に登場してきているがゆえに、理性としての機能を十分に発揮し得ていないとヘーゲルは言っているのであるが、同様なことは類比的にキルケゴールの実存についても言えるのではないか。彼は反理性主義者であるのは、実存の無媒介的登場によることなのである。
しかし、キルケゴールにおいても実存はただ無媒介にのみ登場しているのではない。これについては下の諸点が挙げられ得るが、これらについて論ずることによって、実存もまた一種の理性、すなわち実存理性をもたざるを得ないことが明らかになろう。
1)最初は段階説である。実存思想は美的実存-倫理的実存-宗教的実存という系列を形づくると言われるが、初めの二つの段階は実存ではなく生活とも言われるべきものであって、真に実存と呼ばれるに相応しいのは第三の段階だけである。だから実存は初めの二つの段階によって媒介されて登場していることになる。上に美的と言ったものは、エステーティシュのことであるが、これはただ美的を意味するだけでなく、これに先立って感性的を意味する。キルケゴールはこれをヘーゲル的に直接的、無媒介的とも呼んでいるが、要するに享受欲、幸福を追求する生活であり、ヤスパースのダーザインすなわち現存在にあたるものである。
しかし、この場合にはたとえ感性的であるにしても最早直接的ではなく反省に媒介されたものである。『あれか-これか』の第一部に収められている『誘惑者の日記』に、詩人にとって美は直接に与えられるものではなく、総合を経たものであるとある。ここにはすでにヘーゲルの精神ないし理性がなお感性に埋もれた形においてであっても働いており、総合するに際しては、悟性の反省が働いている。
2)『不安の概念』の序論において、美学-倫理学-教義学-心理学-第二倫理学という学問分類の系列を立てている。美はカントにおいても無関心性において成立するものであり、美学の立場は没自己的であって、ゆえに本来的自己になろうと決断するところの倫理学に、キルケゴールは移って行く。この移行に飛躍があることは明らかである。彼は1836年6月4日に自殺未遂事件を起こし、その後改心して一定の職業について家庭生活に入らんと決意していた。しかし『あれか-これか』の第二部において展開したところの倫理的生活はヘーゲルの人倫思想に、精神の倫理学に基づくものである。ところで、この人倫思想は家族-市民社会-国家の体系をなすが、国家はキルケゴールの捨てざるを得なかったものである。彼は1830年11月近衛隊に入ったが、わずか四日で除隊となった病弱の身であったからである。しかし彼は残った家族-市民社会においてもその座をもたぬ例外者であることを自覚した。
前コリント書6-19には「汝らの身は聖霊の宮」とあり、後コリント書6-16には、「我らは生ける神の宮」とあるが、こういう意味において彼は己が身を神の住み給う清き宮として立てんとしたのであるが、このことが彼に己が身の罪悪深重であって、むしろ悪の巣窟であることを自覚させ、神をただいたずらに遠く高いところへと去らせた。建徳の重視が彼をしてヘーゲルと訣別させた原因である。ヘーゲルは建徳をもって感傷的なお説教にすぎずとしたが、ヘーゲルにとっては楽園における無垢は、教養や文化すなわちビルドゥングが得られるためには、この無垢の無差別を砕いて差別へと移行せざるを得ず、そこに罪があっても、これはむしろ不可避のものであり、また罪のもたらす善悪の対立も和らぎによって跡形もなく消え去ると考えたがゆえに、建徳を深刻には考えなかった。ところでキルケゴールにとっては罪について教えるものはキリスト教の教義学であるが、しかしこれは罪の事実であることを教えるだけで、それがどうして起こったかを知らせるものではないから、彼は心理学に移り、罪について知った上で第二倫理学を建てようとするのである。この系列は、現存在から悟性の反省を媒介として精神の高みにまで登ったキルケゴールが改めて罪を自覚することによって現存在の低みに転落しながらも、遠く高く去った超越者を仰ぎつつ、また罪という現実を見極めつつ、現実に真実に存在しようとしたこと、すなわち実存しようとしたこと、したがって彼においても実存はただ無媒介にのみ登場しているのではなく、悟性の反省と精神ないし理性によって媒介せられて登場していることは明らかである。
3)有限や必然に徹しつつ無限であり可能性を失わず、また無限であり可能性を孕むと言っても、有限な必然性の制約を忘れぬ時にのみ、実存は成立する。ところで「死ぬる病」すなわち絶望はこういう関係が失われるところに生ずるのであるから、したがって絶望とは失関のことである。失関であるから、絶望には有限のみあって無限のないもの、必然のみあって可能のないもの、ないしこれらの逆がある。これに対して関係が保たれている時には、自己は現実に存在する。すなわち実存する。だから実存するのは、かかる意味において可能性が解放されせられていなくてはならないが、この可能性が実存者をして真に祈ることを可能にする信仰であると、キルケゴールは言う。すなわち人間は空気なくしては呼吸することができないが、この空気にあたるものが信仰だと言うのである。しかし彼が空気と呼んだものは、これを理性とも呼び得る。理性をもって一種の自由な空気、自由な空間にあたるものとするのである。例外者は、普通の枠の内には占めるべき座は見出されないが、これを開発するものが理性であり実存理性なのである。
しかし、自己はあくまでも関係である。だから可能性と言っても必然性を離れるならば、地についた実存的可能性とはならないが、この際の必然性の制約こそは限界状況に他ならない。ここに限界状況の経験が実存に不可欠なるゆえんがある。しかしどうしようもない限界状況の経験に即して可能性を開発し得るのは、対立する両項を遙かに越えた超越者から来る一種の呼び声を聴き取ることによる。上の実存理性を誠実と呼ぶこともできるが、それは、その時々の悟性と精神によって媒介されており、その広さや深さはこの媒介の如何によることになるであろう。
4)限界状況はこれを一般的に言えば、死・苦・争・責によって代表させることができるが、争と責とは明らかに人間関係なくしてはあり得ぬものであり、苦もまた多く社会関係に基づくものであり、そして死はもとより本来的には己の死であり、またこの場合に実存的意義をもつにしても、近親者の死は己の死と殆ど同じ意義をもち得るものである。こう考えると、限界状況は人間関係なくしてはあり得ぬものであり、実存理性はいわゆる交わりの理論とならねばならないが、しかし交わりの問題は、キルケゴールにおいては『あれか-これか』第二部の倫理的生活によって取り上げられただけで、その後はほとんど姿を消している。それは、ヘーゲルが我なる我々ないし我々なる我としての精神の成立が、殊にそれをもって非連続の連鎖とするときには(『精神の現象学Ⅵの終わり)その深き意義を認めるべきであるとしても、自己と他者との関係にはかかる精神にはしょせん解消し切らぬものがあって、関係の両項を遙かに高く超えた包越者に根源を求めざるを得ない。だから自己と他者との場合こそキルケゴールが関係に与えた規定を最もよく満足しているにも拘わらず、彼はこれを取り上げないのである。しかし全く取り上げないのでもない。それは『不安の概念』が悪魔的なものを論ずる場合である。悪魔的なものは交わりを断ち閉鎖的である。それを一事に専念するから連続的であり、一貫的である。しかし一事の繰り返しであるから、退屈を招く。かくてそれは突発的なものとなって現れて来ることになり、一貫的であるかのように見えて一貫的でないことになる。だから真の一貫性を与えるものは他に対して胸襟を開いた交わりであるというのである。ここにキルケゴールにおいても実存的交わりの取り上げられる余地があり、またそれが現存在と悟性と精神との立場における交わりによって媒介され、またこれらを生かす余地があり、第二倫理学はこのことを志向していたとも言える。
哲学者たちにとっては時はすでに完了しており、彼らの関心するところは過去のことばかりであるが、実存者は未来に向かって生成することにのみ専念するとキルケゴールが言った場合、それはヘーゲルの歴史哲学に反対していることは明らかである。しかし彼にはおよそ歴史観がないかと言うと、決してそうではない。彼のマギスター論文はルネッサンスを目指した中世精神史であり、『断片』におけるソクラテスとイエスとの対照もギリシア思想とキリスト教を頂点とするヘブライ思想の対照であり、晩年のデンマーク教会を攻撃した際の彼はパウロ復興ないし使徒復興の立場をとるものであった。いったい彼のキリスト教観は父ミケルの感化によって敬虔主義の色彩の強いものであるが、しかし根本においてはデンマーク教会の伝統であるルター主義によって立つものであり、したがってその信仰義認は彼の承認するところであるが、晩年には牧師の結婚などに関してルターを批判しつつ、使徒の時代に帰らんとした。しかしルターのパウロ復興が実際にはただ単にパウロの昔に帰らんとするものではなく、その真の精神を当代に生かさんとするものであったと同じことが彼にもあることは、フランス革命以来の当代についての批判が彼にもあることによって明らかである。
以上のようにしてキルケゴールにおいても実存は必ずしも無媒介に登場しているわけではないが、全体として見れば無媒介たるを免れぬ。この無媒介を媒介に転ずるときにのみ実存の概念は初めて確立する。そこに実存と理性の問題はあるのである。
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矛盾律の支配する世界が究極のものであるなら、根本において在るのは連続だということになる。ならば断絶は根本ではなくなる。だとすれば断絶を前提とする破壊や創造も根本的には意味をなさなくなる。ライプニッツが、モナドは一挙にして生まれ一挙にして死ぬと言ったのは、この間の消息を理解していたからであろう。だから無からの創造が受容できないならば、破壊とか創造は根本的な意味を失ってしまう。だが無からの創造というようなことは、客観的には成り立たない。そうでなければ、それは当然あるべきように在ったのであるから、客観的同一の場において、それとして説明可能なはずである。がもしそういう形で説明可能なものであるならば、根本において他の場合と同じことになるから、その瞬間を取り立てていう必要はない。
だが断絶の場においてしか成り立たない破壊とか創造とかいうことが、そうだと受け取られるのは何によってであろうか。断絶であるならば、前後がなく、したがって共通と言われるべき何ものもないはずであるから、それがそうであることも受け取られ得ないはずである。しかもなおそれは明らかに破壊であり創造であると受け取られている。その限りでそれは肯定されているのである。断絶はその限りで超えられている。
そこにあるのは、断絶が断絶の否定において初めて断絶であるということである。断絶は断絶であることにおいて、その度毎に超えられているのである。モナドとモナドとの出会いにおいて、そこには窓がないのだから、初めから客観的同一を前提する連続はあり得ない。相対するのは独立な主体である。その限りその間には超え難い断絶がある。しかも自己を習うことの極限において、自己が超えられるとき、すでに互いの自己は断絶のままに面と面を合わせて対話の場にいるのである。そのとき、破壊と創造という断絶は断絶のままに受け容れられているのである。本来的には連続しているはずのないものが、しかも連続であったのだと気づかされるのである。破壊と創造が成り立つのは、対話が成り立つところ、単伝と面授の成り立つところにおいてである。そこに断絶が断絶のままに連続する場は成り立たない。非連続の連続は、もし言い得るならば、断絶が断絶のままに超えられるところに現に成り立つし、歴史的に成り立ってきたのである。
真善美と言われる価値をいわば統一するところに成り立つという聖なる価値にしても、超越的当為として妥当すると考えられる価値にしても、そこに考えられているのは、価値に関する連続である。この考えはもともとカントの合目的性の考えを前提しているが、これは連続の理論を前提として初めて成り立つものである。個と普遍の連続において価値が承認されている。その連続の根拠が客観にあるのではなく、主観にあるのだとしても、この主観のア・プリオリな連続的自己同一が前提となっていることに変わりはない。
また志向的価値観ということを言うにしても、対象の本質と志向的体験との間には連関があると言い、そこに宇宙的体験が考えられているのだから、結局は宇宙に対する共感のようなものが考えられていることになる。その考えが根本における同一と連続を前提していることは間違いない。だからそこでは破壊と創造は根本的な問題ではない。例えば天才における歴史の破壊と創造とか見えるものも、全体としての宇宙的なものにおいて処を得るのであり、一時的表面的な問題であるにすぎない。というのは、問題の扱い方が客観的だからである。客観的には破壊と創造は一時的現象、変化のひと駒にすぎない。
『ツァラトゥストラ』には、価値の破壊者は創造者であると書かれている。これまでの一切の価値を否定することは、そのまま同時に、あたりを照らすものとなる。だがこのことは、もし重荷に耐える精神(ラクダ)に対する、自由な強奪の精神(ライオン)に止まることを意味するならば、単なる破壊であって、創造ではない。ライオンをもなし得ないことをなし得るものが同時にそこにいなければならない。そこに創造が成り立つ。それが小児であるという。小児は無垢であり、忘却であり、新しい始まりであり、戯れである。つまり何ものにも捉われない境地である。それは一つの自ら回る輪である。それは聖なる肯定である。創造にはこの聖なる肯定が必要なのである。この三つの変様は、時を隔てて起こることではなく、いわば一つのことの三面に他ならない。だから、破壊と創造は別のことであっては意味をなさない。けれどもこのことにおいて人間の出会うもの、それは孤独である。投げられた石は落ちて来る。この瞬間を受け止めることが生きていることだとされる。その意味で破壊の瞬間は創造の瞬間である。そこに根拠の輪が回る。だがしかし、それは過去と未来の別れ目に進んで立ち、それらを共に受け容れることである。ここに破壊と創造は瞬間において交わる。だがそのことが成就することは、異質の瞬間に立つことであり、孤独な自らに出会うことである。
この意味で、独りで自らとなることは、目を覚ましていることである。一切価値の転倒において創造を読むものとして、独り目覚めて悲劇の主人公となることである。こうして自ら回る根拠の輪の主体となることは、価値倫理学のように、歴史の中に融け込むことを意味するのであろうか。今先述べたことはすでに永劫回帰を暗示しているが、この回帰の輪の中に消えゆくことを意味するのであろうか。
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