歴史哲学 ローマの世界 要約(2)

 神が三位一体であることが知られるとき、初めて神は精神として認識される。この新しい原理は世界史転回の基軸である。歴史はここに終わると共に、またここから始まる。「時満つるに及びては、神はその御子を遣わし・・・給えり」(ガラテヤ書 4-4)。これは自意識が精神の概念に属する諸契機にまで高まり、絶対的な意味で、これらの契機を把握しようとする要求を感ずるに至ったという意味に他ならない。ギリシア精神「汝自身を知れ」は精神の意識ではあったが、それはまだ自然の要素を本質的な成分とするような精神の意識であった。精神はこの自然の要素を支配しはしたが、しかし支配者と被支配者との統一は、まだそれ自身自然的なものであった。精神は民族精神(民族の守護神)や神々という、多くの個性の形態を取って、規定された特殊的精神として現れ、芸術によって表象的に表現されたから、精神はそこではまだ純粋思惟にまで高まらなかった。このギリシア人に欠けていた内面性の契機がローマ人に現れた。だがそれは形式的で、それ自身漠然としたものであったために、その内容は情欲と恣意に仰いだ。また、この内面性の要素は具体化されて個人の人格という形をとるが、この具体化もその原理の線に沿うてなされたから原理と同様に抽象的、形式的なものである。こういう自我としての各自我は、それ自身無限なものであるが、その自我の現実的な存在は各自我の所有であり、そのことは各自我の人格としての承認に他ならない。しかし、この内面性は、これ以上には一歩も出ない。それ以上の内容は、ここには一切ない。それゆえに個人はアトムということになる。同時に各個人は一者の苛酷な支配下に立つ。一者は諸々の単子の単子として私的人格の上に君臨する権力である。したがって、この私法(私権)はまた人格の非存在を意味し、人格の否認であって、この法の状態は、全くの無法に他ならなかった。この矛盾こそローマの世界の惨めさであった。人格の原理に従えば、各個人こそ所有権の主体である。ところが、各人格の人格(皇帝)が一切のものの所有権を持つから、個々の権利はそのまま止揚されて、無権利(無法)のものとなってしまう。だがこの矛盾の惨めさこそは世界の訓育に他ならない。この矛盾は人格に、その空しさを告白させるための教養の訓育である。だが当のローマ人にとっては、この訓育は盲目的な運命であった。そこにはまだ内的な魂自身が苦悩と希望とを感じ、人間が単に他から導かれる(訓育される)のみでなく、却ってこの導きを自分の内面への導きに転ずるというような高い規定はなかった。しかし、外的な不幸が人間の内心の苦悩となるのでなければならない。人間は自分をまさに自分自身の否定者(悪人、罪人)と感じなければならない。人間は人間の不幸が人間の生来の不幸(原罪)であること、人間がそれ自身において分かたれたもの(神から見放されたもの)であり、分裂したものであることを知らねばならない。
 ところで、こういう高い規定はユダヤ民族に、中でもダビデの雅歌と預言者の中に最も美しい形で述べられ、また創世記に、堕罪の歴史という形で、この精神に関する神話的な物語が述べられている。人間は善悪の認識(知恵)の木の実を食べたために、その楽園を失ってしまったことが物語られている。ここでは罪は、ただ認識によってのみ起こる。認識は罪深いものであって、人間はこの認識のために、その自然的幸福をふいにしてしまったのである。これこそ、悪が意識の中にあるという深い真理を表すものに他ならない。意識が初めて自我を恣意として無限の自由の面と、意志の純粋な内容、すなわち善との面に分裂させる。認識は自然的統一を打ち壊すものとして堕罪であるが、堕罪は偶然的な歴史(出来事)ではなくて、精神の永遠の歴史である。罪のない状態は動物的状態である。動物と神とは一つのものだからである。最も、それは即自的に一つであるにすぎない。人間のみが精神である。人間のみが自分自身を意識している。堕罪は、人間が人間になるための永遠の神話である。人間の満足は、初めはただ選ばれた家族であるということ、カナンの地を得たという有限的な悦びだけであった。神は神殿において犠牲を捧げられ、外的の犠牲と内的の懺悔とによって神に対して贖罪が行われはする。しかし、これらの悦びも、まもなくユダヤ人の手から奪い取られて、ローマ帝国の訓育の中に吸収されてしまう。シオンの殿堂は破壊され、この神に仕える民族は離散した。こうして、ここに一切の満足は奪い去られ、民族はその最初の神話の立場に、人間の生来持っているその苦悩の立場に連れ戻されてしまった。つまり、このローマ世界の普遍的運命を前にして、今やユダヤの地に悪の意識と、主を思い念ずる心とが生ずる。
 そこで、ここに生ずる肝心の問題は、この贖罪、宥和という根本観念が客観的な普遍的意義に押し広げられ、これが人間の具体的本質と見られ、その本性の完成と見られるようになるにある。かつてユダヤ人にとってはカナンの地と神の選民としての彼ら自身のことだけが、この具体的なものと考えられた。しかし、この内容は今は失われ、それに代わって不幸の感情と神に対する絶望とが生じた。それゆえに、ここでは惨めさは単に運命への盲従とならず、渇望の無限のエネルギーとなる。ストア哲学はただ、否定的なものは存在しないし、苦痛は存在しないということを教えたにすぎなかった。ユダヤの感情は、どこまでも実在を重視し、実在の中に宥和を求める。彼らの感情は東洋的な自然の統一、実在性の統一に基づくものであり、それも主観性と一者としての実体との統一に基づくものだからである。ところが、単に外的な実在性の喪失によって、精神は今や自分の中に追い返される。実在性の側面は、こうして一者との関係を通して普遍的なものにまで純化される。光と闇との東洋的対立は、今や精神の中に移され、闇はここに罪悪となる。罪は分裂として善悪を見分けることである。同時にまた、認識は過去の傷を癒す、無限の宥和の源泉である。認識とは、まさに意識にとって外面的なもの、異質的なものを滅却することを意味し、その意味で認識は主観性の自己復帰に他ならない。ところで、この関係が世界の実在的な自意識の中で立てられると、それは世界の宥和(世界の贖罪)である。限りない苦悩の中では対立の二つの面が相克的な形で互いに関係していたが、この無限の苦悩の不安の中から、この対立の両面である神と、否定的なものとして立てられた実在性、すなわち神から分離したところの主観性との統一が現れて来る。無限の喪失は、その喪失の無限性によってのみ償われるものであり、またこの点で無限の喪失は無限の獲得となる。しかし、この主観と神との同一性は、時の満ちると共に現れた。すなわち、この同一性の意識こそ真の相における神の認識である。そうして真理の内容は精神そのものであり、精神自身の中における生きた運動である。ところで、神が純粋な精神であるという神の本性はキリスト教において人間に啓示される。
 しかし、精神とは何であるか。精神は一者であり、自分自身と同等な無限者であり、純粋な同一性であるが、この同一性は次にまた、自分を自分から分離し、自分を自分自身の他者として立て、自分を普遍者に対立する向自有(自立的なもの)及び内自有(自覚的な独立的存在)として立てる。けれどもこの分離は、この全くの自己関係であるアトム的主観性がそれ自身普遍者となり、自己同一的な存在となることによって止揚される。そこで、今精神が (1)絶対的区別に基づく絶対的な自分自身への反省であり、(2)感情としての愛であり、(3)精神としての知識(生粋の霊そのもの)であると解するとすれば、精神は三位一体の精神と見られる。父と子と、精神の統一の中にあるところの区別の形態(同時に統一の原理)としての聖霊が、これである。更にまた、この真理の中には、人間のこの真理そのものに対する関係をも含まれていることに注意しなければならない。というのは、精神は自分を自分の他者として対立させ、そしてこの区別から再び自分の中に復帰するものだからである。ところで、この他者が純粋理念の面から見られると、それは神の子であるが、この他者がその特殊化の面(実在的な面)から見られると、それは世界であり、自然であり、また有限精神である。その意味で、有限精神もそれ自身神の一契機と見られる。それゆえに、人間もそれ自身、神の概念の中に包容されているのであって、キリスト教においては人間と神との統一が見られていると言われるのは、この包容関係を指している。しかし、この統一を浅薄に解して、神がそのまま人間であり、また人間がすぐに神であると言うように見られてはならない。むしろ人間が神であるのは、人間がその精神の自然性と有限性とを止揚し、自分を神にまで高める限りにおいてのみ可能である。すなわち、真理に関与する者であり、また自分が神的理念の契機であることを知っている人間にとっては、同時に自分の持つ自然性の棄却が問題となる。なぜなら、自然的なものは自由を持たない者であり、精神を持たないものだからである。そこで、人間の苦悩と不幸の宥和もまた、この神の理念の中に含まれている。というのは、不幸も今や人間と神との統一を媒介するためには必要欠くべからざるものであることは明らかだからである。
 この即自的統一は、初めはただ思惟的な、思弁的な意識にのみ知られるにすぎない。しかし、それはまた感性的、表象的な意識に対しても現れねばならない。言い換えると、その統一が世界に対する対象とならねばならない。要するに、それは現象しなければならない。しかも、それは精神の感性的な形態、すなわち人間の姿で現象しなければならない。この意味で、神にして人間であり、また人間にして神であるキリストが現れたのであり、それと共に世界に平和と宥和が訪れたのである。
 この場合にギリシアの擬人観が想い合わされるかもしれないが、ギリシアの自然的な明朗性は、まだ自我そのものの主観的自由にまで達せず、まだこういう内面性には遠く、各個別的なものとしての精神という規定にまで達していない。
 次に大切なのは、このキリスト教の神の出現がただ一回限りのものであるという点である。神は主観であるのみならず、現象する主観性として絶対的に、ただ一個の個体だからである。東洋においては神は単に実体と見られ、しかも実体にとっては、その多種多様に分かれた無数の形態は外面的な、どうでもよいものであるから、例えばラマは何回でも繰り返して選ばれることが出来る。ところが、自分に対する無限の関係としての主観性は、それ自体の形式を持つものであるから、現象形態としても、全ての他の形態を排斥するところの一者の形態をとる。
 だがまた、この精神がとる感性的な現実存在は移ろいやすく、生滅変化の世界に属する。だからキリストは死んだ。彼は自ら「我の汝らと共になき今は、御霊汝らを導きてすべての真理を悟らしめん」(ヨハネ伝 16-13)と言っている。使徒たちは聖霊降誕祭の時になって初めて、聖霊に満たされたのであった。使徒たちにとっては、キリストは生身の人であって、後に教団の精神(聖霊)として彼らの前に現れたキリストとは別のものであった。キリストは、この教団の中で初めて、彼らの真に精神的な意識の対象となったのである。その意味で我々がキリストを単に歴史上の人物と見ることも、彼を正しく解するものではない。その時には、彼の生誕、父母、奇蹟など、精神的でなく見れば、彼がいかなる者であったかが問題になる。もしもキリストを性格とか道徳とかの面から問題にすれば、その道徳をどんなに高く見ても、せいぜいソクラテス等と同列に置くことになる。しかし性格とか、道徳などの面での卓越といったことは、精神の最後の要求とは層を異にするものである。ここに精神の最後に要求とは、人間が精神の思弁的概念を、その表象の中に表すということである。もしキリストが単に一人の優れた個人であり、のみならず罪のない無垢の個人であったりして、それに限るなどということであるすれば、思弁的理念の面、絶対的真理の観念は薄いということになる。しかし実は、この面こそ肝心の点であり、それが全ての問題の根本である。
 キリストの神性の認証は、その人自身の精神の証しであって、奇蹟ではない。精神のみが精神を認識するものだからである。奇蹟は認識への道程とはなり得る。奇蹟とは、事物の自然的経過が中断されることを意味する。しかし、我々が何を自然的経過と呼ぶかは、全く相対的なことであって、例えば磁石の作用も奇蹟ともいえる。神がキリストをこの世に遣わしたと言ってみても、それは別に何の証明にもならない。そういえば確かに、ソクラテスも常識的な考え方に対して、精神の新しい自意識を持ち込んだのであった。だから根本的な問題は、神がキリストをこの世に遣わしたという事実ではなくて、その派遣に含まれている啓示にあり、この派遣の内容にある。キリスト自身も彼に奇蹟を要求したパリサイ人を非難し、また奇蹟を行おうとした間違った預言者のことを語っている。
 次に考察せねばならないことは、このキリスト教の観念が教会を形成するに至る経過である。第一の問題はキリスト教の創立の面であるが、そこにはキリスト教の原理が熱烈な口調で、しかも初めは抽象的な形で言い表されている。その典拠は福音書である。そこでは精神の無限性、一切の束縛を投げ捨て、唯一の真理である精神的世界に高揚する次第を説くことが根本のテーマとなっている。彼は山上の垂訓の中で言う。清い心こそ神が人間に現れるために何よりの地盤である。そして精神をぎりぎりのところにまで高めて、単純さにまで引き上げるということが一切の基礎と見られて、その主眼とせられている。媒介の形式はまだ示されないで、ただ目標のみが絶対命令として掲げられている。この精神の立場の世俗的な事物に対する場合にも、この純粋さこそがその実体的基礎であることが述べられる。また、外的苦悩は栄光に比べては何ものでもないから、これを恐れたり逃げたりしてはならないし、およそ魂の純潔を汚すようなものは取って捨てねばならない。財産や営利についても同じように言われる。生計のための労働さえも斥けられる。キリストの教えは一切の義務も人倫的な掟よりも高いのである。
 次の問題は、この原理の展開の面である。また事実、これ以後の全歴史は、この原理の展開の歴史である。まず最初に現れるのは、初めて聖霊がその友等の上に降り、そこで初めて彼らが真の神の観念を理解し得たということ、キリストによって人間は救われ、贖罪されたということは既に述べた。人間の本質が精神であるという永遠の真理、人間はその有限性を脱ぎ捨て、純粋自意識に没入することによって、初めて真理に達するものだという永遠の真理の概念が、キリストの中でキリストによって認識されたからである。キリストの生涯の歴史は各人が精神となるためには自分自身の中に成就せねばならない歴史である。この意味の下に互いに結びつき、その目的である精神生活を生きるところのキリストの使徒達が教団を、すなわち神の国を作ったのであった。
 キリスト教は単にキリスト自身の言説だけに限られる必要はない。その明確な、発展した真理は使徒達の中で初めて現れてくる。すなわち、この内容はキリスト教の教団の中で展開されたのである。
 教団はローマ帝国の中に出来たのであって、またその流布もその中で行われねばならなかった。最初は教団は、国家と絶縁の態度をとり、皇帝の支配の絶対権を認めなかったために迫害と憎悪の対象となった。だがそこにこの無限の内的自由が発揮され、その不抜の堅固さが示された。いかなる迫害も苦痛も最高の真理のために不屈の精神をもって耐え忍ぶことが出来た。キリスト教にあの外的な流布と内的な強さとを与えたものは、使徒の行なった奇蹟などではなくて、この教義そのものの持つ内容、真理であった。
 また注意すべき点は教理、すなわち理論的な面が、すでにローマの世界において完成されたのに対し、この原理に基づく国家の発達は、はるか後になって現れたということである。教父達と宗教会議とが教理を確立したのである。しかし、この教理の確立にとって最も重要な役目をしたのは、それに先行した哲学の発達であった。ローマの内面性と主観性とは精神のない人格として冷たい自我の中に単に抽象的にあるものであったが、それがストア派と懐疑派によって普遍性の形式にまで純化されたが、これによって思想の地盤が獲得され、神は一者として、無限者として、思想の中で意識されることになった。ところが、その代わりにまた普遍は、ここでは単に抽象的な述語にすぎないものとなり、したがってこの述語は主語そのものを含まず、それが主語を含むためには具体的、特殊的な内容を必要とすることになった。元来、一者とか、普遍とかいうものは、空想に基づく空間的な拡がりを意味するものとして、一般に東洋的なものである。なぜと言って、一切の制限を乗り越えてどこまでも広がっているというような無際限の観念というものは東洋に固有のものだからである。ところで、この東洋の一者が思想そのものの地盤の上に立てられると、それは即ちイスラエル民族の目に見えない、非感性的な神である。しかし、この神はまた同時に主観としての観念の対象とせられた。そこで、この原理が今や世界史的な原理となるのである。
 東洋と西洋との合一はローマの世界においては、まず征服という外的な仕方で行われた。ところが、この合一はまた、東洋世界の精神が西洋に弘まることによって内面的にも行われた。イシスとミトラとの崇拝は全ローマに弘まった。外的な事物と有限的な目的の追求に疲れ果てた精神は無限的なものを渇望するようになった。けれども西洋が求めたものは。もう一つ深い、純粋に内面的な普遍性であり、同時に規定性をその中に持つような無限者であった。そうして、この当時の問題が思想の課題として掲げられたのは再びまたエジプトであったが、それも東方と西方との交通の要衝であったアレクサンドリアであって、しかもこの問題の解決は、ここでは「精神」であった。東洋と西洋との両原理がこの地で学問的に接触し、学問的に錬磨された。特に注目すべきは、この地においてフィロンのような学識のあるユダヤ人が、プラトンやアリストテレスから学んだところの具体的なものについての抽象的諸形式を彼らユダヤ人の無限者の観念と結合し、ロゴスという規定(原理)によって神を精神の一層具体的な概念から認識しようとしていることである。こうしてアレクサンドリアの深い思想家達はプラトン哲学とアリストテレス哲学との統一の原理をも把握し、したがって彼らの思弁的思想はキリスト教の根本内容でもあり得るような抽象的諸観念に到達した。つまり、哲学は異教徒の間ですでに、我々が上に真の観念として指摘したような諸観念が異教徒の宗教の要求にも合致するものとして採用されるという道を拓いていた。プラトンは神話を全く否定したが、そのためにその弟子達と共に、無神論という非難を受けた。これに反してアレクサンドリアの人々は、ギリシアの神々の中に思弁的真理を見ることに努めた。また背教者ユリアヌス皇帝は、異教の信仰が理性とぴったり結合しているものであることを主張して、このギリシアの神々の面の復興を計った。同時に異教徒達も、その神々を単に感性的表象と見るべきでないということになり、そこで彼らもそれを精神化することに努めた。それに対して、キリスト教徒はむしろその宗教の歴史的事象の面の中に、さらに一歩深い意味を追求した。フィロンがモーゼ書の中に深い意味を汲み取り、その物語の外面的な面を理想化したのと同様に、キリスト教徒も一方では護教的、論争的な必要から、また他方においては、それにも増して真理そのものに基づいて同じことを行った。ところが、教理は哲学によってキリスト教の中に持ち込まれたものだというところから、この教理がキリスト教と関係ないものであり、不必要なものであるというように見るべきではない。一々の論拠がどこから来たかというようなことは問題ではない。要はただ、それが本当に正しいかどうかにある。人によっては、この教理の或る面が新プラトン的だと言いさえすれば、それだけでもうこれをキリスト教から追い払うことが出来たかのように思っている。ところで、このキリスト教の教義を認識し、確立したものは教会であり、教団の精神である。そしてそれは、「我は神聖な教会を信ず」という教義の一箇条ともなっているが、それはまたキリスト自身が言ったところの、「御霊汝らを導きてすべての真理を悟らしめん」(ヨハネ伝16-13)ということとも一致している。最後にニカイヤ会議(325年)において、ちゃんと決まった信仰箇条が定められたが、これは今になお守られているものである。もちろん、この信仰箇条そのものには何ら思弁的な体裁は出ていない。しかし、教団の中にキリストが降臨するという考えには、深い思弁的な要素がしっかりと結びついているのである。すでにヨハネ伝の「初めに言葉ありき、しかして言葉は神と共にありき、ゆえに言葉は神なり」の中に深い解釈の端初が出ている。すなわち、歴史的現象、外面的な存在としてのキリストの像という点に最も深い思想が結びついている。そこにキリスト教の偉大さがあるのであって、言い換えるとそれは、その教義の深さにも拘わらず、外面的にも我々の意識に容易に掴まれると同時に、さらに突っ込んだ検討と要求にも耐え得る点でもある。その意味で、キリスト教はどんな程度の教養の人々にも向くと共に、また最高度の要求をも充たし得るものである。
 次に教義と外的世界とを共に含むところの第三のもの、すなわち教会が問題になる。教団はキリストの国であり、これを動かしているところの、そこに現在する精神はキリストである。この国は現に存在しているものであって、単に未来のものではないからである。ゆえに、この精神的現在は単に異教と並んで存在するのみでなく、また世俗的存在一般とも並んで一個の外的な存在をも持っている。そこで、この神の国にも或る種の組織が布かれることにならざるを得ない。初めは全ての個人が精神に充たされていることを自覚している。全教団の者が真理を認識しており、これを言い表すことが出来る。しかし、この精神の共同、共有と並んで、指導と教化との監督の必要が生じ、この監督は教団の一般の人々とは区別されることになる。その区別は、あたかも知者、統治者と被統治者との区別と同じ関係にある。監督は精神的な事柄についても、また世俗的な事柄に対しても権威を持つことになり、真理に対しても、また個人主観の真理に対する関係の面、すなわち、どうすれば個人が真理に適った行いが出来るかという問題に対しても権威を持つことになる。こういう区別に基づいて、神の国の中に僧侶の国が生ずる。この区別は元来必然的のものであり、止むを得ないものであるが、しかし精神的なものに対して権威がのさばるということは、実は人間の主観性そのものがまだ未熟であるというところから来る。なるほど、心の中では悪い意志は掃蕩されているであろう。しかし意志が人間の意志である以上、まだ完全に神的なものになり切ってはおらず、単に抽象的(相対的)に自由になっているにすぎないのであって、まだ自由がその具体的現実性の形にまではなっていない。そのことは、これに続く全歴史が初めてこの具体的自由の実現であることからもわかる。これまでのところは、ただ無限的な自由を得るために有限的な自由が滅却されたにすぎず、無限的な自由の光はまだ世俗界を隈なく照らしてはいなかった。主観的自由はまだ、そのままに認められてはいない。信仰の目も自分の足で立っているのではなく、単に他の権威の精神に、寄りかかっているにすぎない。その精神の国が僧侶の国という形を取ることになり、精神の実体と人間的自由との関係という形を取らなければならなかったのも、このためである。のみならず、この内面的組織に加えて、教団はまたもう一つの具体的な外面性(地位など)と自身の世俗的財産とをも所有することになった。しかも、この財産は精神的世界のもつ財産として特別の待遇を受け、その結果として教会は国税を免除され、僧侶は世俗的裁判から除外されるということになった。これと関連して、教会はその財産と僧侶の身柄に関しては自分で監督を行うということになったのである。こういう教会の在り方からして、ここに一方の世俗的な側には私人と皇帝の権力が立ち、他方の側には自らその監督を選ぶところの教団の完全な民主政治があるという、対照的な光景が出現した。しかし、この民主政治は間もなく僧職叙任の関係から貴族政治に移って行った。もっとも、教会のそういう進んだ発展は、今問題にしているこの時代のことではなく、ずっと後世になって初めて現れることである。
 それで、キリスト教によって神の絶対的理念がその真の相において意識されたが、また同時にその点で人間も神の子という特定の観念によって表されている自分の真実の本性から自分自身を見ることになった。それ自身として見れば有限者にすぎない人間は、同時にまた神の映像であり、自分自身の中に無限性の源泉を持っている。したがって人間は、その故郷を超感性的世界の中に持つものであり、無限の内面性の中に持つが、この内面性は人間がその自然的な存在や自然的意欲と袂を分かち、これを自分の中に破棄しようと苦心するところに、初めて獲得されるものである。これが、すなわち宗教的自覚である。ところで、この宗教的生活の圏内に入り、その活動を繰り展げるためには、人間の本性にそれをなし得る能力がなければならない。そしてこの能力は、あの顕勢に対する潜勢なのである。
 それゆえに、ここにもう一つ考察しなければならないことは、この人間の精神的本性が出発点とせられ、前提とせられる限り人間が一般に自意識であるという面から人間を見るとき、人間に対して出て来る種々の規定である。最も、これらの規定はそれ自身としては、まだ具体的なものではない。それはキリスト教が世俗的世界のために獲得した最初の抽象的原理にすぎない。まず第一に、奴隷制はキリスト教の下では不可能となる。なぜなら、人間は今や人間として、その一般的本性上、神の中で見られるものだからである。ここでは、各人は神の恩寵と神の究極目的との対象である。究極目的とは、神は全ての人間が祝福されることを欲する、ということに他ならない。それゆえに人間は、その一切の個別性を度外視して、絶対的にそれ自身において、しかも人間であるというだけで、もう無限の価値をもつ。したがって、この無限の価値の点で、もはやその素性とか、その国籍などの一切の特殊性は無視される。今一つの、第二の原理は、偶然性との関係から見た人間の内面性である。人間は根本的に、このような自由な精神性の地盤を持つものであって、他の一切のものは、悉くこの地盤を元にして発する。それは神的精神が住み、また出現するはずの場所であるが、この地盤こそ精神的内面性であって、それは一切の偶然性を決裁する場所である。
 以上の点からして、前にギリシア人の所で、その人倫の形式として見たところのものが、キリスト教世界においては、もはやそのままの形ではあり得ないということになる。なぜなら、その人倫は無反省的な慣習にすぎなかったが、これに反してキリスト教の原理は自覚的な内面性であり、真理の育つための土壌だからである。無反省的な人倫は、もはや主観的自由の原理に対抗することは出来ない。ギリシアの自由は幸運と天才との楽天的自由であった。それは、まだ奴隷と神託とに支えられていた。ところが、今や神の中における絶対的自由の原理が現れた。人間は今では、もはや隷属関係の中に縛られてはいない。人間はむしろ愛の関係の中に生き、人間が神的本質に属するものだという意識をもって生きる。個々の目的についても、ギリシア人のように神託にきかず人間は今や自ら決断し、自分が一切の有限的なものを支配する普遍的な力であることを自覚している。あらゆる特殊的な存在は内面性という精神的地盤に対しては、その影を潜める。内面性は、ただ神的精神に譲歩するのみである。こうして神託とか、鳥占などの迷信は一切その跡を絶ち、人間こそ決定の無限な力であることが認められるようになった。
 この今論じた二つの原理は、精神が本来持っている原理から出て来たものである。この内的な場所は、一方では宗教的生活の国の市民を作り、それを神の精神にふさわしいように訓育するという使命を蔵するものであると共に、また他方では、この場所こそ世俗的関係の出発点となるものであり、それがキリスト教の歴史の課題となったのであった。信仰上の改心は単に心情の内面に止まるべきものではなく、この現実の世界にまで進出して、この実世界があの絶対精神の規定に従って行動するようになるところまで行かなければならない。けれども、この宗教心は、まだ主観的意志がその外的存在との関係においてその宗教心に抑えつけられ、浄化されるというところまで行っていない。それどころか、却ってあらゆる情熱が現実界の中に益々のさばっている。しかし、それは宗教心が高く止まって、この現実界を知性界の高所から見下し、それを単に間違ったもの、下らないものとして軽蔑してばかりいることによる。それゆえに、我々の課題は、精神の理念が、この無反省的、直接的な精神的存在の中に浸透するようにするにある。
 この点に関して、もう一つ一般的な考察を加えておかなければならない。昔からよく、理性と宗教、宗教と世界との対立が言われる。しかしよく見ると、この対立は実は対立ではなくて単に区別にすぎない。理性は一般に精神の本質であり、神的精神、並びに人間的精神の本質である。宗教と世界との区別は、ただ次のような区別にすぎない。すなわち、宗教そのものは情意と心情の中にある理性であり、神の中に見られた表象的な真理と自由との殿堂である。これに対して、国家は同一の理性が現実界の知識と意欲との中で見られた人間的自由の殿堂である。だから、その内容そのものはまた神的な内容だということが出来る。したがって、国家の人倫は宗教の根本原理をなすものの実現に他ならないから、国家における自由はただ宗教によってのみ支持され、確証される。そこで、歴史の任務は要するに、宗教が人間理性として現れるようにすること、つまり人間の内心に住んでいる宗教的原理が世俗世界の自由を生み出すものであることを明らかにするにある。この意味で、内心と外的存在との間の分裂は止揚される。だが、これを実現するための使命を帯びるものは、もう一つ別の民族である。というよりは別の諸民族、すなわちゲルマン諸民族である。つまりキリスト教は、古代ローマ自身の内部ではその現実的地盤を見出し得ず、そこにその王国を建設することは出来なかったのである。
 コンスタンティヌス大帝(286-337年、在位306-337年、第47代ローマ皇帝)と共に、キリスト教は帝国の王座に昇った(313年ミラノ勅令)。彼に次いで一連のキリスト教徒の皇帝が即位し、それはただユリアヌスによって中断されただけであった。しかし、ユリアヌスも没落した古代宗教に対しては多くをなすことは出来なかった。ローマ帝国は大西洋からティグリス河に亙り、またアフリカの内部からドナウ河に至る開けた全領域にまたがった。この途方もなく広大な帝国の中一体に、間もなくキリスト教は拡がって行った。ローマは、もうかなり以前から皇帝の唯一の居住地ではなくなっていた。コンスタンティヌスはその第二の宮殿を古のビュザンティオン(イスタンブール)に設け、これをコンスタンティノポリスという名前を付けた。しかしローマは、それでもまだ相変わらず統一は保っていたが、遂にテオドシウス大帝が、この前にしばらくの間出来ていた分裂を永久的のものとし、帝国をその二人の子に分割した(395年)。テオドシウスの治世はローマ帝国を照らした光輝の最後の花火であった。彼の治下に異教の殿堂は閉塞され、その犠牲や儀式は廃され、遂に異教そのものが全く禁止された。のみならず、異教は自然に次第に衰え、ついに全く消え去って行った。
 テオドシウスの死の直後、騒動が始まり、ローマの各州は異民族の侵略を受けた。すでに皇帝ヴァレンスの時に、フン族のために圧迫された西ゴート族は、ドナウ河の此方にその居住を移すことを要求してきた(375年)。それは彼らが帝国の辺境を守備するという条件の下に容れられた。しかし彼らはローマの虐待に怒って反乱を企て、ヴァレンスは敗れて、戦場に倒れた。後の皇帝等は、このゴート族の王達の機嫌をとっていた。ところが、勇猛なゴート王アラリスクは遂にイタリアに侵入して来た。ホノリウス帝の将軍スティリコは、403年ポレンティアの戦で、これを食い止めた。また彼は後にはその他の種族をも破った。アラリスクは鉾を転じてガリア、イスパニアに向かい、またスティリコの失脚後、再びイタリアを襲った。410年、ローマは彼のために蹂躙され、掠奪を蒙った。後にはまた、アッティラがフン族の恐るべき軍勢を率いて攻め寄せて来た。アッティラはガリアに侵入したが、451年マルス河畔のシャロンでひどい反撃を食った。けれども、またローマは、ヴァンダル族に攻略され、掠奪を受けた。こうして、西ローマ皇帝の帝位はもはや有名無実のものとなったが、遂に476年へルリ族の王オケアドルは、この称号にとどめを刺した。
 東ローマ帝国は、これから後もまだ長い間存続していたが、西ローマ帝国では侵入した蛮族の遊牧民が化して、新しいキリスト教徒の民族が形成された。キリスト教は、初めの間は国家とは分離していたが、それが遂げた発達も教理や内部の態勢や規律の面に限られていた。しかし、今やキリスト教は統治の面に乗り出して来た。それは、今や政治上の力となり、政治上の推進力となった。ところが、この場合にキリスト教に二つの形態が見られる。一方には、全ての教養を新しく開始し、学問、法律、国家組織などの一番初歩のところをこれから学ばなければならないところの野蛮民族がいると共に、他方には、ギリシアの学問と却って精巧な東洋の文化とを身に着けた教養のある民族がいた。後者の間では法典の編纂が完成されたが、それは偉大なローマの法律学者たちの努力の結晶であって、特にユスティ二アス皇帝の命によって編纂された法典のごときは今に世人の驚嘆の的となっている。
 高い文化を持つ東ローマ帝国においては、キリスト教の精神がその真理性と純粋性とにおいて把握されたはずであったが、その歴史は実は一千年の長きに亙る間断のない犯罪、軟弱、卑劣、無節操、等々の実に戦慄すべき、したがって一向に無味乾燥な光景を呈しているにすぎない。だがそれによって、キリスト教があまりにも純粋で、ただ精神的であるというまさにその点で、それがいかに抽象的であり、またそういうものとしていかに力の弱いものであるかということが証明されるのである。実際、キリスト教はエジプトに始まった修道院のように、全く世間と離れてあることも出来る。世人が人間の情意に及ぼす宗教の感化力を論ずる場合、キリスト教の愛が普及するなら、私生活も政治生活も共に完全なものとなり、その状態は全く合法的に、また人倫的になるだろうというのが、普通の考えであり、またよくそう言われる。だが、こんなことは敬虔な希望ではあり得るが、真理ではない。何故かといえば、宗教は専ら良心に関わるところの内面的なものだからである。一切の情熱や欲望は、この良心と対立する。したがって心情、意志、知性が本物となるためには、それらが徹底的に訓育されることが必要である。言い換えると、法が習俗となり、慣習とならねばならず、現実的な活動が理性的行為にまで高められねばならず、国家が理性的な組織を持たねばならないのであって、この組織が初めて個人の意志を現実的に公正な意志とするのである。光は闇の中に輝いて色を生ずるかも知れないが、精神のこもった絵画を描くことは出来ない。ビュザンティウム帝国は、国家と法律の全組織がキリスト教の原理に従って改造されない限り、キリスト教は文化民族にあっては全く抽象的なものの域を脱し得ないものだということの適例である。キリスト教はビュザンティウムにおいては賤民と無軌道な愚民の手中に落ちてしまった。一方では愚民の乱暴が他方では宮廷の破廉恥な行為が、宗教を盾にとって自己を正当化し、それによって宗教を鼻持ちならぬものとし、宗教を汚してしまった。
 宗教そのものの面では、二つの点が関心の的であった。まず第一は教理の決定で、もう一つは僧職の任命であった。まず、教理の決定は宗教会議と教会の首脳達の手中にあった。しかし、キリスト教の原理は自由にあり、主観的判断にある。それゆえに、教義の争いもまた民族の手に移り、激しい内乱にまで拡がり、至る処に教理のための殺害、火焔、強奪の光景を呈することになった。例えば、キリストは神と同一のものであるか、それとも神と類似のものであるかという論争においては、イオク(ギリシア語の i )の一文字の有無が何千という人の命を犠牲にしたのであった。特に有名なのは聖像の争いである。皇帝が聖像の味方をして、主教がこれに反対し、或いはまたその逆の場合がしばしば起こった。そのために血の河が流された。次に、コンスタンティノプル、アンティオキア、アレクサンドリアにおける主教の任命と、これに伴う主教等の間の嫉妬、野心は、また多くの内乱を巻き起こした。その上に、この宗教の抗争には、決まって剣客達の闘争、すなわち青色党と緑色党との闘争という余興が加わったが、それはまた当然に実に血生臭い戦いになった。しかし、これこそ最も恐るべき堕落の印である。これこそ厳粛なもの、高貴なものに対する感情が消え失せ、宗教的情熱の狂騒が殺風景で、残忍な遊戯の見世物とそのまま両立するものであることを意味するものに他ならない。
 キリスト教の主要な教義は、それでも宗教会議によって段々に確立して行った。だが、ビュザンティウム帝国内のキリスト教徒は迷信の夢に酔いしれ、主教や教会に対する盲目的服従を続けていた。上述の偶像崇拝は激しい闘争と動乱を惹き起こした。勇敢な皇帝イサルウス王家のレオは特に執拗に聖像を迫害したが、754年の宗教会議においては聖像崇拝は悪魔の発明だと宣告された。しかし、女帝イレネは797年二カイア会議によって偶像崇拝を復活し、さらに皇后テオドラは聖像の敵に対して厳しい罰を加えることによって、842年聖像崇拝を決定的なものにした。偶像破壊派の主教等は二百打ちの刑を受け、司教達は震え上がり、修道僧達は凱歌を挙げた。そしてこの正教信仰の記念は毎年、教会の祭りとして祝われた。これに反して西方では、まだ794年のフランクフルトの宗教会議でも聖像崇拝は否認された。のみならず、彼らが自分では聖像という偶像を有している場合でも、ギリシア人の迷信は激しく非難した。中世の終り頃になって初めて、聖像崇拝は徐々に一般に採用されることになったのであった。
 このようにビュザンティウム帝国は、内にはありとあらゆる情欲がはびこって、それに引っ掻き回されると共に、外からは蛮人が侵入して来たが、皇帝もこの外敵には、ほとんど歯が立たなかった。帝国は絶えざる不安の状態に晒され、一体に何とも厭うべき軟弱の世相が現れた。そこでは悲惨な、というよりは狂える情念がのさばって、そのためにもはや思想においても、行動においても、個人としても、偉大なものなどというものの現れる余地はなかった。将軍の叛逆、この叛逆により、或いは朝臣の陰謀による皇帝の失脚、いちばん身内の者であるはずの皇后や皇子の皇帝殺害や毒殺、あらゆる種類の享楽と破廉恥な行為に耽る女人達、これこそ歴史が我々の前面に繰り広げる数々の場面に他ならない。こうして遂に、この東ローマ帝国の朽ち果てた建造物は、1453年、強力なトルコ人のために崩壊し去ったのであった。





























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