存在論第一篇規定性(質)第一章存在 (2)
ヤコービは、カントの「総合そのもの」、「根源的判断」を一面化して、「繋辞そのもの」に変える。即ちそれは「ある、ある、あるであって、始めも終わりもなければ、何が、誰が、どちらがということもないものである。こういう繰り返しの無際限に続く繰り返しの働きが純粋極まる総合の唯一の仕事であり、その機能であり、その所産である。つまり総合そのものは、この単なる、純粋な、絶対的な繰り返しそのものである」。言い換えると、実際その中には如何なる中絶、即ち否定も区別もないのだから、総合は繰り返しであるよりは、むしろ単に区別のない単純な存在にすぎない。だが、それにしても、このように統一が総合的統一である所以のものをヤコービが全然捨てる時、その場合でも果してそれが総合であると言えるかどうか。
まず第一に、ヤコービはこのように絶対的な、即ち抽象的な空間、時間、及び意識をあくまでも主張するが、このとき彼のこの行き方の中には経験上誤ったものがあり、それが強調されていると言わなければならない。限界のない空間とか時間とかいったもの、言い換えると空間や時間の連続性がいろいろに限定された定在と変化によって充満していないような空間とか時間といったものはない。即ち経験的には存在しないのである。したがってこの限界とか、変化とかというものは空間性と時間性とに離れ難く、不可分に属しているものなのである。同様に意識は一定の感覚、表象、欲望等に充ちている。意識はその特殊の内容と離れては存在しない。言うまでもなく経験的推移は一目瞭然である。実際、意識は空虚な空間、空虚な時間、空虚な意識そのものを、或いは空虚な存在をその対象や内容とすることが出来る。しかし意識はこれに留まるものではない。意識はそこから出るものであるのみでなく、こういう空虚から抜け出して、もっとよい内容、即ち何らかの点でさらに具体的な内容を目がけて進む。だから、この内容がどんなに下らないものであっても、それがより具体的なものである限りでは、より善いものであり、より真なるものである。そしてこういう内容こそ、まさに一般に総合的な内容である。即ちそれはいっそう広い意味で総合的なのである。この意味で、パルメニデスは存在と真理との反対のものである仮象と臆見とにぶつからざるを得なかったし、スピノザも属性、様態、延長、運動、悟性、意志等を問題にすることにならざるを得なかったのである。総合は、いま言うような抽象(空間、時間、意識)が非真理のものであることを意味し、このことを明らかにするものである。だから総合の中では、それらの抽象的なものは他のものと統一されたものとしてある。それ故に総合の中では、それらの抽象的なものは自立的なものとして、絶対的なものとしてあるのではなくて、全く相対的な抽象としてある。
しかし、この空虚な空間等々が経験上、空しいものであることを指摘することは当面の問題ではない。無論、意識は抽象によって、いま言うような無規定的なものを到る所に見出すことは出来る。そこで、そういう抽象の面だけが採られたものが純粋空間と時間、純粋意識、純粋存在の思想に他ならない。しかしいま問題は、この純粋空間等の思想、即ち純粋空間等がそれ自身としては下らないものであることを示すにある。言い換えると、これらのものの思想がそれ自身すでにその反対のものであるということ、それ自身において既にその反対がその思想の中に忍び込んでいるものであり、その思想が既に自ら自分自身から外に出ているものであり、即ち規定性であるということを明らかにすることこそ、我々の問題でなければならない。
けれども、このことはそれらの中で自ら明らかになって来ることである。それらはヤコービが十分に示したように抽象の結果であって、それがはっきり無規定的なものとして規定されたのである。そしてこれをその最も単純な形式に還元すれば、それは即ち存在である。しかし、この無規定性ということこそ、まさに存在の規定性を構成するものに他ならない。というのは、無規定性こそ規定性に対立するもの(規定性)だからである。したがって無規定性も対立するものとしてはそれ自身規定されたものであり、或いは否定的なものであるが、しかもそれ自身は純粋な、全く抽象的に否定的なものである。そこで、存在がそれ自身において持つところのこのような無規定性または抽象的な否定こそ、外的、並びに内的反省が存在を無と同一視し、存在を空虚な思想物と見、無と見ることになる所以のものなのである。或いはまた、これは次にように言うことが出来る。即ち存在は没規定的なものであるゆえに、存在が持つところのものは肯定的な規定性ではなく、つまり存在ではなくて、無である、と。
この論理学では始元は存在そのものとされたが、こういう始元の純粋反省(純粋思想、または純粋な自己反省そのもの)の中では推移はまだ隠されている。即ち存在は単に直接的に立てられるにすぎないから、無も存在からただ直接にそのままに出て来るにすぎない。けれども、これに続く規定はいずれもすでに具体的であり、例えばすぐ次の定在などは一歩、具体的なものである。定在においては、あの存在と無という二つの抽象体の矛盾を含み、したがって両者の推移を引き起こした所以のもの(即ち二契機があるということそのこと)がすでに措定されている。ところが、上述の単純なもの、直接的なものとしての存在にあっては、存在が全くの抽象の結果であり、それ故にすでにその点で抽象的否定性、即ち無であるということの想起は論理学の背後に押しやられる。そこで論理学は自分自身の内部で、はっきり言えば本質の所へ行って初めて、この一面的な直接性を媒介されたものとして叙述することになり、そこで初めて実存としての存在と、この存在の媒介者、即ち根拠とが措定されることになる。
このような(論理学の背後に押しやられるような)想起(考え)からすれば、存在から無への推移はまるで容易なものであり、大したことではないものと思われるし、或いはまた人々の言うように、容易に説明されるものであり、理解の容易なものでもある。即ちそれによれば、我々は一切を抽象することが出来るが、一切が抽象される時には無しか残らない故に、学の始元とされた存在は当然に無であるからだというのである。しかし、そうするとそこから更に一歩進んで、それ故に始元は肯定的なものではなく、存在ではなくて、まさに無であり、だからまた無は終末でもあり、その点では無は少なくとも直接的な存在と同等であるのみでなく、それ以上のものでさえあるとも言えそうである。けれども、それが正しいかどうかを見る一番の近道は、こういう屁理屈を勝手にやらかしておいて、その広言する結果がどんなものであるかを拝見することである。つまり、その屁理屈の結果は無でしかなく、したがって始元は無(中国の哲学におけるように)とすべきだと言うことになるからといって、何も我々の説を翻す必要はあるまい。なぜと言って、我々が説を翻す前に、もうこの無が存在にひっくり返っているはずだからである。けれどもまたその場合、その言う抽象がこの世に存在しているものの全てのものの抽象(捨象)だということが前提されているというのであれば、この抽象についてはもう少し詳しく検討しておく必要がある。この存在している全てのものの抽象の結果は、まず最初は抽象的存在であり、存在一般である。それはちょうど、神の存在の宇宙論的証明において、世界の偶然的存在から出発して、その偶然的な存在の中でそれを超越するが、それでもなおやはり存在が顔を出して来るのであって、その存在が無限の存在と規定されるのと同じである。しかし、もちろんこの純粋存在をも抽象することが出来るのであって、この存在もまた既に抽象されている全てのものの仲間に入れることが出来る。すると、残るものは無である。ところが、我々が無について思惟するということは即ち無を存在に転化することであるから、この無の思惟をも忘れようとする場合には、言い換えると、それについて知らないでおろうとする場合には、いま言うような「出来る」という様式で歩みを進めて行くことが出来るのである。すると有難いことに無もまた捨象されることが出来る。そのことは世界の創造が無の捨象であることから明らかである。こうしてこの無が捨象されるのであるから、そこにはもはや無は無く、我々は再び存在に到達することになる。この「出来る」というのは抽象の外的な働きを表すものにすぎず、そこでは抽象そのものが否定的なものの一面的な働きにすぎない。しかし、この「出来る」ということそのことの中ではまず、存在であっても無であってもお構いなしに「出来る」が言い得ることになり、したがって両者の各々が消滅する(どうでもよいことになる)と共に、また各々が生起する(存在する)ということにもなる。しかしまた、無の働き(作用)から出発すべきか、それとも無そのものから出発すべきかと言うことも、どうでもよい。なぜなら、無の働き、即ち単なる抽象作用が何ら真なる存在ではない点では、単なる無と一向に違わないからである。
プラトンがその「パルメニデス」篇の中で一者を論ずる場合の弁証法もまた、どちらかと言えば外的反省による弁証法と見られるべきものである。存在と一者はエレア派の根本概念であるが、二つは同一のものである。しかしまた二つは区別されねばならないものでもあって、プラトンがこの対話篇で取り上げるのもまたこの問題である。彼は一者から種々の規定を、即ち全体と部分、自立的な存在、他者に依存する存在など、或いはまた形状とか、時間などといった規定を取り除くが、その結果として存在は一者に属さないということになる。というのは、以上のような仕方のどれかによらなければ、存在は一者には属さないものだからである。次にプラトンは「一者は有る」という命題を問題にする。そこで、この命題からして一者の非存在への推移が如何にして行われるものであるかについて、プラトンに聞いて見なければならない。プラトンによると、それは「一者は有る」という前提になっている命題の持つ二つの規定の比較から言える。この命題は一者と存在との二つを含んでおり、したがって「一者が有る」ということは、ただ「一者」という場合よりも以上のものを含んでいる。しかも、一者と存在との二つが異なるものだという点で、この命題の含む否定の契機が指摘されるという。この点から見ると、この方法が一つの前提を持つものであり、その点で外的反省であることが明らかになる。
このように、ここでは一者は存在と結合されているが、同様に抽象的にそれ自身として存在するものと見られるべきものである存在も、思惟との関係なしに、その主張されるべきものの反対を含むような結合から極めて単純な形で描き出される。直接的なままの存在も、これを取り上げる時には或る主観によってせられるものであり、したがってそれは言い表された存在であり、一般に経験的定在の面を持ち、したがって制限と否定的なものの地盤の上にある。だから、悟性がどんな表現を用い、どんな言い回しをするにせよ、存在と無との統一に反対して、直接的に存在するもののみを眼中に置くとすれば、悟性がこの経験そのものの中に見出すものは規定的な存在、即ち制限または否定を伴う存在以外のものではなく、即ち自分が排斥する当の統一以外のものではない。こうして直接的存在の主張は経験的な存在に還元されることになり、他人が経験的な存在を挙げることを非難し得ないことになる。それというのも、この主張が元々ただ思惟の外にある直接性にのみ定位しようとするものだからである。
無の場合もこれと同じであるが、ただ反対の仕方で行われるだけである。この見方はよく知られているもので、無についてはよくこの見方が用いられる。無を直接的な形でとると、無も存在するものという形で言われる。というのは、無も本性上は存在と同じものだからである。無も思惟され、表象されるのであり、言葉で言い表される。それ故に無は有るのである。即ち無は思惟、表象、言語等の中にその存在を持つ。けれどもまた次に、この存在は無とは区別される。だから、無が思惟や表象の中にあるということは言い得るが、しかしまたその故に無は有るのではなく、無そのものには存在は属さないということ、ただ無を思惟し、表象する思惟の働きや表象の働きだけが存在であるにすぎないということが言い得る。しかし、こういう存在と無の区別にも拘らず、無が存在に関係を持つものであることはまた否定できない。しかも、この関係が区別を含むものであるとしても、この関係の中には無の存在との統一がある。無がどんな仕方で言われたり、指摘されたりしようとも、無は存在と結合して(いわば存在と抱き合って)現れるものであり、存在と離れずに、即ちまさに定在の形で現れるものである。
ところで、このように無が定在の中で見られる場合にもまた、この存在と無との区別は次のように考えられるのが普通である。即ち決して無そのものに無の定在があるのでなく、無がそれ自身として自分の中に存在を持つものでなく、無が無として存在なのではない。無は単に存在の欠如にすぎず、例えば闇は単に光の欠如であり、寒は暖の欠如である等。闇は眼と関係することによって、即ち積極的なものである光と外的に比較されることによって初めて意味を持つものであり、同様に寒も我々の感覚の中にある何かにすぎない。これに対して存在としての光や暖はそれ自身客観的なものであり、実在的なもの、能動的なものであって、無としての消極的なものとは全く質と品位を異にするものである。即ち人々はこのように考える。そうしてこの闇が光の欠如にすぎず、寒が暖の欠如にすぎないということをしばしば大切な考えであり、重要な認識だとして得意になって挙げているのが見受けられる。だが、このような経験的対象の領野では、この鋭い御説を検討するにも、やはり経験的に述べてよかろう。即ち上述のように、純粋の光の中では純粋の闇の中におけると同様に何も見えないのに、闇が出て来るとその闇は光を色とし、それによって初めて光そのものに可視性を与えるものである以上、闇は確かに光の中で能動的な働きをなすということである。しかも、可視性は眼の持つ働きであるが、その眼の働きに対してはその消極的(否定的)なものも実在的なもの、積極的なものと見られる光と同じ役割を受け持つのである。また寒も水や我々の感覚等の中で十分にその存在が認められるのであって、それのいわゆる客観的実在性をただ拒もうとしても、そんなに簡単にそれを否定することが出来るものではない。ところが、今度はまた、ここでは上の場合と同様に、一定の内容を持つ否定的なものについて言っているのであるから、空な抽象である点では存在とちっとも違わないような無そのものを持ち出して見ても始まらないと言って反対するかもしれない。確かに、我々としては寒とか、闇とか、その他のこういう特定の否定的なものをそのままにとって、それらが現に持っているその普通のままの規定の中に何があるかを見ることこそ必要である。それらは勿論、無一般だということは出来ず、光とか暖などの、即ち何か規定的な存在の無であり、或る内容の無である。つまり、それらは言わば規定的な、内容を持つ無である。しかし後になって明らかになるように、規定性とはそれ自身一個の否定である。それで、それらは否定的な無である。けれども、否定的な無は或る肯定的なものである。このように無がその規定性(上ではこの規定性は主観の中の定在、或いはその他の何かの中の定在と見られたが)の上で肯定的なものに転化するということは、悟性の抽象に固執する意識にとっては甚だしいパラドックス(背理)と思われる。否定の否定が積極的なものであるという見解は極めて単純なものであるが、その単純さのゆえに却って下らないもののように思われて、高慢な悟性は事柄そのものが正当であるかどうかにお構いなしに、一体にこれを認めようとしない。だが、この見解は単にこういう正当さを持つというに止まらず、むしろこういう規定は到る所に見出されるものであるから、無限の領域と普遍的な適用を有するものであって、確かに注目に値するものと言うべきであろう。
次にまた、存在と無との相互の推移に関しては、この推移がまたそれ以上の進んだ反省規定を用いることなしに、掴まれねばならないものだということを注意しておきたい。この推移は、その推移の契機の抽象性のために直接的なものであり、全く抽象的である。言い換えると、この契機の中にはまだその推移を媒介するところの他の契機の規定性は這い入って来ないから、推移は直接的で全く抽象的である。存在は本質的に無ではあるが、しかし無はまだ存在の中で措定されてはいないし、また反対に存在も無の中で措定されてはいない。だから、進んだ規定的な媒介をここに適用して、存在と無とを或る種の関係から把握することは許されない。この推移はまだ何らの関係でもないのである。それ故に、無が存在の根拠であるとか、或いは存在が無の根拠であるとか言ったり、また無が存在の原因であるなどと言ったりすることは許されない。或いはまた、無への推移は何かがあるという制約の下でのみ起こるとか、存在への推移も非存在の制約の下でのみ起こり得るなどと言うことも許されない。こういった関係は、同時に関係の両面が進んで規定されるのでなければ、一向に規定され得ないものである。根拠と帰結等の関連は、もはや単なる存在と無をその結合の両面として持つものではなく、根拠としての存在と(単に措定されたもので独立的なものではないが、しかし抽象的な無とは異なる)、或るものとを、はっきりとその両面として持つものである。
[ 註4 始元の不可解 常識的弁証法の例 ]
これまで述べたところから、世界の始元、したがってまた世界の没落に反対する弁証法(即ちこれによって物質の永久性が証明されるものとせられる)、言い換えると生成、即ち一般に生起と消滅とに反対する弁証法が如何なるものであるかということが明らかになる。(空間と時間との中における世界の有限性と無限性とに関するカントの二律背反は、後に量的無限性の概念を論ずる際に詳しく考察することにする)。この単純な常識的弁証法は存在と無との対立を固定するところから生ずる。即ちそこでは次のような仕方で、世界または「もの」の始まりの可能でないことが証明されるのである。
何かが有る場合にも、また何かが無い場合にも、始まりはあり得ない。なぜなら、何かが有る場合には改めて始まる必要はなく、また何も無ければ、始まることさえも出来ないからである(ゴルギアス)。もしも世界または「もの」が始まったものであるとすれば、それは無から始まったと言わねばならないが、しかし無の中には始まりはなく、また無そのものは始まりではない。なぜなら、始まりは存在を含むものであるのに、無は如何なる存在をも含むものではないからである。無は単に無にすぎない。ところが、そこでは無を根拠とか、原因等と規定する時、その根拠とか原因等の中に肯定、即ち存在が含まれていることになる。これは不合理である。同様の理由から、「もの」はまた終わりに達することも出来ない。なぜなら、もしも「もの」が終わりに達するとすれば、存在は無を含んでいなければならないはずであるが、しかし存在はあくまでも存在にすぎず、存在自身の反対のものではないからである。
しかし、ここでは明らかに生成または始まりと終わりに反対して、即ち存在と無との統一に反対して、その統一を断定的に否定し、互に分離された存在と無との各々に真理を認めるということ以外のことは一向に問題とはせられない。だがそれでも、この弁証法は反省的な観念(外的反省による悟性の観念)よりはまだしも徹底している。反省的な観念にとっては、存在と無とがただ分離してあるということが完全な真理と見られているが、しかしまた他面では、反省的な観念は始まりと終わりとが共に真なる規定であることを想定している。けれども実は、この規定の中で存在と無との非分離性が事実上、認められているのである。
存在と無との絶対的な分離を前提すれば、(このことはよく耳にすることであるが)、始元とか生成とかは確かに不可解なものである。なぜといって、始元または生成を否定するところの前提を立てながら、それをまた再び許すのであり、また自分で矛盾を立てておきながら、その解決を不可能とするような矛盾こそ不可解と呼ばれる他ないからである。
上述の弁証法は無限小の大きさについて解析学の用いる概念に反対して悟性が使用する弁証法と同じものである。この概念については後に立ち入って論ずるはずである。この無限小の大きさとは、大きさが消滅しつつある時の大きさと言ってよいものであって、消滅の以前にあるそれではない。なぜなら、消滅の以前にある時には、それは有限量だからである。またそれは消滅の以後にあるものでもない。なぜなら、その時には大きさは無いからである。しかし、この純粋概念に反対して、この大きさは何かであるか、そうでなければ無であるということ、存在と非存在との間には如何なる中間状態(状態とはこの場合、不適当な、粗雑な表現である)も無いということが何時までも繰り返して言われたものである。即ちここでもまた存在と無との絶対的分離が仮定されているのである。しかし、これに対してはすでに存在と無とが実際は同一のものであることを示しておいたし、反対者の言葉を逆用すれば、存在と無との中間状態でないようなものは何ものも存在しないということを述べておいた。数学の光輝ある成功は実にこの悟性が反対するところのその無限小の規定の採用から生れたと言わねばならない。
このように存在と非存在との絶対的分離という誤った前提を立てて、それに立て籠っているような、いま挙げた屁理屈は、弁証法というよりはむしろ詭弁と呼ぶべきものである。というのは、詭弁とは批判もなしに勝手に立てた、根拠のない前提からする屁理屈を意味するものだからである。これに対して高次の理性運動を、我々は弁証法と名づける。ここにおいては、あの一見全く分離されたものと見えるものも自分自身から、即ちその本性に基づいて互いに推移し合うことになり、その前提が止揚されるのである。こうして存在と無との統一、即ち生成が両者の真理であることが存在と無自身によって明らかにせられるということこそ、存在と無そのものの弁証法的な内在的本性に他ならない。
生成、即ち生起と消滅とは存在と無との非分離性である。それは存在と無とを捨象する統一ではない。むしろ、それは存在と無との統一として、こういう規定的な統一であり、言い換えると、その中には存在も無も共にあるような統一である。しかし、存在と無との各々がその他者と非分離のものである以上、そこには存在も無もない。つまり、両者がこの統一の中に有るにしても、消失するものとしてあるのであり、止揚されたものとしてあるにすぎない。両者は、始めに両者が持つと考えられた独立性から契機に、即ち今もまだ互いに区別されてはいるが、しかし同時に止揚(否定)されているような二契機に落とされる。
この両契機の区別という点から見ると、各々の契機はこの区別の中にありながら他方のものとの統一という形である。それ故に生成は、存在と無との各々がそれぞれ存在と無との統一であるような二つの統一として、存在と無とをその中に含んでいる。一方の統一は直接的なものとしての存在であると共に、また無に対する関係としての存在であり、他方の統一も直接的なものとしての無であると共に、また存在に対する関係としての無である。その意味で、二つの規定は共にこういう統一でありながら、不等な価値を持っている。
生成はこうして二重の規定を持つ。一方の規定においては無が直接的なものとしてあり、即ちこの規定は無から始まり、この無が存在に関係する。即ち無が存在へ推移する。これに対して他方の規定においては存在が直接的なものとしてあり、即ち規定は存在から始まり、その存在は無に推移する。即ちそれは生起 Entstehen と消滅 Vergehen である。
この両者は同じもの、即ち生成であるが、またこのような互いに違った方向を取るものとして互いに浸透し合い相殺し合う。一方の方向は消滅であって、存在が無に推移するが、しかしまた無は自分自身の反対であり、存在への推移であって、即ち生起である。それで、この生起は反対の方向を取るものであって、ここでは無が存在に推移するが、しかし存在はまた自分自身を止揚するのであって、むしろ無への推移、即ち消滅である。両者は単に相互的に相手側を、即ち一方が外面的に他方を止揚するのではない。むしろ各々はそれ自身の中で即自的に自分を止揚するのであり、しかもそれ自身において対他的には自分の反対となるのである。
この生起と消滅との均衡をなすものは初めは生成そのものである。ところが、生成もまた崩れて静止的統一に帰する zusammengehen (癒着する)。存在と無とは生成の中では単に消失するものとしてあるにすぎないが、しかし生成そのものも存在と無との区別があることによってのみある。だから、存在と無との消失は生成の消失であり、或いは消失そのものの消失 Verschwinden des Verschwindens である。つまり、生成は支柱のない動揺 eine haltungslose Unruhe であるが、この動揺は崩壊して一個の静止的な結果 ein ruhiges Resultat を生ずる。
以上のことは、また次のようにも言うことが出来る。即ち生成は存在から無への、また無から存在への消失であり、一般に存在と無との消失である。けれども、生成は同時に両者の区別に基づいてある。それ故に、生成は互に反対するようなものを自分の中に統一しているものであるから、自分自身の中に自己矛盾を持っている。しかし、このような統一は自分を破壊してしまう。
それで、この結果はすでに消滅してしまったもの das Verschwundensein であるが、しかしそれは無ではない。もしも無であるとすれば、結果がすでに止揚された規定の一方への退歩にすぎないことになり、無と存在との結果ではないことになる。むしろ結果は静止的単純性となった、存在と無との統一である。ところで、この静止的な単純性は存在であるが、それは存在といってももはや独立にあるような存在ではなくて、むしろ全体の規定としての存在(存在全体の規定されたものとしての存在)である。
そこで、生成がこのように存在と無との統一への推移となる時、しかもこの統一が存在するもの seiend という形をとった統一であり、言い換えると統一が二契機の一面的な直接的統一という形態を持つようになる時、その生成は即ち定在 Dasein なのである。
[ 註 止揚という言葉 ]
止揚(止揚する) aufheben と止揚されたもの(観念的なもの das Ideelle )というのは、極めて重要な哲学の概念の一つであり、我々が至る所で必ず出くわす根本規定であるから、その意義を明確に理解するようにし、特にこれを無と区別しておくことが必要である。止揚されるものは、そのことによって無になるのではない。無は直接的なものである。これに対して止揚されたものは媒介されたものである。それは非存在ではあるが、しかし存在から出発して到達した結果としての非存在である。だから、その出発の前に持っていたところの規定性をまだ即自的に(自分の中に)保有している。
止揚という言葉の中には二重の意味があり、保存する、維持するという意味が含まれていると共に、同時にまた止めさせる、終らせると言う意味がある。保存という言葉そのものがすでに「もの」を維持するために、この「もの」からその直接性と、したがってまた外部からの作用や影響に委ねられている定在の面を取り除くという否定的な意味を含んでいる。この意味で、止揚されたものとは同時に保存されたものを意味するが、この保存されたものはその直接性だけは失っているが、それかといって全然、否定されたのではないような存在である。止揚の持つこの今いう二つの規定(意味)は辞書の上でも、この言葉の二義として出ている。しかし、このように或る言語が同一の言葉を二つの反対の意味に用いるようになっているということは奇異に感ぜられるに違いない。けれども或る言語の中で、それ自身の思弁的意味を持つような言葉を見出すということは思弁的思惟にとってはうれしいことであるが、ドイツ語はこの種の言葉を大分持っている。ラテン語の tollere という言葉(この言葉は tollendum esse Octavium 「オクタヴィアヌスを持ち上げよと、オクタヴィアヌスを除けという両義がある」というキケロの洒落で有名になったが)の持つ二義も、そんなに大したものではない。その肯定的な意味は、高める(持ち上げる) das Emporheben と言う程の意味しか持たない。ところで、「もの」がその反対のものと統一するようになった限りでは止揚されている。そこで、この厳格な意味から見た場合には、「もの」が一個の反省したもの(統一の中にある自分に復帰したもの)だと言うことを表すものとして、契機 Moment という名前で呼ぶ方が適切であろう。梃子(てこ)の場合には重量と梃子上の一点からの距離とはその力学的契機(力率)と名づけられるが、それは重量という実在的なものと、線という空間的規定を持つ観念的なものとが全く別種のものであるに拘わらず、その両者の作用という点では同一であるということを表わすところから来ている(エンチュクロぺディー第三版 §261 の補遺を参照。「例えば、梃子においては距離が質量の代わりに置かれることが出来、またその逆も可能であり、観念的契機の一定量がそれに対応する実在的なものと同じ作用をもたらす」と言われる。距離 a 、質量 b 、距離 b 、質量 a の時、a × b = b × a である )。哲学の術語がその反省的な意味を表わすためにラテン語の表現を借りるということに関しては、繰り返しにはなるが、やはり説明しておく必要があるように思われるから一言しておく。それは、母国語がこの種の意味に対する表現を持たないためか、あるいは今のようにそれを持つにしても、その表現がどちらかと言えば直接的なものの方の意味を思わせるきらいがあるのに対して、外国語は却って反省的なものを考えさせるというためかの、いずれかの理由によるのである。
こうして存在と無とは今や契機となったわけであるが、この場合に存在と無とが持っているもう一歩立ち入った意味と表現とについては、次にその中に両者を保存している統一であるところの定在を考察する際に明らかになるはずである。両者の相互の区別という点から見れば、存在は存在であり、無は無である。しかしその真理から、即ちその統一から見れば、そこではこのような規定を持つものとしての存在と無とは消失し、両者はもう違ったものになっている。即ちそこでは存在と無とは同じものである。そこで、両者が同一のものであるが故に、両者はもはや存在と無ではなくて、別の規定を持っている。生成の中では両者は生起と消滅であったが、別種の統一としての定在の中では再びまた別種の契機となる。そこで、この統一が今後は両者の基礎となるのであって、両者がこの基礎から逸脱して存在と無という抽象的意味に舞い戻ることはないのである。
(止揚されたもの、または観念的なものは契機と密接な関係を持つ。ヘーゲルは契機 das Moment、momentum という言葉を力学から採って来て、これに特殊の意味を与えたが、契機は元来ラテン語の movere ( movimentum、momentum )、即ち運動という語から来たもので、一般に運動を意味する。しかし、またそこから運動に関する特殊の規定、距離、継続、出発点、一方から他方への運動を、また力、衝撃、重量などを意味することにさえもなる。ところで、ヘーゲルはこれを「それ自身はもはや直接的な独立の存在としてではなく、より広い関係の中に止揚(否定)されているが、しかし同時にこの関係を構成するに欠くべからざる要素、或いは項として保存されているもの」という意味に使用する。例えば、酸素と水素とは化合して水となることによってその独立を失い、水の中に止揚されるが、しかし水を構成する不可欠の要素として、水の契機としての存在を持つ。したがって契機は要素と大体同義に用いられるが、要素においては全体的統一を構成する不可欠の部分という意味が明瞭に表現されない。止揚されたもの、または観念的なものとは、独立的で、実在的なものが、このように止揚されて契機となっている状態を指す。上の例で言えば、酸素は水素と化合することによって、止揚されて水になるが、しかしそのために酸素は全然否定されるのではなく、観念的な形で水の中に含まれているのである。だから、契機と観念的とは止揚という一過程に関係するもので、両者はただ意味の強調の点によって差別されるにすぎないと見てよい。またその点で、これを反面から言えば、その契機はもはや単に実在的なものではなくて、理念の国にあるものであり、観念の世界にあるものとして観念的なものであり、観念性でもある。だから、この観念的なもの、または観念性はヘーゲルではよい意味、高い意味にとられ、哲学の意図する真の世界のものとせられ、ヘーゲルのよく使う愛用語の一つである)。
まず第一に、ヤコービはこのように絶対的な、即ち抽象的な空間、時間、及び意識をあくまでも主張するが、このとき彼のこの行き方の中には経験上誤ったものがあり、それが強調されていると言わなければならない。限界のない空間とか時間とかいったもの、言い換えると空間や時間の連続性がいろいろに限定された定在と変化によって充満していないような空間とか時間といったものはない。即ち経験的には存在しないのである。したがってこの限界とか、変化とかというものは空間性と時間性とに離れ難く、不可分に属しているものなのである。同様に意識は一定の感覚、表象、欲望等に充ちている。意識はその特殊の内容と離れては存在しない。言うまでもなく経験的推移は一目瞭然である。実際、意識は空虚な空間、空虚な時間、空虚な意識そのものを、或いは空虚な存在をその対象や内容とすることが出来る。しかし意識はこれに留まるものではない。意識はそこから出るものであるのみでなく、こういう空虚から抜け出して、もっとよい内容、即ち何らかの点でさらに具体的な内容を目がけて進む。だから、この内容がどんなに下らないものであっても、それがより具体的なものである限りでは、より善いものであり、より真なるものである。そしてこういう内容こそ、まさに一般に総合的な内容である。即ちそれはいっそう広い意味で総合的なのである。この意味で、パルメニデスは存在と真理との反対のものである仮象と臆見とにぶつからざるを得なかったし、スピノザも属性、様態、延長、運動、悟性、意志等を問題にすることにならざるを得なかったのである。総合は、いま言うような抽象(空間、時間、意識)が非真理のものであることを意味し、このことを明らかにするものである。だから総合の中では、それらの抽象的なものは他のものと統一されたものとしてある。それ故に総合の中では、それらの抽象的なものは自立的なものとして、絶対的なものとしてあるのではなくて、全く相対的な抽象としてある。
しかし、この空虚な空間等々が経験上、空しいものであることを指摘することは当面の問題ではない。無論、意識は抽象によって、いま言うような無規定的なものを到る所に見出すことは出来る。そこで、そういう抽象の面だけが採られたものが純粋空間と時間、純粋意識、純粋存在の思想に他ならない。しかしいま問題は、この純粋空間等の思想、即ち純粋空間等がそれ自身としては下らないものであることを示すにある。言い換えると、これらのものの思想がそれ自身すでにその反対のものであるということ、それ自身において既にその反対がその思想の中に忍び込んでいるものであり、その思想が既に自ら自分自身から外に出ているものであり、即ち規定性であるということを明らかにすることこそ、我々の問題でなければならない。
けれども、このことはそれらの中で自ら明らかになって来ることである。それらはヤコービが十分に示したように抽象の結果であって、それがはっきり無規定的なものとして規定されたのである。そしてこれをその最も単純な形式に還元すれば、それは即ち存在である。しかし、この無規定性ということこそ、まさに存在の規定性を構成するものに他ならない。というのは、無規定性こそ規定性に対立するもの(規定性)だからである。したがって無規定性も対立するものとしてはそれ自身規定されたものであり、或いは否定的なものであるが、しかもそれ自身は純粋な、全く抽象的に否定的なものである。そこで、存在がそれ自身において持つところのこのような無規定性または抽象的な否定こそ、外的、並びに内的反省が存在を無と同一視し、存在を空虚な思想物と見、無と見ることになる所以のものなのである。或いはまた、これは次にように言うことが出来る。即ち存在は没規定的なものであるゆえに、存在が持つところのものは肯定的な規定性ではなく、つまり存在ではなくて、無である、と。
この論理学では始元は存在そのものとされたが、こういう始元の純粋反省(純粋思想、または純粋な自己反省そのもの)の中では推移はまだ隠されている。即ち存在は単に直接的に立てられるにすぎないから、無も存在からただ直接にそのままに出て来るにすぎない。けれども、これに続く規定はいずれもすでに具体的であり、例えばすぐ次の定在などは一歩、具体的なものである。定在においては、あの存在と無という二つの抽象体の矛盾を含み、したがって両者の推移を引き起こした所以のもの(即ち二契機があるということそのこと)がすでに措定されている。ところが、上述の単純なもの、直接的なものとしての存在にあっては、存在が全くの抽象の結果であり、それ故にすでにその点で抽象的否定性、即ち無であるということの想起は論理学の背後に押しやられる。そこで論理学は自分自身の内部で、はっきり言えば本質の所へ行って初めて、この一面的な直接性を媒介されたものとして叙述することになり、そこで初めて実存としての存在と、この存在の媒介者、即ち根拠とが措定されることになる。
このような(論理学の背後に押しやられるような)想起(考え)からすれば、存在から無への推移はまるで容易なものであり、大したことではないものと思われるし、或いはまた人々の言うように、容易に説明されるものであり、理解の容易なものでもある。即ちそれによれば、我々は一切を抽象することが出来るが、一切が抽象される時には無しか残らない故に、学の始元とされた存在は当然に無であるからだというのである。しかし、そうするとそこから更に一歩進んで、それ故に始元は肯定的なものではなく、存在ではなくて、まさに無であり、だからまた無は終末でもあり、その点では無は少なくとも直接的な存在と同等であるのみでなく、それ以上のものでさえあるとも言えそうである。けれども、それが正しいかどうかを見る一番の近道は、こういう屁理屈を勝手にやらかしておいて、その広言する結果がどんなものであるかを拝見することである。つまり、その屁理屈の結果は無でしかなく、したがって始元は無(中国の哲学におけるように)とすべきだと言うことになるからといって、何も我々の説を翻す必要はあるまい。なぜと言って、我々が説を翻す前に、もうこの無が存在にひっくり返っているはずだからである。けれどもまたその場合、その言う抽象がこの世に存在しているものの全てのものの抽象(捨象)だということが前提されているというのであれば、この抽象についてはもう少し詳しく検討しておく必要がある。この存在している全てのものの抽象の結果は、まず最初は抽象的存在であり、存在一般である。それはちょうど、神の存在の宇宙論的証明において、世界の偶然的存在から出発して、その偶然的な存在の中でそれを超越するが、それでもなおやはり存在が顔を出して来るのであって、その存在が無限の存在と規定されるのと同じである。しかし、もちろんこの純粋存在をも抽象することが出来るのであって、この存在もまた既に抽象されている全てのものの仲間に入れることが出来る。すると、残るものは無である。ところが、我々が無について思惟するということは即ち無を存在に転化することであるから、この無の思惟をも忘れようとする場合には、言い換えると、それについて知らないでおろうとする場合には、いま言うような「出来る」という様式で歩みを進めて行くことが出来るのである。すると有難いことに無もまた捨象されることが出来る。そのことは世界の創造が無の捨象であることから明らかである。こうしてこの無が捨象されるのであるから、そこにはもはや無は無く、我々は再び存在に到達することになる。この「出来る」というのは抽象の外的な働きを表すものにすぎず、そこでは抽象そのものが否定的なものの一面的な働きにすぎない。しかし、この「出来る」ということそのことの中ではまず、存在であっても無であってもお構いなしに「出来る」が言い得ることになり、したがって両者の各々が消滅する(どうでもよいことになる)と共に、また各々が生起する(存在する)ということにもなる。しかしまた、無の働き(作用)から出発すべきか、それとも無そのものから出発すべきかと言うことも、どうでもよい。なぜなら、無の働き、即ち単なる抽象作用が何ら真なる存在ではない点では、単なる無と一向に違わないからである。
プラトンがその「パルメニデス」篇の中で一者を論ずる場合の弁証法もまた、どちらかと言えば外的反省による弁証法と見られるべきものである。存在と一者はエレア派の根本概念であるが、二つは同一のものである。しかしまた二つは区別されねばならないものでもあって、プラトンがこの対話篇で取り上げるのもまたこの問題である。彼は一者から種々の規定を、即ち全体と部分、自立的な存在、他者に依存する存在など、或いはまた形状とか、時間などといった規定を取り除くが、その結果として存在は一者に属さないということになる。というのは、以上のような仕方のどれかによらなければ、存在は一者には属さないものだからである。次にプラトンは「一者は有る」という命題を問題にする。そこで、この命題からして一者の非存在への推移が如何にして行われるものであるかについて、プラトンに聞いて見なければならない。プラトンによると、それは「一者は有る」という前提になっている命題の持つ二つの規定の比較から言える。この命題は一者と存在との二つを含んでおり、したがって「一者が有る」ということは、ただ「一者」という場合よりも以上のものを含んでいる。しかも、一者と存在との二つが異なるものだという点で、この命題の含む否定の契機が指摘されるという。この点から見ると、この方法が一つの前提を持つものであり、その点で外的反省であることが明らかになる。
このように、ここでは一者は存在と結合されているが、同様に抽象的にそれ自身として存在するものと見られるべきものである存在も、思惟との関係なしに、その主張されるべきものの反対を含むような結合から極めて単純な形で描き出される。直接的なままの存在も、これを取り上げる時には或る主観によってせられるものであり、したがってそれは言い表された存在であり、一般に経験的定在の面を持ち、したがって制限と否定的なものの地盤の上にある。だから、悟性がどんな表現を用い、どんな言い回しをするにせよ、存在と無との統一に反対して、直接的に存在するもののみを眼中に置くとすれば、悟性がこの経験そのものの中に見出すものは規定的な存在、即ち制限または否定を伴う存在以外のものではなく、即ち自分が排斥する当の統一以外のものではない。こうして直接的存在の主張は経験的な存在に還元されることになり、他人が経験的な存在を挙げることを非難し得ないことになる。それというのも、この主張が元々ただ思惟の外にある直接性にのみ定位しようとするものだからである。
無の場合もこれと同じであるが、ただ反対の仕方で行われるだけである。この見方はよく知られているもので、無についてはよくこの見方が用いられる。無を直接的な形でとると、無も存在するものという形で言われる。というのは、無も本性上は存在と同じものだからである。無も思惟され、表象されるのであり、言葉で言い表される。それ故に無は有るのである。即ち無は思惟、表象、言語等の中にその存在を持つ。けれどもまた次に、この存在は無とは区別される。だから、無が思惟や表象の中にあるということは言い得るが、しかしまたその故に無は有るのではなく、無そのものには存在は属さないということ、ただ無を思惟し、表象する思惟の働きや表象の働きだけが存在であるにすぎないということが言い得る。しかし、こういう存在と無の区別にも拘らず、無が存在に関係を持つものであることはまた否定できない。しかも、この関係が区別を含むものであるとしても、この関係の中には無の存在との統一がある。無がどんな仕方で言われたり、指摘されたりしようとも、無は存在と結合して(いわば存在と抱き合って)現れるものであり、存在と離れずに、即ちまさに定在の形で現れるものである。
ところで、このように無が定在の中で見られる場合にもまた、この存在と無との区別は次のように考えられるのが普通である。即ち決して無そのものに無の定在があるのでなく、無がそれ自身として自分の中に存在を持つものでなく、無が無として存在なのではない。無は単に存在の欠如にすぎず、例えば闇は単に光の欠如であり、寒は暖の欠如である等。闇は眼と関係することによって、即ち積極的なものである光と外的に比較されることによって初めて意味を持つものであり、同様に寒も我々の感覚の中にある何かにすぎない。これに対して存在としての光や暖はそれ自身客観的なものであり、実在的なもの、能動的なものであって、無としての消極的なものとは全く質と品位を異にするものである。即ち人々はこのように考える。そうしてこの闇が光の欠如にすぎず、寒が暖の欠如にすぎないということをしばしば大切な考えであり、重要な認識だとして得意になって挙げているのが見受けられる。だが、このような経験的対象の領野では、この鋭い御説を検討するにも、やはり経験的に述べてよかろう。即ち上述のように、純粋の光の中では純粋の闇の中におけると同様に何も見えないのに、闇が出て来るとその闇は光を色とし、それによって初めて光そのものに可視性を与えるものである以上、闇は確かに光の中で能動的な働きをなすということである。しかも、可視性は眼の持つ働きであるが、その眼の働きに対してはその消極的(否定的)なものも実在的なもの、積極的なものと見られる光と同じ役割を受け持つのである。また寒も水や我々の感覚等の中で十分にその存在が認められるのであって、それのいわゆる客観的実在性をただ拒もうとしても、そんなに簡単にそれを否定することが出来るものではない。ところが、今度はまた、ここでは上の場合と同様に、一定の内容を持つ否定的なものについて言っているのであるから、空な抽象である点では存在とちっとも違わないような無そのものを持ち出して見ても始まらないと言って反対するかもしれない。確かに、我々としては寒とか、闇とか、その他のこういう特定の否定的なものをそのままにとって、それらが現に持っているその普通のままの規定の中に何があるかを見ることこそ必要である。それらは勿論、無一般だということは出来ず、光とか暖などの、即ち何か規定的な存在の無であり、或る内容の無である。つまり、それらは言わば規定的な、内容を持つ無である。しかし後になって明らかになるように、規定性とはそれ自身一個の否定である。それで、それらは否定的な無である。けれども、否定的な無は或る肯定的なものである。このように無がその規定性(上ではこの規定性は主観の中の定在、或いはその他の何かの中の定在と見られたが)の上で肯定的なものに転化するということは、悟性の抽象に固執する意識にとっては甚だしいパラドックス(背理)と思われる。否定の否定が積極的なものであるという見解は極めて単純なものであるが、その単純さのゆえに却って下らないもののように思われて、高慢な悟性は事柄そのものが正当であるかどうかにお構いなしに、一体にこれを認めようとしない。だが、この見解は単にこういう正当さを持つというに止まらず、むしろこういう規定は到る所に見出されるものであるから、無限の領域と普遍的な適用を有するものであって、確かに注目に値するものと言うべきであろう。
次にまた、存在と無との相互の推移に関しては、この推移がまたそれ以上の進んだ反省規定を用いることなしに、掴まれねばならないものだということを注意しておきたい。この推移は、その推移の契機の抽象性のために直接的なものであり、全く抽象的である。言い換えると、この契機の中にはまだその推移を媒介するところの他の契機の規定性は這い入って来ないから、推移は直接的で全く抽象的である。存在は本質的に無ではあるが、しかし無はまだ存在の中で措定されてはいないし、また反対に存在も無の中で措定されてはいない。だから、進んだ規定的な媒介をここに適用して、存在と無とを或る種の関係から把握することは許されない。この推移はまだ何らの関係でもないのである。それ故に、無が存在の根拠であるとか、或いは存在が無の根拠であるとか言ったり、また無が存在の原因であるなどと言ったりすることは許されない。或いはまた、無への推移は何かがあるという制約の下でのみ起こるとか、存在への推移も非存在の制約の下でのみ起こり得るなどと言うことも許されない。こういった関係は、同時に関係の両面が進んで規定されるのでなければ、一向に規定され得ないものである。根拠と帰結等の関連は、もはや単なる存在と無をその結合の両面として持つものではなく、根拠としての存在と(単に措定されたもので独立的なものではないが、しかし抽象的な無とは異なる)、或るものとを、はっきりとその両面として持つものである。
[ 註4 始元の不可解 常識的弁証法の例 ]
これまで述べたところから、世界の始元、したがってまた世界の没落に反対する弁証法(即ちこれによって物質の永久性が証明されるものとせられる)、言い換えると生成、即ち一般に生起と消滅とに反対する弁証法が如何なるものであるかということが明らかになる。(空間と時間との中における世界の有限性と無限性とに関するカントの二律背反は、後に量的無限性の概念を論ずる際に詳しく考察することにする)。この単純な常識的弁証法は存在と無との対立を固定するところから生ずる。即ちそこでは次のような仕方で、世界または「もの」の始まりの可能でないことが証明されるのである。
何かが有る場合にも、また何かが無い場合にも、始まりはあり得ない。なぜなら、何かが有る場合には改めて始まる必要はなく、また何も無ければ、始まることさえも出来ないからである(ゴルギアス)。もしも世界または「もの」が始まったものであるとすれば、それは無から始まったと言わねばならないが、しかし無の中には始まりはなく、また無そのものは始まりではない。なぜなら、始まりは存在を含むものであるのに、無は如何なる存在をも含むものではないからである。無は単に無にすぎない。ところが、そこでは無を根拠とか、原因等と規定する時、その根拠とか原因等の中に肯定、即ち存在が含まれていることになる。これは不合理である。同様の理由から、「もの」はまた終わりに達することも出来ない。なぜなら、もしも「もの」が終わりに達するとすれば、存在は無を含んでいなければならないはずであるが、しかし存在はあくまでも存在にすぎず、存在自身の反対のものではないからである。
しかし、ここでは明らかに生成または始まりと終わりに反対して、即ち存在と無との統一に反対して、その統一を断定的に否定し、互に分離された存在と無との各々に真理を認めるということ以外のことは一向に問題とはせられない。だがそれでも、この弁証法は反省的な観念(外的反省による悟性の観念)よりはまだしも徹底している。反省的な観念にとっては、存在と無とがただ分離してあるということが完全な真理と見られているが、しかしまた他面では、反省的な観念は始まりと終わりとが共に真なる規定であることを想定している。けれども実は、この規定の中で存在と無との非分離性が事実上、認められているのである。
存在と無との絶対的な分離を前提すれば、(このことはよく耳にすることであるが)、始元とか生成とかは確かに不可解なものである。なぜといって、始元または生成を否定するところの前提を立てながら、それをまた再び許すのであり、また自分で矛盾を立てておきながら、その解決を不可能とするような矛盾こそ不可解と呼ばれる他ないからである。
上述の弁証法は無限小の大きさについて解析学の用いる概念に反対して悟性が使用する弁証法と同じものである。この概念については後に立ち入って論ずるはずである。この無限小の大きさとは、大きさが消滅しつつある時の大きさと言ってよいものであって、消滅の以前にあるそれではない。なぜなら、消滅の以前にある時には、それは有限量だからである。またそれは消滅の以後にあるものでもない。なぜなら、その時には大きさは無いからである。しかし、この純粋概念に反対して、この大きさは何かであるか、そうでなければ無であるということ、存在と非存在との間には如何なる中間状態(状態とはこの場合、不適当な、粗雑な表現である)も無いということが何時までも繰り返して言われたものである。即ちここでもまた存在と無との絶対的分離が仮定されているのである。しかし、これに対してはすでに存在と無とが実際は同一のものであることを示しておいたし、反対者の言葉を逆用すれば、存在と無との中間状態でないようなものは何ものも存在しないということを述べておいた。数学の光輝ある成功は実にこの悟性が反対するところのその無限小の規定の採用から生れたと言わねばならない。
このように存在と非存在との絶対的分離という誤った前提を立てて、それに立て籠っているような、いま挙げた屁理屈は、弁証法というよりはむしろ詭弁と呼ぶべきものである。というのは、詭弁とは批判もなしに勝手に立てた、根拠のない前提からする屁理屈を意味するものだからである。これに対して高次の理性運動を、我々は弁証法と名づける。ここにおいては、あの一見全く分離されたものと見えるものも自分自身から、即ちその本性に基づいて互いに推移し合うことになり、その前提が止揚されるのである。こうして存在と無との統一、即ち生成が両者の真理であることが存在と無自身によって明らかにせられるということこそ、存在と無そのものの弁証法的な内在的本性に他ならない。
生成、即ち生起と消滅とは存在と無との非分離性である。それは存在と無とを捨象する統一ではない。むしろ、それは存在と無との統一として、こういう規定的な統一であり、言い換えると、その中には存在も無も共にあるような統一である。しかし、存在と無との各々がその他者と非分離のものである以上、そこには存在も無もない。つまり、両者がこの統一の中に有るにしても、消失するものとしてあるのであり、止揚されたものとしてあるにすぎない。両者は、始めに両者が持つと考えられた独立性から契機に、即ち今もまだ互いに区別されてはいるが、しかし同時に止揚(否定)されているような二契機に落とされる。
この両契機の区別という点から見ると、各々の契機はこの区別の中にありながら他方のものとの統一という形である。それ故に生成は、存在と無との各々がそれぞれ存在と無との統一であるような二つの統一として、存在と無とをその中に含んでいる。一方の統一は直接的なものとしての存在であると共に、また無に対する関係としての存在であり、他方の統一も直接的なものとしての無であると共に、また存在に対する関係としての無である。その意味で、二つの規定は共にこういう統一でありながら、不等な価値を持っている。
生成はこうして二重の規定を持つ。一方の規定においては無が直接的なものとしてあり、即ちこの規定は無から始まり、この無が存在に関係する。即ち無が存在へ推移する。これに対して他方の規定においては存在が直接的なものとしてあり、即ち規定は存在から始まり、その存在は無に推移する。即ちそれは生起 Entstehen と消滅 Vergehen である。
この両者は同じもの、即ち生成であるが、またこのような互いに違った方向を取るものとして互いに浸透し合い相殺し合う。一方の方向は消滅であって、存在が無に推移するが、しかしまた無は自分自身の反対であり、存在への推移であって、即ち生起である。それで、この生起は反対の方向を取るものであって、ここでは無が存在に推移するが、しかし存在はまた自分自身を止揚するのであって、むしろ無への推移、即ち消滅である。両者は単に相互的に相手側を、即ち一方が外面的に他方を止揚するのではない。むしろ各々はそれ自身の中で即自的に自分を止揚するのであり、しかもそれ自身において対他的には自分の反対となるのである。
この生起と消滅との均衡をなすものは初めは生成そのものである。ところが、生成もまた崩れて静止的統一に帰する zusammengehen (癒着する)。存在と無とは生成の中では単に消失するものとしてあるにすぎないが、しかし生成そのものも存在と無との区別があることによってのみある。だから、存在と無との消失は生成の消失であり、或いは消失そのものの消失 Verschwinden des Verschwindens である。つまり、生成は支柱のない動揺 eine haltungslose Unruhe であるが、この動揺は崩壊して一個の静止的な結果 ein ruhiges Resultat を生ずる。
以上のことは、また次のようにも言うことが出来る。即ち生成は存在から無への、また無から存在への消失であり、一般に存在と無との消失である。けれども、生成は同時に両者の区別に基づいてある。それ故に、生成は互に反対するようなものを自分の中に統一しているものであるから、自分自身の中に自己矛盾を持っている。しかし、このような統一は自分を破壊してしまう。
それで、この結果はすでに消滅してしまったもの das Verschwundensein であるが、しかしそれは無ではない。もしも無であるとすれば、結果がすでに止揚された規定の一方への退歩にすぎないことになり、無と存在との結果ではないことになる。むしろ結果は静止的単純性となった、存在と無との統一である。ところで、この静止的な単純性は存在であるが、それは存在といってももはや独立にあるような存在ではなくて、むしろ全体の規定としての存在(存在全体の規定されたものとしての存在)である。
そこで、生成がこのように存在と無との統一への推移となる時、しかもこの統一が存在するもの seiend という形をとった統一であり、言い換えると統一が二契機の一面的な直接的統一という形態を持つようになる時、その生成は即ち定在 Dasein なのである。
[ 註 止揚という言葉 ]
止揚(止揚する) aufheben と止揚されたもの(観念的なもの das Ideelle )というのは、極めて重要な哲学の概念の一つであり、我々が至る所で必ず出くわす根本規定であるから、その意義を明確に理解するようにし、特にこれを無と区別しておくことが必要である。止揚されるものは、そのことによって無になるのではない。無は直接的なものである。これに対して止揚されたものは媒介されたものである。それは非存在ではあるが、しかし存在から出発して到達した結果としての非存在である。だから、その出発の前に持っていたところの規定性をまだ即自的に(自分の中に)保有している。
止揚という言葉の中には二重の意味があり、保存する、維持するという意味が含まれていると共に、同時にまた止めさせる、終らせると言う意味がある。保存という言葉そのものがすでに「もの」を維持するために、この「もの」からその直接性と、したがってまた外部からの作用や影響に委ねられている定在の面を取り除くという否定的な意味を含んでいる。この意味で、止揚されたものとは同時に保存されたものを意味するが、この保存されたものはその直接性だけは失っているが、それかといって全然、否定されたのではないような存在である。止揚の持つこの今いう二つの規定(意味)は辞書の上でも、この言葉の二義として出ている。しかし、このように或る言語が同一の言葉を二つの反対の意味に用いるようになっているということは奇異に感ぜられるに違いない。けれども或る言語の中で、それ自身の思弁的意味を持つような言葉を見出すということは思弁的思惟にとってはうれしいことであるが、ドイツ語はこの種の言葉を大分持っている。ラテン語の tollere という言葉(この言葉は tollendum esse Octavium 「オクタヴィアヌスを持ち上げよと、オクタヴィアヌスを除けという両義がある」というキケロの洒落で有名になったが)の持つ二義も、そんなに大したものではない。その肯定的な意味は、高める(持ち上げる) das Emporheben と言う程の意味しか持たない。ところで、「もの」がその反対のものと統一するようになった限りでは止揚されている。そこで、この厳格な意味から見た場合には、「もの」が一個の反省したもの(統一の中にある自分に復帰したもの)だと言うことを表すものとして、契機 Moment という名前で呼ぶ方が適切であろう。梃子(てこ)の場合には重量と梃子上の一点からの距離とはその力学的契機(力率)と名づけられるが、それは重量という実在的なものと、線という空間的規定を持つ観念的なものとが全く別種のものであるに拘わらず、その両者の作用という点では同一であるということを表わすところから来ている(エンチュクロぺディー第三版 §261 の補遺を参照。「例えば、梃子においては距離が質量の代わりに置かれることが出来、またその逆も可能であり、観念的契機の一定量がそれに対応する実在的なものと同じ作用をもたらす」と言われる。距離 a 、質量 b 、距離 b 、質量 a の時、a × b = b × a である )。哲学の術語がその反省的な意味を表わすためにラテン語の表現を借りるということに関しては、繰り返しにはなるが、やはり説明しておく必要があるように思われるから一言しておく。それは、母国語がこの種の意味に対する表現を持たないためか、あるいは今のようにそれを持つにしても、その表現がどちらかと言えば直接的なものの方の意味を思わせるきらいがあるのに対して、外国語は却って反省的なものを考えさせるというためかの、いずれかの理由によるのである。
こうして存在と無とは今や契機となったわけであるが、この場合に存在と無とが持っているもう一歩立ち入った意味と表現とについては、次にその中に両者を保存している統一であるところの定在を考察する際に明らかになるはずである。両者の相互の区別という点から見れば、存在は存在であり、無は無である。しかしその真理から、即ちその統一から見れば、そこではこのような規定を持つものとしての存在と無とは消失し、両者はもう違ったものになっている。即ちそこでは存在と無とは同じものである。そこで、両者が同一のものであるが故に、両者はもはや存在と無ではなくて、別の規定を持っている。生成の中では両者は生起と消滅であったが、別種の統一としての定在の中では再びまた別種の契機となる。そこで、この統一が今後は両者の基礎となるのであって、両者がこの基礎から逸脱して存在と無という抽象的意味に舞い戻ることはないのである。
(止揚されたもの、または観念的なものは契機と密接な関係を持つ。ヘーゲルは契機 das Moment、momentum という言葉を力学から採って来て、これに特殊の意味を与えたが、契機は元来ラテン語の movere ( movimentum、momentum )、即ち運動という語から来たもので、一般に運動を意味する。しかし、またそこから運動に関する特殊の規定、距離、継続、出発点、一方から他方への運動を、また力、衝撃、重量などを意味することにさえもなる。ところで、ヘーゲルはこれを「それ自身はもはや直接的な独立の存在としてではなく、より広い関係の中に止揚(否定)されているが、しかし同時にこの関係を構成するに欠くべからざる要素、或いは項として保存されているもの」という意味に使用する。例えば、酸素と水素とは化合して水となることによってその独立を失い、水の中に止揚されるが、しかし水を構成する不可欠の要素として、水の契機としての存在を持つ。したがって契機は要素と大体同義に用いられるが、要素においては全体的統一を構成する不可欠の部分という意味が明瞭に表現されない。止揚されたもの、または観念的なものとは、独立的で、実在的なものが、このように止揚されて契機となっている状態を指す。上の例で言えば、酸素は水素と化合することによって、止揚されて水になるが、しかしそのために酸素は全然否定されるのではなく、観念的な形で水の中に含まれているのである。だから、契機と観念的とは止揚という一過程に関係するもので、両者はただ意味の強調の点によって差別されるにすぎないと見てよい。またその点で、これを反面から言えば、その契機はもはや単に実在的なものではなくて、理念の国にあるものであり、観念の世界にあるものとして観念的なものであり、観念性でもある。だから、この観念的なもの、または観念性はヘーゲルではよい意味、高い意味にとられ、哲学の意図する真の世界のものとせられ、ヘーゲルのよく使う愛用語の一つである)。
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