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実存主義の歴史(7)
 実存主義は、マルクス主義と同じ状況から出発しながら、ドグマ化されたマルクス主義に反対して、歴史の弁証法的解釈を、あくまで人間的実存のあり方に基づいて、独自の立場から試みねばならない。実存のあり方とは、自由であり、企てであり、選択であり、超出であり、自己からの脱出である。人間のこの具体的現実的な姿を見失うと、単なる事物としての人間しか、歴史に登場してこないことになる。人間は経済的諸条件によって全面的に決定されてしまうことになるし、条件反射の総計でしかないことになる。人間は何よりもまず、一つの状況... ...続きを見る

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2017/04/28 15:27
実存主義の歴史(6)
 1939年1月、ドイツはポーランドに侵入、これに対して英仏は宣戦を布告し、第二次大戦が勃発した。しかし、40年5月10日、ドイツ軍がベルギー、オランダなどの中立国に侵入するまでは、両軍の間に戦闘らしい戦闘はなく、フランス軍はマジノ線、ドイツ軍はジークフリート線を動かず、にらみ合い状態が続いた。この戦闘なき戦争の時期、これがと呼ばれる時期である。サルトルは9月2日、動員されてまずナンシー近郊に向かい、ついで10日後にアルザス地方に移送された。片目の視力のない彼は、戦闘能力なしと判断されたのだろう... ...続きを見る

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2017/04/26 14:13
実存主義の歴史(5)
 後期ハイデガーにおいては、現存在の時間性を地平にして存在一般の意味を解明しようという試みは放棄され、逆に根源的時間は自ら明らめつつ隠れる存在の生起に帰せられ、この存在の生起より現存在が見返されている。現存在の開示性は存在が人間に向かって自らを開く関係の場として存在の光となり、存在了解は現存在の投企に基づくより前に、存在によって生起し、存在に属するものとして、ひたすら自己を放下して存在の明るみに立って存在の呼びかけに聴従し、語られざる存在の言葉を語り出す存在の思索として捉えられるのである。現存在... ...続きを見る

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2017/04/22 14:01
実存主義の歴史(4)
 18世紀末から19世紀前半にかけてのドイツとデンマークにおける思想的風土として考えられるものに、ロマン主義とフィヒテ哲学がある。そして、シェリングが自己の哲学的遍歴の開始に当ってそこから学んだものは自然であり、キルケゴールがそこから学び得てマギステル論文で取り上げたものはイロニーであった。  前述したように、シェリングの自然哲学はロマン主義の中に育まれていた生きた自然への憧憬を体系化し、フィヒテの主観主義における非我としての自然を有機的活動体に置き換えることによって、自然の中に精神を見出した... ...続きを見る

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2017/04/19 16:01
実存主義の歴史(3)
 いかにしてこの歴史の中において、自分を人間とすることが出来るか。この課題に対して、もはや消費の精神は、答えることは出来ない。消費するためには、自らが所有していなくてはならないから、この精神は存在を所有に、をに還元することになる。所有し享受することにおいて、人間は初めて存在するのである。しかし、ものを享受するということは、そのものに対して何もなすべきことがない場合に起こることである。この場合には、無為なる消費者に対してのみ、ものは自分の秘密を打ち明けるということになる。しかし第二次世界大戦後の現... ...続きを見る

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2017/04/16 16:03
実存主義の歴史(2)
 近代哲学は、15世紀を中心としたルネサンスから開始される。ルネサンスにおける、それどころか、現代に至るまでのその後の世界史の歩みにとって最も重要な出来事の一つは、近代自然科学の勃興と発展であり、そうした近代的自然科学をそれとして決定づけたのは、コペルニクスの地動説であると言って差し支えないであろう。率直に言って、地動説が真理となった今日ですら、感覚的事実としては、我々が住むこの地球が毎秒平均30キロメートルの速さで運動しているとは、誰も考えないであろう。それにも拘わらず、そうした天動説に代わっ... ...続きを見る

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2017/04/12 15:02
実存主義の歴史(1)
 実存主義は青春の思想である。青春とは普遍性の中から特殊性へと歩み出す陣痛のようなものである。絶対知が出現した後の時代において、哲学の完成すなわち完了という黄昏の風景を認めたくない青春のあがきの生み出した思想が実存主義である。  人間は死すべきものであるということは陳腐な諺にすぎない。しかし平素、我々はこの真実を覆い隠して、死ぬことのない「ひと」(ハイデガー)として生きている。しかし死は所詮不可避であり、また各自私のものである。だからこの世において人間は見捨てられた孤独の状態にあり、頼りにし得... ...続きを見る

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2017/04/10 09:40
ハイデガー批判(3)
 次にこのザインとエクシステンツ(実存) Existenz との関係について見ておかねばならない。エクシステンツとは何か。それは一言で言えば、ザインを捉えた現存在 Dasein、またはザインの形態をとった現存在などともいうことが出来る。ハイデガー自身次のように定義している。「現存在がその存在に対してあれやこれやの態度をとることができ、また常に何らかの仕方で態度をとっている当の存在そのものを我々は実存と呼ぶ」。現存在とはハイデガーにおいては言うまでもなく現実の中にいる人間の存在である。いわゆる世の... ...続きを見る

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2017/04/06 16:47
ハイデガー批判(2)
 ジモンは、言葉において媒介される自体的なものと、言葉という直接性とを前提することが、ヘーゲルの場合には不可能であることを、意識の言葉性もしくは意識の言葉-構造から捉えることによって論じている。悟性の弁証法の結果は意識の真実が自己意識であることを示したのであるが、そのことが意味しているのは、対象の中で意識の個別性と普遍性とが同時に映し出されているのであって、真実には対象はこの意識構造の対象的表現である。したがって意識において、対象または意識内容と対象性および意識するもの一般の根拠とその区別とが生... ...続きを見る

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2017/04/03 13:58
ハイデガー批判(1)
 『存在と時間』が未完に終らざるを得なかったのは、主題に関することではなく、方法に関することだった。現存在からその存在を通じて時間性へという方向においては、現存在を手掛かりに、それを方法論的通路として、現存在の存在の意味を問い確かめることが出来た。だがその方向が根源的時間から存在一般を通じて現存在へと転回されるときには、もはや現存在は方法論的通路としてはその役目を果たし得ない。では転回された新しい方向を辿る手掛かりを与えてくれるものは何か。この点に関してハイデガー自身に明確な証言はない。強いてそ... ...続きを見る

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2017/03/31 09:01
ニーチェとヘーゲル(2)
 生起を脱し、運命を脱することにおいて、生起が在り、運命がある。ヘーゲルのように、絶対他者としての神の超越を認めないで、しかも他となって同語反復とならない立場を貫こうとするとき、全くそれは循環的でしかない。その循環的性格の契機を担っているものは、キリスト教的なものとギリシア的なものと近代的なものという三つのものである。ゴルゴダと運命と主観である。この三つのものの歴史的所与において絶対精神を捉える論理は展開されている。三つのものは互に覆い覆われ、貫き貫かれる関係において循環している。しかし、近代的... ...続きを見る

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2017/03/24 16:57
ニーチェとヘーゲル(1)
 「ヘーゲルからニーチェへ」これは言うまでもなくK・レーヴィットが19世紀ドイツ精神史を描くに際して付けた書物の標題である。そしてこの際、レーヴィットは「これらの諸研究は、現代の光芒の中で忘却された挿話的出来事の画期的意義を明らかにするために、ヘーゲルの完成とニーチェの新たな始元との間の決定的な転換期を示そうとするものである」と語っている。ここに見られる、ヘーゲルがカントに始まるドイツ観念論の哲学運動を完結することで、近代形而上学を完成させたとすれば、ニーチェはヨーロッパ形而上学の伝統を否定する... ...続きを見る

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2017/03/21 14:29
言語論の歴史とヘーゲル(3)
 言葉にはならないものは、言葉において、それとして語られてしまっている。だから言葉が世界をあらしめるとか、言葉が先ずあるという言い方に惑わされてはならない。ヘーゲルの考え方も、表面的には、言葉が世界を生むのであり、初めに言葉ありき、なのであって、ユダヤ-キリスト教的な発想と深い関りがあることは言うまでもない。しかしこのように考えたときには、言葉にはならない自体というものが前提され、それが言葉において啓示として示現すると考えられれば、そのような自体を第一のものとして、真実のものとして、そこからそこ... ...続きを見る

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2017/03/19 14:07
言語論の歴史とヘーゲル(2)
 デュフレンヌは言語学と論理分析との言葉の受け取り方の問題点を指摘した上で、両者が捨象した、経験において現に出会われている世界との関係をもう一度言葉の問題の中に引き入れて考えようとする。つまり言葉の問題は存在の問題、形而上学の問題なのだという所から出直そうとするのである。「経験とは世界との我々の最初の生きた関係であるが、この関係は知覚の中に生きられそして言葉の中に名づけられる。なぜなら言葉とは世界、つまり知覚と同時に存在し知覚と分離できない世界とのこの根源的な絆だからである。論理的意識を生み出す... ...続きを見る

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2017/03/14 17:18
言語論の歴史とヘーゲル(1)
 現代の言語論には様々な立場があるが、その底流には共通の問題意識があるように思われる。それはプラトン、アリストテレス以来の、言葉は道具であり記号であるという考え方に対する反対または疑問であり、さらにこのような言葉理解の背景であり根底である形而上学的確定、思い込みへの反省である。言葉の問題が形而上学的な問いとしての存在の問題として主題的に、自覚的に扱われるのである。この言葉の道具性に目を据えて、ロックにせよ、デカルトにせよ、ライプニッツにせよ、言葉を記号の体系として論じている。その場合には、経験と... ...続きを見る

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2017/03/10 10:56
ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(4)
 「さてこの学の叙述は現象する知だけを対象とするものであるから、・・・真の知へと迫る自然的意識が歩む道であると考えられる。つまり魂が自らの本性に従って予め定めておいた駅々として自らの数々の形態を遍歴して行く道であると考えられる。この道を行くのは、魂が自己自身を完全に経験して、おのれの本性の姿を知るに至ることによって、自ら純化されて精神となるためである」。このヘーゲルの説明から直ちに我々にとっての問題が生じてくる。それは意識と自然的意識と実在(真)知との関係である。常識的には、意識が自然的意識と実... ...続きを見る

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2017/03/06 15:26
ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(3)
 求められた学としての哲学は、万人の悟性に理解できるものとして、絶対者を概念において現存するものとして示さねばならないとしたら、一体絶対者をどのように考えたらよいか。学はただ概念自身の生命によってのみ己を組織することを許され、したがって学的認識はむしろ対象の生命に身を捧げること、つまり対象の内的必然性を目の前に据えまた言い表すことを要求するわけだが、この要求はいかにして応えられるのか?  この問題についてヘーゲルは、「真なるものすなわち絶対者は実体であると同時に主体でもある」ということを理解し... ...続きを見る

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2017/03/04 14:02
ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(2)
 ヘーゲルは言葉を哲学の対象そのものとして論じてはいないが、同時に哲学の核心に触れるところでは常に言葉を問題にしているということは既に述べた。ヘーゲルの言語論は彼の哲学的関心、つまり「哲学の必要」と切り離しては考えることはできない。ジモンもボダマーも、それぞれの主張に聞くべきところは多々あるとしても、結局のところ予め出来上がったヘーゲル哲学の本質を前提し、しかもそれに対する方法的反省を行っていないということが問題であった。したがって我々としては、ヘーゲル哲学がいかなる問題意識から出発し、この問題... ...続きを見る

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2017/03/01 10:12
ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(1)
 ヘーゲル哲学の外からの批判は、いわばそれぞれの立場が先にあって、その尺度に当てはめてヘーゲルの言語の用法の曖昧さをあばき、こうしてヘーゲル哲学の核心である矛盾の問題が外見上のものにすぎず、じつは見せかけの問題にすぎないということを示そうとするか、あるいはヘーゲルが弁証法として説く問題の根は言語の問題にあるのだが、ヘーゲル自身はそのことを自覚していないために、絶対精神の哲学を説く結果になっているとする。つまり一方からは自らの言語解釈に立ったヘーゲル哲学の全面的否定が説かれ、他方からはヘーゲル的問... ...続きを見る

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2017/02/24 11:08
言語における直接性と媒介性
 ヘーゲルの、いわゆる直接性に対し媒介性を対置し、媒介されたものは具体的であり、直接性を低次のもの抽象的なものとみなした考え方は、より観念的なものをより現実的であるとみなす、悪しき形而上学的観念主義を表すにすぎないのだろうか。  もし我々がヘーゲルとは反対の前提、すなわち直接的なものを具体的であるとみなして(例えば経験論、唯物論、現象学など)、ヘーゲルを裁き、評価し、位置づけるのであれば、それらの規定はいずれも極めて不毛であると言わねばならない。  たしかに彼は、あらゆる実在の真理を、思惟的... ...続きを見る

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2017/02/18 11:45

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