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歴史哲学 序論 要約(3)
 ゼウスは元来、それ自身において確乎としたもの(思想、精神の原理)を打ち立てることによって時間(クロノス)の貪食に止めを刺し、その無常な流転を堰き止めたのであったが、こういうようになってくると、このゼウスの一族そのものもまた、今度は食い尽くされてしまうことになる。しかも、それはまさに彼らを産んだところのその力によって、すなわち思想、認識、推理などの原理によって、あるいは色々の根拠に基づいて洞察をやるという行き方、根拠を要求する行き方(原理)によって滅ぼされることになったのである。  時間は感性... ...続きを見る

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2017/08/16 15:37
歴史哲学 序論 要約(2)
 国家の詳細な展開は法哲学の中で述べるはずである。だが、ここで指摘しておかねばならないことは、国家に関する種々雑多な誤謬が行われていて、それが既定の真理として通用し、先入見となっているということである。我々は、その誤謬の二、三を、歴史の目的に関係するものだけについて述べておくことにする。  まず第一に、人間は本性上、生まれながらにして自由であるが、人間が同時に必然的に入り込む社会と国家との中では、この自然的な自由は制限せられざるを得ない、という見解である。人間が自然のままに、本性上生れながらに... ...続きを見る

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2017/08/09 16:28
歴史哲学 序論 要約(1)
 一般に、歴史的考察には、(1) 根本的歴史(資料的歴史)(2) 反省的歴史 (3) 哲学的歴史の三種がある。  (1)に関しては、ヘロドトス、トゥキュディデスなどの歴史家が、自分の体験した外的現象を内的観念に移し入れたものであり、それは彼らの体験したことに限られる。もちろん彼らも他人の報告や物語を頼りにする。しかし物語、伝記は、このような根本的歴史からは除かれねばならない。なぜなら、それらはまだ混沌としたもので、自分の存在、自分の行為についての自覚を持たない民族のものだからである。作者の教養... ...続きを見る

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2017/08/05 10:05
歴史と『精神の現象学』(2)
 『現象学』は、経験的意識から絶対知への向上の過程である。このことは、この著作への序論が示しているように、最初の意図からしてそうなのであるが、さらに後から書かれた序文においても、ヘーゲルは『現象学』をこうした形式のものと考えている。「個人をその無教養の状態から知にまで導くという仕事は、一般的な意味で理解されねばならなかったし、したがって、普遍的な個人(自分を意識する精神)をその教養の過程において考察しなければならなかった」。しかし経験的意識から絶対知へのこの向上が可能になるのは、この経験的意識の... ...続きを見る

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2017/08/01 10:30
歴史と『精神の現象学』(1)
 『現象学』を研究する前に避けることの出来ない問題がある。『現象学』は人類の歴史であるのか、あるいは少なくともこの歴史の哲学であろうとしているのか。すでに超越論的観念論の体系においてシェリングは極めて一般的な言葉で歴史哲学が解決しなければならない問題を提起している。『現象学』とこうした歴史哲学との異同をはっきりと知るためにはシェリングの体系が含んでいる様々の指示(なぜならそれらは単に指示でしかないから)を改めて取り上げて見ることは無駄ではあるまい。  シェリングは歴史の超越論的可能性の問題を自... ...続きを見る

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2017/07/29 10:55
『精神の現象学』の構造
 『エンチュクロぺディー』が構成する体系は、論理、自然、精神の三部分だけしか含んでいないが、この体系の中に入ることが出来るためには、1807年の『現象学』は自分を制限しなければならなかった。事実、体系の中では、それは精神と宗教の章を失っている。こうした変貌は、まずはニュルンべルグの『予備学』の中に、ついで『エンチュクロぺディー』の中に現れている。我々はこの変貌の詳細を追い、その理由を明らかにするだろう。  ニュルンべルグのギムナジウムの校長としてのヘーゲルは、微妙で難しい教育の仕事に当面するこ... ...続きを見る

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2017/07/26 11:31
『精神の現象学』の意味と方法
 『現象学』の序論は、序文とは逆に、著作と同時に考えられ、最初に書かれたものである。それは文字通り、この著作の始めの三部門(意識、自己意識、理性)への導入部であり、またその不可欠の部分をなし、問題を定立し、更にそれを解くための方法を明確にするものである。ヘーゲルがこの序論においてまず第一に明らかにしていることは、彼にとっては認識の問題がどのように措定されるかといった問題である。第二に『現象学』は、自然的意識が学へと発展する教養の道程であるということである。彼はこうした意識の進展の過程の必然性と共... ...続きを見る

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2017/07/21 11:15
実存主義と文学(4)
 ラスコーリニコフは自己無化に陥った時、自らの形而上学的悪としての罪性を認めた。このことは彼の夢(老婆の夢、エピローグにおける神秘的夢)によっていっそう明白となってゆくが、この夢の問題はドストエフスキーの創作する人神思想の体現者の意識現象に特有な意味をもっている。それは、全く別の方向からではあるが淫蕩漢スヴィドリガイロフにも顕著に表れている。彼もまた、目的さえ定まれば道徳的悪業は許容されるとする点で、ラスコーリニコフの分身であるが、彼はこれを、本能と欲情とをもって女性を凌辱するために用いる。奸計... ...続きを見る

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2017/07/16 16:25
実存主義と文学(3)
 カミュの『異邦人』という小説は、一人の平凡な青年が、ふとした機会から殺人を犯し、死刑の宣告を受けるまでを描いている。『異邦人』は、養老院に居る母親が死亡し、主人公ムルソーがその埋葬に出かけるところで始まる。「きょう、ママンが死んだ」。冒頭の、この全く飾り気のない言葉がすでにそうであるように、埋葬の情景は、ムルソーのかわいた眼差しを通して、全く即物的に裸の姿をさらしている。語られているのは、人々との最小必要限の事務的なやりとり、通夜や通夜に集った老人たちについての些か冷ややかな観察、照りつける太... ...続きを見る

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2017/07/11 11:45
実存主義と文学(2)
 戦後の混乱期、椎名麟三や埴谷雄高のように実存主義に近づいていた人もいたが、太宰治や坂口安吾の文学と実存主義思想は、一切の価値の転換の時代に、人間性の内面の奥に潜む暗いものを凝視する態度、そういうデカダンスの真実さという一点で、重なり合って受け止められたゆえに社会的影響力は大きかった。伊藤整は、太宰らの姿勢を「下降認識」と名づけた。それは自己の存在を破滅へと下降させることによって、逆説的に生の意識を認識し、確かめていこうとする生き方である。太宰の出発点は、何かの思想にも、家の伝統にも寄りすがるこ... ...続きを見る

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2017/07/05 11:32
実存主義と文学(1)
 夏目漱石の文学が、「実存性」という性格を持っているかどうかは、漱石の作品の全体が、つまり「漱石の世界」が、常に本来的な自己に帰っていくという超越と生成において成り立っているかどうかということである。我々はそのことを、「実存的構造」というふうに呼びたいのであるが、漱石の文学を持ち出しているのは、日本の近代文学において漱石の文学ほどに鮮明な「実存的構造」を備えている文学はないのではなかろうかと考えるからである。  漱石の世界の実存的構造を、漱石自身の言葉で表すならば「俳諧的精神」「道義」「則天去... ...続きを見る

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2017/06/28 14:31
実存主義とモラル(3)
 「人間はいかなる人物を演ずるにせよ、必ずや自分自身を演ずるのである」(モンテーニュ『エッセイ』第1巻第20章)。このことを突き詰めると、結局は死の問題に到達する。自分自身と対面することはまた、死と対面することでもある。「我々の生涯の目標は死である。それは、我々がどうしても目指さざるを得ない対象である。凡人の持薬は、それを考えないということである」。「常に頭の中に死だけを思い浮かべていよう。そして常にそれを、その全ての形において想像の中に現前させていよう」。「死が我々を待っている場所は不明である... ...続きを見る

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2017/06/26 14:08
実存主義とモラル(2)
 「あった」は意志の歯ぎしりであり、こよなく孤独な愁いである。意志はなされたことに対し無力である。なべて過ぎ去ったものに対し悪しき傍観者である。時が遡らないのは意志の憾みである。「あったところのもの」は意志の転がし得ない岩である。「存在が永遠にまた行果であり、負目でなければならないということ、これは『存在』という刑罰における永遠なるものである」。この時間の「かくあった」に対する反感は、しかし意志の復讐そのものである。だからこの抜き難い「刑罰」にも拘わらず、意欲は非意欲となってはならない。そうする... ...続きを見る

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2017/06/23 11:45
実存主義とモラル(1)
 キルケゴールは『死に至る病』の冒頭で、人間を自己自身に関係する関係と定義した。ヤスパースはこれを実存の定義として踏襲している。ハイデガーも現存在という人間存在の規定にその定義は生かされている。『存在と時間』における現存在分析は、人間という存在は自己の存在に対して責めを負った存在であることを明らかにする。これによれば自己関係とは自己存在に対する責めの関係であり、実存としての各人は本来的な自己存在を実現すべく定められているのである。  かかる現存在分析は、ハイデガーにとって実存論的人間学を可能な... ...続きを見る

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2017/06/18 15:10
実存主義と宗教(3)
 人間存在の虚無性を認めながら、しかも自己自身の現実的な生の内に絶対性を求めようとする点で、仏教と実存主義とは共通性をもっていると言うことが出来る。しかし仏教がそれを無我と言われるような一種の自己否定、自己意識の否定によって得ようとするのに対して、実存主義がそれをあくまで自己意識の緊張の内に見ようとする点に、大きな相違があるように思われる。仏教にも実存主義にも様々の形態、様々の契機があり、それらを一々取り上げて比較すれば、様々の共通性を数えることが出来るであろう。しかし上の点は根本的な相違と考え... ...続きを見る

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2017/06/13 13:38
実存主義と宗教(2)
 エレミヤの捕囚民への手紙において、ヤハウェ宗教はユダヤ人の特権たることから独立し、ヤハウェの民たることとバビロンという外国勢力に随順することとは両立し得るものであることが示される。エレミヤの思想がいかに当時の支配的な宗教的態度から程遠い者であったかは、申命記改革者の思想と比較するとき容易に判明する。しかし、そういうエレミヤと言えども、未来の宗教的共同体として、回復したイスラエルという民族的制約を帯びた表象は免れることができなかった。自らの神託を伝達すべきイスラエル民族なくしては預言者自体が存在... ...続きを見る

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2017/06/10 09:57
実存主義と宗教(1)
 宗教の基本的な形態として殆ど各文化圏に共通に考えられるものは、トーテミズムから獣神の信仰を経て人格神の信仰へと究極する発展であろう。ただしその発展をどこまで辿るかは、民族性によるわけであるが、その典型的な例としてギリシア宗教や日本の古代信仰等があげられるだろう。そうした原始宗教全体にいえることは、文化人類学的には、それが取り合えず原始的な集団欲望の投射であるということである。食料の供給と種族の繁栄が、その種族集団の共通の願望であり、それを妨げる自然の脅威を鎮め、生産力を促進することこそ、人間以... ...続きを見る

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2017/06/05 14:46
実存主義と気分
 「デモーニッシュなもの」というドイツ語が由来する元の言葉は、ギリシア語のダイモ二オンであり、これは元々中性の形容詞である。名詞のダイモーンが概括し難い内容をもちはしても、ギリシア人たちの許で人間存在を超えた神的存在者として理解されていた点はこの言葉のもつ第一義的な意味内容である。それはまた未知の、人間に働きかける神的諸力と理解され、したがってまた人間に降り掛かる運命としても考えられた。それはよき運命としても、また禍として現れもした。だからダイモーンは、人間の守護霊として、また悪しき星としても表... ...続きを見る

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2017/06/01 14:01
実存主義と自由(3)
 自殺者は全て自己の同一性の貫徹にかけて己が生命を棄てる者である。その貫徹にかけて彼は確かに果敢なる者であり、英雄ですらある。だが、およそ生き抜くことは、本来人間にとって、絶えざる脱皮の歴史に他ならぬのではないか。その脱皮の無限の反復の中に一貫した自己の同一性を保持してゆくことが、人間の自己自身に対する誠実さというものであろう。またそこにこそ、生きることにおける謙虚と自恃の本来的な弁証法があろう。その限りにおいて、自殺者がその貫徹のために生命を棄てる自己の同一性は、この脱皮の媒介の拒否において、... ...続きを見る

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2017/05/27 11:47
実存主義と自由(2)
 パウロの自由論のユニークな点は、このような律法からの解放、つまり律法主義の自己矛盾からの解放が、本来は「聖であって、正しく、かつ善なる」律法を自己矛盾に陥らせる根源である罪そのものからの解放と結び付けて取り上げているところにある。つまりストアの自由論との比較で言えば、問題をもう一度根源に遡って捉えたところにある。「では、善なるものが、私にとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ罪の罪たることが現れるための罪の仕業である。すなわち罪は、戒めによって、はなはだしく悪性のものとなるため... ...続きを見る

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2017/05/24 11:16

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