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実存主義と自由(2)
 パウロの自由論のユニークな点は、このような律法からの解放、つまり律法主義の自己矛盾からの解放が、本来は「聖であって、正しく、かつ善なる」律法を自己矛盾に陥らせる根源である罪そのものからの解放と結び付けて取り上げているところにある。つまりストアの自由論との比較で言えば、問題をもう一度根源に遡って捉えたところにある。「では、善なるものが、私にとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ罪の罪たることが現れるための罪の仕業である。すなわち罪は、戒めによって、はなはだしく悪性のものとなるため... ...続きを見る

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2017/05/24 11:16
実存主義と自由(1)
 人はいかにいるべきか。我々は何をなすべきか。人生において最も大切なこの問いに、学問は答えを出すことはできない。それゆえに、学問は人生にとって無意義である。トルストイのこの学問批判を、ウェーバーは率直に受け止めている。しかし、限定された意義はあるとウェーバーは言う。人間社会と自然の諸現象を特定の目的に即して技術的に処理する手段を学べ、また物事を公平に見る態度を学べる。さらに明晰さへの奉仕ということがある。現代における実践には、価値相克の矛盾は不可避であり、学問は、あれかこれかを人生の中から人生に... ...続きを見る

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2017/05/20 14:14
実存主義と時代批判(4)
 ここから明らかなように対自存在としての人間は、無の只中に立つことにおいて自由である。予め自己の本質をもたないということは、人間の存在が偶然的であるということである。自己が選択した価値の真理性や決意の持続性を保証するものは何もないのである。これによって人間が自己の自由を意識するのは不安においてである。しかし不安に堪えることは重荷である。自由でしかないということは苦痛でもある。そこで人間は不安を避けようと、自己に向かって自己の自由でないことを立証し、自己の自由から眼を背けようとする。これは自己欺瞞... ...続きを見る

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2017/05/14 13:55
実存主義と時代批判(3)
 ヤスパースの『哲学』(1932年)の第一巻『哲学的世界定位』は、対象的認識の批判の書であり、哲学と科学との批判の書である。現代は科学の時代である。この科学は意識一般という「普遍妥当の知識の場所」すなわち普遍妥当の知識の成立根拠としての意識によって営まれる。しかし、科学は、現実的には、一定の立場(視点)からの、一定の方法をもっての、一定の対象についての認識であり、したがってそれは個別的諸科学である。それゆえに唯一の総体科学、全体知は存在しない。そして、一つの科学の内容からなる世界像を唯一の世界観... ...続きを見る

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2017/05/11 09:24
実存主義と時代批判(2)
 「時代の要求に従い、仕事(ザッヘ)に忠実であれ」とM・ウェーバーが言う場合の「人格」は、現代の社会心理学が、「組織人」(W・H・ホワイト)、「他人志向型」(ダヴィッド・リースマン)、「自動人形」(エーリッヒ・フロム)、「同調型」(ロバート・マートン)などの仮説で捉えようとしている大衆的人間のパーソナリティと似ていると思われるかもしれない。そこでは、官僚制化された組織のために働き、組織に帰属し、精神的にも肉体的にも組織に忠誠を誓うことによって、即物化的な大衆社会的状況の中での自己の心理的アノミー... ...続きを見る

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2017/05/06 11:27
実存主義と時代批判(1)
 我々現代人は、生の究極的理想といったものの真実性を、もはや単純に信じることはできない。この不信は現代人のいわば宿命のようなものである。この不信の根源をなしているものは、生の現実に対する畏敬の喪失であろう。生の現実に安んじてその内に埋没している我々現代人にとっては、かつての理想主義者たちの場合とは逆に、総じて理想とか理念とか呼ばれるものこそが、まさに平安無事な生の現実を脅かす危険な虚妄として感じられる。しかし、この畏敬を忘れた現代人の生が、なお生の名で呼ばれるに値するのであろうか。とはいえ、他面... ...続きを見る

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2017/05/03 09:54
実存主義の歴史(7)
 実存主義は、マルクス主義と同じ状況から出発しながら、ドグマ化されたマルクス主義に反対して、歴史の弁証法的解釈を、あくまで人間的実存のあり方に基づいて、独自の立場から試みねばならない。実存のあり方とは、自由であり、企てであり、選択であり、超出であり、自己からの脱出である。人間のこの具体的現実的な姿を見失うと、単なる事物としての人間しか、歴史に登場してこないことになる。人間は経済的諸条件によって全面的に決定されてしまうことになるし、条件反射の総計でしかないことになる。人間は何よりもまず、一つの状況... ...続きを見る

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2017/04/28 15:27
実存主義の歴史(6)
 1939年1月、ドイツはポーランドに侵入、これに対して英仏は宣戦を布告し、第二次大戦が勃発した。しかし、40年5月10日、ドイツ軍がベルギー、オランダなどの中立国に侵入するまでは、両軍の間に戦闘らしい戦闘はなく、フランス軍はマジノ線、ドイツ軍はジークフリート線を動かず、にらみ合い状態が続いた。この戦闘なき戦争の時期、これがと呼ばれる時期である。サルトルは9月2日、動員されてまずナンシー近郊に向かい、ついで10日後にアルザス地方に移送された。片目の視力のない彼は、戦闘能力なしと判断されたのだろう... ...続きを見る

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2017/04/26 14:13
実存主義の歴史(5)
 後期ハイデガーにおいては、現存在の時間性を地平にして存在一般の意味を解明しようという試みは放棄され、逆に根源的時間は自ら明らめつつ隠れる存在の生起に帰せられ、この存在の生起より現存在が見返されている。現存在の開示性は存在が人間に向かって自らを開く関係の場として存在の光となり、存在了解は現存在の投企に基づくより前に、存在によって生起し、存在に属するものとして、ひたすら自己を放下して存在の明るみに立って存在の呼びかけに聴従し、語られざる存在の言葉を語り出す存在の思索として捉えられるのである。現存在... ...続きを見る

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2017/04/22 14:01
実存主義の歴史(4)
 18世紀末から19世紀前半にかけてのドイツとデンマークにおける思想的風土として考えられるものに、ロマン主義とフィヒテ哲学がある。そして、シェリングが自己の哲学的遍歴の開始に当ってそこから学んだものは自然であり、キルケゴールがそこから学び得てマギステル論文で取り上げたものはイロニーであった。  前述したように、シェリングの自然哲学はロマン主義の中に育まれていた生きた自然への憧憬を体系化し、フィヒテの主観主義における非我としての自然を有機的活動体に置き換えることによって、自然の中に精神を見出した... ...続きを見る

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2017/04/19 16:01
実存主義の歴史(3)
 いかにしてこの歴史の中において、自分を人間とすることが出来るか。この課題に対して、もはや消費の精神は、答えることは出来ない。消費するためには、自らが所有していなくてはならないから、この精神は存在を所有に、をに還元することになる。所有し享受することにおいて、人間は初めて存在するのである。しかし、ものを享受するということは、そのものに対して何もなすべきことがない場合に起こることである。この場合には、無為なる消費者に対してのみ、ものは自分の秘密を打ち明けるということになる。しかし第二次世界大戦後の現... ...続きを見る

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2017/04/16 16:03
実存主義の歴史(2)
 近代哲学は、15世紀を中心としたルネサンスから開始される。ルネサンスにおける、それどころか、現代に至るまでのその後の世界史の歩みにとって最も重要な出来事の一つは、近代自然科学の勃興と発展であり、そうした近代的自然科学をそれとして決定づけたのは、コペルニクスの地動説であると言って差し支えないであろう。率直に言って、地動説が真理となった今日ですら、感覚的事実としては、我々が住むこの地球が毎秒平均30キロメートルの速さで運動しているとは、誰も考えないであろう。それにも拘わらず、そうした天動説に代わっ... ...続きを見る

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2017/04/12 15:02
実存主義の歴史(1)
 実存主義は青春の思想である。青春とは子供時代に浸っていた普遍性を犠牲にする、すなわち世路の要請に答えるという特殊性へと歩み出す陣痛のようなものである。絶対知が出現した後の時代において、哲学の完成すなわち完了という黄昏の風景を認めたくない青春のあがきの生み出した思想が実存主義である。しかし美しき魂に止まってはならない。実存主義はヘーゲル哲学へと止揚されねばならない。  人間は死すべきものであるということは陳腐な諺にすぎない。しかし平素、我々はこの真実を覆い隠して、死ぬことのない「ひと」(ハイデ... ...続きを見る

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2017/04/10 09:40
ハイデガー批判(3)
 次にこのザインとエクシステンツ(実存) Existenz との関係について見ておかねばならない。エクシステンツとは何か。それは一言で言えば、ザインを捉えた現存在 Dasein、またはザインの形態をとった現存在などともいうことが出来る。ハイデガー自身次のように定義している。「現存在がその存在に対してあれやこれやの態度をとることができ、また常に何らかの仕方で態度をとっている当の存在そのものを我々は実存と呼ぶ」。現存在とはハイデガーにおいては言うまでもなく現実の中にいる人間の存在である。いわゆる世の... ...続きを見る

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2017/04/06 16:47
ハイデガー批判(2)
 ジモンは、言葉において媒介される自体的なものと、言葉という直接性とを前提することが、ヘーゲルの場合には不可能であることを、意識の言葉性もしくは意識の言葉-構造から捉えることによって論じている。悟性の弁証法の結果は意識の真実が自己意識であることを示したのであるが、そのことが意味しているのは、対象の中で意識の個別性と普遍性とが同時に映し出されているのであって、真実には対象はこの意識構造の対象的表現である。したがって意識において、対象または意識内容と対象性および意識するもの一般の根拠とその区別とが生... ...続きを見る

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2017/04/03 13:58
ハイデガー批判(1)
 『存在と時間』が未完に終らざるを得なかったのは、主題に関することではなく、方法に関することだった。現存在からその存在を通じて時間性へという方向においては、現存在を手掛かりに、それを方法論的通路として、現存在の存在の意味を問い確かめることが出来た。だがその方向が根源的時間から存在一般を通じて現存在へと転回されるときには、もはや現存在は方法論的通路としてはその役目を果たし得ない。では転回された新しい方向を辿る手掛かりを与えてくれるものは何か。この点に関してハイデガー自身に明確な証言はない。強いてそ... ...続きを見る

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2017/03/31 09:01
ニーチェとヘーゲル(2)
 生起を脱し、運命を脱することにおいて、生起が在り、運命がある。ヘーゲルのように、絶対他者としての神の超越を認めないで、しかも他となって同語反復とならない立場を貫こうとするとき、全くそれは循環的でしかない。その循環的性格の契機を担っているものは、キリスト教的なものとギリシア的なものと近代的なものという三つのものである。ゴルゴダと運命と主観である。この三つのものの歴史的所与において絶対精神を捉える論理は展開されている。三つのものは互に覆い覆われ、貫き貫かれる関係において循環している。しかし、近代的... ...続きを見る

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2017/03/24 16:57
ニーチェとヘーゲル(1)
 「ヘーゲルからニーチェへ」これは言うまでもなくK・レーヴィットが19世紀ドイツ精神史を描くに際して付けた書物の標題である。そしてこの際、レーヴィットは「これらの諸研究は、現代の光芒の中で忘却された挿話的出来事の画期的意義を明らかにするために、ヘーゲルの完成とニーチェの新たな始元との間の決定的な転換期を示そうとするものである」と語っている。ここに見られる、ヘーゲルがカントに始まるドイツ観念論の哲学運動を完結することで、近代形而上学を完成させたとすれば、ニーチェはヨーロッパ形而上学の伝統を否定する... ...続きを見る

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2017/03/21 14:29
言語論の歴史とヘーゲル(3)
 言葉にはならないものは、言葉において、それとして語られてしまっている。だから言葉が世界をあらしめるとか、言葉が先ずあるという言い方に惑わされてはならない。ヘーゲルの考え方も、表面的には、言葉が世界を生むのであり、初めに言葉ありき、なのであって、ユダヤ-キリスト教的な発想と深い関りがあることは言うまでもない。しかしこのように考えたときには、言葉にはならない自体というものが前提され、それが言葉において啓示として示現すると考えられれば、そのような自体を第一のものとして、真実のものとして、そこからそこ... ...続きを見る

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2017/03/19 14:07
言語論の歴史とヘーゲル(2)
 デュフレンヌは言語学と論理分析との言葉の受け取り方の問題点を指摘した上で、両者が捨象した、経験において現に出会われている世界との関係をもう一度言葉の問題の中に引き入れて考えようとする。つまり言葉の問題は存在の問題、形而上学の問題なのだという所から出直そうとするのである。「経験とは世界との我々の最初の生きた関係であるが、この関係は知覚の中に生きられそして言葉の中に名づけられる。なぜなら言葉とは世界、つまり知覚と同時に存在し知覚と分離できない世界とのこの根源的な絆だからである。論理的意識を生み出す... ...続きを見る

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2017/03/14 17:18

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