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生命と欲望(2)
 生命の一般哲学は、次のような二重の運動に由来するものである。即ち一なる生命(能産的自然)が多くの生命形式即ち区別(所産的自然)へ移行する運動と、逆に様々な異なる形式から出発しながら、この諸形式の中にこの諸形式を通じて同じ一なるものを取り戻す運動という二重の運動に由来するものなのである。この二つの運動は、生命の過程(死して成れ)において交錯している。したがって一なるものの分裂が実は統合の過程であるのは、ちょうどこの統合が分裂の過程であるのと同様なのである。だから生命とは自分に還帰する循環的な生成... ...続きを見る

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2017/12/17 14:44
生命と欲望(1)
 自己意識は観念的にはあまねく全てを包む普遍者ではあるけれども、実際には個人的であって、物を対象として欲望の満足を求める。しかしこれでは自己意識にとって本来の規定である無限性を実現し得ないので、他の自己意識との関係に移って行く。ここに特殊が特殊に対立して相争うことになるが、この闘争を通じて相互に同等のものとして承認されるとき、自己意識は普遍性に到達して自由を獲得するのである。  このような自己意識も概念の個別-特殊-普遍という構造によって段階づけられており、したがってまた対象意識の感覚-知覚-... ...続きを見る

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2017/12/14 11:24
悟性(4)
 力即ち悟性としての意識の経験は未だ完結しているわけではない。電気現象という力の法則を立てることによって、意識は客観的な必然性を悟性によって掴んだと信じたわけだが、ここに掴み出された必然性は悟性の必然性であると言われた。対象の必然性はこの悟性の必然性に支えられた外的必然性として可能性そのものであることになる。この可能性を現実性として掴むことが問題になる。これまで外化された力と力そのものという概念を立てることによって、対象そのものの運動に即しながらしかも同時に対象そのものの恒常性(無制約な一般者)... ...続きを見る

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2017/12/08 10:16
悟性(3)
 知覚の経験の結果は、物という自体的実在とその性質としての様々な感覚的なものとが、それぞれ自体的に在るものではないということであったが、同時に、意識はこれを「もまたと一者」とか、「本質的なものと非本質的なもの」とかいう言葉によってつなぎ合せ、物の真実をこれらの言葉の基底に在るものとしての無制約的一般者すなわち対象にまとめ上げている。本来から言えば我々にとっては、この対象は意識の運動によって生成したものであり、この対象の生成には意識が組み込まれていて、両側面(この対象と意識)における反照(還帰)は... ...続きを見る

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2017/12/05 11:49
悟性(2)
 悟性は真理の要素を発見したが、それが内なるもの即ち物の根底である。ところがこの根底は現象する現れに対立するものである。この対立は力とその外面化との対立を他の次元において再現するものであるが、初めは意味をもっていない。内なるものは現象の無(現象しないもの)であるから、現象の彼岸にあるわけである。ところがここではヘーゲルの弁証法全体は、内なるものと現象というこの両者を近づけて同一化することを目指している。この同一化は現象としては超感覚的な現象である。この現象は、現象が消滅する運動の中で捉えられる現... ...続きを見る

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2017/12/02 08:50
悟性(1)
 すでに知覚の段階において無制約的普遍者がその成立を見たが、この立場をとれば、一者と多者、対自と対他とはいずれも相互に他に転換して一に帰することになる。この際一者が多者に、多者が一者に転換するというのは、一者とは力であり、多者とはその外化であるということであるから、物と諸々の性質との関係は力と外化との関係に(そうしてやがて明らかとなるように、対自と対他とは誘発する力と誘発される力との関係に)転ずる。この力を対象とするものが悟性であるが、それは二つの場合がある。一つは力とその外化とが相互に転換する... ...続きを見る

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2017/11/27 14:58
知覚(3)
 物を物として、直接、真に受け取るという知覚の建前は、そのことが成り立つために必然的に意識の働きを読み込んで行かなければならない、という反省の契機に出会うことによって崩れてしまうことが、知覚の確信の経験であった。しかしこれで知覚としての意識の歩む弁証法の行程が終わったわけではない。この場の意識は、この弁証法の運動における意識の反省という契機が、知覚にとって必然的なものであることを同時に読み込むことによって、自ら知覚の真実を自覚するようになる。ここに知覚の弁証法は、知覚という態度をとる自然的意識の... ...続きを見る

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2017/11/23 10:25
知覚(2)
 物は真理であり、対象の側にある。錯覚は反省であり、主体の側にある。ところがこの逆がまた必然的に生起することになり、これが逆転することも明らかとなる。意識は素朴な定立が維持されないものであることを見出すであろう。対象を何ものにも変更することなく、それをあるがままに把握すればそれで十分なはずである。こうして真理は我々に与えられるはずである。我々はそれを再現しさえすればよいはずである。事実は物の純粋規定の中に矛盾が見出され、このことによって我々は批判的な立場に導かれるのである。この立場はカントよりも... ...続きを見る

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2017/11/22 09:56
知覚(1)
 感覚の対象である「このもの」は実は全ての「このもの」であって、単なる「このもの」は私念されたものにすぎない。しかるに個別を普遍において真に捉えるものが知覚である。知覚の捉えるのは物である。物は一物でありながら多くの性質を持ったものであり、また一物はそれ自体として対自的に存在すると同時に対他的にも存在するが、知覚は対象意識として同一律をもって真なるものの標準とするから、矛盾したものの一方だけを真とする。そこで知覚は必然的に錯覚でもある。なお物は対象として与えられるもので、その生成には主体の働きは... ...続きを見る

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2017/11/17 14:00
感覚的確信(3)
 感覚的確信は自らの確信の内容であるこのもの(この今、このここ、この私)が、直接的個別ではなく媒介された直接性としての一般性であることを自ら経験するのであった。「我々が感覚的なものを言い表すのも一つの普遍的なものとしてである」から、このことと言葉とは根源的な連関を持っていることになる。「我々の言っているのはこのものであるが、これは普遍的なこのもののことであり、あるいは我々が言っているのは『それが存在する』ということであるが、これは存在一般のことである。そう言っている場合に、我々はもちろん普遍的な... ...続きを見る

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2017/11/11 10:25
感覚的確信(2)
 感覚的確信は、まず対象の中に自己の真理を置いていた。対象は存在していた。それは本質であった。ところが、逆に、知は非本質的なるものであった。今や、感覚的確信は、自分の最初の設定を転換しなければならない。事実、対象がこの確信に現れたのは、直接的なるものとしてではなかった。この確信にとっては、この対象は、むしろ否定を通じて定立されたものとして現れた。この対象が存在することになるのは、他方のもの(いうまでもなく知)が存在しないからなのである。ところが、今や、この知のみが直接的なるものなのであるから、再... ...続きを見る

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2017/11/09 14:42
感覚的確信(1)
 ヘーゲルが意識に関して『精神の現象学』の第一部で述べている弁証法は、フィヒテやシェリングの弁証法とそれほど異なるものではない。素朴な意識は、自分の対象を直接的に知っている、あるいはむしろ知っていると信じているが、この素朴な意識から出発して、この意識は自分の対象を知ることによって、実際には自己を意識し、自己自身を知るのだということを示すことが問題になっているのである。この弁証法の固有の運動は、感覚的確信、知覚、悟性といった三段階で実現されるが、この運動は意識から自己意識への運動である。これに対し... ...続きを見る

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2017/11/05 15:46
キリスト教の歴史的必然性
 キリスト教の伝統には危機を乗り越え生き残るための一種独特の弁証法が働いているように思える。自分に危機をもたらしたものを自分の内に繰り入れるという生存術である。「神の死」がキリスト教を脅かす。「神の死の神学」が生れる。「社会主義」がキリスト教を脅かすと、「キリスト教社会主義」が生れる。二千年ほど前にキリスト教が生れた時、ギリシアの存在論はすでにそれを脅かしていた。しかし、やがてプラトンがキリスト教化され、やがてはアリストテレスすらもキリスト教化された。「キリスト教を維持し保全するのに努力した者が... ...続きを見る

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2017/10/31 13:55
人倫の理想の挫折と歴史哲学での回復(2)
 道徳性が「人倫、教養、道徳性」という構図に、つまり精神の第三段階に収まるという『精神の現象学』の特異性は、いかに説明されるであろうか。人倫を道徳性の上位におくというのがヘーゲルの基本発想とすれば、「道徳性」という言葉の意味がここですっかり変わってしまったのであろうか。  人倫と道徳性を対比した最初の用例と思われる『自然法論文』に当ってみよう。「絶対的人倫の本性には普遍的なものである、もしくは慣習であるということが含まれる。人倫を表すギリシア語エトスもドイツ語もこうした本性を優れた形で表現して... ...続きを見る

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2017/10/28 16:47
人倫の理想の挫折と歴史哲学での回復(1)
 近代の人間は自分の個別性を放棄し自己を犠牲にしなければ、普遍的なものと和解できない。ここにはヘーゲルの個人主義への批判がある。このような犠牲に支えられて普遍は実在性を得て、実体となる。ところが、己を棄てることが、己を支える実体的なものを私物化し、実体を実体たらしめないとすれば、実体も自己も崩壊するしかない。それが近代の教養を特徴づける疎外である。疎外を越えてこそより高次の和解が成り立つ。こうしてヘーゲルは近代社会を越える「より高次の理念」を定立する。この理念が高い分だけ、理念は現実から遊離して... ...続きを見る

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2017/10/26 10:35
絶対知成立の三つの局面
 元々ヘーゲルには本来の哲学に先立って、暫定的に哲学することは過ちだという考えがあった。ところが哲学体系が自己完結的なものになり切ってしまえば、まだその体系の境地、すなわち学にまで高まっていない意識は、体系の外に取り残されてしまう。そこで意識を体系にまで高める梯子が必要になる。この梯子は体系という母屋の内部なのか、外部なのか。ここで梯子とは『精神の現象学』のことである。「序文はいらない」とすれば、「現象学もいらない」ことになる。ヘーゲルはそれを「学の体系、第一部、精神の現象学」として公刊した。そ... ...続きを見る

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2017/10/20 10:27
近代国家の成立と歴史の終り
 現実の世の中におけるのと同様に、観念を相手にする哲学史の世界でも、いつもひどく苛められがちな哲学者あるいは哲学書というものがあるらしい。ヘーゲルの『歴史哲学』などその最右翼と言うべきものであろう。これまでにも、ウェーバー、ラッセル、ポッパー、ケルゼンと言った、思想界でその名を知られた大家達から罵詈雑言を浴びせかけられてきた。何かそこにはとんでもなく非科学的なものがあり、しかもそれが自由を抑圧するような邪悪な政治体制と結びついているということに一方的にされてしまうのである。そのような批判の中には... ...続きを見る

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2017/10/15 15:00
歴史哲学 ゲルマンの世界 要約(4)
 こういう現実的で、明瞭な意識に基づく普遍的諸規定、自然の諸法則と、正しくまた善なるものの内容とを人々は理性と呼んだ。そして啓蒙とは、これらの法則を人々に承認させることを意味した。この啓蒙はフランスからドイツに入り、そこに新しい観念の世界が出現した。そこで、今や宗教的な信仰とか、既成の法律とか、特に国法などの権威の絶対的基準は、その内容が精神そのものによって自由にはっきりと現実的に洞察されるということにあった。ルターは、すでに精神的自由と具体的宥和との真理を掴み、人間の永遠的規定は人間そのものの... ...続きを見る

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2017/10/12 09:53
歴史哲学 ゲルマンの世界 要約(3)
 封建制度の弱体化と共に国王が大きな権力を持つようになるにつれて、国王はこの権力を支配欲のために用い始め、百年戦争(1339-1453年)が勃発した。国王は絶えず外国に向かって征服戦争を試みた。その費用負担を背負わされた都市は、これに反対を唱え出したから、国王は彼らを鎮めるために重要な特権を与えたのである。  法王はこの不和、騒乱に乗じて、その権威の拡張に努めたが、国家形成の関心は極めて強く、法王が新しい十字軍を人々に呼びかけても無視された。皇帝ルートヴィッヒはアリストテレスや聖書やローマ法を... ...続きを見る

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2017/10/10 09:41
歴史哲学 ゲルマンの世界 要約(2)
 人間は教会から絶縁されると共に、また一切の神聖なものからも絶縁されてしまった。僧侶が一方の人間と他方のキリスト及び神との間の媒介者であるから、俗人はその祈りの中で直接に神と面接することは出来ず、ただ媒介者を通じてのみ、すなわち贖罪者、故人、完全になった者、つまり聖徒を通じてのみ神と交わり得るにすぎないからである。ここに聖徒の崇拝が始まり、同時に聖徒とその伝記に関する多くのお伽話や偽説が生じた。東方においては、ずっと以前から偶像崇拝が行われ、長い間の争いの末に承認されるようになっていた。だが、彫... ...続きを見る

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2017/10/03 14:26

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