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ヘーゲルに学ぶ
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絶対自由と恐怖(1)
 これは歴史的にはむろんフランス革命、即ち現象学がギリシア及びローマの都市国家の成立および没落に次ぐ重大事件とみていた革命のことであるが、ヘーゲルがテュービンゲン大学に入学したのは、1788年の秋のことであり、卒業したのは、93年秋のことである。ところで憲法制定会議の成立は89年6月17日、バスティーユの陥落は7月14日のことであり、91年10月1日に成立した立法会議が国民公会へと移って行ったのは92年9月20日のことである。だから彼は革命を学窓において迎えたのであり、しかも彼の属していたヴュル... ...続きを見る

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2018/06/19 15:24
啓蒙の真理
 問題になっている諸点を、整理することにすると、a の終りに述べられていた如く、啓蒙が信仰を必要とせずにそれ自身で満足していることが出来るかどうかが問題である。確かに啓蒙の「有用なもの」においては、どんな個別態といえども、それ自身において絶対的に存在しはするが、しかしこれは絶対実在がそれを肯定するからであり、それに関連するからであって、絶対的実在自身は真空であり、述語を持たない認識せられていない認識せられ得ない絶対者であるが、そうであるとすれば、感覚的有限態を越えて出て行ったとき、信仰への憧憬が... ...続きを見る

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2018/06/15 14:10
啓蒙と迷信の戦い(3)
 信仰する意識の対象は、純粋思想であり、即自対自的な無限存在である。しかし、この対象がこの意識に現れるのは、まだ感覚的な様相においてである。確かに、この対象は、単に一つの形式であるにすぎない。有限なる実在に形を借りた空虚なる形式であるにすぎない。信仰する意識は、神が一片の木や一切れのパンであると考えているのではない。こうした木やパンは、自然からその要素を得て、人間によって変容されたものであり、再び大地に回帰するはずのものである。こうした感覚的なるものは、信仰する意識の中にも現存するものであるが、... ...続きを見る

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2018/06/13 08:58
啓蒙と迷信の戦い(2)
 『百科全書』の哲学者たちは、多くの哲学者たちを、すでに動揺している信仰の時代おくれの擁護者と見なしており、彼らはこれらの哲学者に対して18世紀を通じて大きな争いを繰り広げているが、この争いは、信仰と理性との、迷信と啓蒙との争いに他ならず、ヘーゲルにとっては、なお、極めて身近の現象なのである。この争いは、新しい時代を告知し、精神の内部組織の変革を含んでいるものなのである。ヘーゲルは世界精神の歴史的変容や変化には、それが眼に見える見えないに拘わらず、極めて敏感であったために、この変革に対しても、そ... ...続きを見る

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2018/06/11 09:56
啓蒙と迷信の戦い(1)
 啓蒙とは純粋透見の普及であるとされていて、この際の透見によってこの啓蒙は「信仰と純粋透見」につながっており、また啓蒙は普通に啓発とも呼ばれるが、この語義もまた「天上の世界を照明する」の照明するにおいて活用せられている。  ヘーゲルの受けた教育は啓蒙を以て基本原理とするものである。なるほど啓蒙の他に人文主義とキリスト教とがあっても、これらも啓蒙の立場から見られたものであった。言い換えると、彼は身を以て啓蒙を経験したのであるから、啓蒙に対しては基本的なテキストの位置を占めるものはないが、それだけ... ...続きを見る

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2018/06/07 14:01
信仰と純粋透見
 信仰というと、むろん宗教のことであるが、しかし宗教には広狭の二義がある。広義においては絶対実在の意識であり、狭義においては絶対実在の自己意識であり、絶対実在を自己として意識することであり、そうしてこれはまた精神の自己意識とも呼ばれているが、精神の自己意識というのは、自分が精神であることを知っている精神、即ち絶対精神のことである。この狭義の宗教は第七章のものであり、その最も本来的なのは、そのC(啓示宗教)である。これに対して第七章以前の宗教は全て広義のものとして信仰であるが、当面のものは教養の世... ...続きを見る

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2018/06/03 16:13
自己疎外的精神 教養(5)
 人倫的世界においては、個別と普遍が相互浸透して調和を保っていた。これに対し法状態の世界においては、両者は極端に分裂していた。もちろん法状態とても、多数の個別的主体が互いに関係するところに生まれたものであるから、その限りでは、世界の現存は自己意識の仕事である、つまり精神的実在である。けれども、それはまだ実体であり、即自的であって、対自的には分裂なのである。その意味では、対立者は相互に疎外の関係にあると言える。だから、前節の結論において、その精神は自己疎外的精神と言われたのである。個的な法人格が普... ...続きを見る

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2018/05/31 14:37
自己疎外的精神 教養(4)
 まず、追従の言葉は、高貴なる意識のこれまでの外化が成就し得なかったもの(国権の現実化)を成し遂げることになるであろう。今や、言語は、普遍と個別、実体と自己といった両極を媒介するものとなるのである。言語は、両極の各々を、それぞれの正反対なるものとして定立し、それぞれをそれ自身に還帰させるのである。抽象的なる普遍である国権は、自分自身に還帰し、個別的な自我、決定を下す意志となるであろう。高貴なる意識は、自分の純粋なる対自存在を外化し、この外化と交換に、実体の現実性(即ち財冨)を受け取ることによって... ...続きを見る

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2018/05/19 11:21
自己疎外的精神 教養(3)
 外化という言葉は、ホッブスやロックやルソーのような政治的思想家の中に、すでに存在していたものである。彼らは、様々に対立した形においてであるが、自然的な自己の外化の問題を考察していたからである。ヘーゲルは、法的状態を自然権の直接的な承認として、最も一般的な形式において考察したが、事実、このような法的状態から出発するならば、我々は、人格が、いかにして、自分の権利の全てを、あるいは、その幾らかを放棄し、また、この放棄が、いかにして、社会生活の条件となるのかを問わねばならない。社会契約を規定したルソー... ...続きを見る

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2018/05/09 14:15
自己疎外的精神 教養(2)
 第七の点は高貴な意識との関係において下賤な意識-分裂した意識にとって承認が可能であるかということであるが、この問いに対しては然りと答えることが出来るようである。その理由は次のごとくである。一、一見すると、富めるものが与えるだけであって、クリエントの方はただ受け取るだけであるようであるが、しかしクリエントも対自存在を受け戻すと言われているのである以上、クリエントの方でもやはり何らかの奉仕(『ラモーの甥』の主人公の場合には道化役を演ずるにすぎぬにしても)をなし、また阿諛の言葉を呈して然る後に初めて... ...続きを見る

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2018/05/07 09:58
自己疎外的精神 教養(1)
 疎遠になるという語に伴う表象を決めたのは、新約聖書「エペソ書」 2-12-3 の「さきには(汝ら異邦人には)キリストなく、イスラエルの民籍に遠く、約束に属する諸々の契約に与りなく、世にありて希望なく、神なきものなりき。されど前に遠かりし汝ら今、キリスト・イエスにありて、キリストの血によりて近づくことを得たり」とあり、「コロサイ書」 1-21-2 には「汝ら、もとは(異邦人にして)悪しき業を行いて、神に遠ざかり、心にその敵となりしが、今は神、キリストの血の体をもて、その死により、汝らをして己と和... ...続きを見る

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2018/05/04 10:11
法的状態(2)
 人倫的世界では個人と実体は直接的な生きた統一を持っていた。この統一はいま生命を失った。そこでこの統一が精神のない共同体となって、新たに現れて来た。それがこれから問題になる法状態である。この共同体は、人倫的世界と違って個々人の実体であるようなものではないから、ここでは個々人は各自の個別的な自立存在という形で自己となり実体となっている。つまり普遍的なものは多数の個人というアトムに分散してしまったのである。普遍は死んだ精神となり、平等性となり、全ての人間は各人として、人格として考えられるようになった... ...続きを見る

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2018/04/30 13:35
法的状態(1)
 所論は第四章への対応において展開せられており、そうしてこの展開には第七章啓示宗教が対応している。    第四章Aにおいては、承認の純粋な概念が掲げられて、これの実現が差し当たっては一方的たらざるを得ぬところから、承認のための生死を賭しての戦いを通じて主奴関係に至ったが、この関係における奴の形成の運動によって、Bの自己意識の自由が得られ、この自由の諸形態としてストア主義とスケプシス主義と不幸な意識とが展開せられた。しかし以上は全て意識の諸形態の立場からする論であった。  これに対して第六章に... ...続きを見る

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2018/04/30 09:18
人倫的世界と人倫的行動(5)
 青年を全体の力として承認するのは、国家が一つの民族として個体性を得て、他の個体性(国家)に対する時のことである。つまり戦争においてのことである。戦争とは、人倫的実体の本質的契機を保つために、人倫的自己存在をあらゆる定在から絶対に自由にするために、行われるものである。だから戦争は、私有権や人格などの自立に対する否定的な力である。この否定的な威力が全体を維持する威力となる。その時、女性の讃美するもの即ち若者がこの威力つまり破滅の原理となって、妥当することになる。とすれば、人倫的共同体の存在と精神的... ...続きを見る

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2018/04/26 08:47
人倫的世界と人倫的行動(4)
 クレオンは、ためらうことなくポリュネイケスを断罪している。クレオンの中には、内面の葛藤は存在しない。アンチゴネは、なおいっそう躊躇しない。ということは、彼女は、自分が為そうとしていることに十全に一致しているということである。彼女は、神々の掟に属しているのである。古代悲劇において、躊躇が現れる時には、それは道徳的な葛藤ではなくして、行為を前にしての弱さでしかないのである。オレステスも、自分の父の復讐のために自分が成し遂げなければならない行為については、もはや論議しはしない。彼が何を為すべきかを知... ...続きを見る

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2018/04/25 09:51
人倫的世界と人倫的行動(3)
 死とは、個人が普遍的なるものの中に移行することである。単なる生命にすぎない自然においては、類は個人を超越するものであるから、死の否定は、外面的な否定であるように思われる。個人自身の死をもたらすものは、その個人自身ではないのである。だから、死は自然的な否定なのである。「死とは、自然的な否定性であり、存在するものとしての個別者の運動なのであって、この運動において、意識が自分自身に還帰して、自己意識となることはないのである」。したがって、死は、この精神的な世界における純粋なる自然の事実として存在する... ...続きを見る

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2018/04/21 15:29
人倫的世界と人倫的行動(2)
 [三 二つの掟の相互移行 その媒語]  移行のことは先にしばしば言及せられていたが、ここでそのことが総括せられている。この際の基本的命題は人倫的世界の「全体は全ての部分の静けき均衡である」ということである。それぞれの部分が「おのが郷の精神」という自分独自の精神を持っており、したがって全体化されて満足を得るためには、自分の外へ出なくてはならぬようではあるが、しかしどの部分も満足をこのような仕方で求めることはない。それはそもそもどの部分があるのも全体との静けき均衡においてのことだからであり、おの... ...続きを見る

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2018/04/19 10:26
人倫的世界と人倫的行動(1)
 表題の「真実な精神」というときの真実とは、無媒介の真実態である。人倫の Sittlichkeit は Sitte に由来するものであり、これは習俗としていわゆる第二の自然であるが、ここには人倫の自然性があり、この自然性のゆえに、人倫は現象学のおいてはイエナ前期ともベルリン時代の法哲学とも違って、より精神的な道徳性よりも下位のものとされている。  本文はAの概観である。ただ c に関しているのは、第二段が「経験」のことに言及してから後のことであって、他は全て a と b とに関する。しかしこの... ...続きを見る

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2018/04/16 11:30
精神に関する章の序論(2)
 直接的なる精神・自己自身とは疎遠なる自己疎外的精神・自己自身を確信する精神という三段階におけるこの世界の弁証法的発展は、古代世界(ギリシアとローマ)・近代世界(封建制からフランス革命まで)・現代世界(ナポレオンの世界とヘーゲルの時代のドイツの世界)という世界の歴史の三時代に対応しているが、こうした世界の弁証法的発展は、解釈上の重大な難点を提起せずにはおかないものなのである。なぜヘーゲルはこの精神の発展を古代ポリスにおいて始めているのか。この精神の発展の中に本当に歴史的な発展を見るべきなのか、そ... ...続きを見る

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2018/04/03 14:02
精神に関する章の序論(1)
 第六章において叙述せらるべきものは、意識の諸形態であると同時に世界の諸形態でもあるところのものであるが、この際、世界というのは、けだしフランクフルト時代の「イエスの宗教」が「ヨハネ伝」1-9 の「彼は世に来れり」の「世」即ちコスモスを解していみじくも言ったところの「諸々の人間的な間柄と人間的な生活との全体」であろう。現象学においては世界精神と関係づけられて、そのもとにある個人によって摂取せられて有機化せらるべくして十分にはそうなっていないものとしては世界は有機化されていない自然と呼ばれていたが... ...続きを見る

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2018/04/02 11:38

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