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観察する理性(4)
 ヘーゲルの概念的な哲学、つまり彼の弁証法は、実在するものの数理哲学に対立している。即ちニュートンの意味での数理哲学ばかりではなく、絶対直観の冪の段階を重視して質の多様性を無視するシェリングの意味での数理哲学にさえ対立しているのである。『現象学』の序文においてヘーゲルは数学の性格が概念的でないことを強調している。「なぜなら死んだものは自分で運動しないのであるから、本質の区別(即ち本質的な対立や不同性)を実現するには至らないからである。だからまた対立しているものの一方が他方に移行するという質的で内... ...続きを見る

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2018/02/16 11:15
観察する理性(3)
 記述は確かに知の一つの様態であるが、極めて表面的で直ちにその限界が分かるような知の様態なのである。すでにここでは自然はその偶然性を露わにしている。「記述はそれ自体において存在しているように見えるものが果たして偶然なるものでないかどうかを、もはや知ることは出来ない。また次のようなものは単に記述されることさえ要求し得ない。即ちそれ自体において自然の産物であるというしるしをもってはいるが、形が乱されていたり、或いは未熟で貧弱のために、原始的な無規定状態からほとんど発展していないものは、単に記述される... ...続きを見る

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2018/02/12 11:30
観察する理性(2)
 「観察する理性の結論」という項によって明らかであるように、頭蓋論は観察する理性の正体をあからさまに暴露したものである。理性とは自我があらゆる実在であるという確信であり、この確信の立場をとり、それを確証するためにあらゆる実在において自我を見、自我をもってあらゆる実在と見ようとするものが観察する理性であった。ところで実在というのは realitas のことであり、res 即ち物たることである。だからあらゆる実在において自我を見、自我をあらゆる実在と見ようとするということは、端的に言えば物において自... ...続きを見る

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2018/02/07 14:13
観察する理性(1)
 あらゆる実在であるという確信も確信である限り、観察する理性とならざるを得ない。しかし観察するのはまだ抽象的な空虚なを充実するためであるから、物を観察すると言っても自己を求めることである。ところで概念とは自己的なものであるから、観察の求めるものは概念である。と言っても、観察する理性は存在としての範疇において成立する理性である。だからそれは存在的な対象的な形態における概念即ち法則を求めるものであり、記述することも、標識を求めることも、法則を定立せんがためである。かかる観察する理性も三つに分かれてお... ...続きを見る

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2018/02/02 16:19
理性の自己確信(2)
 自己意識が不幸な意識として自己媒介の推理を、媒語としての教団において成し遂げた時、この意識には、あらゆる真理であるという確信が存在していることになる。これが理性としての自己確信である。この理性は即自的には精神であるが、未だ自己を精神として自覚しているのではない。したがって我々はなお、この理性の確信の真理が自覚される過程を共に歩むことによって、精神と精神の定在としての言葉とに至り着かねばならない。したがってこの章においては、意識の経験において出会われる言葉の働きの最後の段階として、この自己確信の... ...続きを見る

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2018/01/29 15:17
理性の自己確信(1)
 理性の何であるかは既に不幸な意識の結論として得られたことである。即ち意識が個別的でありながら、あらゆる実在であると確信することが意識の理性たる所以である。しかし、この確信にはただ単に主観的な確信に止まる場合と既に客観的真理である場合との二つがあり、前者から後者にまで高まらなくてはならないが、高まった時に先ず得られるものが精神である。  哲学予備学の現象学では理性は対象意識と自己意識との、対象についての知と自己についての知との統一であり、そうして理性には単に確信に止まるものと真理に到達したもの... ...続きを見る

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2018/01/26 14:58
不幸な意識(3)
 スケプシス主義の真実が自己矛盾であると理解されたということは、先に主と奴として自己意識の二つの契機が二人の個人に割り当てられていたものが、今や同一の自己意識、即ち同一の個人そのものの矛盾した在り方の問題として自覚されていることを意味している。自己意識は自らこの分裂した自己、つまり自己矛盾であることを自覚し、自己がそのままで自己同一ではないことを心得ている。その限りでこの意識は自己が不自由であることに苦しむ意識である。「したがってこの不幸な、自己自身において二つに分裂した意識は、自己の本質のこの... ...続きを見る

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2018/01/22 10:14
不幸な意識(2)
 若い頃のノートにはヘーゲルは次のように書ていた。理想は私の中にあるのか、それとも外にあるのか、のいずれかであるが、前者の場合にはそれはもはや理想ではなく、後者の場合には私は決してそれに到達することが出来ない、と。ここで支配的なのは分離の意識なのである。この意識は本質的にはユダヤ民族の意識である。この民族は自分から自分自身の本質を外化し、それを超越的なものとするからである。「この民族は自分が即自対自的にそうあるべきものを、即ち自分自身の本質性を自覚せず、却ってそれを置き違えて自分の彼岸に定立して... ...続きを見る

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2018/01/19 11:17
不幸な意識(1)
 既述のように、まだこの段階では現象学は精神史とは直接には無関係である。しかしすでにストア主義とスケプシス主義とがいずれも歴史的なものでもある以上、それらに続く不幸な意識がキリスト教であることは否定できない事実である。ところでヘーゲルはキリスト教に対して基本的意義をもつものを三位一体の教義にありとするが、この教義は当面の箇所の他に、精神の章の「信仰と純粋透見」及び宗教の章の啓示宗教の場合にも論じられており、したがって現象学の内部で三度取り上げられていることになる。これはすでに序文が「絶対者は主体... ...続きを見る

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2018/01/14 16:51
ストア主義とスケプシス主義(2)
 主と奴との相互承認による自己意識の自己媒介の試みは、自己が一応、奴の労働により形成されたものの形相として対象化されると共に、奴が主を自己として承認することによって、この自己が対自存在即ち意識でもあることが承認されることによって成就したように見える。しかしこの二つの契機、つまり自立的対象としての自己と対自存在としての意識とは、奴自身にとっては、分離してしまっている。したがって主と奴としての自己意識にはこの媒介は実現されていない。主であり奴である限り、自己相等性としての自由はない。しかし奴が自ら主... ...続きを見る

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2018/01/09 10:25
ストア主義とスケプシス主義(1)
 承認の概念が自己意識の境地において実現される時、無限性もまた同様である。ところで承認といい、無限性といい、いずれも自由と同じことである。なぜなら、自由とは他的存在の内における自己同一のことに他ならないからである。ところで無限性は元来悟性の段階において両力の遊戯を通じて物の内なるものとして見出されたものである。そこでこれに応じて自由もまた自己意識の立場で内面化されることになるが、かくて先ず成立するものがストア主義とスケプシス主義である。前者は抽象的自由であり、後者は現実的自由である。ところでスケ... ...続きを見る

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2018/01/06 14:24
支配と隷属(3)
 主と奴という相互承認を成立させているのは言葉である。悟性が絶対的な否定の威力として死を意味すると言われ、同時に悟性が一切のものの流動化としての個別の否定によって一般性に真実を見出すと言われ、更にこの一般性の境位が言葉に求められていたことを思い合わせれば、ここでの相互承認が、この言葉の否定性を媒介として初めて積極的に主張されていることが分かるであろう。奴の方が自立的なものとして、この場の自己意識の本質を実現するのだとされるのも、奴がこの言葉の否定性に耐えて、生き抜いたものであるからである。奴にお... ...続きを見る

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2017/12/31 16:50
支配と隷属(2)
 支配と隷属という弁証法の説明はしばしばなされてきた。この弁証法はおそらく『現象学』の中で最も有名な部分であろう。展開の造型的な美しさから言ってもそうであるし、またこの弁証法がヘーゲルの後継者達の政治哲学や社会哲学に与えた影響によってもそうなのである。この弁証法が本質的に示していることは実は主が奴の奴であり、奴が主の主であるということである。このことによって一方的な承認形式の不平等が克服され、その平等が再建されることになる。自己意識は即自的にも(生命の境位においても)対自的にも承認され正当化され... ...続きを見る

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2017/12/30 09:55
支配と隷属(1)
 ベルン時代のヘーゲルはカント-フィヒテに従い、実践理性の優位の見地から人間の自由を高調したが、それだけにまた障害に突き当たって苦悶した。そこでフランクフルトに移ってからは人間の自立性よりも、むしろ人と人との関係あるいは共同態の立場をとって思索した。その際彼が特に重んじたのは生命であり、またその統一であり愛であったが、しかしすでにフランクフルト時代においても愛は家族構成の原理にすぎなくなった。そこでこの愛に代わるものとして現れて来たのが人倫であるが、その起こりは、この時代にカントの『人倫の形而上... ...続きを見る

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2017/12/26 11:23
生命と欲望(3)
 類的存在としての人間とは、肉体と精神の接点におかれた人間であり、自然の人間化が人間の自然化であるような、そうした行為的な存在者なのである。今この考え方に学説史的な反省を加えて見よう。これはまず第一に、フィヒテの自我-非我関係、第二に、青年ヘーゲルの中心思想であった生命論、第三にアリストテレスの類概念から成り立っていると言えよう。類という考え方は古来のものであるから当然フィヒテにもある。「目的によって類は繁殖し続ける」。「諸個体は・・・合一され得る限りで初めて類を形成する。なぜなら存在することと... ...続きを見る

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2017/12/21 11:44
生命と欲望(2)
 生命の一般哲学は、次のような二重の運動に由来するものである。即ち一なる生命(能産的自然)が多くの生命形式即ち区別(所産的自然)へ移行する運動と、逆に様々な異なる形式から出発しながら、この諸形式の中にこの諸形式を通じて同じ一なるものを取り戻す運動という二重の運動に由来するものなのである。この二つの運動は、生命の過程(死して成れ)において交錯している。したがって一なるものの分裂が実は統合の過程であるのは、ちょうどこの統合が分裂の過程であるのと同様なのである。だから生命とは自分に還帰する循環的な生成... ...続きを見る

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2017/12/17 14:44
生命と欲望(1)
 自己意識は観念的にはあまねく全てを包む普遍者ではあるけれども、実際には個人的であって、物を対象として欲望の満足を求める。しかしこれでは自己意識にとって本来の規定である無限性を実現し得ないので、他の自己意識との関係に移って行く。ここに特殊が特殊に対立して相争うことになるが、この闘争を通じて相互に同等のものとして承認されるとき、自己意識は普遍性に到達して自由を獲得するのである。  このような自己意識も概念の個別-特殊-普遍という構造によって段階づけられており、したがってまた対象意識の感覚-知覚-... ...続きを見る

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2017/12/14 11:24
悟性(4)
 力即ち悟性としての意識の経験は未だ完結しているわけではない。電気現象という力の法則を立てることによって、意識は客観的な必然性を悟性によって掴んだと信じたわけだが、ここに掴み出された必然性は悟性の必然性であると言われた。対象の必然性はこの悟性の必然性に支えられた外的必然性として可能性そのものであることになる。この可能性を現実性として掴むことが問題になる。これまで外化された力と力そのものという概念を立てることによって、対象そのものの運動に即しながらしかも同時に対象そのものの恒常性(無制約な一般者)... ...続きを見る

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2017/12/08 10:16
悟性(3)
 知覚の経験の結果は、物という自体的実在とその性質としての様々な感覚的なものとが、それぞれ自体的に在るものではないということであったが、同時に、意識はこれを「もまたと一者」とか、「本質的なものと非本質的なもの」とかいう言葉によってつなぎ合せ、物の真実をこれらの言葉の基底に在るものとしての無制約的一般者すなわち対象にまとめ上げている。本来から言えば我々にとっては、この対象は意識の運動によって生成したものであり、この対象の生成には意識が組み込まれていて、両側面(この対象と意識)における反照(還帰)は... ...続きを見る

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2017/12/05 11:49
悟性(2)
 悟性は真理の要素を発見したが、それが内なるもの即ち物の根底である。ところがこの根底は現象する現れに対立するものである。この対立は力とその外面化との対立を他の次元において再現するものであるが、初めは意味をもっていない。内なるものは現象の無(現象しないもの)であるから、現象の彼岸にあるわけである。ところがここではヘーゲルの弁証法全体は、内なるものと現象というこの両者を近づけて同一化することを目指している。この同一化は現象としては超感覚的な現象である。この現象は、現象が消滅する運動の中で捉えられる現... ...続きを見る

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2017/12/02 08:50

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