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人倫的世界と人倫的行動(4)
 クレオンは、ためらうことなくポリュネイケスを断罪している。クレオンの中には、内面の葛藤は存在しない。アンチゴネは、なおいっそう躊躇しない。ということは、彼女は、自分が為そうとしていることに十全に一致しているということである。彼女は、神々の掟に属しているのである。古代悲劇において、躊躇が現れる時には、それは道徳的な葛藤ではなくして、行為を前にしての弱さでしかないのである。オレステスも、自分の父の復讐のために自分が成し遂げなければならない行為については、もはや論議しはしない。彼が何を為すべきかを知... ...続きを見る

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2018/04/25 09:51
人倫的世界と人倫的行動(3)
 死とは、個人が普遍的なるものの中に移行することである。単なる生命にすぎない自然においては、類は個人を超越するものであるから、死の否定は、外面的な否定であるように思われる。個人自身の死をもたらすものは、その個人自身ではないのである。だから、死は自然的な否定なのである。「死とは、自然的な否定性であり、存在するものとしての個別者の運動なのであって、この運動において、意識が自分自身に還帰して、自己意識となることはないのである」。したがって、死は、この精神的な世界における純粋なる自然の事実として存在する... ...続きを見る

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2018/04/21 15:29
人倫的世界と人倫的行動(2)
 [三 二つの掟の相互移行 その媒語]  移行のことは先にしばしば言及せられていたが、ここでそのことが総括せられている。この際の基本的命題は人倫的世界の「全体は全ての部分の静けき均衡である」ということである。それぞれの部分が「おのが郷の精神」という自分独自の精神を持っており、したがって全体化されて満足を得るためには、自分の外へ出なくてはならぬようではあるが、しかしどの部分も満足をこのような仕方で求めることはない。それはそもそもどの部分があるのも全体との静けき均衡においてのことだからであり、おの... ...続きを見る

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2018/04/19 10:26
人倫的世界と人倫的行動(1)
 表題の「真実な精神」というときの真実とは、無媒介の真実態である。人倫の Sittlichkeit は Sitte に由来するものであり、これは習俗としていわゆる第二の自然であるが、ここには人倫の自然性があり、この自然性のゆえに、人倫は現象学のおいてはイエナ前期ともベルリン時代の法哲学とも違って、より精神的な道徳性よりも下位のものとされている。  本文はAの概観である。ただ c に関しているのは、第二段が「経験」のことに言及してから後のことであって、他は全て a と b とに関する。しかしこの... ...続きを見る

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2018/04/16 11:30
精神に関する章の序論(2)
 直接的なる精神・自己自身とは疎遠なる自己疎外的精神・自己自身を確信する精神という三段階におけるこの世界の弁証法的発展は、古代世界(ギリシアとローマ)・近代世界(封建制からフランス革命まで)・現代世界(ナポレオンの世界とヘーゲルの時代のドイツの世界)という世界の歴史の三時代に対応しているが、こうした世界の弁証法的発展は、解釈上の重大な難点を提起せずにはおかないものなのである。なぜヘーゲルはこの精神の発展を古代ポリスにおいて始めているのか。この精神の発展の中に本当に歴史的な発展を見るべきなのか、そ... ...続きを見る

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2018/04/03 14:02
精神に関する章の序論(1)
 第六章において叙述せらるべきものは、意識の諸形態であると同時に世界の諸形態でもあるところのものであるが、この際、世界というのは、けだしフランクフルト時代の「イエスの宗教」が「ヨハネ伝」1-9 の「彼は世に来れり」の「世」即ちコスモスを解していみじくも言ったところの「諸々の人間的な間柄と人間的な生活との全体」であろう。現象学においては世界精神と関係づけられて、そのもとにある個人によって摂取せられて有機化せらるべくして十分にはそうなっていないものとしては世界は有機化されていない自然と呼ばれていたが... ...続きを見る

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2018/04/02 11:38
即かつ対自的に実在的であることを自覚している個体性(6)
 例えば、各人は真実を語るべきであるという義務を立てた場合を考えて見よう。これはこの場の意識の確信からすれば、そのまま妥当する定言命法であるはずである。しかしこの命法が妥当するためには、各人は予め何が真実であるかを知り確信していなければならない。したがってこの命法は、各人はその時々の真実についての自分の知と確信とに従って真実を語るべきである、という意味だと言うことになる。この命法を主張している人倫的意識も、元々そういう意味で言っていたのだ、と説明するであろう。つまりこの確信はこのような条件を付け... ...続きを見る

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2018/03/24 11:28
即かつ対自的に実在的であることを自覚している個体性(5)
 行為的理性が自己の真実に出会ったということは、快楽や心の法則や徳という、死んだ現実との対立において立てられた目的としての即自的なるものが、単なる抽象と幻像にすぎないということであった。それは元々この場の意識の前提であった己を範疇として確信するということの帰結である。範疇と考えるということは、自己意識と存在との単一な統一を真実として確信しているということである。観察する理性や行為的理性は、この確信の実現を求めて、存在の中に自己意識を見つけ出そうとして、物に自己を求めたり、自己意識を存在の形式の中... ...続きを見る

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2018/03/22 14:52
即かつ対自的に実在的であることを自覚している個体性(4)
 元々、個人が自己自身であろうとすることが本来の志向であった。が、このことに即して彼はすでに、個人としての自らを超えているのであった。逆に個人であることを捨てることにおいて、個人は甦って来る。事そのものという流動的自己同一の中においてすらそうである。ここに誠実の言われる根拠がある。誠実というものは元自己同一の確信だからである。この項に語られている誠実は事そのものの自己同一性にいることである。全ての契機の流動的交替が、それにも拘わらず自己同一を保つことの確信である。がそれが交替であるところに、一つ... ...続きを見る

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2018/03/19 16:21
即かつ対自的に実在的であることを自覚している個体性(3)
 もし我々が精神の現象学における意識の態度の様々の形式を始めから回顧するならば、我々は次のことに気づくであろう。即ち我々が次第に即自存在の非対象化と、自己意識の普遍化とへ近づいているということに気づくであろう。意識の態度は、始めは物に対するものであったし、次には仕事に対するものとして現れた。最後には事そのものに対するものとなり、ヘーゲルはここで観念論について語ることになるのである。ところがこの即自の非対象化と相補的な関係にある事態について強調しておかねばならない。対象が精神的になればなるほど、ま... ...続きを見る

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2018/03/16 10:03
即かつ対自的に実在的であることを自覚している個体性(2)
 世界の直接的な享楽であれ、心情の法則であれ、徳であれ、個体の理想がいかなるものであるにせよ、世間はこの理想に対立するものであるから、個体はこの世間に反抗することになったが、こうした個体の次に、ヘーゲルは即自対自的に実在する個体を考察している。もはやこの個体は実在を克服すべき抵抗とは認めない。彼は一挙に世界の只中に存在し、自分自身を表現することしか欲しないのである。彼の目的は実在する世界の否定なのではない。目的それ自身が世界に所属しており、逆にこの世界は個体の世界なのである。だから本質的なことは... ...続きを見る

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2018/03/13 11:25
即かつ対自的に実在的であることを自覚している個体性(1)
 即かつ対自的に実在的であることを自覚している個体性というのは徳の世路に対する敗北から生れたものである。諸々の天賦、諸々の能力という善かつ真なるもの、あるいは即自的に普遍的なものは徳の演説や説教を待つことなくして世路の内にすでに実現していることが分かり、個体性はもはや世路と戦うのではなく世路の内に安住するようになったから、個体性は即自的なものと対自的なもの、普遍的なものと個別的なもの、客観的なものと主観的なものとの相互浸透(ただし各項の運動による動的な統一)である。これが当面の個体性が即かつ対自... ...続きを見る

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2018/03/09 11:19
理性的自己意識の己れ自身を介する現実化(4)
 こうしてこの場の意識は、この転倒から逃れるために、この普遍的秩序が死んだ必然性ではなく、個人的意識の生んだものであることは認めながら、この個人を自分とは無縁で、偶然的な個人だと言い張り、そのため、秩序は狂信的な僧侶、遊蕩にふける暴君、そしてこの両者から受けた辱めの腹いせに自分より下の者を辱め弾圧する役人などの恣意即ち普遍的正義ではなく、個人的感情となって不正になるのだと主張する。こうして自らはこの不正と闘う心の法則に立つ高潔な個人性即ち普遍的正義の体現者であると自負することになる。しかしこの美... ...続きを見る

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2018/03/06 11:25
理性的自己意識の己れ自身を介する現実化(3)
 だから心情の法則はそれが実現されるとき挫折を体験することになるが、この挫折は個別的な欲望がひたすら世界の享楽を求めていたときに感じた挫折と同じものに他ならない。しかしここでの経験はいっそう具体的であり、もっと内容豊かなものである。私の心情の法則を実現することによって私は他の人々の心情の法則に私が対立していることを自覚する。あるいはむしろ自分の法則の普遍性を放棄することが出来ないので、私は他人たちの心情を憎むべき忌まわしいものとする。だからシラーの「カール・モーア」のような人物は怒って人間たちが... ...続きを見る

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2018/03/05 09:59
理性的自己意識の己れ自身を介する現実化(2)
 認識と行為との対立は、カント哲学ならびにそれに由来する様々な哲学体系において、主導的な役割を演じて来たものである。カントには、実践哲学と理論哲学とがあるが、前者は本質的に自由の哲学であり、後者は悟性の仕事であって、我々を自然現象の認識に導くものである。判断力批判は、この二領域を必然的に区別すると同時に、この両者の総合を要求しているものである。しかし認識する自我と実践する自我との総合、自然と自由との総合の実現は極めて難しい。この総合はフィヒテやシェリングの哲学が提出している大問題でもある。フィヒ... ...続きを見る

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2018/03/01 14:10
理性的自己意識の己れ自身を介する現実化(1)
 この理性的な自己意識は行為的理性とも実践的意識とも言い直されて、行為的であり、実践的であることが、自己自身を介して、行為的に能動的に自己を現実化することを意味している。この際、現実化の目標は人倫の恢復であり、言い換えると道徳性である。  一、理性は観察によって無限判断において物が我であると共に我でないことを知った。物が我であるというのは可能ではあっても現実ではないのであるから、理性はこの可能を現実と為さねばならない。言い換えると、物が我であるということは観察が考えるように、ただ与えられ見出さ... ...続きを見る

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2018/02/26 17:03
観察する理性(6)
 媒介者として立てられた種は、本来、質的全体としての類と、同じくそのまま質的全体であるはずの有機的個体とが、そのままでは関係づけられないために、類の代表者として類の量的限定、つまり数として立てられたものである。種は類と個別とを量において関係させるための媒語であることになる。しかし本来、類も個別も生命的全体として、質であると考えられているのだから、類も個別も種を無視して、種として量化された所に己の本質がないことを示す。こうして種において類という内なるものが個別としての外なるものにおいて表現されてい... ...続きを見る

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2018/02/23 13:39
観察する理性(5)
 学としての人相術を批判することによってヘーゲルは個人の魂とその表現との間にあり得る類似を否定するということよりは、仕事や行動を考慮せずに人間の意図を分析して人間を認識しようとする主張に抗議しているのである。観察する理性は外なるものと内なるものとをそれぞれ孤立させ、ついで両者を対応させようとするのであるが、このような観察する理性の方法がまさに、ここで、一切の問題を歪めてしまうものなのである。最初の誤りは、純粋に外なるものと純粋に内なるものとを措定し、両者をそれぞれ自身において、はっきり異なるもの... ...続きを見る

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2018/02/20 14:39
観察する理性(4)
 ヘーゲルの概念的な哲学、つまり彼の弁証法は、実在するものの数理哲学に対立している。即ちニュートンの意味での数理哲学ばかりではなく、絶対直観の冪の段階を重視して質の多様性を無視するシェリングの意味での数理哲学にさえ対立しているのである。『現象学』の序文においてヘーゲルは数学の性格が概念的でないことを強調している。「なぜなら死んだものは自分で運動しないのであるから、本質の区別(即ち本質的な対立や不同性)を実現するには至らないからである。だからまた対立しているものの一方が他方に移行するという質的で内... ...続きを見る

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2018/02/16 11:15
観察する理性(3)
 記述は確かに知の一つの様態であるが、極めて表面的で直ちにその限界が分かるような知の様態なのである。すでにここでは自然はその偶然性を露わにしている。「記述はそれ自体において存在しているように見えるものが果たして偶然なるものでないかどうかを、もはや知ることは出来ない。また次のようなものは単に記述されることさえ要求し得ない。即ちそれ自体において自然の産物であるというしるしをもってはいるが、形が乱されていたり、或いは未熟で貧弱のために、原始的な無規定状態からほとんど発展していないものは、単に記述される... ...続きを見る

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2018/02/12 11:30

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