アクセスカウンタ

プロフィール

ブログ名
ヘーゲルに学ぶ
ブログ紹介

zoom RSS ブログ 新着記事

タイトル 日 時
不幸な意識(1)
 既述のように、まだこの段階では現象学は精神史とは直接には無関係である。しかしすでにストア主義とスケプシス主義とがいずれも歴史的なものでもある以上、それらに続く不幸な意識がキリスト教であることは否定できない事実である。ところでヘーゲルはキリスト教に対して基本的意義をもつものを三位一体の教義にありとするが、この教義は当面の箇所の他に、精神の章の「信仰と純粋透見」及び宗教の章の啓示宗教の場合にも論じられており、したがって現象学の内部で三度取り上げられていることになる。これはすでに序文が「絶対者は主体... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2018/01/14 16:51
ストア主義とスケプシス主義(2)
 主と奴との相互承認による自己意識の自己媒介の試みは、自己が一応、奴の労働により形成されたものの形相として対象化されると共に、奴が主を自己として承認することによって、この自己が対自存在即ち意識でもあることが承認されることによって成就したように見える。しかしこの二つの契機、つまり自立的対象としての自己と対自存在としての意識とは、奴自身にとっては、分離してしまっている。したがって主と奴としての自己意識にはこの媒介は実現されていない。主であり奴である限り、自己相等性としての自由はない。しかし奴が自ら主... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2018/01/09 10:25
ストア主義とスケプシス主義(1)
 承認の概念が自己意識の境地において実現される時、無限性もまた同様である。ところで承認といい、無限性といい、いずれも自由と同じことである。なぜなら、自由とは他的存在の内における自己同一のことに他ならないからである。ところで無限性は元来悟性の段階において両力の遊戯を通じて物の内なるものとして見出されたものである。そこでこれに応じて自由もまた自己意識の立場で内面化されることになるが、かくて先ず成立するものがストア主義とスケプシス主義である。前者は抽象的自由であり、後者は現実的自由である。ところでスケ... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2018/01/06 14:24
支配と隷属(3)
 主と奴という相互承認を成立させているのは言葉である。悟性が絶対的な否定の威力として死を意味すると言われ、同時に悟性が一切のものの流動化としての個別の否定によって一般性に真実を見出すと言われ、更にこの一般性の境位が言葉に求められていたことを思い合わせれば、ここでの相互承認が、この言葉の否定性を媒介として初めて積極的に主張されていることが分かるであろう。奴の方が自立的なものとして、この場の自己意識の本質を実現するのだとされるのも、奴がこの言葉の否定性に耐えて、生き抜いたものであるからである。奴にお... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/12/31 16:50
支配と隷属(2)
 支配と隷属という弁証法の説明はしばしばなされてきた。この弁証法はおそらく『現象学』の中で最も有名な部分であろう。展開の造型的な美しさから言ってもそうであるし、またこの弁証法がヘーゲルの後継者達の政治哲学や社会哲学に与えた影響によってもそうなのである。この弁証法が本質的に示していることは実は主が奴の奴であり、奴が主の主であるということである。このことによって一方的な承認形式の不平等が克服され、その平等が再建されることになる。自己意識は即自的にも(生命の境位においても)対自的にも承認され正当化され... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/12/30 09:55
支配と隷属(1)
 ベルン時代のヘーゲルはカント-フィヒテに従い、実践理性の優位の見地から人間の自由を高調したが、それだけにまた障害に突き当たって苦悶した。そこでフランクフルトに移ってからは人間の自立性よりも、むしろ人と人との関係あるいは共同態の立場をとって思索した。その際彼が特に重んじたのは生命であり、またその統一であり愛であったが、しかしすでにフランクフルト時代においても愛は家族構成の原理にすぎなくなった。そこでこの愛に代わるものとして現れて来たのが人倫であるが、その起こりは、この時代にカントの『人倫の形而上... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/12/26 11:23
生命と欲望(3)
 類的存在としての人間とは、肉体と精神の接点におかれた人間であり、自然の人間化が人間の自然化であるような、そうした行為的な存在者なのである。今この考え方に学説史的な反省を加えて見よう。これはまず第一に、フィヒテの自我-非我関係、第二に、青年ヘーゲルの中心思想であった生命論、第三にアリストテレスの類概念から成り立っていると言えよう。類という考え方は古来のものであるから当然フィヒテにもある。「目的によって類は繁殖し続ける」。「諸個体は・・・合一され得る限りで初めて類を形成する。なぜなら存在することと... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/12/21 11:44
生命と欲望(2)
 生命の一般哲学は、次のような二重の運動に由来するものである。即ち一なる生命(能産的自然)が多くの生命形式即ち区別(所産的自然)へ移行する運動と、逆に様々な異なる形式から出発しながら、この諸形式の中にこの諸形式を通じて同じ一なるものを取り戻す運動という二重の運動に由来するものなのである。この二つの運動は、生命の過程(死して成れ)において交錯している。したがって一なるものの分裂が実は統合の過程であるのは、ちょうどこの統合が分裂の過程であるのと同様なのである。だから生命とは自分に還帰する循環的な生成... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/12/17 14:44
生命と欲望(1)
 自己意識は観念的にはあまねく全てを包む普遍者ではあるけれども、実際には個人的であって、物を対象として欲望の満足を求める。しかしこれでは自己意識にとって本来の規定である無限性を実現し得ないので、他の自己意識との関係に移って行く。ここに特殊が特殊に対立して相争うことになるが、この闘争を通じて相互に同等のものとして承認されるとき、自己意識は普遍性に到達して自由を獲得するのである。  このような自己意識も概念の個別-特殊-普遍という構造によって段階づけられており、したがってまた対象意識の感覚-知覚-... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/12/14 11:24
悟性(4)
 力即ち悟性としての意識の経験は未だ完結しているわけではない。電気現象という力の法則を立てることによって、意識は客観的な必然性を悟性によって掴んだと信じたわけだが、ここに掴み出された必然性は悟性の必然性であると言われた。対象の必然性はこの悟性の必然性に支えられた外的必然性として可能性そのものであることになる。この可能性を現実性として掴むことが問題になる。これまで外化された力と力そのものという概念を立てることによって、対象そのものの運動に即しながらしかも同時に対象そのものの恒常性(無制約な一般者)... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/12/08 10:16
悟性(3)
 知覚の経験の結果は、物という自体的実在とその性質としての様々な感覚的なものとが、それぞれ自体的に在るものではないということであったが、同時に、意識はこれを「もまたと一者」とか、「本質的なものと非本質的なもの」とかいう言葉によってつなぎ合せ、物の真実をこれらの言葉の基底に在るものとしての無制約的一般者すなわち対象にまとめ上げている。本来から言えば我々にとっては、この対象は意識の運動によって生成したものであり、この対象の生成には意識が組み込まれていて、両側面(この対象と意識)における反照(還帰)は... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/12/05 11:49
悟性(2)
 悟性は真理の要素を発見したが、それが内なるもの即ち物の根底である。ところがこの根底は現象する現れに対立するものである。この対立は力とその外面化との対立を他の次元において再現するものであるが、初めは意味をもっていない。内なるものは現象の無(現象しないもの)であるから、現象の彼岸にあるわけである。ところがここではヘーゲルの弁証法全体は、内なるものと現象というこの両者を近づけて同一化することを目指している。この同一化は現象としては超感覚的な現象である。この現象は、現象が消滅する運動の中で捉えられる現... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/12/02 08:50
悟性(1)
 すでに知覚の段階において無制約的普遍者がその成立を見たが、この立場をとれば、一者と多者、対自と対他とはいずれも相互に他に転換して一に帰することになる。この際一者が多者に、多者が一者に転換するというのは、一者とは力であり、多者とはその外化であるということであるから、物と諸々の性質との関係は力と外化との関係に(そうしてやがて明らかとなるように、対自と対他とは誘発する力と誘発される力との関係に)転ずる。この力を対象とするものが悟性であるが、それは二つの場合がある。一つは力とその外化とが相互に転換する... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/11/27 14:58
知覚(3)
 物を物として、直接、真に受け取るという知覚の建前は、そのことが成り立つために必然的に意識の働きを読み込んで行かなければならない、という反省の契機に出会うことによって崩れてしまうことが、知覚の確信の経験であった。しかしこれで知覚としての意識の歩む弁証法の行程が終わったわけではない。この場の意識は、この弁証法の運動における意識の反省という契機が、知覚にとって必然的なものであることを同時に読み込むことによって、自ら知覚の真実を自覚するようになる。ここに知覚の弁証法は、知覚という態度をとる自然的意識の... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/11/23 10:25
知覚(2)
 物は真理であり、対象の側にある。錯覚は反省であり、主体の側にある。ところがこの逆がまた必然的に生起することになり、これが逆転することも明らかとなる。意識は素朴な定立が維持されないものであることを見出すであろう。対象を何ものにも変更することなく、それをあるがままに把握すればそれで十分なはずである。こうして真理は我々に与えられるはずである。我々はそれを再現しさえすればよいはずである。事実は物の純粋規定の中に矛盾が見出され、このことによって我々は批判的な立場に導かれるのである。この立場はカントよりも... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/11/22 09:56
知覚(1)
 感覚の対象である「このもの」は実は全ての「このもの」であって、単なる「このもの」は私念されたものにすぎない。しかるに個別を普遍において真に捉えるものが知覚である。知覚の捉えるのは物である。物は一物でありながら多くの性質を持ったものであり、また一物はそれ自体として対自的に存在すると同時に対他的にも存在するが、知覚は対象意識として同一律をもって真なるものの標準とするから、矛盾したものの一方だけを真とする。そこで知覚は必然的に錯覚でもある。なお物は対象として与えられるもので、その生成には主体の働きは... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/11/17 14:00
感覚的確信(3)
 感覚的確信は自らの確信の内容であるこのもの(この今、このここ、この私)が、直接的個別ではなく媒介された直接性としての一般性であることを自ら経験するのであった。「我々が感覚的なものを言い表すのも一つの普遍的なものとしてである」から、このことと言葉とは根源的な連関を持っていることになる。「我々の言っているのはこのものであるが、これは普遍的なこのもののことであり、あるいは我々が言っているのは『それが存在する』ということであるが、これは存在一般のことである。そう言っている場合に、我々はもちろん普遍的な... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/11/11 10:25
感覚的確信(2)
 感覚的確信は、まず対象の中に自己の真理を置いていた。対象は存在していた。それは本質であった。ところが、逆に、知は非本質的なるものであった。今や、感覚的確信は、自分の最初の設定を転換しなければならない。事実、対象がこの確信に現れたのは、直接的なるものとしてではなかった。この確信にとっては、この対象は、むしろ否定を通じて定立されたものとして現れた。この対象が存在することになるのは、他方のもの(いうまでもなく知)が存在しないからなのである。ところが、今や、この知のみが直接的なるものなのであるから、再... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/11/09 14:42
感覚的確信(1)
 ヘーゲルが意識に関して『精神の現象学』の第一部で述べている弁証法は、フィヒテやシェリングの弁証法とそれほど異なるものではない。素朴な意識は、自分の対象を直接的に知っている、あるいはむしろ知っていると信じているが、この素朴な意識から出発して、この意識は自分の対象を知ることによって、実際には自己を意識し、自己自身を知るのだということを示すことが問題になっているのである。この弁証法の固有の運動は、感覚的確信、知覚、悟性といった三段階で実現されるが、この運動は意識から自己意識への運動である。これに対し... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/11/05 15:46
キリスト教の歴史的必然性
 キリスト教の伝統には危機を乗り越え生き残るための一種独特の弁証法が働いているように思える。自分に危機をもたらしたものを自分の内に繰り入れるという生存術である。「神の死」がキリスト教を脅かす。「神の死の神学」が生れる。「社会主義」がキリスト教を脅かすと、「キリスト教社会主義」が生れる。二千年ほど前にキリスト教が生れた時、ギリシアの存在論はすでにそれを脅かしていた。しかし、やがてプラトンがキリスト教化され、やがてはアリストテレスすらもキリスト教化された。「キリスト教を維持し保全するのに努力した者が... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/31 13:55

続きを見る

トップへ

月別リンク

ヘーゲルに学ぶ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる