ヘーゲルに学ぶ

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zoom RSS 言語論の歴史とヘーゲル(3)

<<   作成日時 : 2017/03/19 14:07   >>

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 言葉にはならないものは、言葉において、それとして語られてしまっている。だから言葉が世界をあらしめるとか、言葉が先ずあるという言い方に惑わされてはならない。ヘーゲルの考え方も、表面的には、言葉が世界を生むのであり、初めに言葉ありき、なのであって、ユダヤ-キリスト教的な発想と深い関りがあることは言うまでもない。しかしこのように考えたときには、言葉にはならない自体というものが前提され、それが言葉において啓示として示現すると考えられれば、そのような自体を第一のものとして、真実のものとして、そこからそこへと認識が進められるものとなり、言葉はそのための便利ではあるが不完全な道具または手段となってしまう。ヘーゲルが対決の相手と考えていたのは、このような発想の前提なのである。ヘーゲルが精神の段階、しかも心理学の中で言葉の問題を論じていることにもっと注意を向けるべきなのである。そしてこのことがはっきりすれば、ヘーゲルの言語理解が伝統的な道具としての言葉、すなわち単なる記号の体系としての言葉ではないことは明らかであろう。問題はむしろ、しかもなお言葉が記号性格を備えていることの意味である。言葉の記号性格は、精神が意識という形態において自己を直観するということから生じている。このような意識の立場の真実が、いま心理学の対象としての精神として、自己確信の場に立っているのである。自然的意識の思い込みによる<もの>と<言葉>との分裂、自体とその自体の意識にとっての存在との分裂は、意識が自己を精神として確信したこの場では問題にならない。だから先に述べたような問題はここではそのままでは設定されない。しかしこの精神は自らを心、意識という直接性において確信しているのであるから、この意識の問題は、精神という知性の自己把握の生成、つまり知の生成の契機として現れてくる。そのために我々もついこの問題を素朴な意識の類推において理解しようとしてしまうのである。「感情は主観(体)が一つの所与の内容に関係する直接的な、いわば最も現在的な形式である」ということを忘れてはなるまい。
 さてこの直接に見出された単一な感情を、知性が自らの見出した、自らの規定態とするとき、知性は己を二つの契機に分割する。一方の契機は、この感情その他の精神の働きにおいて「精神の抽象的な、同一の方向すなわち注意」であり、これは自己を見出すというそのことが成り立つ根拠であり、「現に働いている想起であり、精神自身のものという契機である」。もう一方の契機は、この知性の内面性としての注意の向けられる「感情の規定態を存在するものとして、だがしかし一つの否定的なものとして、すなわち自己自身の抽象的他在として措定することである」。こうして本来単一であった精神の自己感情は、感覚という形態をとって二つの抽象的な契機に分割され、この「感覚の内容を自己の外に存在するものとして規定し、その内容を空間および時間の中に投げ出す。空間と時間とは、それによって知性が直観を働かせている形式である」。したがって直観とは知性がこの二つの契機のこのような具体的統一として、感覚の素材として外的に存在しているものにおいて自己を想起し、しかもこの自己の想起ということが感覚の中に埋没している、ということである。しかし、「本来知性はこの自己の直接性において自己自身に目覚めていること」であるから、つまりこのような二つの契機において自らを直接見出しているのだから、この「直観は素材と知性自身との具体的なものであり、知性自身のものである」。こうして直観において自己の外に存在するものという契機は、知性の中に取り戻される。これが表象である。
 この表象において記号としての記号が生まれてくるのであるが、ヘーゲルはこの表象の場を、直観と思惟との中間(媒語)であると言う。表象となった時、先の知性の注意は自己自身の方へ向けられている。もはや直観におけるように、直接的な、自己外存在としての感覚の内容を前提する必要がない。しかし表象は知性が自己自身を、自己自身の中で、自己自身に対して立てたもの(措定したもの)であるから、「表象はなお未だ一面的主観性を伴った知性からみた知性自身のものである」。つまり知性が自己の内に見出した自己として、未だ直接態によって制約されているから、「知性のもの(表象)がそれ自身において存在なのではない」。表象は意識を或るものについての意識として規定する契機であり、自然的意識に、意識自身のものとしての、<もの>についての観念という思い込みを固執させる契機である。この直接態を自己媒介する行程が表象としての知性であり、これが直観における二つの契機の総合として、直観とその直観の見つけ出した素材との分離、すなわち距離に付きまとわれいる総合(二つの相互外在を前提しているから知性の概念に矛盾する)から、「概念の具体的内在」としての思惟へと生成するのである。思惟が知性の概念の実現である。この思惟の実現の媒介項が表象であり、この表象において記号としての言葉が生まれるのである。このことを理解するためには、さらにこの表象の行程を共に歩まねばならない。この行程は想起、構想力、記憶という段階を経て展開される。
 想起とは、知性が先の感情の内容を自らの内面性の中に、つまり知性自身の空間および知性自身の時間の中に措定することであり、このとき感情の内容は像である。直観を内化することによって、あの感覚の外としての感情の素材は、知性が自らの立てた像となる。しかしこれは直観からの内化として、それ自体が存在なのではないから、像は直観が持っているような完全な規定性をもはや持っていないで、恣意的であり偶然的である。つまり像は一切の外的な場所、時間から切り離されており、直観の成り立っていたあの直観的関連から切り離されて、孤立しているのである。像は像として自己完結的である。ということは知性の内部において、像はそれ自体時間-空間的に現存するのではなく、知性の内部において、かつ結びかつ消えるものであり、知性の注意が向けられるそのつどに像となって結び、注意が免れるとき解消するのである。しかしこの表現はよほど気を付けねばまたも意識の類比によって意識関係に固定して考えられてしまう恐れがある。というのも、今先に言ったように、このときあたかも主観としての注意が外的直観を経て主観内に結ぶのが像であると考え得るからである。たしかに精神は、この段階にあって、意識としての己を対象としている。だから見出される自己は意識的な在り方をしているが、しかもそれは同時に精神自身であるのだから、精神の外には存在しないのである。そのような外がないとき、つまり純粋内在の場に立つとき、しかも自己意識=知は成り立たない。そこでこの純粋内在における自己意識の成立過程が今説かれているのである。決して知性が注意するということを意識のこととして固定的に考えてはならない。意識の場合だと、注意するとき<意識にとって>像となり、注意が免れるとき<意識にとって>現存しないというように考えられるが、そうなると意識を離れた自体としての像があって、それが意識にとって現れたり消えたりすることになり、先の直観の場に戻ってしまう。この表象の場はこのような意識から理性への中間項であるのだから、知性は「意識であり定在であるだけではなく、そのままで己の規定(様々な像)の主体であり自体でもある。このように知性に内化されるとき像はもはや現存してはおらず、無意識的に保蔵されている」のである。知性そのものの内実がこの無意識的な保蔵である。ここに像となって現れるのは知性そのものである。知性の自己想起としての自己表象が像だというのである。ヘーゲルは「知性を真暗な坑として掴むこと、つまり無限に多くの像および表象からなる一つの世界がその中で保蔵されているのに、その世界が意識の中にないようなそんな坑として理解するということは、一方から言えば概念を具体的なものとして理解しようとする普遍的な要求一般である」と言っているが、ここにヘーゲルの精神の哲学と言葉の問題との根源的な関連がはっきり出ていると言えよう。真暗な坑などという表現を使われると、問題をあまりにも思弁的な、あるいは神秘的な表現にすり替えて、ごまかしてしまったように見える。言葉の持つ様々な矛盾に耐え切れずに、それを精神という曖昧な概念、あるいは本来相矛盾する要素を全て流し込んだ概念定義できない語によって、一挙に超え出てしまう例の手口であると言われるかもしれない。しかしヘーゲルはいきなりそんなことを言い出しているのではない。この非難をする合理的、悟性的な考え方そのものの論理が成り立っている場が、このような前提だというのである。
 「概念を具体的なものとして理解するという普遍的な要求一般である」ということに注意しなければならない。ヘーゲルの哲学の根本は、この概念を具体的なものとして理解するという思弁的思惟を目指している。そのときこの思惟は、意識と意識されるものとの関係から出発する。そしてこの意識が自らの真実、つまり自らはそれと気づかずに前提していた自己、それが概念であるが、その概念を自覚するようになる、そのとき意識は本来自己のあったところのもの、つまり即自的自己であった所に帰る。これが具体的に掴まれた概念なのである。そのとき未だこの概念を掴んでいない意識は、経験的、分析的悟性を自己の確信の武器として使うが、同時にこの武器によって自己の確信をも否定する。この経験的、分析的悟性による判断の根源としての精神が、ここで心理学の対象として取り出され、この精神が自ら精神として、すなわち具体的な概念として掴まれるために、精神の自己分割と自己把握としての表象という、一見不明晰、不合理な前提に帰るのである。「知性を真暗な坑として掴む」とは、だから、精神としての自己の即自的な概念に立つということである。ヘーゲルは「精神の威力を信頼することは哲学の第一の条件である」と言っているが、今この信頼に立つことが要求されている。知性を無限に多くの像および表象の世界を保蔵していながら、それらを意識していない坑として掴むということがあって初めて、意識としての判断という悟性的分析が可能になるのである。これが言葉となって具体的に概念把握されるとき、もはや知性は真暗な坑ではなく、自己を認識した精神として、具体的な精神なのである。
 したがってここには、意識としての、二極の分裂と同一(主観と客観との相即)という問題が同時に考えられている。心理学の対象としての主観的精神すなわち知性は、心と意識という契機を自己の内に含んでいるのである。そのことが真暗な坑という表現になり、無意識の(意識していない)という言葉の意味である。だからこそ通俗の思想または意志の伝達の手段・道具としての言葉という解釈が不可能であると同時に、言葉が「単なる主観的精神に属する、主観的な(これが普通の記号解釈である)働きもしくは能力である」というレーヴィットなどの解釈も当を得ていないのである。言葉より先に精神が具体的なものとして在るのではない。言葉と共に、言葉において精神は自己を精神として知るのであり、そしてまた自らが真暗な坑として即自的に精神であったことを知るのである。概念把握の順序、つまり論の展開においては、精神が言葉を生むのであるが、しかしこれは精神の自己認識として、精神の自己産出、というよりも精神の生成そのものなのである。この精神の生成の過程が『精神の現象学』の主題であるが、今ここでは、この過程を貫いて働く言葉の生成を考察しているのである。知性は表象において自己意識としての自己を意識することによって、自己を認識して行き、そして精神は最初から言葉としての精神なのである。この表象における自己意識は、この「像を直観に関係させることであり、しかもそれは直接的な個別的直観を、形式上普遍的なものに、すなわち同一の内容である表象に包摂するということなのである」。「知性の坑の中で知性の潜在的な占有物にすぎなかった像が、外面性という規定と共に、今知性の顕在的な所有物となってもいるのである」。像は真暗な坑という無意識から浮かび上がって直観の像として意識されている。ということは、知性が自らを自己の所有物すなわち直観像として自らの中で措定したことになる。「知性は自己の所有物を外化することが出来るという、そして自己の中の所有物が現存するためにはもはや外的直観を必要としないという威力である。内的な像と内化された定在とのこのような総合が本来の表象である」。
 こうして知性は像において自己を表象するものとして、意識におけるような自己の外からの内容すなわち素材を要求しないで、つまり意識における主観-客観-関係を前提しないで、しかも表象という認識の場を得たことになる。「というのも、内的なものは今知性の前に置かれ得るという規定、すなわち知性の中に定在を持つという規定を得ているからである」。こうして知性は、自らの内面から像が出てくるという意味で自己の所有物を外化する威力として再生産的構想力である。つまり「表象は知性を高める推理における媒語であり、自己-への-関係という二つの意味、すなわち存在と不変とを総合することであり、この両者が意識においては客観と主観として規定されているのである。知性は見出されたものを普遍という意味によって補い、見出されたものに固有のもの、その内なるものを存在(ただし知性によって措定された存在)の意味によって補う」。したがって知性は像や表象の貯えを支配する威力であるが、この働きから見たとき、「知性は想像であり、象徴化し、寓意化する、もしくは詩作する構想力である」。こうして知性は「自己内で完結した自己直観」となるのであるが、この想像において知性の中に結ばれた形象は、この形象の素材が直観において見出されたものであるために、未だ総合であって、存在するものという契機が欠けている。このとき知性の働きは、「知性の中で具体的な自己直観に完結したものを、存在するものとして規定する。すなわち自己自身を<存在>とし、<こと>とするという、いま問題になっている点から出発する」。
 ここに知性の自己認識すなわち思惟に至る自己把握の行程の分岐点が考えられている。これまでの道程は、表象を媒介項として自己を直接態において見出すことから、自己を形象として自己の中に措定することによる自己直観に至る道程であった。感覚を通した外的事物の直観ということが、知性の自己感情であるという出発点から、そこに含まれている未だ媒介されていない二つの直接性(存在と自己)との真実として、この二つの直接性が知性自身による措定、つまり知性自身の自己表象の場として自覚されてくるとき、最初の直観は、知性自身の表象における自己直観であったことが明らかになったというのである。いわば知性は純粋内面性としての自己の真実を表象していることになる。だからこれは外的な直観からの自己への内化(想起)として、自己直観に帰ったことになるが、そのことはもはや自己を自己と区別して見る、つまり自己を具体的表象において具体的自己として直観することではなくなっている。こうして知性の二つの契機、つまり直接的なものであるということと自己自身のものであるということとを統一している概念、すなわち存在であると同時に自由であるという知性の概念は、即自的には得られたことになる。しかしこの存在は定在を持たない、現存しない。知性は純粋内面性に止まる。ということは知性がなお知性の外面性とは区別された一方の極に止まっていることを意味する。いわば自らの外面性の真実としての純粋内面性となることにおいて、知性の主観(体)たることは自覚されたのではあるが、この主観は自らが自らに対して客観的に、すなわち存在するものにならねばならない。なぜなら知性の概念がそういうものだからである。したがってこの即自的な知性の概念を対自的にする行程が新たに始まる。つまり「知性は自己を外化し、直観を生み出す」ことになる。
 これが「記号を作る想像である」。
 ここに初めて記号の生成と働きとが取り出された。記号は自己直観としての知性が自らを直観するために作ったものである。想像が中心点なのである。「想像において初めて知性は不定の坑としてではなく、また普遍としてでもなく、個別性として、すなわち具体的な主観性として存在する」。だから先の純粋内面性としての純粋主観性という知性の自己直観は、じつは一切を内包したものとして、自己完結であるために、何ものでもないもの、すなわち不定な坑なのである。ところで今この知性がこの真暗な坑から自らを具体的な形象、記号として生み出すとき、知性は自らをこの記号において具体的なものとして知るというのである。そのとき知性は真の意味で自己を直観していることになる。だからここで記号と呼ばれているのは、対象意識および他者と意志的に交わる主体の思想伝達の道具ではない。むしろこの記号は自己および世界の現前そのものを意味している。この現前が記号として直観されているということは、現前してくる自体的自己と、これを己の自己として知る主体と、この両者の同一の成り立つ場としての、否定的契機=記号とが立てられていることを意味する。表象と直観との統一としての記号において、客観性と主観性とは、徹底的に、ただし否定的に相互に組み合わされる。つまり感覚的直観は主観的になり、差し当たり内面的にすぎなかった表象は客観的になったのである。つまり想像によって、自己直観という自己内で完結した知性が、記号となったときに想像の付け加えるものが本来の直観性である。だから独立の表象と或る一つの直観とを知性から出発して統一する場合には、この直観の受け取る素材は、外から得られた直接的なもの、すなわち所与のものであるが、この直観は心としての知性の或る一つの自立的な表象を受け入れた一つの像であり、この像の意味である。このような直観が記号なのである。知性はこのとき自己自身の内面である像が、外的感覚を通して得られた直観の真実であるとして、直観の意味を内面化する形で、逆にこの直観において自己を外面化するのであり、そのときその直観の成立している場が記号だということになる。記号は自分が持っているのとは全く別の内容を表象している。例えば赤という色の直観は、共産主義のカラーとしては、赤という色の直観とは全く別の共産主義を表象させるようなものである。赤がそのようなカラーとして見られたとき、赤は単なる色というような感覚ではなく、記号だというのである。「記号は・・・見知らぬ人の魂を移し入れて保蔵しているピラミッドである」。だから記号は象徴とは違うのである。象徴はその象徴されるものの概念と本質とを多かれ少なかれ表現しているのであるが、「記号そのものにあっては、直観自身の内容とその直観が記号として表現している内容とは全く関係がない」。これが記号の真の位置である。
 さてこのような記号の位置づけから、「知性は直観するものとして時間と空間との形式を生み出すものであるのに、感覚的内容を受け入れるものとしては、このような内容の素材から表象を自己のために形成するものとして現れる。そこで自らの自立的な表象に一定の定在を自分から与え、こうして満たされた空間と時間、すなわち直観を自分自身のものとして使い、直観の直接的な内容を滅してしまい、それとは別の内容を意味および心としてその直観に与えるということになる」。ここにはっきりと記号の恣意性と非自然性とが主張されている。知性は自然の真実としての精神の働きである。この精神が自らを認識するために、自らを表象するときに、自ら生み出すものが記号だというのである。だからこの記号はもはや自然的事物との対応と考えられてはいない。イデア的なものとの対応という、自体的なものを前提した記号理解は成り立たないのである。記号の恣意性とは、有限な意識のその場その場での約束ということではない。自体的なもの、動かない実体の前提に立たずに事物の現前を、つまり事物の存在を直観する可能性の根拠だと言うのである。これは記号を作り出す働きとして、生産的な記憶と呼ばれてよいと言われている。プラトンのような模倣の意味は全く持っていない。模倣されるべき自体的なものは存在しないのである。
 このような記号と共にヘーゲルは言葉の問題に触れて、こう言っている。「そこで一つの記号である直観のより一層真実な形態は、時間における一つの定在であり、定在が現に在りながら消えることであり、そしてさらに外的、心理的な定在の規定態から言えば、知性自身の人間学的自然性から出てきて知性によって措定された存在である。この形態は音であり、自己を知らせる内面性の充実した表現(外化)である。はっきり規定された諸々の表象のために、さらに分節化して明確に発音される音、すなわち話とそれからこの話の体系である言葉とは、感覚、直観、表象などにそれらの直接的な定在よりも高次の、第二の定在を、一般に、表象作用の領域に当てはまる一つの現存を与える」。ここにはっきりとヘーゲルが言葉を話から理解していることが分かる。ヘーゲルはあくまでも精神の活動の面から言葉を理解しているのであり、ここには前述の志向性からの言語理解に通じて行く言語理解が読み取れる。しかも同時にここでヘーゲルが言葉を記号から考えているということも明かである。
 なおこの関連をよく示しているのは『イエナ体系構想V 精神哲学』の「主観的精神」での扱いである。そこではこう言われている。「自我が事物を記号としてのみ見、それに対して事物の本質を自我として、意味として、自己内への反照として直観するというこのこと自体が、そのまま同時に対象である、つまり自ら現存する(定在する)内面性である。直接的な内面性は辛うじてやっとそのように存在する。これは同時に定在へと歩み出なければならない。つまり対象となり、逆にこの内面性が外面性にならなければならない。つまり存在への還帰である。これが名を与える力としての言葉である。・・・言葉は内面的なものを存在するものとして措定する力である」。もちろんヘーゲルがここで問題にしているのは、言葉の全ての側面ではなく、「知性の所産として、知性の表象を一つの外的な場(エレメント)において明示するという固有の規定性の面からのみ考察される」。
 言葉の起源は、知性としての精神が、自己直観としての自己認識を表現するために、直観の像に与えた表象としての現存である。「言葉は本来の意味での理論的知性の成せるわざである。なぜなら言葉はこの知性の外面的な表出なのだから」。この像は知性の真暗な坑から生み出されるものとして、どこかから取られたものではないが、それは知性が自らを表象するために表象した(自らの前に置いた)ものである。知性が記号として表象の中に現前している。この表象されたものという定在を知性の自己表現の場として形成する想像が、直観の意味としての記号を生み、この記号が自己の表現の場として措定されると言葉なのである。だからここでの記号としての言葉は、知性の自己現前の場である。知性が具体的な主観性として存在する場はこの記号としての言葉である。この言葉の直観は、音という感覚的直観であるが、それは言葉ではない。この感覚的直観において知性が自己の内面背を表現しているときに初めて、この音の直観は記号であり、言葉である。だから音は生きた表現なのである。そして大切なことは、記号一般は色の例でも分かるように、空間的、すなわち感覚的、自然的な知性の自己表象である。つまり心としての精神の自己表象であるのに対して、音としての言葉は、時間的、すなわち主観的、内面的な自己表象である。つまり意識としての知性=精神の自己表象だということである。ここには記号一般と記号性格を持つ言葉との受け取り方の違いが現れている。それが記号として使用される直観の空間性と時間性とのずれにおいて見られていることは、ヘーゲルの空間と時間との考え方に照らしてみても、記号一般の真実が言葉であり、またこの言葉が記号一般としての空間性へ帰って行くことでもあることが見て取れる。
 したがってこのヘーゲルの記号論は二重の構造を持っている。記号としての言葉は、先ず何よりも知性の所産、すなわち知性の自己認識の成り立つ場として、知性を離れた自体的な何かを指し示すような、知性の知と知性の内容とにとっての第三者ではない。知性を離れた自体としては単なる色、音としての直観があると考えられるが、そのような単なる直接性としての直観は、もはや自体としては存在していない。それらは知性の措定したものの姿なのである。それらに記号としての働き以外のものは認められていない。だからこの知性の自己措定という根源から切り離して、記号を記号として、言葉を言葉として扱うことは、本来の記号、言葉の起源から言って抽象的なのである。そしてこの抽象化が、逆に記号と直観との対応という似而非なる問題、すなわち記号、言葉の道具性というあのアポリアを生むのである。
 ヘーゲルの記号論にはそのような問題設定の余地はない。知性が存在するものとして自らを「こと」として表現するその場が、記号としての言葉なのである。記号としての言葉は「こと」としての知性の定在である。知性は言葉において自らを「こと」として認識する。そのとき知性の自己知は純粋内面性に止まらず、定在を得たというのである。しかしこの定在は直観の像を借りている。像をいわば自らの表現の場として利用している。その限りでこの記号としての言葉が、何かを直観する媒介として、何らかの象徴と受け取られる危険が常にある。知性の「こと」は、直観を通して得られた感覚の真実として、感覚される「もの」の真実であると受け取られて、「もの」の真実としての「こと」、つまり「もの」を前提した「こと」に取り違えられる恐れがある。直観の内容と記号の意味とは直接関係がない。その限り記号としての言葉を、主観と客観との媒介をする第三者、つまり記号を記号として知性の自己認識から切り離して扱うということが、不可能であるように説かれてはいる。「こと」は知性の直観の真実として、すでに素朴な「ものの直観」を清算してしまっている。ここには「もの」は一つもない。しかしこの記号が直観の像をいわば宿主として機能しているために、宿主としての直観の像と記号との関係が強く関心を引いて、本来の知性の自己認識としての「精神の定在」という言葉の起源が見失われてしまうのである。ヘーゲルにおける記号としての言葉は、本来は、根源の言葉の問題として、精神の自己認識の精神自身の媒介の場なのであって、自体的存在とは初めから考えられていない。言葉それ自体はどこにもない。記号としての、意味としての言葉は、時間における定在として、現に在りながら消えることなのである。しかしこのことと同時に、この言葉において自己を「こと」として認識する知性は、この言葉を離れてどこにも存在しない。
 この関係を説くことが心理学(ヘーゲルによれば、アリストテレスの「霊魂論」以来絶えて忘れられていた心の思弁的な問題、すなわち概念をもう一度精神の認識へと導き入れる試み)の知性の諸能力、つまり一般的な働きの仕方の問題であって、決して精神がそれぞれ独立の諸能力の関係もしくは集合体であるという通俗な、悟性的な理解に立っているのではないのであるが、常識的な記号論はヘーゲルのこの基本的な精神の理解を忘れるのである。精神の働きの仕方の各契機を、それぞれ独立に在る力もしくは能力と考えるとき、この能力の一つとしての表象作用において記号が形成されると考えられ、精神と表象作用としての主観的記号の設定と、さらにこの記号を通して直観の内容として意味づけられる感覚されるものとが、それぞれ独立に存在するという反省形式に固着してしまうのである。そのために記号において「もの」と「こと」とが媒介され、内と外とが出会うと考えられてしまうのである。そのような媒介の道具としての記号は、知性の自己表現としての言葉を反省形式によって固定したものである。だからヘーゲルにおける記号としての言葉は決して道具であるわけではない。記号であると考えることと、媒介手段であるということとは同じことではない。言葉が記号として、認識と思想伝達との媒介者、すなわち道具であると考えられるのは、思弁的思惟すなわち精神の本性の誤解に基づいているのである。したがってここに取り出された記号としての言葉を言葉として理解するためには、ヘーゲルにおける精神の意味を、単なる表象すなわち名としてではなく、概念として考察せねばならないことになる。
 さてこのような言葉の起源に係る記号性格から、ヘーゲルは口唇を通して音声として語られる言葉と文字としての言葉との関係、さらに文字表現としての象形文字と音標文字とについでに触れている。ヘーゲルはアリストテレスの定義にそのまま従って、文字表現を記号の記号とする。そしてこの音声による表現である語られる言葉が根源的な言葉であるのは、知性は直接に、そして制約無しに話すことによって外化されるものであるからであり、このことは表象から思惟-記憶-へと移行する際に本来の本質を表すと言っている。つまり自己の現前としての言葉は音声として語られる言葉だというのである。そしてこの現前の場が思惟として捉えられているのである。ヘーゲルが音標文字を象形文字に比してより言葉の本質に適合していると考えるのも、今言った語られる言葉に言葉の本性を見ているからである。更にその理由が、言葉は知性としての精神の自己認識の場であると考えられているからである。この問題から切り離されて、記号の体系として、それ自体に完結した対象として言葉が扱われるとき、言葉は死ぬのである。その場合には言葉は感覚的直観を使って表象という意味を表現する単なる記号づけと同列に扱われることになり、直観と表象との外的結合になってしまう。このような悟性的(意識の分裂を前提した)考え方を超えること、しかもそのような考え方の真実または根源を求めて考えられているのである。だからこそ「そのような言葉の形式的なものが悟性の作品である。悟性はその範疇を言葉の中へ形成し入れるのである。この論理的本能(悟性)が言葉の文法的なものを作り出すのである」とはっきり言われているのである。もちろんこのような側面からの言葉の扱い方がでたらめだというのではない。悟性は否定の威力として思弁的なものの本質的契機である。ただそのような扱い方を固定してしまうと、つまりこの否定が絶対的なものとして肯定的に断定されると、言葉は意味のない外面性として、もはや精神の定在という本来の働きからは理解されていないということになる、というのである。つまり「言葉である記号は何ら外的、空間的な形象を持たず、したがってもはや記号一般のように、空間的な諸々の対象によって例示されないのであって、むしろこの言葉である記号は、声によって生み出された生きた音という形態で、一つの直接的な、時間的な定在を所有しているのである」。ヘーゲルはこの記号としての言葉を音声としての響くと共に響き止むという時間的性格から理解することによって、空間的表象である一般的記号(その一種が国旗や象形文字、さらには音標文字であるが)とはっきり区別して、言葉が語るということに言葉の本質を見ているのである。ここに前述に触れたライプニッツ以来の論理計算や言語分析という言葉の問題の受け取り方の不可能なことが示されている。ヘーゲルは精神を論理化するどころか、論理学を精神化したのである。
 さてそれでは、この知性が自らに与えた定在という意味での記号としての言葉は、どのような形態をとるのか。それが根源的な記号としての名である。知性によって生み出された直観とその意味との結合である名、この名を介して知性は表象から記憶へ、さらに記憶から思惟へと進むのである。
 この道程は次のようにして展開される。
 直観とその意味との結合としての名は、差し当たり時間的なものとして、現に在りながら消えて行く、個別的、暫定的なものであるが、先に直観から表象への行程においてなされた想起の働きを経て、この名は表象に変えられる。つまり「知性は・・・初めは名である直観を表象にする。それゆえ内容と意味と記号とは一致させられて一つの表象となる。そして表象作用はその内面性において具体的であり、表象の定在としての内容である。すなわち名を保持する記憶である」。つまり名は記憶において、表象作用の領域に現存している<こと>であり、再生産的な記憶は、直観や像がなくとも何おいて<こと>を、また<こと>と共に名を認める。これはもはや外的な直観を(差し当たりは直観と意味との結合であった名が内面化されることによって、意味が名と一つになって知性の中に定在することになったのであるから)必要としないで、「こと」が名において定在するということである。ここでは再び直観、想像、表象という、先の感覚的な場の用語が現れているために、あたかも名はまず外的感覚の対象からの直観を予想し、この直観が表象となって名の内容すなわち意味となり、この意味の外的直観として音である名が立てられているとされているように見える。これがロックなどの理解の仕方であるわけだが、今言ったように、一見した所ではそう思えるために、ヘーゲルの記号としての言語論を伝統的な記号論の枠の中に押し込めてしまう理解が現れる。しかし大切なことは、名において記号と意味とはどちらも独立性を失ってしまっているということである。直観における像との関連でみられた記号と名とは別のものとして考えられているのである。ヘーゲルが音をもっと非感覚的なものと言っていることに注意すべきである。もちろん音として発音される語られる言葉も記号として性格づけられているが、記号と記号づけられるものという記号一般の関係は、むしろ記号としての記号である文字による言葉なのである。ヘーゲルの考え方は文字から音声へと考えるのではなく、音声としての意味と記号との一つになっている語り出る言葉から、その記号性格への展開を、精神自身の自己認識という一貫した働きにおいて考察しているのである。これを前述との関連からヘーゲルを一応離れて言えば、パロールとラングとを分けて考え、そのどちらかに言葉の根源を求めるというのではなく、精神が自らを認識する過程において精神の歩む行程に現れる二つの契機であると考えようとしているのである。デュフレンヌやメルロ=ポンティが指摘する、言葉の問題におけるあの弁証法的なものに最初から視点が据えられているのである。この弁証法こそ意識の経験そのものであり、ヘーゲルの考えていた思弁的なものとしての学なのである。
 知性によって産出された直観としての名を内化することは、同時に外化することである。そのとき知性は自己自身の中に自己を措定するのである。「記憶はもはや像とは関係がない。像は知性の非直接的な非精神的規定存在から、すなわち直観から取り出されたものである。それとは違って記憶は知性自身の所産である定在と関係している。つまり知性の内側に包み込まれたままのものと、知性自身の内側でのみ知性の外側にあり、また現存している側面であるような外側のものと関係しているのである」。ヘーゲルはそのような実例としてライオンという名をあげている。「ライオンという名を聞いて我々はそのような動物の直観も、その動物の像ですら必要としないのであって、むしろ我々がそれを理解することと同時にその名は像を持たない単一な表象なのである」。これを先の記号の例としての赤の場合の説明と比べて見ればその違いがよく理解できよう。赤は色として外的(空間的)な直観を予想している。つまりこの場合には外的直観を前提して、そこから形成された像を意味として表象するのであるから、常に像を記号として使用するためには直観の直接の内容である色を持ち込まねばならない。単なる記号は常に感覚的な直観を前提し、この直観を像形成の素材としなければならないのである。ここにもはっきりとヘーゲルの記号としての言葉が、通俗的な記号論に立っていないことがはっきり現れていると言えよう。感覚を介して外的事物を直観し、この直観において表象像を考え、今度はこの表象像から出発して外的事物に至るという、認識の過程を可能にする記号としての言葉を考えるのが通常の発想であるが、ここではそのような発想が、心理学の対象としての精神の、知性の自己認識という在り方において不可能なものとして捨てられている。しかも実はそのような発想が出てくるのは、ヘーゲルがこのような発想を契機として使っているからである。
 心としての精神、意識としての精神という媒介項を考え、しかもこの契機を内に止揚したものとして主観的精神が考えられているために、先の発想は知性の自己認識の過程に現れる精神の働きの諸契機としてそのまま取り入れられる。だから直観、表象などという誤解を受け易い用語が使われているのであり、たえず内と外とに係る問題が提出されているのである。言葉の記号性格もそのことと一つにして考えないと誤解に陥ることになる。このような外面としての名は、知性自身における知性の外面として、意味としての知性の内面の表現であるが、その限りでは名とその意味との区別がなお現存しているように見える。名にはなお像的な外面性の残滓がこびり付いている。なぜならこの外面としての名こそ知性の知の定在であるのだから。しかし元来知性は普遍的なものであり、様々な特殊形態となって現れた己の外化の形態の単一な真理である。だからこそこの単一な真理を特殊な諸形態を徹底的に経巡って獲得すれば、意味という名というそうした区別は廃棄されるのである。つまりこの外化において知性は自らを存在として、名そのものの、すなわち意味のない言葉の普遍的な場として措定する。だから表象において立てられた名としての言葉は、この知性の自己認識の実現の場に至って、もはや意味を担った音ではなく、「こと」そのものとして存在しているのであり、その「こと」が知性自身すなわち理性的なものの定在なのである。言葉は音という時間的なものから、名という空間的なもの、つまり「こと」としての定在へと至り着いているのである。思弁的命題の問題は、この「こと」の思弁的性格に由来していたのである。一切は記憶において名という表象に変えられて、機械的な操作になる。そういう仕方で記憶は、もはや何の意味も持たない思想が、つまり自らの客観性からもはや主観的なものを区別していない思想が働きに移行することである。これが思惟である。つまり知性は再認識的である。知性は既に自分のものである限りの直観を認識する。更に知性は名においてことを認識するのであるが、知性は己だけで自覚的にそれ自身において認識するものである。すなわちそれ自身において普遍的なものであり、知性の所産すなわち思想はことである。つまり主観的なものと客観的なものの単一な同一性である。知性は思惟されたものが存在するということを、そして存在するものが思想である限りで存在することを知っている。つまり知性は以上のことを自覚的に知っているのである。換言すれば、知性が思惟することは思想を持つことである。名としての表象が概念となった時、思想が存在し、この思想を自己として思惟するのが精神である。以上がヘーゲルの心理学において考えている記号としての言葉の本質である。知性は言葉において自らを客観的にし、そして言葉において生きるのであるが、問題はこの言葉において生きている知性すなわち精神を概念把握することにある。
 我々が思惟するのは名においてである。そして名は知性という理性的なものの直接の定在としての<こと>そのものである。理性は<こと>としての名と、その記憶における普遍化としての言葉とである。ヘーゲルの場合には言葉と思惟との間には次のような一つの独特な二重関係がある。つまり言葉は思惟に先立つが同時に思惟の表現でもあるということが、ヘーゲルの言語理解の鍵でもあれば躓きの名でもある。そしてまたここに現代的関心からの言語理解との対話の可能性もある。だから理論的精神の所産はこの精神の観念的な世界であるのだから、言葉は表象としての世界を生むものである。世界は言葉において生成する。こう言うとあたかも精神がまずあって、それから言葉が精神から生れ、そしてこの言葉において単なる自然ではない、いわば第二の自然としての人間の住む世界が創造されたと説かれているように見える。しかしそんなことはあり得ない。これは悪しき観念論でありヘーゲルとは関係がない。言葉を離れて世界も精神もない。言葉は精神が自己を自己として知る場である。そしてそのときこの場とは精神の自己としての世界であり、この世界こそ精神そのものなのである。だからこそ精神において自然は精神の自己認識の契機として、精神の外化そのものなのであるとされ、精神が自然の真理だというのである。自然がないというのではない。精神と自然という二つの自体などないということである。そしてそれが同時に精神と言葉と世界というような自体がどこにもないということなのである。
 確かにヘーゲルの考え方は一般にキリスト教的であり、この言葉の問題に関しても、無からの創造の根源に考えられているロゴスとしての神、つまりロゴスの現存としての世界と、ロゴスの受肉としての神人、更には神の子としての人間のロゴス(霊的本質とさらには理性と言葉)との類似は歴然としている。しかしその場合にも忘れてならないことは、そのような自体的、神的ロゴスと自体的、人間的ロゴスというような自体が説かれているのではないということである。この点に関して、ここでの関連から言えば、言葉が世界を生むということと、精神が言葉として定在するということと、世界において人間が言葉としての精神に出会うということとの、三つのことを並べて考えるのではなく、一つのこととして考えるということが、ヘーゲル的思索である。前述のアダムが名を与えることによって事物の本質が決定されたという思想はここに生きている。事実『プロぺドイティク』のこれと関連する箇所で、聖書との関連をはっきり示して、「言葉は人間における最高の威力である。アダムは一切の事物にその名を与えたという。言葉は直接的な定在という形態をとっている感覚的な世界の根絶であり、このような世界が次のような一つの定在へと止揚されることである。つまりこの定在は全ての表象する存在の中で反響している一つの呼びかけなのである」と言っている。言葉は世界支配を構成するのである。こうして構成された世界とは、知性としての精神が自己を理性として定在するものとして表象したものである。この世界は精神の自己表象である。理性的なものは言葉としてのみ現存するのであり、これが先の思惟と言葉との関連を支える根源の事態である。言葉は既に思惟を内包しており、思惟は言葉なしには存在しないのである。ここにまで考え進められたとき、言葉は「こと」そのものとして、もはや直観も像も必要としないのであるから、先にあげた記号性格を廃棄していると言ってよいであろう。今や思惟は言葉において記号づけられた意味を追い続ける必要がない。言葉そのものが思想であり、「こと」としての存在そのものである。こうして言葉は思想の作品であるということの意味が明らかになった。ここにはっきりとヘーゲルの記号としての言葉の解釈の独自性と意味とが現れている。
 言葉は単なる外的手段ではない。出来上がった表象(観念)を伝達するために考え出されたものではない。言葉は表象、観念そのものの一つの在り方なのである。そういう意味で記号なのである。だからこそ言葉の形式を一義的に決定しようとする試みが、その試み自体において言葉を前提せざるを得ないという矛盾に突き当たってしまうのである。したがってまた逆に言葉の一つの在り方、つまり一つの契機が表象なのだともいえる。言葉は名として表象の定在であるが、この名は自ら動いて概念へと生成する。この生成の過程が思惟であり、意識の経験である。つまり名の国としての世界、自然とは精神の覚醒を意味している。精神が自らを名において表現した時、この名の国は精神にとっての直接性として現存している。ここに同時に分裂がある。つまり精神は意識として存在している。言葉において開かれた思想の世界が、思惟の対象として措定されることによって、精神は意識として再びこの対象において自己を認識する道を歩み始める。その時初めて言葉は精神の定在として、精神の自己認識の媒介の場となるのである。つまり言葉において意識が精神へと生成するのである。このような言葉は、日常的な感覚や、分析する悟性、説明する計量的思惟においては、その直接性から理解されて、感覚的確信の断言、悟性一般の説明の手段、道具として使用されもする。そうなると名はこともしくは概念に対立しているのである。今記号としてその根源から取り出された言葉は、精神の自己認識として、精神自身である世界を言葉としての「こと」として表象し、その表象において思惟は、自らの概念把握としての思想として取り出された。そうなると、それ自体なる存在も、それ自体なる主観性ももはや存在しないことになる。それらのものは精神の自己表出としての言葉において根絶されている。しかしこのとき精神は自らを精神として措定することによって、再び意識としての態度をとる。ヘーゲルが『精神の現象学』において考え抜こうとしているのは、この自ら精神である絶対者が、意識の経験を通して自らを精神として「知る」過程である。だからここでは言葉が、この意識の経験の生起する場であると共に意識そのものの成立する場であり、しかも意識の真実が精神であることとして、逆に意識が在るから言葉が在る、という言葉の弁証法を再び取り上げることになる。したがって意識の経験の結果としての精神は、名という表象における意識の確信の真実が、自己としての概念であることを叙述することにある。そうなったときに、ここに説かれた記号としての言葉の真実も明かになる。この悟性形式という抽象的な判断において、この対立のままに固定されてしまった内容と形式とが、精神の自己媒介として弁証法的運動において、自己を回復する道程を我々も共に歩まねばならない。この命題そのものの弁証法的運動の言明もしくは陳述である思弁的命題はこうして成立することになる。そしてこのことから、ヘーゲル哲学の根本の問題としての言葉の問題の根源は、記号としての言葉という多くの非難と誤解とを生む表現の中に見出された。「言葉は精神の自己確信の実現の場である」というのがそのテーゼである。このテーゼとの関連で初めて記号としての言葉が理解される。そしてそのとき、ここでの記号理解が通俗の理解を超え出てしまっていることが示された。しかしここに前提された精神の自己確信とその実現としての自己媒介と、さらにこの自己媒介の場としての意識と、この意識と共に働いている言葉とはどれも即自的に断言されているだけである。この断言が知となることがこのテーゼを学たらしめることである。したがって我々に残された仕事は、この意識の経験と共に歩み行くことによって、我々自身において精神の本質と言葉の本質とを把握することである。そしてこの言葉の本質の把握は、ここに前提されていたヘーゲルの精神理解を概念として明らかにすることである。

 



 
































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