ヘーゲルに学ぶ

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zoom RSS ハイデガー批判(2)

<<   作成日時 : 2017/04/03 13:58   >>

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 ジモンは、言葉において媒介される自体的なものと、言葉という直接性とを前提することが、ヘーゲルの場合には不可能であることを、意識の言葉性もしくは意識の言葉-構造から捉えることによって論じている。悟性の弁証法の結果は意識の真実が自己意識であることを示したのであるが、そのことが意味しているのは、対象の中で意識の個別性と普遍性とが同時に映し出されているのであって、真実には対象はこの意識構造の対象的表現である。したがって意識において、対象または意識内容と対象性および意識するもの一般の根拠とその区別とが生じるのではなく、意識の本質そのものが自らを対象として見出すことなのであるとする。この意識が自らを対象の形態で、つまり対他存在の形式において知るということが意識の言葉性だというのである。したがって意識がこの自己を対象として見出し、主観性と客観性とに分裂しておりながら、この直接性から自己相等性を回復することをヘーゲルは精神の自己内化と呼び、それが概念であると考えられているのだということになる。
 だからこの統一概念は客観的なものの統一でもあれば、主観的なものの統一でもある。そのような意味でこの統一は、両者、すなわち統一の両項のそれぞれにおける統一とは直接的に異なるのではあるが、しかしこの両項にとっての第三者ではないし、専ら主観的なものによって措定されたものでもない。だからハイデガーの言うような「意志形而上学」ではない。絶対者の意志はヘーゲルの場合、決して恣意としての一つの主観(体)の威力ではない。意志は我々のもとに居るか居ないかの選択権を持たない。むしろ意志は我々のもとに居ようとしており、また現に居るのでもある。現前(対象性)の根拠は、主観性に発する一つの運動として、主観性という根拠の中に求められているのではない。ヘーゲルが絶対者の意志という場合、この意志という語は、一般にこの語で理解されているのとは別の或ることを意味している。特に意志は主観(体)の主としての支配の表現ではない。絶対者の意志、絶対的意志は意志の止揚を意味している。
 先に概念は言葉であることが取り出されたが、ジモンはこの言葉の二つの契機を、対他存在(対象性)との形式としての音(声)と対自存在の形式としての意味として捉え、言葉はこの両契機の否定的統一(一者性)であると考えようとしているのである。そうすると直接性としての言葉という解釈に陥って、三つの自体の前提に立つことによる非弁証法的な言葉理解に帰らないでもよいことになる。言葉において精神の了解は生じてしまっている。その後で反省がこの了解の契機を対他存在と対自存在とに分解して固定し、この契機から全体を再構成しようとして空しい努力をしているのだということになる。
 この精神が言葉において常に既に了解してしまっていることを言い表すのが「精神の定在としての言葉」である。だから精神の定在は対象意識の対象として固定的に考えられるべきものではなく、否定的統一(一者性)としての概念として理解されるべきである。だから否定的評価に立って、言葉はヘーゲルにおいては道具にすぎないと言うことはできない。言葉は記号にすぎないことにおいて精神の定在なのである。記号またはインフォメーションの道具にすぎないのではない。精神の定在は音にすぎないわけではない。音は精神の外面性にすぎない。精神の定在は意味でもない。精神はこの反省の対立を超えている。精神の定在は語である。一つの音と一つの意味、この両者とも己の本質をこの両者の精神的結合の中に持つのだから、どちらも相手の本質ではないのであるが、この音と意味とが直接に結合されていることとしての語の本質の中で精神の本質が開示される。だからヘーゲルの自己開示はハイデガーの言う「存在忘却」ではなく存在了解を意味しているのである。
 そしてこのことからヘーゲルが『エンチュクロぺディー』で記号に与えた必然性も理解される。「記号はこの意味でヘーゲルの思弁的イデーを経験し得る現実と媒介し、そしてこのイデーを全ての現実的なものの中で経験させ、同一性を現象へと措定する純粋図式である。現実が記号性格を持つということによって、ヘーゲルの思弁哲学は経験の中にないものは何一つ知られない(ジモンの解釈はこのテーゼによって支えられている)と結びついている。イデーは現象する現実の記号性格と代置性格によって現実的である。つまり現実が経験の中に直接に与えられているということの中で現実的である。なぜならそうして初めて直接的な所与性という矛盾(直接性と媒介との矛盾という意味で)が解消されるのだからである」。だからヘーゲルのこの記号定義から言えば、記号は言葉の中にしかない。言葉がやっと初めて純粋図式としての記号の現実性である。そうして初めて精神は真の意味で経験され得る。「これは唯一の精神的経験である。この経験は己の本質の中に保持された存在の経験と一つになって生じる」。つまり声という対象的なものが消失して行くものとして聴き取られるそのことにおいて自らを語り出している意味としての存在の経験が生じているのである。「この二つのことは同じ一つの経験である」。「この意味で意識一般の本来の根拠としての、言葉を了解する(精神的)意識の経験において、絶対者の臨在が生起しているのである」。このジモンの解釈は、ハイデガーの存在論を前提した上で、この解釈に引きつけて考えられているために牽強付会が目立つのであるが、ヘーゲルにおける記号の意味と言葉の記号性格とに注目し、経験の意味と代置の捉え方などに見られるように、ヘーゲルにおける精神の定在としての言葉の問題に深く迫っていると言えよう。ただし、ジモンは絶対者をキリスト教の神であると前提し、これを人間存在の前提された構造と考えるために、言葉において精神の了解は生じてしまっており、精神の定在は語として音と意味とが直接的に結合されていることだと言い切り、そのために、現実を記号性格からのみ解釈する結果になっている。すでに明らかになったように、精神の定在は、音と意味との直接的結合という意味での語ではないし、現実は単に記号性格を持つにすぎないのでもない。このように捉えられた語は、確かに反省する悟性を超え出た思弁的なものではあるが、なお思弁的なものとしての確信の形式であって、表象にすぎない。現実は記号において現実的なのではない。これはヘーゲルがロマンティークを斥けたあの教条論、つまり直接的なものに立脚する信念にすぎない。対象意識に立つ反省の教条論の矛盾の必然的結果としてのこのロマンティーク的確信は、その限りでヘーゲルもその正当性を認めているのであるが、この断言が概念の形式を拒否しているところに問題があるのである。この信念を概念として掴むことが問題なのである。精神が概念としての自己であると言うとき、すでに定在という存在の形式が直接的なものとして受け取られることを許さないのである。だからジモンは、この語としての精神の定在を、ハイデガー的な存在了解に引き付けて解釈することによって、ヘーゲルの思惟が存在忘却ではないとするのであるが、これは強引にすぎる。確かにハイデガーが主張するような主観性に立つ存在忘却ではないが、しかし後期のハイデガーの「根源に近く住む」という立場(?)からすれば、ヘーゲルの概念の立場は根源から最も遠いとも言えよう。精神は反省の対立を超えているのはその通りであるが、同時に精神はこの反省の対立を己の定在の形式としているのである。このような意識の弁証法的な経験を他にして、意識の直接的な自己了解はない。信念を断言し、現実を記号として捉える主観(体)の自己肯定の主張が同時に読み込まれなければ、この経験は成り立たない。その限りで経験は直接的ではあり得ない。そのような意味での「現存在」 Dasein の存在的-存在論的優位は考えられていない。そう考えることは、ヘーゲルの場合には、ロマンティークの教条論に帰ることを意味している。だからハイデガーの存在忘却という西洋形而上学の伝統の頂点に立つヘーゲルという解釈を超え出ようとして、ジモンのように言うことは、逆にヘーゲルをあまりにも強引にねじ曲げる結果になっているのである。ジモンの問題はここに示された精神の定在としての言葉にあるよりも、そこに含まれている二つの中心概念、すなわち精神と言葉との解釈の強引さにあると言えよう。

   *  *  *  *

 「時間とは定在する概念、空しい直観として意識に表象される概念そのものである。それゆえ精神は必然的に時間の内に現れることになる。そこで精神は、自らの純粋概念を把握していない限り、すなわち時間を亡ぼしていない限り、時間の内に現れることになる。時間は自己によって把握されていない純粋な外的な直観された自己であり、直観されただけの概念である。この概念は、自己自身を把握するとき、その時間形式を止揚し、直観を概念把握する。そこでこの概念は概念把握され、また概念把握する直観である。それゆえ時間は、自らにおいて完結していない精神の宿命であり、必然性である」。問題となるのは時間である。時間を通じてこそすべては開始され、時間が原因でヘーゲル哲学と現代哲学の不一致が宣告されたのだから。この『精神の現象学』の有名な結論はいわば、ヘーゲル主義の死刑宣告に署名したのである。
 数多くの解釈者たちはこの分析から、ヘーゲルにとって時間とは通過するべき一つの契機にすぎないと結論づけた。だから時間それ自体が、絶対知による時間の弁証法的廃棄のプログラムを許すことが出来ないために、償いを必要としているようにみえる。こうした要求がその最も力強い表現を見出すのは、ハイデガーの思想においてである。ハイデガーは、精神が絶対知という契機において止揚する時間は通俗的時間、つまりその概念が形而上学の全歴史を支配し、今日これを完成させているような時間にすぎないとした。それは通俗的時間の敷衍的説明であり、固定観念の完成にすぎない、というわけである。「ヘーゲルの時間概念は通俗的時間了解の最も根底的な、今まであまりにも注目されずにきた概念的表明である」(『存在と時間』)。
 アリストテレスはこの通俗的時間了解を概念的に練り上げた最初の哲学者である。この了解は時間を「今」の系列として規定するのだが、この系列は始まりも終わりもなく移行し、こうして、その中で一連の出来事が展開するような画一的流れを構成するのである。「通俗的時間了解にとって、時間は恒常的に手前存在し、過ぎ去ると共に到来してくる今の系列として現れる。時間は多くの今の継続として、これら今の流れとして、時の歩みとして了解される」(同)。
 ハイデガーによれば、『エンチュクロぺディー』において時間に割り当てられた数節は、アリストテレスが『自然学』第4巻で展開した「点」という問題設定を逐語的に繰り返すばかりである。ヘーゲルは瞬間性を「点性」として概念規定することで、瞬間性に関する古典的思想を完遂したとされる。実際に、ヘーゲルは次のように明言している。「否定性は点として空間に関係する。否定性は、その規定性を空間の内で線や面として展開する。この否定性が、中心が自分の外にある状態(自己外存在)の圏域においても対自的に存在する。それが時間である。しかし同時に単独に、この規定を中心が自分の外にある状態(自己外存在)の圏域に措定しながら、しかも、その際、静かに相互に並存するものに対して無関係なものとして現象する。このように対自的に措定されたとき、その否定性が時間である」。点という空間的規定は瞬間という時間的規定を特徴づけるために用いられる。だが、時間を専ら相互共在の形式に還元してしまうこのような時間概念は、今日では、未来を欠いているかのようにみえる。
 ハイデガーにとって、通俗的時間了解は哲学的(彼はこれを形而上学的という名に還元する)伝統の統一性を構成する。この伝統は現前性としての存在の意味の規定、つまり、時間がもつ別の二つの次元(過去・未来)に比べて結局は現在に特権を付与する規定に従う。したがって、過去と未来は必然的に、過ぎ去った現在あるいは来るべき現在とみなされる。存在者が産出されるこの同質的環境(何も真に出来することが出来ない環境)としての時間という考え方は、ハイデガーによれば、ソクラテス以前の哲学者たちからフッサールに至るまでの哲学史を支配している。だが、ヘーゲルは、伝統的に現在に与えられてきた特権をその絶頂に至らせたという点で他の哲学者たちから区別される。時間概念の思弁的論述においては、未来はもはや任意の時間ではなく、自らを維持する力をも持たず、過去-現在の優位(つまりそれらの存在論的優位性)に譲歩するらしいのである。
 1930年の『精神の現象学』の講義でハイデガーは次のように語っている。「なるほどヘーゲルは既に存在したものについて語ることは時々あるのですが、未来については少しも語りません。この沈黙は、過去が時間の特筆すべき性格である、ということに符号しています。時間とは過ぎ去ることであり、過ぎ去りゆくものであり、常に過ぎ去ったものなのですから」。ヘーゲルにおいて、時間とは精神の過去、つまりそれを精神が通過し、永遠なる絶対的自己同一性へと結果的に到達しなければならないものなのだろう。翻って、この同一性はまさにそれ自体一つの過去である。ただし時間的に過ぎ去った過去ではなく、絶対者の現前ないしは臨在という非時間的な往古である。それゆえ、到来する一切のものは金輪際、すでに到来したものの前兆でしかあり得ず、いかなる未来も可能態における自己回帰でしかあり得ないということになるだろう。
 実際のところ、ヘーゲルにおいて、到来する一切のものは常にあまりにも遅れて到来するのではないだろうか。いかなる若さもその新しさにおいてさえ既に遅れているのではないだろうか。『エンチュクロぺディー 精神哲学』において「諸々の年齢の自然的経過」が分析される箇所で、ヘーゲルは、若者の特性が未来を信じることであり、世界が未だありのままの姿ではないと考えることであると明確に示している。「実体的普遍者が、その本質の方から見て、世界の中で既にその発展と実現を遂げているということは、若者の熱中しやすい精神によっては洞察されない」。また次のことを理解するためには、若者は年老いるのを待たねばならないだろう。つまり、世界は、「自らを実現する絶対的な威力を占有し、かつ以前から自らを成就していた。それは初めて自己の実現の発端を期待しなければならないほど非力ではない」。絶対者は期待しない。これまで一度も期待したこともなければ、これから期待することも決してない。予想もつかぬことを目指して努力することなどは青年時代の幻想にすぎない。ヘーゲル自身が、フランクフルトでの危機以前にはこうした幻想を抱いていたことを認めている。つまり、もう遅すぎるのだ。ヘーゲルからすれば、黄昏時の言葉を用いて、夜の帳が下りる頃、哲学は恐らく次のような真理を告知するしかないのだろう。すなわち、未来を語るにはもう遅すぎるのだ、と。
 こうした告知に耳を傾けるとき、人は存在論的に窮屈な状況に追い込まれていると感じずにいられるだろうか。体系の内に、あらゆる外部、あらゆる他性、あらゆる驚きを包括する一つの円環運動を見出さずにいられるだろうか。ヘーゲルは、精神は別の絶対者を持たず、絶対者の絶対的な他性は存在しない、つまり「精神にとって、絶対的に他なるものなどは全然現存しない」と述べている。このために、「精神のあらゆる働きはただ自己自身の把握である。そして、真実なあらゆる哲学の目的は、専ら、天地万物の中で自己自身を認識することである」。精神の責務は自己自身を把握すること、存在する一切のもの、生起する一切のものにおいて現在として自らを予期することにあるので、精神は全き他者と関係を持ち得ず、またこの意味で、出来事とも関係を持ち得ない。一切が精神によって既に浸透されており、この意味で、常に成就されているとすれば、ヘーゲル的思惟の中で、未来の問いに対して、一体どのような場所があるのだろうか。
 数多くの分析が現代哲学のテキストの中に散見されるが、それらは思弁的思考を停止し、凝固した、致死的な特徴を持つ。コジェーヴでさえ、ヘーゲル哲学の現代性を強調し、その未来を思考することにあれほど執着するにも拘わらず、絶対知を時間の終わりという用語で特徴づけている。だが、永続する現在という凝固した形式における時間の停止ではないとすれば、どのような時間が時間の終わりに呼応し得るというのだろうか。ハイデガーは次のように確言している。「ヘーゲルによる存在の本来的な概念の論述は・・・、時間への言及を伴っているものの、永遠なものである精神へ至る道程としての時間に別離を告げることに他ならない」。ヘーゲルによる時間との別離は、時間によるヘーゲルとの別離へと反転しなかったのだろうか。なるほど、思弁哲学における時間は現在的には時間一般ではなく、ハイデガーが根源的時間と名づけた時間の平板化であるのだろう。根源的時間は現在の現前を起点として把握されることができないからこそ、その卓越した脱自がまさしく未来なのである。根源的時間性は「第一義的には、未来から時間化する」とハイデガーは述べている。真の未来は時間の単なる一契機ではなく、ある意味において時間そのものと一つになるのである。
 ヘーゲルは『エンチュクロぺディー』第258節の注釈で「時間は純粋な自己意識である私=私と同一の原理である」と述べることで、「私は考える」と時間の同一性を想起しつつ、カントの分析の結果を反復している。時間は諸々の瞬間の連続へと還元されることのない統合的審級、すなわち予見=不測であるように見える。時間を「非感性的なる感性的なもの」と定義づけ、直観の純粋形式というカントの定義を反復しながら、ヘーゲルがこの時間了解を今の純粋な連続へと還元していないことは明白である。この点に関して、ジャック・デリダは、ヘーゲルがアリストテレスを敷衍しながら、カントを導入している事実について、ハイデガーは一言も言わないし、「このヘーゲルの概念(非感性的なる感性的なもの)をこれに対応するカントの概念と関係づけることもしない」と注釈している。
 <啓示>の時間とは、ヘーゲルによれば、カントの思想によって概念として完成した表現を与えられた特殊な時間である。ヘーゲルは超越論的構想力というカントの問題設定を考慮しながら、神の主体性を図式化する威力として特徴づける。フォイエルバッハはこのことを見誤らなかった。彼は『キリスト教の本質』の中で、「キリストとは感情と想像力の統一である」と主張し、つぎのように結論づけた。「可塑的な人格性であるのはただキリストだけである。人格性に形姿は属している。形姿は人格性の現実性である。ただキリストだけが人格的な神なのである」。
 超越論的構想力についてのヘーゲルの解釈はこの種の主張を可能にするものだが、しかし、この解釈は思弁哲学に顕著な困難さをもたらす。ヘーゲルは『信仰と知』において、超越論的構想力を直観的悟性、言い換えれば神の悟性と同一視しているが、それはカントと共にかつカントに抗してなされたものである。カントはこの同一化を可能にしつつも、これを拒絶している。同じ著作で、ヘーゲルはカントの発見がもたらすその遠大な思弁的射程を称賛している。「私たちは、真のア・プリオリ性の理念を・・・超越論的構想力の形式の内に捉えたということ、さらにまた、・・・悟性の内にすら理性の理念の端緒を捉えたということをカントの功績としなければならない」。カントは構想力を、実存する絶対的主体と絶対的に実存する世界との間に挿入される媒介項としてではなく、根源的なものとして考えたが、だからこそ、構想力とは真に思弁的な理念である。つまり、構想力とはそれ自身の内での主体-客体、ア・プリオリ=ア・ポステリオリといった対立物の総合なのである。
 問題となるのは、可能な経験の統一である悟性と、悟性とその諸判断に関係する理性が二つの相異なる審級であるようにみえるという点である。この場合、理性は経験とも、それゆえア・ポステリオリな認識とも構成的関係を持たないのである。カントはその原理を定めながらも、同時にア・ポステリオリでもある悟性のより純粋な理念、すなわち直観的悟性という絶対的媒介者の理念の前で後ずさりする。こうした悟性と私たちの悟性との本質的な区別を強調しながら、「カントは同時に、私たちは必然的にこうした理念へと駆り立てられるということ、そしてこの本源的かつ直観的な悟性の理念は根本においては全く、私たちが先に考察した超越論的構想力と同じ理念に他ならないことを認識している。なぜなら、この超越論的構想力は直観する活動であり、そして同時に、この構想力の内的統一は全く悟性の統一そのものであり、時空の延長の内に沈められているカテゴリーに他ならないからである。こうしたカテゴリーが悟性となり、カテゴリーとなるのは、ただこれが延長から離れる限りのことにすぎないのである。こうして、超越論的構想力はそれ自身、直観的悟性である」。
 神を超越論的構想力として考えることは、結局、神を時間化する審級として考えることである。ヘーゲルは、超越論的構想力が、主体とそれが遭遇する感性的存在者との関係をア・プリオリに可能にする体系の根源的な威力であるという規定を一度も問いに付したことはない。むしろ彼はこの種の発見の思弁的重要性および価値を十分に強調するのだ。
 カントの有名な定義にしたがえば、「ある物をその不在において表象すること」を可能にする構想力は、存在と非存在の特定の関係を含んでいる。構想された存在者は現前するものでも不在のものでもない。超越論的構想力とは現前のあらゆる規定を司どる、存在と非存在とがともに内包された状態を想定するものだが、それは対立物の根源的統一という特に近代的な様態である。想像された存在者という概念は可塑性の近代的契機に、これと関連した相対的な無というカテゴリーを付与するのである。
 超越論的構想力とは、時間の秩序という、および時間の秩序についての純粋なパースペクティヴを開示することを可能とするア・プリオリな審級である。したがって、神と超越論的構想力の同一性を考えながら、ヘーゲルは神の中に欠如ではなく、時間を刻み付けたのである。神の主体性を予見=不測と同一視することは、神の未来の拠り所に他ならないのである。
 前述の分析を通じて引き出された結論によって、神の可塑性にその実際的な意味が付与された。それは可塑性概念の三重の分節化、つまり、自己規定の過程、精神的なものの感覚的発現すなわち直観的表示、意識が思弁的内容に対してもつ関係の形式という分節化に即したものである。近代の契機において、主体は自己とは他なるものとして、自らの到来を予見しつつこれに驚くのだが、この対面状態は疎外化の形式を取る。また、精神的なものの感覚的発現の近代的様式は受肉である。そして、意識が思弁的内容に対してもつ関係は表象の形態を装う。可塑性の近代的契機はその推移を汲み尽くしてしまっている。思考はそれ自身の供犠の最後へと達し、そうして神の無化にその究極的な意義を与えた。この契機においてこそ、思弁的内容は、その全き厳粛さにおいて、その形態の最も明朗な自由へと復活することができるのである。この契機を『エンチュクロぺディー』は次のように規定している。「純粋で無限な形式、すなわち自己自身の許にある自己顕現は、ただ主観的な一面性を脱却することによってのみ、自由な思惟である。この思惟は自分の無限な規定を同時に絶対的な内容として持っている」。こうした自由な思惟の到来は絶対知の到来であり、それ自体が啓示された宗教から哲学への移行である。『エンチュクロぺディー』のこの最後の時間は『精神の現象学』の絶対知の章、『大論理学』の絶対的理念の章に対応する。
 さて、この結論部分の共通性を問い質さねばならない。絶対知はあらゆる出来事の終わり=目的をしるしづけるのだろうか。絶対知はあらゆる時間性の還元および精神の臨在の到来として解釈されねばならないのだろうか。これらの設問は私たちの分析の決定的な地点へと私たちを引き寄せる。それは、『精神の現象学』の絶対知の章にある有名な件の解釈である。「精神は、自らの純粋概念を把握していない限り、すなわち時間を亡ぼしていない限り、必然的に時間の内に現れる。時間は自己によって把握されていない純粋な外的な直観された自己であり、直観されただけの概念である。この概念は、自己自身を把握するとき、その時間形式を止揚し、直観を概念把握する。そこでこの概念は概念把握され、また概念把握する直観である。それゆえ時間は自らにおいて完結していない精神の宿命であり、必然性である」。
 これまでの論述の歩みを踏まえると、私たちは、この件に対する今や古典的なハイデガーの解釈を手放しに支持することはできない。ハイデガーの解釈によれば、時間の止揚によって、自己はその臨在において自らを把握するのであり、この把握は、あらゆる時間性に暇を与えること、精神の無差異な現在が到来することを意味する。主体性という近代的概念を論究することによって、逆に、この場合は、止揚が時間一般のそれではなく、ある特定の時間のそれであることが確認できる。それは自己の前にある時間として先程特徴づけられた時間である。意識においては全体は契機に先立っているが、この全体はまだ概念把握されていない。時間とは定在する概念、空しい直観として意識に表象される概念そのものであるという主張は、ギリシアの文脈においては意味をなさないだろう。この主張は、理解されるにあたって、直観の純粋形式としての時間規定、精神が自己剥奪としての空虚さおよび疎外化に対してもつある関係の措定を仮定しているのだ。つまり、この関係はその可能性において、キリスト教の出現に結びついているのである。
 絶対知の章において、ヘーゲルが論じる時間が疎外化の時間であること、しかも、この時間は疎外化そのものであることは明らかである。ここで分析される時間形式は特定の時代における精神的なものの感覚的発現の形式である。概念が自らに定在を与え、この定在が感覚的直観、つまり瞬間的に現象する現前の対象となるような形式である。それゆえ、ヘーゲルは絶対知の章において時間一般ではなく、主体が、自分が過ぎ去っていくのが一瞬見えるところの線状的時間を視野に入れているのである。さらに、疎外化はまさしくこの線状的時間それ自体として現れる。「精神の諸形態というこの継起の目標は深淵を啓くことであり、この深淵は絶対概念である。したがって、この啓示はこの深淵を止揚すること、つまりそれに延長を与えることであり、この自己の内にある自我の否定性であるが、この否定性はこの概念の疎外化および実体である。そこで、啓示は疎外化が自分自身において自らを疎外化し、この延長にいながら、また同時にその深淵にあり、自己に止まるような、その概念の時間である」。ここで、時間は線状的継起として検討されているが、これはさらに次のような件が確証することでもある。「こうして定在の中で形成される精神の国は相次いで起こって来るが、そこではある精神が別の精神にとって代わり、各々はこれまでの精神の世界を引き継いだのである」。「いくつもの絵がある画廊」の時間は、論理的に連続すること=何かが到来することではなく、連関として理解された連続の時間である。
 ハイデガーが『存在と時間』の結尾で提起するヘーゲル読解は、それが無視出来ないものであるがゆえに、ある本質的な論点において私たちを当惑させる。ヘーゲルこそが西洋形而上学の運命を司る通俗的時間概念を完成へと導くということを主張するために、ハイデガーは自分が告発する当のものを自ら実践してしまったのではないだろうか。ハイデガーは、弁証法的時間が平板化された時間であるということを証示するために、弁証法の時間を自分で平板化してしまったのではないだろうか。ヘーゲルの時間概念に関して、ハイデガーはこう書いている。「精神と時間は、形式的に存在論的および形式的に命題論的なもっとも空虚な抽象態へと疎外されるが、この抽象態は精神と時間の類縁性の形成を可能にする。しかし、その半面で、時間は全く平板化された世界時間という意味で把握され、こうしてその由来が全く覆い隠されてしまっているので、時間は精神にとって、ある客体的存在者として単に向かい立っているということになる。精神がことさら<時間の中へ>落ち入らなくてはならないと言われるのはこのためである。ましてこの<落ちる>という言葉や、時間を支配し、それゆえ本来ならば時間の外で<存在して>いるはずの精神が<実現される>という言葉が、存在論的にどういう意味を持っているのかは、なおさら不明である」。
 この読解が提起する問題は、疎外化の概念そのものが時間的に説明されていないということである。この概念は非時間的なカテゴリーとして機能しているが、しかしながら、ヘーゲルが疎外化概念に訴えたのは、ひとえに、主体性の近代的契機に固有な過程を特徴づけるためだった。ヘーゲルには「世界内時間」という思想など存在せず、反対に、彼の哲学の中には、とりわけキリスト教的である<世界という時間>という思想が存在するのだ。それゆえ、ヘーゲルの疎外化の由来も、その明確な存在論的意義も問わなかったという点で、私たちはハイデガーを非難することが出来るのである。

 必然性と偶然性の弁証法的同一性から、どのような結論を導き出すことが出来るのであろうか。必然性と偶然性が互いの内で、他方から解放されるプロセスは、意味が発生するプロセスに他ならない。意味は決して根源的なものではなく、その受動性が現れた時点から常に作り出され、生み出されている。「それがそうであるからこそ、それはそうである」というような意味の必然性、意味としての必然性は、それと同時に、意味の絶対的な受動性、その偶然性をも生じさせる。また逆に、こうした偶然性は意味を、絶対的かつ必然的に課せられる介入する威力、すなわち純粋な出来事として規定するのである。
 広く知られた見解とは裏腹に、ヘーゲルは偶然性を否定するわけでも、何かが生起し得ることを否定するわけでもない。そうではなくて、彼が主張するのは、生起するものを前にして、必然性と偶然性の間の到来順序を規定することは空しいということ、生起する何かに先立つ根拠から生起するものを考えること、あるいは、偶有性自体から根拠を考えることは無益だということだ。必然性と偶然性は互に連関し合い、その結果、精神は両者の間での分割から自らを自由にし、「精神は別様にあり得たかもしれない」および「精神は別様にはあり得なかった」という二重の断定を放棄する。偶有性に対して本質、あるいは本質に対して偶有性というように存在論的優先性を規定しようとしても、両者が互いに内包し合っている状態こそが根源的である以上、それは詮無いことなのである。
 ヘーゲル主義の根幹をなすこうした真理は、体系の只中で、その論理的かつ歴史的な最深部にまで響き渡っていて、後に現代の哲学、とりわけハイデガーのそれがその探求の中心に据えることになるような、伝統という概念を把握することを早くも可能としている。ヘーゲルが、哲学が哲学に固有な歴史の外部では何ものでもないこと、哲学の真理がその生成運動と一つになっていることを証明しようと常に配慮している。そうしながら彼は、思想の伝統は、偶有性(換言すれば、ギリシアにおける哲学の誕生のように、その時間と場所における生起)が本質となった(運命と化した)方法と、本質的な運命がその諸々の偶有性、すなわちその時代や契機の中で現実化する方法とを同時に指し示すことを明らかにする。これらの方法のどちらが優先されるのかということは知の対象ではなく、むしろこれこそが絶対知が知ることなのである。ヘーゲル哲学は必然的なものの只中で不確実なものが生起すること、不確実なものが必然的に生起することを絶対的に容認するのである。
 精神はその時間形式を弁証法的に止揚する事によって、現実に生起した根源や目的地とは全く別の根源、全く別の目的地の可能性を問う傾向を廃棄する。絶対知の契機において止揚された時間(意識が自分の前に置く時間、精神の進展に自由で偶然的な出来事の外観を与えるあの空虚な時間)は、それは別様にあり得たかもしれないと考える時間を私たちに常に残す。ヘーゲルからすれば、疎外化(それは原理的に、必然性が失われたという感情に常に強く結びつくものだが)の可能性はまさしくここにあるのである。
 思弁的なものはどこに由来するのかという問いはどうしても統御し得ないものである。何しろ、精神は自分自身から離れているのだから。一世紀以上後にハイデガーは、形而上学において存在忘却として展開されてきた仕方とは全く別の存在の仕方の可能性を問うことは出来ないし、それは無駄だと主張するが、まさにこうした主張のために、歴史と伝統の本質に関するヘーゲルの全ての仕事が必要とされているのだろう。
 この全く別のものについての問い、実際に全く別の根源であり続けてきた問いが引き起こす眩暈とは、思考が避けることの出来ない誘惑にも似た働きかけ、すなわち、現実的な外部に由来するのではなく、同じものから現れ出る誘惑にも似た働きかけに他ならない。「それがそうであるからこそ、それはそうである」(必然性による形式的で直接的な同語反復)と「それは全く別様にあり得たかもしれない」(偶然性による他律の論理)は、ヘーゲルの哲学において互いの根源的な共犯性、すなわち自発的に=自分自身から到来するものの二重の意味の中で示される共犯性を明らかにするのである。
 偶有性の本質的生成と本質の偶有的生成が相互に内包し合った状態からすべては始まる。この状態に先立つものは何もない。すなわち、弁証法こそが根源的であり、根源そのものなのである。弁証法概念の規定が、ギリシアに登場した時以来、まさにこうした矛盾の名残を止めてきたことは驚くべきことだ。弁証法という言葉の意味がその矛盾した意味を明らかにするのに、ほとんど時間を(一世代ほどの時間しか)必要としなかった。この概念の発明者であるプラトンンにおいて、弁証法とはイデアを認識する方法を指し示す。この意味において、弁証法は本質的な語り方である。だが、アリストテレスと共に、弁証法は、真実らしく見える命題から諸々の推論を引き出すための方法になる。こうして、数々の偶然的な真実を叙述するのに相応しい弁証法は偶有的なものを語る方法と化すのである。
 『大論理学』において、ヘーゲルは変化に富んだ弁証法の歴史を想起している。弁証法は最も高尚な語り方というプラトンの規定から時代を経るにつれて、ソフィストの詭弁法とさえもはや見分けがつかないような純粋に偶然的な語り方を意味するようになった。「弁証法は普通に何か偶然的なものであるかのように見られるが、それだけではなく、次のような詳細な形式をもつとされる。すなわち、任意の対象、例えば世界、点等々について全く正反対の二つの規定が言われる。つまり、その対象に対してある一つの規定が属すると言われる。例えば、これらの対象の秩序の面からして、空間上あるいは時間上の有限性が言われ、一定の場所に存在すること、空間の絶対的否定が挙げられる。ところが次にはまた、それと同じ必然性をもって、その反対の規定が挙げられる。こうした弁証法から引き出される結論は概して、そこで述べられている各主張の矛盾と空しさである」。
 弁証法はその歴史の中で、本質的な語り方(カントと共に、弁証法は理性に必要なものとして再び承認される)と偶然的な語り方の間で絶えず振動してきた。ヘーゲルからすれば、その高邁な思弁的内容の証しはまさにここにある。弁証法を構成する基本的な緊張状態とは思惟の生き生きした拍動なのである。根源の弁証法は弁証法概念の根源そのものの中に刻み込まれているのである。

      *    *    *

 ハイデガーのいうザイン Sein とは何か。ザインの本性については、ハイデガー自身は実に色々の言い方で述べている。色々の面からザインが何であるかについて飽くことなく説いている。だから著書は次々と出る。しかしあまりに説明を加えるために却ってザインの本質が何であるかが分かり難いものになっていることも否定できない。ハイデガーの才気は、却って折角の哲学の核心をぼかしてしまう。人々の解釈もまたこのハイデガーの説明の多様に従ってまちまちである。しかしどの解釈もハイデガーの術語の魔術に幻惑されて、何よりもその言語学的な奇智に引きずり廻されてその本質を明解に説明してくれないように見える。
 この場合まず大切なことは、やはりハイデガー自身の重視する存在論的差別ということであろう。言うまでもなく存在論的差別とは、存在 Sein と存在者(存在するもの) Seiendes との区別である。彼によれば従来の哲学はギリシア以来、ザインを問うこと(存在論)を問題にしながら、実は存在者を問題にしてきた。そこから哲学は形而上学となった。したがってザインそのものを捉えることによる形而上学の克服が自分の哲学の第一の課題だということを彼は言っている。つまり哲学の根本のものとして、ザイエンデスでなくザインをザインとして捉えることによって真の哲学を捉え、それによって形而上学を克服しようというのが、彼の根本の狙いである(伝統的な形而上学としての哲学を否定することは、同時にいわゆる哲学の自己解体をも意味する。それは哲学の終息だとも言うことが出来る。形而上学こそ哲学の別名だったからである)。またその形而上学に基づくところから生じた近代のニヒリズムの克服が彼の中心の問題である。
 それではあらためてザインとは何であるか。一言で言えばザインとは主語と述語、主観と客観との対立、分裂のない根元的な統一の状態または態度だと言ってよいだろう。ザインとは「在るもの」、存在者ではなくて、「在り方」である(ヤスパースが緊張というのも、こういう根元的な在り方であろう。またヤスパースのそれはキリスト教に基づく主客統一の状態であるが、ハイデガーの場合はキリスト教を離れて見られている。ハイデガーによればキリスト教は神を根本に立てるものとして、むしろザイエンデスに基づくものであるという)。それもこういう対立以前の根元的統一としての在り方である。ハイデガーのザインを全ての存在の、また全ての歴史的生起の発現の源であるところの根元的な力だというように規定することもできる。それは一つの見解である。しかしその根元的な力そのものが如何なる性格のものであるかは更に問題である。その根元的な力なるものがザイエンデスでないことは言うまでもない。だからザインを根元的な力と規定するにしても、それがむしろ根元的統一態としてのそれであることが言われ得るであろう。このザインが根元的統一態だということは、ハイデガーの著書『同一性と差異』(1957)などを見るとき全く明らかである。そこでは同一性が自同性であり、自分自身との同一性であることが強調されている。思惟と存在とが相依相属または同族性であることが力説されている。あるいは差異が根元的同一性そのものの差別相であることが繰り返し説かれているのである(ハイデガーのこの同一性と差異との関係についての考えは、ヘーゲル大論理学、中巻の同一性論から大きな示唆を受けていることが分かる。しかしハイデガーから言えばヘーゲルこそ同一性の本質をつかみ、差異<区別>が同一性そのものの他者であることを初めて明確に説いた人であるにも拘わらずまだ不十分である)。
 これに対してザイエンデスとは一般に「存在するもの」、存在者である。形而上学がその原理とする存在とは、ギリシア以来オン on であったが、そのオンは究極的な原理として精神とか、自然であり、また神として捉えられた。しかしそこから必然的に対立観が生じた。近代的対立観、それに基づく近代的世界の矛盾、更に近代的ニヒリズムは全てこのザイエンデスに基づく形而上学に源を持つと彼は見るのである。
 ハイデガーは『形而上学とは何か』の緒言の最初で、デカルトがその『哲学原理』のフランス語への訳者であるピコに宛てた手紙を挙げて言っている。デカルトは哲学が木に譬えられると言い、根は形而上学に当たり、幹は自然学に、枝は他の諸科学に当たるという。これに対してハイデガー自身は、自分のザインの学としての存在論が、その根(形而上学)のもう一つ底の土壌の学であり、その意味で基礎的存在論だという意味のことを言っている。したがってその基礎的存在論は形而上学の根底の学であると言っている。
 基礎的存在論はハイデガーが『存在と時間』の第一部以来その哲学が第一義的に狙っているものとして主張しているところである。それも人間の現実存在である現存在 Dasein を通して捉えられるザインの学であることを特に強調している。ところで従来の存在論がザインでなくザイエンデスに基づくものとなった理由はどこにあったのか。ハイデガーによればそれは結局ギリシア的主知主義に由来する。またギリシア的主知主義の展開としてのキリスト教神学に基づく。ハイデガーによれば、subjectum (基体を意味する)はギリシア語の hypokeimenon のラテン語訳であり、sub(下に)+ jectum(投げおかれたもの)である。しかしこの基体がやがて主体としての subjectum の意味に転じられて来る。デカルトのコギト以来の近世はその傾向の展開である。けれども基体が主体または主観となることは自ずから両者の対立を含んでいる。近世的主体が主体の中に客体を包含するものであるにしても根本的には主体と客体との対立を伴っている。ハイデガーはこのように主体または主観が世界の中心となり、それが基体となると共に世界の原型が失われ、世界が像となったところの世界像の時代になり、世界の夜の時代になったことを言っている。
 また周知のようにハイデガーはものを主知的に、単に合理的に捉える思惟のことを表象的思惟または表象と呼ぶ。ギリシア的主知主義の知性、思惟、並びにそれに基づく合理的思惟のことを一般に表象の立場と呼んでいると見てよい。ギリシア的知性は言うまでもなく、主語を捉えるためにはロゴスまたは理性としての述語に拠らねばならない。すなわち主語と述語との対立を通してしなければならない。つまり理性は対立を本性とするものである。ところでこのギリシアの根本性格をなした表象的思惟はキリスト教神学においても受け継がれている。殊に信仰を哲学によって解明し、信仰と理性との一致を問題にしたカトリック、特にスコラ神学の中にはそれが顕著に見られる。のみならず近世はこの合理性の極度の展開である。ハイデガーはその代表的なものとして第一にデカルトのコギトの哲学を挙げる。次に近世末期におけるその代表者としてヘーゲルが挙げられる。最後にその方向の究極としてニーチェの力への意志の哲学が指摘される。意志を哲学の中心とする限り、そこには主体的な意志と意志されるものとの対立があり、その限りそれもやはり表象的思惟の線上にあるものだと見られるからである。『森の道』の中でデカルト、ヘーゲル、ニーチェが近世哲学の三つの代表的哲学として取り上げられていることは知られている通りである。
 ザイエンデスが如何に存在の存在として根本的なものであっても、それが基体として存在者である限りそこにはどうしても対立があり分裂がある。こういう基体による存在論の始まりをなした者はプラトンであるが、それを根本的に学として打ち立てた者はアリストテレスであった。それゆえに形而上学はアリストテレスに始まる。そしてその終局をなすものはハイデガーによればニーチェの力への意志の哲学である。この意味でプラトンからニーチェに到る形而上学の克服が彼のザインの哲学の合言葉となる。
 ところでキルケゴールも近世的分裂観の只中にあってキリスト教信仰に基づいて根元的統一態を捉えようとしたハイデガーの先駆者である。彼は近代の人間主義的なキリスト教の中にある近代的分裂観を鋭くえぐる。ハイデガーにおける実存という言葉そのものがキルケゴールに由来するという。またニーチェも原始ギリシアの自然に定位することによって近代的分裂観を克服しようとしたハイデガーの先駆者である。ニーチェの根本にキリスト教が否定されているだけに、ニーチェはキルケゴールよりもハイデガーに深く影響を与えているということが出来る。
 「キリスト教はプラトニズムの大衆版だ」として対立観の典型とするハイデガーは、キリスト教とキリスト者的なものとを区別する。キリスト者の中にはギリシア的合理主義と全く別のものがあることを認めている。しかしこういう根元的統一観を捉え得たものとしては、二人の他に、例えばアウグスティヌスを挙げることが許されよう。ハイデガー自身には、アウグスティヌスを自分の先駆者としている文句は見当たらない。キリスト教を避けるハイデガーとしては当然であるかもしれないが、別に彼が論じているところから見ても、このことは言い得るように思われる。アウグスティヌスの深い原罪観に基づく恩寵の信仰の中には、後のギリシア的なカトリック的キリスト教と異なるものがあるのではないか。グノーシスこそ、ギリシア的知性とキリスト教的信仰との二元論として、理性と信仰との分裂、その対立観の典型的なものと言ってよいが、その傾向はグノーシスを斥けたカトリックの中にも、殊にスコラ神学に内在しているのではないか。元々キリスト教の信仰は単にカトリーク Katholik すなわち普遍的なものではない。それ自身は元来、主体的なものであり、徹底的に個人的なものであるはずである。そして、そういう主体的なものとして、ただ消極的にのみ普遍的である。ところが、これを積極的にキリスト教の信仰がカトリークであり、普遍的だと言うときには、そこに自ずから理性の介入があり、ギリシア的知性が入ってきているはずである。したがってそれはキリスト教の信仰そのものを対立観において把握することへの道を拓いている。ルターに始まるプロテスタンティズムは、スコラ・カトリックの対立観、分裂観を斥けて、キリスト教的主体性の統一態を回復しようとしたものと言ってよい。けれども、その後のプロテスタンティズムは近世思想一般の性格を帯び、対立観に陥る。そこにキルケゴールが現れなければならず、ニーチェのキリスト教そのものへの対立も生じるのである。
 このような根元的統一態としてのザインを中心の問題とした点では、ハイデガーは『存在と時間』の第一部以来変わらない。人間の現存在を元にして、このようなザインを捉えることを問題とする基礎的存在論であった点では、ハイデガー哲学は前期も後期も同じであると言わねばならない。言うまでもなく『存在と時間』は時間から存在を見るものであり、存在を時間に還元するものである。しかしそのことは時間の中で根元的統一態としてのザインを捉えることである。それはやはりザインの哲学である。後期の開存の哲学は、時間を存在に還元する者であり、ザインがそのまま問題である。それゆえにこのザインを中心のものとする点ではハイデガーは終始一貫している。






































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