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zoom RSS 実存主義の歴史(4)

<<   作成日時 : 2017/04/19 16:01   >>

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 18世紀末から19世紀前半にかけてのドイツとデンマークにおける思想的風土として考えられるものに、ロマン主義とフィヒテ哲学がある。そして、シェリングが自己の哲学的遍歴の開始に当ってそこから学んだものは自然であり、キルケゴールがそこから学び得てマギステル論文で取り上げたものはイロニーであった。
 前述したように、シェリングの自然哲学はロマン主義の中に育まれていた生きた自然への憧憬を体系化し、フィヒテの主観主義における非我としての自然を有機的活動体に置き換えることによって、自然の中に精神を見出したのである。
 他方キルケゴールのイロニー研究は、直接にはソクラテス研究ではあるが、その狙いはロマン派的イロニーとの関係から、あるいはロマン派批判を通じて、自らのソクラテス解釈を、またひいては自己のイロニー理解を確証する試みであった。しかもキルケゴールはロマン派的イロニーの源をフィヒテに求め、まずフィヒテ哲学の批判を行うことからイロニー研究を進めている。フィヒテにおいては、自我と非我との抗立の中で非我を無限に克服していく自我の傾向と努力とが、その事行の無限性のゆえに直ちに絶対的主観(理念)とすり替えられてしまった。ここには確かに主観の内部での現象と本質との分裂という、イロニーの構造が見られる。しかしその相互否定的対立が理念へと解消されてしまうときに、イロニーの絶対否定性という機能は腰砕けに終わってしまうのである。イロニーは理念への無限の憧憬に止まるべきであり、理念を可能性の象面に置き続けて、その欠如に耐え、あるいはそれを享受するものでなければならない。したがって実存を直視する者にとっては、「自己の個人的実存においてイロニーを支配する主人となること」が肝要である。換言すれば、イロニーの否定の機能を利用して理念的可能性の非存在を顕わにし、それから区別された現実性の象面を確保するということにならなければならない。
 シェリングによって採用された自然とキルケゴールによって採用されたイロニーとは、芸術の究極的意義に関するロマン主義的解釈の二つの根であったといえよう。自然がロマン派的芸術活動の憧憬の定着すべき棲息の地であったとすれば、イロニーはロマン派の創作活動における憧憬の非定着な相を示すものであった。自然の生命は芸術の美の中に憧憬のシンボルとして充実されるが、イロニーは客観的象徴へ向かう憧憬が絶えず虚空に打ち当たり再び自我のもとへと帰ってしまう主観的意識である。ロマン派の流れが客観的ロマン派(シェリンギア二スムス)と主観的ロマン派(シュレーゲリア二スムス)との二つに分けられるとするなら、シェリングはゾルガーらを導く前者の指導者であり、キルケゴールは後者の潮流に掉さすものといえよう。
 しかしシェリングもキルケゴールも共に実存の宗教哲学を展開することによってロマン主義を超えていく。シェリングの『哲学と宗教』および『人間的自由の本質』で注目されることとなった超越神から質的に隔たって実存する有限者とは、霊と肉との対立的緊張関係たる精神である。そしてこの実存する精神の構造はそのままキルケゴールの『不安の概念』や『死に至る病』(1849年)に受継がれている。だがここで注意しなければならないことは、シェリングの場合には実存の根底にあくまでも自然を置いて、霊と肉との対立を、実存する神と実存の根底たる自然との無底の分立に基礎づけているが、キルケゴールは霊的直接者と肉的直接者とをいずれも美的実存範疇に組み入れ、それらを人間のイロニー的な頽落様式として基礎づけている、という点である。すなわちシェリングとキルケゴールとは相揃って実存主義を宣言する除幕者となったが、二人がロマン主義とフィヒテ批判との中で自己の思索の闘いを始めるに際して最初の関心事となった自然とイロニーとの差が、シェリングとキルケゴールとのそれぞれの実存思想の微妙な違いとなって現れて来るのである。
 シェリングは第一哲学(消極哲学)を普遍学と名づけ第二哲学(積極哲学)を個別学と呼んで両者を区別し、キルケゴールも内在を本質とする第一哲学と超越を本質とする第二哲学とを区別している。しかしその際にキルケゴールは、シェリングの積極哲学とはいかなるものかを理解するのは困難だと言う。このことが重要である。積極哲学は言うまでもなく神話と啓示の両哲学からなっている。つまり、厖大にして難解な神話の哲学を提出せざるを得なかったシェリングの態度に、キルケゴールは当惑を覚えるのである。彼がシェリングのベルリン講義を聴いて失意を濃くしていったのも、神話論の部分に対してであった。
 それではシェリングの関心が神話へ向かったのはなぜであろうか。それは先に述べた自然への関心のゆえである。「神話とはより高いポテンツにおいて受け取り直された自然の歴史である」。消極哲学の中で語られ、しかも実存開示の前に単なる可能性へ流れざるを得なかった理性的真理解明の過程が、超越的な実存の学(啓示の哲学)の提示に際して、いま一度自然の中に投入されなければならなかったのである。精神の実現のために自然は自己超越の必然的展相を踏まなければならなかった。それが神話の哲学である。そしてこの自然必然的な宗教意識高揚のプロセスは、最高のポテンツを旧約の預言と律法に見出す。人類の諸々の神話は旧約の一神教に集約される過程をとって、初めて新約的啓示宗教への準備を完了するのである。
 ところでキルケゴールがこのような神話論に難色を示したからといって、彼にはこのような反省がなかったとは言えない。神話の哲学に応ずるものをキルケゴールに求めれば、宗教性Aの立場と言われるものがそれに当る。宗教性Aとは宗教における一般化である。ここでは神が人となったキリスト教的啓示の出来事も直接的に受け取られて一般化され、童話的に神話化される。「万有にして全能なる者が、その生誕に当って馬槽に臥させられ、産着を当てがわれているというユーモラスな出来事」として表象される。この幼児向けの神話の本質はフモール(ユーモア)である。キルケゴールにおけるフモールとは、宗教意識に持ち込まれたイロニーである。イロニーとは存在と理念の関係を絶えず分裂させつつ、その齟齬を悲劇として享楽することであった。これに対してフモールは、神と人との断層を理解しながらも、これを宗教一般における負い目の意識に還元し、イエスにおける神=人の一致を必然性のプロセスの内部で捉える。そのような啓示の直接的な観察は神=人の矛盾を喜劇としてしか捉えられない。
 そこで最後の超越が問題になる。それはシェリングでは啓示の哲学が、キルケゴールでは宗教性Bが扱う問題である。超越とは存在の生成であるが、この二人にとってそれは共に言葉の受肉と人間における単独者性を要求する事柄である。ところで神話の最高の勢位を旧約であると考えるシェリングでは、この生成は律法から福音への移行、旧約(自然)から新約(精神)への運動である。したがってこのような飛躍的移行によって生成する現実存在は、自然的存在に対する精神、旧約に対する新約として、肯定的に語られ、定着したものとならざるを得ない。ところがキルケゴールにおける実存の定立は、フモールの自己否定的な機能に着目して神話そのものを非神話化することによってのみ果たされる。それはフモール的躓きの否定性の中で、神=人を逆説に反転し、間接伝達としてのその内容を了解する否定的パトスの業なのである。したがってここでの現実存在は、絶えず語りかけられるフモール的神話を、瞬間の中へとその都度ごとに尖鋭化して受け取り直し、解釈し直すという、否定的非定着的な現実性なのである。
 生成は肯定的新生と否定的情熱を結果する。シェリングの生成は絶対的プリウスから新たに喚起される現実性の全系列への飛躍的新生である。しかしキルケゴールの生成においては、現実性をそのつど引き受けようとする真剣さに基づいた飛躍的情熱が優勢である。自然というものが主体的実存に対する経験的客体として常に定着した在り方を示すように、シェリングにおける実存は存在の定着した在り方(定相)を開示する。だがキルケゴールにおいては、イロニーが絶えずあるものへの凝滞を回避することによって体験的主体に在り方を示し得るという意味で、実存もまた存在の定着しない在り方(非定相)を示すことになる。このことは神話についての二人の理解の差によっても裏付けられよう。

 <ニーチェ>
 「・・・ドイツ人どもは認識の歴史の中に曖昧な名前ばかりを刻み込んで来た。彼らはいつも無意識的な贋金造りばかりを生んで来た(この言い方はフィヒテ、シェリング、ショーペンハウアー、ヘーゲル、シュライエルマッハーに、そしてもちろんカントとライプニッツにも当てはまる。どれもこれも要するに面紗作り師にすぎないのだ)。精神の歴史における最初のまっとうな精神、4千年にわたる贋金造りを真理の名において裁いてしまうような精神、そんな精神がドイツ精神と一体となったなどという名誉を決してドイツ人に担わせてはならない。ドイツ精神とは私には悪い空気だ。心理学的な事柄におけるこの本能化した不潔の傍らにいると私は息苦しくなる。およそドイツ人である限りのドイツ人の一言半句、一挙手一投足にこの不潔が滲み出ている。ドイツ人はおよそフランス人が持ったような厳しい自己吟味の17世紀といったものを一度も経験しなかった。ラロシュフーコーとかデカルトなどという人はまっとうであるという点では第一級のドイツ人どもより百倍も優れている。なにしろドイツ人ときたら今日に至るまでひとりの心理学者も持たなかったのだ。ところが心理学というものはほとんど一種族の純、不純を量る尺度のようなものである・・・さて純粋でさえないものが、どうして深さなど持っていようか?ドイツ人と付き合うのは、ちょうど女と付き合うのと同じで、決して底までは届かない。何のことはない。ドイツ人は底を持っていないのだ。しかしだからと言ってドイツ人が平板だと言うわけでもない。ドイツで不快と言われているものは、まさに今述べているこの自己に対する本能の不潔に他ならない。つまり、自己に関してはっきりさせることを欲しないのだ。私はドイツ的という一語をこのような心理学的腐敗を示す国際通貨にしようと提案しても構わないように思うのだが?たとえば現在ドイツの皇帝はアフリカの奴隷を解放することを彼のキリスト教的義務だと称しているが、これとて、我々他のヨーロッパ人に言わせれば、そんなことは要するにドイツ的であるにすぎないのだ…ドイツ人たるもの一冊だって深さのある本をものにした例があるか?そもそも本が深いとはどんなことなのかさえ、ドイツ人には分からないのだ。私はカントを深いと思っている多くの学者と知り合いになった。ひょっとしたら、プロイセンの宮廷ではフォン・トゥライチュケ氏が深いと思われているのではなかろうか?そして、たまたま私がスタンダールを深い心理学者だと褒めると、ドイツの大学教授たちにスタンダールという名前の綴りを一字一字言ってみてくれと頼まれるような始末だ・・・」。
 この文に限らず、ニーチェは至る所で心理学という言葉を使っている。自らたぐいなく優れた心理学者、未来の心理学者たるを自認している。キリスト教の心理学、良心の心理学、哲学者の心理学、悲劇詩人の心理学、宗教的人間の初歩心理学、永遠に女性的なるものの機微を知る恐らくは最初の心理学者、善人どもの真理を見抜いた最初の心理学者ツァラトゥストラ、史上最初の僧侶心理学と言ったような言葉は枚挙に暇がないほどである。一体、ニーチェにおいて心理学とは何なのであろうか?もちろんそれは現代の心理学のような実験、観察、計量的な科学ではなく、さりとて、カント以前に行われていたような霊魂論でもない。それは見えていないところを見抜くことなのである。
 「いまだかつて誰一人としてキリスト教的道徳を自分以下のものと感じた者はいなかった。そう感じるためには一つの高さが、一つの遠望が、未曽有の心理学的深さと深淵性とが必要だ。キリスト教的道徳はこれまで全ての思想にとって魔女キルケであった。思想家たちはみなこの魔女に仕えた。私以前の誰がこの種の理想の、世界誹謗!の、毒気の立ち込める洞窟の中へと降りて行ったか?それが洞窟だということに感づくだけの勇気さえ誰が持っていたであろうか?そもそも私以前に哲学者たちの中の誰が心理学者であったか?むしろその反対、高等詐欺師、理想主義者であったのではなかろうか?私以前には心理学というものは未だ全く存在しなかった。この領域で最初の人であるということは一つの呪いかもしれない。いずれにせよ、これは一つの運命だ。この領域で最初の人である者は、軽蔑することにかけてもまた最初の人であるのだから・・・人間に対する嘔吐、これが私の危険なのだ・・・」。
 キリスト教道徳のうわべの荘厳に欺かれることなく、毒気の立ち込める洞窟の中へと降りて行って、それの心理を、生理を、本能をあばき出すこと、キリスト教はルサンチマンから生れたのだ。道徳とはデカダンどもの病的性癖だと暴露すること、これがニーチェの心理学なのである。そのためには「一個人の道徳的特異性癖に目を眩まされる」などということのない勇気、驚愕と憐憫とを乗り越えてあえて苛酷に洞窟の毒気に立ち向かう暗黒の神ディオニュソスの勇気が必要なのである。
 東洋にも曲学阿世という言葉が在る。学問の名においてルサンチマンを発散させたり、コンプレックスを表現したりする者のことであろう。しかもそのような徒輩が大きな力を持つに至ることもある。ニーチェにとっては、それは直接、教会とか学界とかを意味したであろう。とすれば、その毒気に満ちたルサンチマンなりコンプレックスなりを暴き出して公言するということは、よほどの勇気がいったであろうと推察される。このディオニュソス的な勇気に耐え得る者をニーチェは心理学者と呼び、私以前に哲学者たちの誰が心理学者であったか?と問うのである。つまりニーチェにとって哲学者とはまさにこの意味での勇気ある心理学者に他ならないのである。
 「私が哲学というものをどんなものと解しているか、私が哲学者というものを一個の恐るべき爆薬と解し、その前に置くと全てのものが危険に晒されのだと思っていること、私が哲学者についての私の概念を通俗の哲学者という概念からどんなに遠く引き離して考えているか、私に言わせればカントのごときを哲学者という場合の哲学者という概念も、未だ通俗の部類に属するのだが、いわんやアカデミックな反芻動物やその他の哲学教授連の場合は言うに及ばずということになるのだが、とにかくこのようなことについては『反時代的考察』というあの私の著書が一つの測り知れぬ尊い教示を与えている」。
 ここに爆薬と言われているのはまさに見えていないところを見抜く暴露心理学のことであり、ニーチェは暴露心理学者として第一級の哲学者たるを自認していたのである。「私は人間ではない。私はダイナマイトだ」というニーチェの有名な一句も、そのような意味での哲学者だということを言おうとするものなのである。
 しかし爆薬とは言うけれども、ニーチェは特にカントに対して、同じレベルに立って反駁し破壊するという態度で立ち向かっていったのではない。むしろ洞窟へと降りて行ったのである。いかにしてア・プリオリな総合判断は可能であるか?と問うカントに対して、なぜそうした判断への信仰が必要なのだ?と問いかけるのである。カントと同じ土俵で戦うのではなく、カントの心理を暴き出す。そうすれはニーチェ自身はカントと格闘したり苦闘したりしなくとも、カントなり近代理想主義の哲学なりが凍え死んで、腐ってゆく臭いをかいでおればよい、ということになるのである。
 ニーチェは「むらとを探る」という言い回しを好む。旧約聖書(詩編809)に由来するこの言い回しを、それにもかかわらず、ニーチェがはなはだ好むのは、これをドイツ語で言うと (腎臓を吟味する)となり、生理学的ニュアンスを持っていて、彼の心理学を言い表すのに恰好だからであるに違いない。旧約聖書には「正しき神は人の心とむらととを探りたもう」とある。つまり面紗をはがして正体を突き止め、本心を暴き、魂胆を看破することである。だからニーチェのダイナマイトは全てを粉砕するわけではない。ニーチェが認識という語を使うとき、大抵それは看破する、見抜くという意味になっているのもそのためである。
 『偶像の黄昏』には「ハンマーをもって哲学する術」という副題がついている。これについてハイデガーは、これは物を破壊することではなくて、物を打診して虚ろな音がするかそれともまだ物に重さが残っているかを聞くことだとしている。この本の序文には「この世には実在のものよりもっと多くの偶像がある。これがこの世に対する私の意地悪い眼差しであり、これが私の意地悪い耳でもある・・・ここで一度ハンマーでもって問いを発し、おそらくは、その答えとして、ふくれあがった内臓について語るあの有名な虚ろな音を聞くということは、何たる喜悦であることか」とある。これが近代哲学に対してニーチェがとった態度であり、これが近代哲学の流れの中でのニーチェの位置を決める。
 従来の哲学が精神的なものをあがめ奉り、肉体を侮蔑していたこと、しかし実はそれもやはり肉体から教唆されてそうしていただけのことなのだと看破すること、これがニーチェの哲学なのである。つまり近代哲学の理想主義に対抗して、ニーチェは生理-心理学として哲学したのである。近代哲学の流れの中にあって、決意して実存的に哲学した最初の人はニーチェである。いろいろ批判とか相違点とかはあるにしても、デカルト以来近代哲学は同じ一つの線上にあり、同じ土俵の上にあると見ることができる。ニーチェの場合、同じ土俵の上にあるよりも、その背後に降りて行く。ニーチェは近代的理性の権威のもとでそれを頼りにしつつ哲学するのではなく、頼るべき何ものもなく投げ出されたままで、つまり、実存的に哲学するのである。
 「カントをもまた道徳の毒蜘蛛であるルソーが刺していた。…カントは彼の道徳の王国に対して場所を空けるために、証明し得ない世界、論理的な彼岸を設定せざるを得ないことを見て取った。まさにそのために彼はその『純粋理性批判』を必要としたのだ!…カントは道徳を信じていたのである」。カントの理性の背後にはキリスト教的道徳がある。この道徳こそ哲学者たちの魔女である。道徳的真理を彼らは至高の価値と思い込み、現世を非道徳的と誹謗するために、手の届かぬ理想を捏造して、あるべき世界、あるべき人間を説く。「哲学と徳はほとんど関りがない」はずなのに哲学者はいやに教訓めいて語る。「道徳的底意によって哲学の歩みはこれまで最も停滞させられている」。カントはその実践理性をもつゆえに、道徳の狂信主義をもつゆえに、全く18世紀的であり、完全者をこの世の実情に対する責任から免れさすために、要するに悪と禍とを説明するために、仮想的自由の仮説が必要であると見なした。要するにカントは陰険なキリスト者であり、道徳において己の内心の心理学的性癖を偽っているのである。カントだけではない。総じて哲学者というものは隠れ蓑を着た僧侶なのである。だからこそツァラトゥストラは、大地に忠実なれ、超地上的なる切望を語り聞かせる生の侮蔑者どもに信を置くなと説き、説法を始めるや否や矢継ぎ早に、徳の教壇と背後世界論者と肉体の侮蔑者とを槍玉に挙げているのである。哲学史の全体は善への愛で満たされており、カントが物自体と理性の限界とを説くのも、現世誹謗という宗教的-道徳的底意からだ、とニーチェは看破する。
 しかし「道徳的価値は、生理学的価値と比較すれば、見せかけの価値にすぎない」。宗教は病人の力の感情から発生したものであり、キリスト教は病気の歴史、その道徳は出来損ない(僧侶)どもの力への意志、つまりデカダンのルサンチマン。キリスト教的理想なるものの心理学的根本衝動は支配的教権に対する反逆であり、隣人愛、利他主義とは群居動物の力への意志、つまり畜群本能(民主主義もこれに属する)。キリスト教はデカダンの一つの典型である。「人類の教師、指導者は、神学者たちをも含めて、そろいもそろって、同時にデカダンでもあった。そこから全ての価値を生命敵対的なものに価値転換するということが生じたのである。そこから道徳が生じたのである。・・・道徳の定義。道徳とは、生に復讐しようとする下心を持ち、その上それに成功したデカダンどもの病的性癖」。
 しかし批判することはむしろ容易である。困難なのは、批判者自身が自分の言説を基礎づけるということの方である。これを基礎づけていく内に、自分が批判の対象にしているその当のものに自分も落ち込んでいると気づかないとは限らない。特に哲学や宗教を批判する場合にはこの事態は著しい。「風に向かって唾を吐くな!」とツァラトゥストラは戒める。ニーチェは、自分自身が道徳化された時代趣味の犠牲、餌食、患者ではないか、と反省し、自分自身に対して厳酷を要求する。彼は7の70倍、自分の皮を剥ぐ。この潔癖と誠実とを貫き得て初めてツァラトゥストラは「笑う獅子が来るであろう」と言えたのである。力への意志の病的な退化現象でなく、力への意志が健康に、純に、率直に、大地に忠実に振る舞う。すなわち、超人の到来。
 潔癖と誠実とを貫こうとするニーチェはここでいわば窮地に立つ。道徳と神との背後に廻り、善悪の彼岸に立つ者にはもはや善悪も神もない。断片と偶然とがすさまじく乱れ散る砂漠、神がいなければ全ては許されると言われるが、許されているというのも言い過ぎであるような不気味な無意味。どこからどこへともなく、何故ともなく、全てのものと肉体-自己とが只ある。あるがままにあり通して、しかもデカダンにもペシミズムにも陥らず、ルサンチマンに囚われず、病的でも、でたらめでも。野獣的でもなく、まっとうに高貴に生きるにはどうしたらよいのか?もし人間に創造ということが可能なら、それはこのような窮地に立ってしかも自己を失わないような人においてであろう。すさまじく孤独な善悪の彼岸に住み耐えるために、ことさら力まねばならない理由はない。全ての何故は消えているのだから。さりとて、何に任せてしまえばよいというのか?あてにできるものは何もないのだから。この緊張こそ偉大な人物を待ち伏せている危険なのである。「最初の人であるということは一つの呪いかもしれない・・・人間に対する嘔吐、これが私の危険なのだ」とニーチェは言う。そして、すでに「ニヒリズムが戸口に立っている」。

 <ヤスパース>
 ヤスパースは、少年期から哲学的、文学的性向をもっていたにもかかわらず、大学においてはまず一年半の間法律学を学び、次いで十年あまり熱心に医学研究に従事したが、しかし彼は心理学を経て哲学研究への道を進むに至った。この道の可能性を彼に示唆したものがキルケゴールであり、その道への最終決断を促したものが、人間ウェーバーとその死であった。
 彼はその少年期以来自ら「いかに生きるべきかという根本問題」を考え続け、哲学とはかかる問いから遊離することはできないと感じていた。このようなヤスパースにとって、最初に真の哲学のあり方を示したのがキルケゴールであった。まだ医学研究に熱中していた1913年に、彼は初めてドイツ語訳でキルケゴールに接した。他方彼は、1909年にM・ウェーバーを知って以来その死に至るまで交わりを続けたが、ウェーバーはヤスパースにとって現代唯一の哲学者と感じられていた。ウェーバーが専門的な哲学研究者だとは言えないことは確かである。しかし「全ての問題に身をさらして路上に立っている」ウェーバーは、ヤスパースにとっては、「彼と共に自己となること」を要請するような存在であった。彼は、ウェーバーの政治思想や学問研究や生活一般の中に、まさに哲学的思惟を自ら遂行するものとしての哲学者を、しかも運命的に挫折し没落していく一人の哲学的実存を見たのである。だからその死は、ヤスパースをして、ウェーバーに代わって哲学することを訴えるという使命感に燃えたたせることになった。
 彼が医学研究に従事していた当時のドイツには、ヴィンデルバントとリッケルトに代表される新カント派やフッサールに代表される現象学があったし、生の哲学も起こりつつあったのであるが、彼はそれらのどれからも、少なくとも積極的な影響を受けたとは認めていない。彼はただ、彼自身の思惟を刺激するような過去の哲学者を自己のものとしつつ、その哲学思想を形成していったとみられる。彼の最初の哲学的な著作は『世界観の心理学』であって、そこには、後の豊かな哲学思想が一部は明確な形で、大部分は萌芽的な形で含まれているから、自らいわゆる実存哲学の最も初期の著作であり、私の哲学への道となったものだと回想しているが、「世界観の心理学」という理念の構想は、カントとキルケゴールとニーチェとウェーバーとから得られたものとされている。
 ヤスパースが、若き日からの哲学の理念を保持しつつ、これを明確な形にして提出したのは、もちろん前期の主著『哲学』においてである。それは、個別的、主体的でたえず生成していく自己存在、その内実が決して客観的には示され得ず一定の対象的知識となることのない実存の立場を、一方では存在そのものたる超越者に関連づけてその存在を基礎づけることによって、他方ではその形式的なあり方を幾つかの概念によって開明することによって、実存哲学として構成したものと見ることができる。したがって、この哲学の実質的内容の典型となり、決定的な影響を与えた哲学者が、キルケゴールとニーチェであったことはもちろんであり、その他にも、あるいは無意識的にしろ後期シェリングの影響をも看取することができるし、また対象知の限界等々多くの点でカントの思想との類比も可能だと思われる。しかし、『哲学』の形成に関して、ヤスパース自身が、自覚的に意識しつつ自分の立場に受容していったという点では、やはりキルケゴールとウェーバーの影響が決定的である。
 まず『哲学』のみならず、彼の生涯の哲学思想を通ずる最大の問題たる「実存」という概念はキルケゴールを通じて「自己のものとされた」ことが自覚されている。もちろんヤスパースはキリスト教の啓示を信仰しないから、それなしには理解し得ないキルケゴールの背理による信仰には無縁であったし、また結婚もせず職業も持たないキルケゴールの生活は、彼が欲する生活のまさに対極であることが自覚されている。ニーチェと対比されたキルケゴールの影響という点からヤスパースが理解される場合、ヤスパースが、理性を放棄して背理な神の前に立つキルケゴールとあまりに安易に同一視されて、いわゆる無神論的ニーチェの対極におけるものと考えられがちであるが、少なくともヤスパース自身の自覚に即して言えば、彼にはなおキルケゴールとの距離が実感されているのである。それにも拘わらず、キルケゴールは、その生活と思想との誠実さからの衝撃によって、ヤスパースの哲学的思惟に衝撃を与え、またその実存思想を決定的にヤスパースに刻印したのである。
 彼が自らの哲学思想の形成に対して基礎的な意義を認めているのは、ウェーバーの影響である。ウェーバーの影響はその死後十年余に出版された『哲学』に関してのみならず、実にヤスパース哲学全般を貫いて基礎的な意味を持っている。決定的なことは、ウェーバーの科学者としての態度と思想とがヤスパースの哲学観そのものを規定していることである。ウェーバーは社会科学における没価値性を主張して、科学ないし学問の限界を明確にし、主観的評価や信仰を科学の領域から排除しようとした。そして、当時のハイデルベルク大学は、このような学問としての哲学を主張する西南学派の牙城であって、その代表者がリッケルトであった。ヤスパースは、ウェーバーの人と思想とを取り入れつつなされたリッケルトとの論争を通じて、第一には、「科学的認識は哲学することにおける不可欠の要素である」ことを確認したが、しかし同時に、「科学と同様の意味では強制的普遍妥当的でない思惟」があり、その思惟こそがまさに「哲学的思惟」と呼ばれるに値するもので、この哲学的思惟によってのみ、哲学が意味を持ち得ることをも確認するに至った。哲学は科学の成果なしには不可能であるが、しかし科学的思惟は哲学的思惟における不十分な要素たるにすぎない。哲学的思惟は、自己の核心に触れる問題を客観的な知とはならない仕方で、特定の私にだけ訴えかける真理を求めていくものだというのである。このような哲学観の形成に関して、ウェーバーの誠実な科学的態度が決定的な意味をもったのである。この哲学観は、『哲学』のみならず、後期に至る全著作に一貫しているものであり、この意味で、ウェーバーはヤスパースの哲学思想全般に対して基礎的な意義をもっているのである。
 このように形成されたヤスパースの哲学思想の中で、近代哲学がどう見られているかが問題になる。一般にヤスパースが哲学思想を扱う場合、彼は、それを哲学史の流れの中で問題とするより、むしろ、哲学的実存としての個々の思想家をその人間性に即して理解しようとする。『大哲学者たち』においてスピノザやカントが問題とされる場合も、個別的にデカルトやシェリングが取り上げられる場合も同様である。ヤスパースにとって問題なのは、それぞれに一個の人格としての哲学者がその哲学思惟の仕方を通じて現代人の哲学思惟をいかに触発し得るか、あるいはヤスパース自身が、それぞれの人間性に即した哲学思想をいかに自分のものとし得るかということである。
 しかし、ヤスパースの哲学への道の選択とその思想の形成には、現代の精神的状況との対決が一つの動機となっている。現代は人間存在そのものとその人間性にとっての危機の時代とされ、この危機的な現代に対処する道として、すなわち自己を喪失せる現代の人間に人間性を回復せしめ、超越者への哲学的信仰によってニヒリズム的状況を克服する道として、実存哲学が主張されたのである。この見地からすれば、近代哲学は全般として克服され止揚されるべきものとなる。特にフィヒテとヘーゲルに代表されるドイツ観念論が、その思弁的偉大さを承認されながらも、絶対自我や理念によって世界総体を可知的なものと見なしつつ一つの世界像を構成した点で批判され、また、理性や思弁の絶対的真理性の主張によって神や超越者への信仰を喪失せしめるものとされる。否むしろドイツ観念論は、啓蒙主義などと同様に、現代の危機の最初の発露とさえ見られ、まさに超克されるべきものと見なされる。
 若干の視点の違いはあるが、近代における代表的哲学思想たる実証主義と観念論とが世界定位という観点から、ともに自己閉鎖的な世界定位として批判される。両者共に、一つの統一ある世界像を形成するが、そのような世界像は突破されるべきものである。実証主義は悟性を絶対化し、強制的真理を唯一絶対のものとする点で批判され、観念論は、自然的実証的なものを哲学から捨象する点で批判される。しかも、近代的世界観を代表するこの二つの対立する立場が、実存の立場から見れば共通の限界をもつものとされる。両者は共に、本来的な存在を全体的一般的なものとする、すなわち自然法則または理念という無時間的なものとするゆえに、歴史性をもった自己自身という単独者を承認し得ない。また、それらは共に、「汝のあるところのものとなれ」という根源的な実存的当為に触れることがなく、実証主義は自由を否定し、観念論は自由を悟性と理念へと解消せしめ、かくて、主体的な決断を無視している。さらにまた、科学的に認識できないものの存在(実証主義)や把握不可能なものの存在(観念論)が認められはするが、それらは共に、哲学や人間には何ら関係ないものとされてしまう。歴史的実存の立場からして、両者は共に上のような限界をもったものとされるのである。
 ここに見られる実証主義や観念論に対する批判は、彼の哲学に一貫したものであり、例えば、大著『真理について』においても、観念論が存在の全体像を体系的な一つの知識として閉鎖的に構成する点で、また例外者としての歴史的実存を無視する点で同様に批判されている。この観念論がヘーゲルに代表されるドイツ観念論であることは明らかであり、ここにも、近代哲学への批判的否定的姿勢が示されている。そしてそれゆえにこそ、このようなヘーゲル哲学の汎論理主義的体系性に反抗し、ヘーゲルの理性ないし理念によっては把握されないものを強調する思想が重視される。概念的把握を超えた歴史的一回的出来事を問おうとするシェリング後期の積極哲学や、単独の人間とその誠実さを身をもって主張したキルケゴールとニーチェに大きな意義を認められるわけである。
 ところでヤスパースは、例えばデカルトの懐疑は悟性による方法的懐疑であって、個々人の信仰に関する実存的懐疑ではないと批判され、またその真理観が強制的に普遍妥当的な真理を絶対視するという前提に立っている点が批判される。さらに、デカルトが世界の全体知と全体像を求めたこと、単独者たる実存を捉え得ず、むしろ無視したことが批判される。それらは要するに、科学的真理とは峻別さるべき哲学的真理というヤスパースの根本思想からの批判として、ドイツ観念論や実証主義に対する批判と同様に、ヤスパースの近代哲学への否定的態度を示すものである。しかし、スピノザ、カント、シェリングに対しては彼の態度は違ったものになっている。
 ヤスパースは、カントを悟性と論理のみによる合理主義者だとか、生命力を無視した厳粛主義者だとみなす非真実なる批判から、カントを擁護する。また、独断的な形而上学や実証主義からのカントの不徹底性に対する批判にも、更には、カントを克服しようとするフィヒテやヘーゲルにも反批判が加えられる。ヤスパースによれば、カントの偉大さはドイツ観念論や新カント学派の誤解を超越して存続しているから、各人がそれを自分のものとすることが肝要なのである。カントが対象的認識の限界を確定し、決して世界そのものを認識したり、世界像を構成しようとしたりせずに、その批判精神をあくまでも誠実に押し進め、そのような哲学思惟の限界で挫折したことが重視され、このことが、我々の哲学することへの絶えざる要請として感得されねばならないとされる。カント的思考なしには、我々には批判が不可能であるから、哲学思惟ではカント的思考が不可欠だとされるのである。
 このようなヤスパースとカントとの関係は、彼とウェーバーの間にも認められる。彼はカントやウェーバーからその思想を受容して自己のものとしつつ、そのことによって形成された己の思想をもって、カントやウェーバーを解釈し批判していることになる。彼はカントやウェーバーとのいわば実存的交わりの中で、その哲学思惟を進め思想を形成していったということができる。
 あらゆる意味での現実的な存在を問題とし、現実的な人間に関わる限りでのヤスパース哲学には、実証主義の傾向が濃厚である。知識の不十分さを指摘して、その限界へと押し迫るという意志的なものを重視する限りでのヤスパース哲学には生の哲学の傾向が読み取れる。しかし他の実存の立場に比した場合、ヤスパース哲学を、ドイツ観念論、特にカントの系譜の中で理解する試みは、ドイツ思想界では一般的である。本来的自己たる実存をあるがままの自己としての現存在から区別すること、ヤスパースの思想の核心たる実存が結局は絶対意識として一つの意識であること、超越者としての存在そのものの獲得が最終的には暗号解読(その本来的なものは再び絶対意識)によること、哲学とは何か客観的なものの知識ではなくて、可能的な実存の「哲学すること」によって初めて意味をもつこと、したがって『哲学』の全巻がこのような主体的人間の哲学することの自己規定であること、したがってまた、世界や存在はそのものとして問われるのではなく、例えば世界定位として、主体的実存によって解読されるものとしてのみ問題とされること、これら諸々の点で、ヤスパース哲学は観念論の系譜の中で理解されるのである。
 もちろん彼にあっても後期シェリングの積極哲学の立場(概念では捉えられない実存を重視し、考えられないものの存在は考えられるとする立場)との親近性は著しい。後期シェリングはキルケゴールを通じて、20世紀実存思想の一つの共通の源泉と見なされるわけである。しかし特にヤスパースの場合に重視されるのはそのカント主義である。カントの認識批判や二元論の立場がヤスパースで継承され徹底されたと見られるからである。ヤスパースでの科学的対象知の限界の強調、実存と現存在(カントの理性的人間と感性的人間)との区別と前者の優位、絶対意識と意識一般という意識の二重性(カントの実践理性と理論理性)と前者の優越それらを通じて見られる二元論または実存と世界、実存と超越者という二元論の立場、自由と自由からする行為の無制約性を強調する思想などが、カント的思惟の系譜の中にあるものと解されるのである。しかし、ヤスパースは、単なる科学的対象知によっては捉えられない実存と超越者とに関する哲学的真理を対象知から峻別して哲学知即哲学的信仰としており、多様な真理を区別しつつ、主客分裂を本来的存在へと超越する可能性を見たことなどで、明らかにカントを超えた立場にある。
 ヤスパースの哲学は、近代哲学への批判的姿勢にも拘わらず、それらを己の中に包括するという面を持つことになる。そのことは、特に彼の後期に至って包越者とその諸様態という根本概念が確立することによって、論理的に明確になってくる。例えば、哲学的論理学の基礎概念として立てられた包越者の諸様態の内、現存在または世界には経験論、功利主義、マルクス主義が対応し、意識一般には、カント的意識一般の立場が応じており、精神がヘーゲルの理念の立場を示すことは明らかである。実際、ヤスパースは『真理について』の中で、これらの包越者の諸様態が、それだけで自己完結的に孤立したものとされる場合には、単なる自然主義(=現存在の孤立化)実証主義(=世界の孤立化)観念論(=精神の孤立化)実存主義(=実存の孤立化)に陥るとしている。包越者の哲学としての彼の哲学はこれら諸々の諸様態を包越するものとして、また同時に、近代哲学での自然主義、観念論、実証主義などをも包み越える立場と解され得るわけである。

 <ハイデガー>
 ハイデガーの思索は存在を問う戦いにおいて一貫している。しかもこの戦いを彼は西洋形而上学の伝統に深く根差しながらも、この形而上学の伝統を破壊し、その原初において存在問題を反復する、そしてさらにこれを越えて形而上学の克服を目指すという姿勢で遂行している。
 彼の思索の成立過程の時期を支配したものは新カント派である。この派の特質は、認識論と価値論を中心とした文化哲学であった。ここでは存在の問題、すなわち形而上学の問題は、カント以来解決されたものとして見なされていた。他方、この流れに抗する反対運動も抬頭しつつあった。そしてその一つはフッサールの現象学であり、他は新スコラ主義であった。両者は共にブレンターノより強い影響を受けて展開したものであった。フッサールは伝統的な形而上学には名誉ある地位を与えなかったが、その意識の現象学は存在問題への関心によって支えられていた。また新スコラ主義はトマスの例にならってアリストテレスへの復帰を主張した。ところで、このように認識論より存在論へ関心を転換せしめたものがヨーロッパ文化の危機であったが、この存在への関心は、存在者一般の存在より、さらにヨーロッパ文化の没落の前に不安に生きる人間存在そのものに向かった。ここにフッサールの現象学や新トマス主義と並んで、またキルケゴールやニーチェの思想の復活の運動が起こり、ディルタイの生の哲学などが注目を浴びるに至った。もとより、思索の成立過程において彼に影響を与えたものは哲学運動に止まらない。ことに彼の精神的成長を包んだメーラー、クーン、スタウデンマイエルらに代表されるテュービンゲン・カトリック神学の雰囲気、20年代に入っての弁証法神学、ブルトマンとの親交など神学運動、またキルケゴールやニーチェの復活と並んで、第一次世界大戦前後に興ったトラクルやリルケの詩、ヘルダーリンの再評価などの文学運動の与えた影響は無視し難いものがある。カトリック教会に仕える家庭に育ち、17歳の夏にブレンターノの学位論文『アリストテレスによる存在の多様な意味について』を読んで強い感銘を受け、哲学に志し、フライブルク大学でリッケルトに学び、さらにフッサールに師事した。ブレンターノ、そして新スコラ主義は中世そして古代哲学に対する彼の理解を助けた。この中でも、とりわけ彼の関心を惹起したのはアリストテレスとアウグスティヌスであり、前者は彼に存在問題についての洞察を与え、後者は人間の内面的世界を教え、人間の在り方の他の存在者とは相違するものであるとの認識を与えたのである。また新カント派の超越論的論理主義的カント解釈と心理主義に反対するフッサールの論理研究そして現象学は、彼に近代の認識論と論理学の諸問題とこれに接近する方法とについての理解を与えた。そしてこれらを通して、彼は近代的認識論を貫く観念論と実在論という対立そのものが不適切なものであることの把握を得ているのであり、そしてこの把握はブレンターノによって喚起された存在への関心、アウグスティヌスを通して得た人間的生、ことに生の事実性についての洞察に支えられて、彼の思索を存在との関係で人間的生を分析することによって、実在論と観念論との対立というディレンマをこの対立の前提をなす主客対立関係を克服することを通して打破しようという立場に導いたのである。そしてこれらの思索の結実を示すものが『存在と時間』(1927年)に他ならない。
 この書は、言うまでもなく、存在一般への問いを可能にする地平の開示を求めて、存在了解を固有の在り方とする人間存在の実存論的分析を主題にした基礎的存在論の課題を遂行したものである。しかし、すでに問題論究は、ヨーロッパの哲学的思惟が存在への問いに促され、ここに原初を持ちつつも、それにも拘わらず完成された伝統的形而上学は存在を正しく問うていないとするヨーロッパ形而上学批判に支えられて、存在と内通する人間の歴史的生の解釈を通じて新たな地盤の上に存在問題の反復を目指すという姿勢で位置づけられている。また、この主題の論究に際して、彼が方法論として依拠するものはフッサールの現象学である。しかし彼において現象学は、ディルタイの歴史的生の解釈学と結び付けられて、現存在の事実性を基礎づけ、その意味を取り出す解釈学的現象学として彼の方法論を支えるものとなっている。ここに意識の志向性は現存在の超越の構造にまで掘り下げられ、意識の時間性は現存在の存在意味として取り出され、人間的生の歴史性を基礎づけるものとなっている。そしてここに新カント派を含めて近代認識論の立つ主客対立関係は、現存在の開示性の持つ固有の光の内に根源から透視されるに至る。
 ハイデガーの思索は存在への接近を巡って1930年代、ことに1935年より39年にかけて大きく転回し、この時期を境に前期と後期とに区別することができる。これに伴って彼の形而上学そして近代哲学に対する批判を支える立場も方法論的に相違している。
 前期においてハイデガーが主題の遂行に際して依拠した現象学は、言うまでもなく還元・構成・破壊を固有の手続きとする。このとき彼の存在論究にあって基礎的存在論が還元に立ち、存在一般の意味を時間性の地平に立って構成するのが一般的存在論であるのに対して、破壊は存在問題の反復としての自らの問題提起の必然性を証示すると共に、そのヨーロッパ哲学伝統における位置づけの確保を目指すものとして、カント、デカルトを越えてアリストテレスへと遡源して、ヨーロッパ存在論を貫く伝統の批判を内容にするものとして意図されている。ところでこの課題は本来的には『存在と時間』第二部で果たされるものとして計画されながら、第一部第三編と共に未完に終わっている。しかしこの時期の彼の他の著作、講義などから、彼の伝統的形而上学批判、近代哲学の基本姿勢を窺うことができる。およそ彼が自らの存在論究を通して最も強調していることは、存在と存在者との間の存在論的差異と、この存在と関係する人間の現存在として他の存在者とは相違する固有の在り方の自覚であろう。ここに彼の伝統的形而上学批判は専らこれらの差異相違が十分に自覚されていなかったことに向かっている。伝統的形而上学は全ての存在者を眼前に在るものと見なし、しかも存在者に対すると同じ表象的思惟に基づいて存在を問うために、存在者の存在、存在者の真理を問うに止まり、しかもこれをあたかも識られた存在者の背後にあってこれを根拠づけるところの存在者のように取り扱い、この結果、存在の真理を隠蔽してしまっている。古代哲学においては、存在を問う通路になった存在者は広義における自然であり、人間もこの自然の一部として、その秩序によって規定されていたのに対し、近代哲学においては、人間が、自我が中心に立つ存在者となり、これに定位して存在概念も解釈されるに至った。いわば実体が客体より主体となり、主観となっている。しかし、それにも拘わらず、と言うより、それがために主観また自我の在り方も、あたかも実体が属性を所有すると同じように、表象を自己の述語として所有するものとして、眼前に在るものの在り方と同じように把握され、この限り形而上学の伝統の中になお止まっているというのである。この時、彼の思索は伝統的形而上学そしてことに近代哲学に対して二重の関係に立つことになる。なぜならば、彼の基礎的存在論が存在への関係に立つ人間の本質より存在の真理を問うという構想に立つ限り、この論定方向は存在者を通路にして存在を問うという形而上学、そして人間との関係で存在を問うという近代哲学を追うものと言える。と言うよりも、存在の真理を明るみに出す道を切り拓くための思索の助走として、彼の基礎的存在論は、まず形而上学の支配の只中に、そして近代哲学の問題圏と通路に立って問題を論究している。しかし、形而上学がアリストテレス以来命題論的立場に立って、主語が述語を所有するごとくに、属性を所有するものとして実体を把握し、近代哲学がこれを継承して人間を表象を所有する主観として把握する限りにおいて、彼はこのような存在概念そして人間の規定をはっきりと拒否している。彼にとって存在とは、まさにそこにおいて初めてこのような論理関係また認識関係が成立するような場であり、世界内存在としてこの場に超越して立つ現存在は、決して存在についての主観的表象を所有する主観ではないのである。ここに伝統の現象学的破壊としての形而上学批判は、近代哲学を含めて、形而上学の前提を明るみに出す、そしてこれを通して自らの存在論究を形而上学を基礎づけるものとして証示するという姿勢で遂行されるのである。これが前期におけるハイデガーの形而上学批判そして近代哲学批判を支える立場である。

























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