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zoom RSS 実存主義と時代批判(1)

<<   作成日時 : 2017/05/03 09:54   >>

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 我々現代人は、生の究極的理想といったものの真実性を、もはや単純に信じることはできない。この不信は現代人のいわば宿命のようなものである。この不信の根源をなしているものは、生の現実に対する畏敬の喪失であろう。生の現実に安んじてその内に埋没している我々現代人にとっては、かつての理想主義者たちの場合とは逆に、総じて理想とか理念とか呼ばれるものこそが、まさに平安無事な生の現実を脅かす危険な虚妄として感じられる。しかし、この畏敬を忘れた現代人の生が、なお生の名で呼ばれるに値するのであろうか。とはいえ、他面において、この生以外のどのような生が我々にとって可能であろうか。我々はこの生を生き抜く他ないのである。その際、我々が想起すべきは、もはや生の究極の目標などではなく、生の根源的な受動性、すなわち「生まれた」という生の根本事実である。この事実に対応するものとして、根源的能動者を定立し、そこに生存の究極的理想を信じることは、いっそう空しいことであろう。そのような根源的能動者は、じつは生存のための仮説にすぎない。だが近代人もまた、一種の仮説的理想に生きて来た。相違はただ、そもそも理想というものが、全て暫定的・仮説的なものにすぎないということが自覚されるに至った点だけにある。生存の根源的受動性に徹し得ないでいる点では、両者はむしろ軌を一にしている。いや、根源的能動者への逃避が認められるにしても、形而上学的理想に生きる者は、まだしも生存の根源的受動性を自覚していた。それに反して、近代人はこの根源的受動性そのものを忘却し、自ら根源的能動者の名を僭称するに至っている。
 だが、根源的能動者を自負する近代人が、自らのために創造したものは、人間自身のために真に役立っているのであろうか。それは確かに表面的には、我々の生活に多大の自由と便益をもたらしたように見えはするが、根本的には、威圧的な機構として我々の生存を圧倒し支配しようとするに至っている。我々はそれらの力に動かされる無力な受動者に堕している。ここに現代の危機的状況としてのニヒリズムを認め得るであろう。
 ニヒリズムとは、本質的には、西洋の歴史の根底をなす運動、あるいは西洋の歴史の論理としての形而上学的信仰そのものを意味する。生の現実を超えた彼岸の世界、理想や理念こそが真実在であり、あらゆる現実的なものの根拠と目標を形成するという信仰、それがニヒリズムの本質である。二ヒリズムの本質はプラトン主義によって培われた中世キリスト教の信仰において最も典型的に表現されたが、近代になると、そういう真理への意志の遠近法として、主体の内面に超越的な真実在が求められるに至ったことからして、近代人の超越的な内面性が成立すると同時に、その結果として、近代人は相互外在的な個別性において存立することになった。しかしキリスト教のニヒリズムが未だその力を温存している限り、このような相互外在的な個別者を結合する抽象的一般者として、自然一般という超越者が定立され、この理念の内においてこそ、主観一般と客観一般との超越論的結合に基づく近代科学の成立も可能となったのである。その意味では、キリスト教のニヒリズムが近代科学の精神的支柱になっており、したがって近代科学もまたニヒリズムの本質の一つの変形であると見ることができよう。
 ところが、近代がその帰結へと進展するにつれて、キリスト教のニヒリズムは次第にニヒリズムとして自覚され、ついには神が死ぬことになる。そこからして、キリスト教のニヒリズムに支えられて自然一般という超越者が担ってきた抽象的な人倫性すらも、その意義を失うことになり、その結果として、近代人の相互外在的な個別性は、したがってまた主観と客観、内と外との対立は、ますます徹底化してくる。そして、近代的な科学技術の所産が逆に人間を制御する巨大な機構として外在化してくる。個人はこの機構の個々の歯車と化し、個人相互の間にはもはやいかなる人倫的紐帯とてなく、ただわずかに彼らの人倫性を保証するものとして、共通の歴史的遺産が残されるだけとなる。すなわち、主観としての人間が自己の生きがいとなし得る客観としては、過去の歴史的世界だけが残される。かくして歴史がいわば神の代用物となり、歴史的精神という現代に特徴的な理念が成立する。すなわち、現実世界とは無関係な、したがって何ら行為の動機とはなり得ないような歴史的知識を、現代人の心の中に際限なく積み重ねる。このような歴史的精神は、真理への意志としてのニヒリズムの、現代における新たなる遠近法である。そこには、内と外とを和解させるための一切の超越論的形式が欠けており、その結果として、現代人の人格性はますます個別化し、弱化していく。現代人はいわば原子論的なカオスの時期を生きているのである。
 かくして、単に反歴史的なものの価値を強調し、生の統一化への要求を呼び起こすに止まらず、歴史的なものと反歴史的なもの、生の個別化への要求と生の統一化への要求との緊張関係において成立する一種の超歴史的立場において、現実に生の根源的統一を実現していこうとするのが、現代の危機的状況に処する実存思想の一つの基本的な態度である。この超歴史的立場は、芸術ならびに宗教の領域に接近するのではあるが、むしろ、本来的自己に対する誠実という、根源的な倫理性によってこそ存立し得るのである。この誠実は、それが超歴史的立場の可能根拠である限り、自己存在の根源に対する一種の超越論的信仰である。しかしそれは決して自己存在の孤立化を志向するものではない。ヤスパースのいわゆる実存的交わりを志向するものでもあると同時に、それを可能にする根拠でもある。だが、自己喪失的な現代において、このような誠実を持するということは、自ら進んで苦悩をわが身に引き受けるというのと同義である。だが、この実存的交わりにおいてのみ以外、生の個別化への欲求と生の統一化への要求との緊張関係に即して現代の危機的状況に対処していこうとする実存思想の超歴史的立場が、真に具体化される場はない。
 民主主義の倫理を尊奉しない者は、現代において生きることができない。しかし、民主主義の倫理は、人間の精神を平均化し、その良心を形式化する傾向を有するものである。民主主義の倫理は隣人愛の倫理の新たなる遠近法である。それは現代の民衆に特徴的な諸徳性、すなわち公共心、好意、思いやり、勤勉、節制、謙虚、寛容、同情などとして現れるが、これらは、そしてまた自由、平等、博愛なども、多くの場合、全て卓越せる精神と深淵な良心とに対する恐怖の表現にすぎない。現代の民衆は孤独の意義を知らず、したがってまた真の意味での団結も知らない。彼らはどこまでも相互支配の限界内に止まろうとする。もし彼らが団結するとすれば、それは専ら利害関係からである。彼らの団結心は党派根性であるにすぎない。たしかに彼らのこの党派根性こそ、あるいはそれに基づく多数者の権力こそ、近代の恐るべき個人相互の間の精神的緊張に処して、彼らがその生存を確保することを可能にした所以のものである。人間の自己喪失、これは、民主主義の原理がもともと民衆の総体性を多数の個人の相互支配へ、したがってまた民衆の多数性へと解消することを本質とするものであった以上、必然的な帰結である。かくして、民衆自身が真の自己を回復し、真に自己の支配者としての自覚を確立することこそが肝要である。真に現実的な認識者は、現代の民衆とは逆に、生命意志を残酷に強制し、自己破壊を敢えてしても、精神的な自己喪失を避けようとする。現代の民衆がひたすら多数性に安住し、苦悩を回避しようとするのに対して、彼は、孤独に耐え、進んでいっそう高次の、いっそう深い苦悩を担おうとする先覚者である。この先覚者は、民衆の多数性を従属的な地位におとしめ、それと自分の孤独とのこのような緊張関係は、実存的交わりの前奏曲をなすものである。
 先覚者は認識の殉教者である。彼は民衆の多数性に安住することを潔しとしない純潔な深い良心を持っている。彼は隠遁者とならざるを得ない。しかし、現代は大衆の時代であり、民衆の多数性から超越しては住むべきところがない。彼の洞窟は民衆の只中に求められる他はないのである。現代においては、洞窟はただ仮面としてのみ存在し得る。現代において深い良心を有する者は仮面を愛さざるを得ない。全て深いものの周囲には、誤解を通じて仮面が成長し続ける。この仮面は、第一に、先覚者が時折その孤独の苦悩から逃れて、多数者の内に憩いを求めるための手段である。先覚者もまた生存のために或る程度の偽善を必要とするのである。仮面は第二に、先覚者の純潔な羞恥心の現れである。それは多数者の目に自分をさらすことを恥じる彼の純潔な深い良心を示すものであり、彼の優れた仮面の精神の母胎となるものである。だがさらに、仮面は第三に、積極的に、多数者の良心を覚醒させるための手段でもある。心情の天才たる先覚者は、何か深淵を内に秘めた、正体の知れぬ、無気味な存在である。彼の心に触れた民衆は、自分自身に安住することができなくなり、魂の故郷へと誘われていく。彼らは真に根源的な自覚を取り戻すのである。
 民衆の良心をなすものは恐怖である。現代の民衆は多数者の権力を恐れる。多数者の権力は現代の民衆を支配する運命であり、この運命に対する恐怖こそ、現代の民衆における良心の本質をなすものである。それに対して、先覚者の良心の本質をなすものは畏敬である。この畏敬は自己に対する畏敬であり、ひいては人間存在の総体性に対する畏敬である。先覚者は多数性に対する恐怖を総体性に対する畏敬にまで純化し深めようとする者である。民衆が多数性を恐れるのは、彼らが多数性もまた自己の総体性の表現であり仮面であることを自覚しないからである。民衆がいったんこのことを自覚するならば、多数性に対する恐怖の心情は自己自身に対する畏敬の心情へと純化され深められるであろう。かくして、先覚者の自己自身に対する畏敬は、民衆存在そのものの自覚の先駆的形態として、人間存在の総体性に対する畏敬であり、そして人間存在の総体性に対する畏敬こそ、現代において真に現実的な倫理なのである。
 近代人の倫理には、人間存在の総体性の自覚が欠けていた。この自覚に代わるものは、自己意識の超越論的な普遍性といった仮象的な総体性の自覚でしかなく、そこからして近代人の倫理は必然的に単なる意図の倫理に堕することになった。かくして、近代人の倫理が克服されるためには、他人をも自分として考え、進んでわが身に引き受ける大いなる主体性が確立されねばならない。すなわち、我々が少なくとも自分に対処するように他人に対処するところに成立する真に総体的な立場に立つことが必要である。しかし、この真に総体的な立場は決して自他の区別を無視する立場ではない。各人が自己の実存に徹し、自己の独自な価値評価に徹することを、何よりもまず要請する。だが、そういう徹底の極に期待されているところのものは、もはや単なる意図の倫理の思い及ばないような、真に現実的な行為である。すなわち、人間存在の総体性が自ずからそこに実現されているような、真に現実的な行為である。
 ごくおおまかに言って、実存思想はソクラテスの「汝自身を知れ」という思想の現代的様態と言える。つまり、外に向かうのではなく内へ、対象に向かうのではなく自己へ向かう傾向性が、現代の実存思想にもまた受け継がれていると考えられる。もちろん、ソクラテスの思索には、一面において少なくとも、プラトンによって展開されるイデア論、ないし理想主義的な志向が働いていることは否定され得ないところであるが、そういう理想主義的志向は、実存主義においては、一般にニヒリズムとして否認されている。実存主義は、真に現実的な存在に即する、あるいはそれに留まるという或る徹底的な反理想主義的志向を特色としている。そういう方向性は、具体的に表現すれば、現実性界からの脱却、ひいてはそれへの対抗である。ところで、現実世界は或る形成された世界である。すでに歴史的に形成された世界である。と同時にそれは未来に向かって歴史的に形成されていく。いわゆるイデアの世界とか理想の世界とかは、この現実世界に対抗する或る理念的世界である。したがって、現実世界への対抗という根本的傾向性が、ソクラテスの場合のように、イデア論的志向として現れることは、十分に理解され得ることである。しかし、この同じ根本的方向性が、実存思想の場合のように、反理想主義的志向として現れるということは、いかにして可能であるか。その点を理解するためには、現実世界といわゆる理想の世界とが、根源的には弁証法的に一つであること、そして、現実世界への対抗は、実存思想の場合は、ヘーゲル哲学において典型的に表現されているような、理想と現実とのそういう弁証法的統一に対する対抗に他ならないことが理解されねばならない。
 イデアとか理念とかは、もともとは現実世界が形成されるための原理としての性格を持つものである。いわゆるイデア論は、イデアの持つそういう現実的性格を一応捨象して、つまりイデアを現実世界から切り離して、それを自体的に、それ自身の論理に従って、構想したものにすぎない。現実世界が歴史的に形成されていくためには、そういう形成の原理としての何らかの理想や理念が欠かせないのである。例えば近代的科学技術ですらも、その意味では一種の理想主義であり、理念論である。ハイデガーのいわゆるマン(非人称的人間)の世界としての現代世界は、科学技術を通じて作成され布置された世界に他ならない。したがって、たとえ現実世界といわゆる理想や理念の世界とが、不完全な歴史的世界と完全な超越的世界、仮象の世界と真実在の世界(あるいはその逆)として、対抗的に把握されるにしても、両者は根源的には弁証法的に一つなのである。現実世界への対抗は、実存思想の場合、理想と現実とのそういう弁証法的統一に対する対抗である。あるいは、そういう弁証法的統一の光に照らして見た限りでの現実世界に対する対抗である。
 だが、そういう対抗をなす実存思想の拠り所は一体何であろうか。それは一般的に言って、真に現実的な存在に他ならないのであるが、それは理想や理念の世界ではあり得ず、さればと言って、いわゆる作成され布置された現実世界でもあり得ない。実存思想は、そういう対抗の拠り所、あるいは可能根拠を求めて、常に現実世界の内面へと超越する。すなわち、現実世界の一切の形相を突破して、その単純な存在に着眼し、それをこそ真に現実的な存在として把握しようとするのである。というのは、単純な存在としては、いわゆる現実世界と実存思想のいわゆる真に現実的な存在とは一つの同じものであり、その限りでは、いわゆる現実世界を他にして、何らの真に現実的な存在もあり得ないからである。
 さて、現実世界の内面への超越というこの点においてこそ、実存思想における時代批判の基本的態度はその根源において統一的に把握され得るのであるが、それと同時に、この基本的態度の問題点もまた、その点において明らかになる。いわゆる現実世界が或る一定の理想や理念に従って何ほどか合理的に構成された世界であるのに反して、実存思想の依拠する真に現実的な存在は、或る不条理なものである。すなわち、或る一定の理想や理念に従って完全に構成し尽くすことの出来ない何ものかである。それは、歴史的世界の内面へと超越することによって、つまり歴史的世界をその単純な存在に即して見ることによって、はじめて何ほどか着眼されるところのものである。だが、そこからして、実存思想にとって本質的な一つの問題点が生じるのである。
 一つの問題点というのは、実存思想においては、歴史的世界の形成が人間の自己存在にとって最も根源的なこととは解されないという点に関する。例えばハイデガーも、そのいわゆる存在の思索を、「神聖なもの」の設定に関わる詩人ヘルダーリンの詩作の中に読み入れて、次のような意味のことを述べている。詩人たちの詩作はまずもって単なる設定にすぎない。彼らはまずもって建設地の測量と地固めとをするだけである。この土地の上に家を建て、神々を客として迎え入れる仕事が次になされねばならない。詩人たちの仕事は地盤を祓い清めることである。詩人たちは大工ではない。来るべき歴史の初子犠牲となることこそ、詩人たることの本質である。摂理がこのような詩人たることの本質の中へ詩人を送り、彼を初子犠牲として選び出したのである。しかし、このように選び出されることにおいて、詩人は摂理する神聖なものから挨拶を受け、かくして設定の仕事へと召命されているのである。ところで、神聖なものは「最も高いもの」とも呼ばれる。というのは、それは人間のみならず神々をも超えているからである。最も高いものは、最も厳格なもの、すなわち神性および人間的な法とは別なものである。もちろん、前もって最も高いものを語る設定者たちが、家の建設に属する事柄に向かってもまた、そして同様に、建物を守護し、かくして神々および人々の諸関係を固持することが出来るものに向かってもまた、予め思索してはならぬというわけではないが、しかし固持することと固定することとはあくまで別種の事柄である。後者には最も高いものが必要であり、前者には最も厳格なものが必要である。いずれも他をもって代えることは出来ない。それゆえ、発生したものを固持するという点では芸術は身を引かねばならない(ハイデガー『ヘルダーリンの詩の解明』)。
 このように、実存思想は、いかなる歴史的形成も、それが予め単純な存在という根源の内に基礎づけられていない限り、決して決定的なものではあり得ず、結局は虚無への道へ通ずることを強調する点において、歴史的世界の停滞、枯渇、形態化に警告を発し、その根源的再生のための刺激となるという役割を果たし得る反面、歴史的世界をいかに形成するかという問題を、そして、より根本的には、一般に理想や理念の有する意義を、あえて軽視しがちである。とはいえ、実存思想と歴史的形成における理想や理念の問題を無媒介に結び付けようとする試みは無意味であり、不可能である。
 さて、こういう問題点の圏内においていささか詳論を必要とする価値論的問題が実存的交わりの問題である。すなわち、我々としては、断絶せしめられてあることと、交わりの中に置かれていることとを、等しく実存の根本事実の二つの契機として認識し、その点において実存の根源的な両極性あるいは矛盾性を明確に把握しておくことが肝要である。じじつまた、実存の孤独は交わりの只中における孤独である。すなわち、実存は常に何らの交わりの中に置かれてありながらも、往々にして真にあるべき交わりの欠如を意識するのである。しかし、一般に実存思想においては、こういう欠如の意識も、不満の意識という形でのみ問題にされ、真にあるべき交わりが何であるかを積極的に問題にしようとする志向に欠けるところがある。もともと反理想主義的志向を特色とする実存思想においては、そういう価値論的問題はあえて軽視されがちなのである。なぜなら、価値評価というものは、一定の価値観点からする存在把握であり、存在の或る面の、あるいは或る存在の仕方における存在の把握であって、存在をその総体としてのあるがままの真相において把握し得ないものだからである。しかしそういう関りが全く無視されるならば、たとえ実存思想においていかに決断の意義が強調されようとも、それは要するに一種の主観的な判断、気分的な判断たるに止まるであろう。気分は、いわゆる価値の理法を突破して存在そのものを何ほどか顕現するという或る根源的な意義を有し得る反面、単に主観的な錯誤に陥る危険性も多分に孕んでいるのである(ハイデガーのナチス)。つまり、部分を全体と取り違え、部分で全体を覆う錯誤に陥る危険性を孕んでいるのである。

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 キルケゴールによって哲学的思惟の中に持ち込まれた単独者という概念は、倫理的・宗教的なものについては真理は人間ひとりひとりの孤独な魂の中に秘められていること、そうした個人が「衆」を成し、投票、怒号、喧騒によって事を決しようとする時には立ちどころに虚偽が現れること、だから、倫理的・宗教的なものについて真理を求めるなら、社会の客観性の諸形態から単独の個人の孤独な主観性に視線を向けねばならないこと、こうした哲学的思惟の方向づけのための信号という意味を持っていた。しかし、現存在としては単独者も社会を離れて生きてはいけないのであるから、社会から自己を切り離そうとする単独者の試みは、社会の客観的な諸形態との間に不断の緊張を生むことになる。
 宗教的異端者が教会の迫害に堪えて独自の信仰内容を固執するとき、彼は自己自身の孤独な魂の中に神の言葉を聴いていると信じているのであろう。しかしその時、神がこの異端者の魂の中で真実に語っているかどうかは、ひとりその異端者だけが確かめることのできる内面的な真実である。我々はこれを外部から判定することは出来ない。時の国家権力によって反逆者として処刑される者の魂の中に、良心の呼び声を通じて倫理的真理が告知されているかどうかも、その反逆者だけが確かめることのできる内面的真実であって、外部から判定できることではない。だから、たとえ異端者や反逆者が歴史の表面から抹殺され、後世によっても想起されず、忘れ去られたままだとしても、彼らの孤独な魂の中に宗教的ないし倫理的真理が宿っていなかったということにはならない。そのような歴史の暗所に潜む無数の単独者の可能性を無視し、歴史の表面に現れた幸運な総合、つまり社会の客観的諸形態と単独者との間の緊張の宥和にだけ注目することは、「世界史の発展を進めるために無数の個人を時代から時代へと消費する神の濫費」とキルケゴールが嘆いたような不条理を是認することになる。「どんなつまらない人物であっても、内的行為は彼のもので、永久に彼に属すべきものである。歴史あるいは世界史も彼からこれを奪うことはできない。喜びにもまた悲しみにも彼によろめき従うものである」とキルケゴールは言う。
 異端者の歴史や反逆者の歴史は、多くの場合、その滅びゆく姿を伝えるものであり、またそうすることによって、その姿の背後にある単独者たちの実存を指示する信号として役立つのである。しかし、この信号は単に対象的に眺められるときは、その背後にあるものについて語ることを止めてしまう。その信号に導かれてその奥にある単独者の実存を見るためには、その単独者の運命への共感に発する主体的実存的思索が敢えて試みられねばならない。
 キルケゴールの視線を歴史の暗所に潜む単独者たちの実存に向けさせる機縁になったのは、19世紀中葉、大衆社会化の兆候を示し始めていたヨーロッパ社会の客観的諸形態と、主体的実存的に思索する一個の単独者としての彼自身との間の緊張であった。
 キルケゴールは、彼の生きていた時代を、「本質的に分別の時代、情熱のない時代」として捉え、これを貫く基調を「水平化」の運動であると見た。水平化は「数学的な抽象的な営み」であり、「抽象的な勢力に牛耳られた反省の遊戯」である。そこでは単独的なものは普遍化され、内面的なものは外面的なものに解消され、具体的なものは抽象化されてしまう。この水平化を主宰するものは「公衆」である。「水平化が本来の意味で出現できるためには、まず第一に一つの幻、その幽霊、一つの巨大な抽象物、一切を包括するが実は無であるところの何ものかが、一つの架空物が、作られなければならない」とキルケゴールは言う。キルケゴールによれば、単独者としての各個人は本来その内面性において質的断絶を隔てて対立しているのであるから、彼らの結合はただ情熱的にしか成就され得ない。ところが情熱のない反省的な時代にあっては、質的に断絶されているはずの各個人は相互に情熱的に関係することをしないで、「傍観的にそこに立ったまま」でいる。彼らは互に「眼でパスし合う」のであって、生活諸関係は「だらしなく弛緩した単なる集合」になってしまっている。人々は全て傍観者として、第三者として、国王と市民、父と子、等々の生活諸関係を外側から反省的に計算しているだけである。こうして「貨幣だけが人々の欲する唯一のものとなる」。
 キルケゴールが発見した公衆は、ハイデガーが日常性の分析の中で捉えた世人の存在様相を示している。キルケゴールの公衆は、誰でもであって誰でもでない一つの抽象物であって、そこでは単独者としての個人の決意も責任も問われない。ハイデガーの世人もまた、決意と責任をもつ単独者としての個人ではなく、代替可能な、中性的な、「ひと」であり、水平化された「ひと」である。我々が「ひとが言う」というとき、じつは何びとも責任をもって言っているのではなく、また「ひとは死ぬ」とさりげなく言うとき、じつは何びとも死なないのであり、少なくとも、死ぬべき自己は痛感されてはいない。キルケゴールの公衆を特徴づける多弁、無形式、浅薄、浮動性が、ハイデガーの世人の在り方を示す空談、曖昧性、好奇心などと多くの点で共通していることからもわかる。こうして、キルケゴールが彼が生きていた時代を特徴づけるものとして見出した公衆の水平化運動は、ハイデガーの基礎的存在論における現存在分析の出発点に位置づけられたのである。
 ただ注意したいことは、キルケゴールの場合、水平化の運動は彼の生きていた時代を性格づけるものとして特殊歴史的に捉えられていたということである。水平化は、「民衆そのものが一体となった具体的集団で行動の場に現れていた」古代には見られなかったし、また「市民が国王に対して直接的な関係をもつ」ような時代、すなわち中世にも、現れはしなかった。キルケゴールにとって水平化運動は、あくまで彼の生きていた「現代」を特徴づけるものであり、近代ヨーロッパ社会の悟性的合理化過程の一つの局面と見なされてよいものであった。キルケゴールは、水平化を促進するものとして印刷物、すなわち新聞・雑誌など、今でいうマス・メディアの機能に注目していたが、マス・メディアが作り出す無数の「ひと」と「ひと」との匿名のつながりこそは、現代の大衆社会の特徴的な局面の一つである。その意味で、キルケゴールの時代批判は、今日の大衆社会をすでにその形成期において捉え、これを虚偽とする単独者の立場からこれに向かって反抗を試みたものであった。
 キルケゴールの時代批判が彼の『文学評論』の最後の一部分「現代」としてコペンハーゲンで公にされたのは、1846年3月末のことであった。それは「ビーデルマイエル時代」を通じて新興のブルジョア的生活様式がドイツ文化圏にもようやく行き渡り始め、ヘーゲルが『法哲学』の中で「市民社会」を貫く「悟性形式」として見抜いたようなブルジョア的生活様式の基準が、現実に確立されようとしていた頃であった。キルケゴールはヨーロッパの北辺デンマークの一隅にあって、この新興のブルジョア的生活様式のもたらす水平化運動を市民的キリスト教的世界の退廃を通じて体験した。本来的なキリスト者は単独者であるべきなのに、当時のデンマークのキリスト教界は市民社会の「悟性形式」に順応し切って、一種の官僚制的管理機構に成り下がってしまっている。キルケゴールはこの偽善に我慢がならなかった。「衆は虚偽である」とする単独者としての彼の反抗が向けられた社会の客観的形態が、デンマーク国教会だったのは、そのためであろう。キルケゴールは主体的実存的に思索して近代市民社会の客観的諸形態を突き抜け、世界史的行程の外で「無世界的」に孤立しながら、ひたすら自己自身であろうと欲したが、そういう単独者の立場から振り返って見る時、社会の様々な客観的諸形態の中でもデンマーク国教会の退廃は、それが神との関係を僭称するだけにどうしても許し難いと思われたのであろう。
 しかしキルケゴールにとって市民社会の大衆化過程は、「一つの幻、架空物」としての公衆の姿をとって迫っていた。彼自身はあくまで一個の単独者としてその前に孤立していた。社会の客観的諸形態に対するキルケゴールの反抗が国教会に対する個人的論難に止まり、その背後にある社会組織や国家権力に対する政治的反抗という形を取るようにならなかったのも、そのためであろう。確かに、キルケゴールの時代批判が公にされた二年後の1848年3月には、ドイツにおける革命的情勢の余波がデンマークにもおよび、コペンハーゲンでは宮殿前で人民の反政府デモが行われるような状態であった。しかしキルケゴールにとっては、諸個人が社会的に連帯して反抗しても、それが時代を救うことになるとは思われなかった。「連合の原理は個々人を強めることによって弱める、つまり、それは団結の数によって個々人を強めるが、しかしまさにそうすることによって個々人を倫理的に弱くするのである。それぞれ単独者である個々人が、全世界を相手にしてもたじろがないような倫理的態度を自分自身の内に獲得したとき、その時初めて真の意味で結合するということが言える。そうではなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合しても、子供同士の結婚のように醜く、有害なものとなるだけであろう」とキルケゴールは書き残している。
 キルケゴールと同じように近代市民社会の客観的諸形態を突き抜けながら、その限界の彼方に、「無世界的」に孤立する単独者ではなく、「連合の原理」にもとづいて結合するプロレタリアを見出したのは、マルクスの革命の哲学であった。『共産党宣言』が1848年2月末ロンドンで出版されたのは、キルケゴールの時代批判が公にされてからわずか二年後のことであった。マルクスは、キルケゴールが見出した近代市民社会の大衆化過程を、近代資本主義的生産過程の基底に遡って捉え、これを「労働の疎外化」、したがってまた「人間の自己疎外化」として受け止めた。市民社会においてプロレタリア個人は労働しなければ生きて行けないが、その労働は、彼の人格を表現するための「自己活動」ではなく、彼の人格的要求とは必然的な関りのない「疎外された労働」であるにすぎない。自然発生的な分業と交換に基づく市民社会の経済的メカニズムは、個々のプロレタリアの労働過程を没個性的・代替可能なものへと抽象化し普遍化することによって、彼らの人格との必然的結びつきを切断してしまったと見るのである。
 1857年の『経済学批判序説』の中でマルクスは、労働の抽象化と普遍化が市民社会の「もっとも近代的な現存在形態」と照応するのものであることを指摘している。「一定の労働に対する無関心は、諸個人が容易に一つの労働から他の労働に移っていき、しかも労働の一定種類が彼らにとって偶然であり、したがって無関心であるような一つの社会形態に照応する。労働は、ここでは、単に範疇においてばかりでなく現実態においても、富を創造する手段として一般的となっており、使命として各個人と絡み合うことを止めてしまっている。こういう状態は、市民社会の最も近代的な現存在形態であるアメリカ合衆国において、もっとも発達している。だから、ここにおいて初めて、近代経済学の出発点である<労働><労働一般>労働そのものという範疇が、実践的に現実となる」。
 マルクスは、このような抽象的普遍的な労働過程の中でプロレタリア個人は、「一切の現実的な生活内容を奪われた抽象的個人」もしくは「平均個人」となっていると見た。ブルジョア社会の生産諸力は、プロレタリアたちの労働によって作り出されたものでありながら、彼らの人格生活には何ものをももたらさず、彼らは「社会の諸利益から閉め出されている」。「プロレタリア個人がそれを通じてなお生産諸力とつながっている唯一の連関である労働は、彼らにあっては自己活動の一切の外観を失ってしまって、ただ彼らの生活を不快にすることによって、彼らの生存を単に維持しているにすぎない」。こうして、「個々のプロレタリアの人格と、彼に押し付けられたところの彼の生活条件すなわち労働との間の矛盾は、彼その人にとって現れてくる」。だから「プロレタリアは人格として自己を主張するためには、彼ら自身の従来の生存条件であると同時に社会の生存条件であるところのもの、すなわち労働を廃棄しなければならない」とマルクスは言う。市民社会においてプロレタリア個人は、外から押し付けられた労働に従う自己と人格としての自己とに分裂し、しかもこの自己分裂を人格としての自己の立場から克服しようとして、賃金労働の廃棄を決意するようになる。しかし賃金労働こそは市民社会全体の物質的基礎を作るものだから、その廃棄は必然的に市民社会の全構造を変革することを意味し、したがってこのプロレタリアの決意は、この構造を総体として支持する国家権力と正面から対決しないわけにはいかなくなる。こうして市民社会の構造全体を突き抜け、その限界を超えて真の人格であろうと決意するプロレタリアは、「革命的プロレタリア」となる。「プロレタリアは自己の人格を貫徹するためには国家を転覆しなければならない」とマルクスは言い切っている。
 マルクスのいう「革命的プロレタリア」は、市民社会の「悟性形式」の抽象化作用を全身に受け、その人格を排除され、しかもこの社会を越えてあくまで真実の自己すなわち人格であろうと決意する個人である。だから「革命的プロレタリア」は、キルケゴールのいう意味で倫理的実存だと言ってもよいであろう。キルケゴールの倫理的実存もまた、自己の主体性が市民社会の普遍性の中に解消されるのを拒否し、市民社会の限界を超えてあくまで自己自身であろうと欲する個人だったからである。しかしキルケゴールの実存的思索が市民社会の客観的諸形態を突き抜けその限界を越えて「無世界的」に神の前に孤立する単独者を見出したのに対して、マルクスの史的唯物論的思惟が市民社会の構造を越えるものとして捉えたプロレタリアの人格的自己は、決して「無世界的」に孤立するものではなかった。というのは、プロレタリアは市民社会の「一切の現実的な生活内容を奪われて抽象的な個人となっている」というまさにその理由によって、「個人として相互に結合できる状態におかれている」とマルクスは考えたからである。
 キルケゴールとは違ってマルクスは、このような「プロレタリアの結合」が、「団結の数によって個々人を強めるが、まさにそうすることによって個々人を倫理的に弱くする」とは考えなかったようである。人格としての自己を実現しようとして市民社会の構造全体を越えようと決意した革命的プロレタリアは、人格的に結合して新しい協同体を作る。この「革命的プロレタリアの協同体」には「個人が個人として参加する」のであって、それはまさに「個人の自由な発展と運動との諸条件を彼ら個人の統制に従わせるところの個人の結合」である。この結合の力によって、「革命的プロレタリアの協同体」は市民社会の国家権力を奪取し、賃金労働を廃棄し、市民社会においては外的偶然的な力としてプロレタリア個人に抽象化の圧力を加えてきた生産諸力を、彼ら自身の意識的統制の許に置く。そこでは、プロレタリア個人の生存条件すなわち労働は、もう彼らの人格的要求にとって偶然的なものではなくなり、むしろ彼らの人格そのものを表現する自己活動に転化する。だからマルクスは、「この協同体において初めて労働は自己活動に転化し」、「個人は彼の素質をあらゆる方面に向かって発達させる手段を獲得し」、単なる「平均個人」から「全体的個人」になる、と見ている。「それ故に、協同体において初めて人格的自由は可能になる」とマルクスは言う。
 マルクスの史的唯物論は、このような協同体の出現は歴史の必然だと主張する。諸々の世界史的諸民族の興亡浮沈を通じて精神のより高い理念が自己を実現し、ついにキリスト教的ゲルマン国家において自己自身の円環的統一を完成する、とヘーゲルの世界史の哲学は説いたが、同じようにマルクスの史的唯物論は、歴史に現れる諸々の社会形態の成立、発展、死滅を通じて生産諸力が自己をますます発展させ、ついに「革命的プロレタリアの協同体」の出現によって人格的自由を可能にする、と主張したのである。だから、市民社会の構造から閉め出され、その限界を越えて自己主張するプロレタリアの人格的自己は、生産諸力の自己発展によって媒介統一された世界史的全体の中に彼固有の足場を持ち、そこで凱歌をあげることが予定されている。マルクスの史的唯物論は、ヘーゲルの世界史の哲学を倒立させたと言われるが、しかし生産諸力を自己同一的媒介者として世界史の全体を体系化している点では、同巧異曲の論理に従っているのである。
 ヘーゲルが世界史における「分裂の段階」としての市民社会を、民族の有機的組織化としての国家に帰収させたように、マルクスも、市民社会の階級対立は結局は具体的普遍としての「革命的プロレタリアの協同体」に止揚されるものと見ていた。『資本論』ではマルクスは、この協同体における自由を「自然的必然の領域」における自由として、「本来的な物質的生産の彼岸に横たわる自由の領域」における自由から区別して、次のように規定する。「この自然的必然の領域における自由は、ただ社会化された人間、結合した生産者たちが、自然と彼らの質料変転により盲目的力によるかのように支配される代わりに、この質料変転を合理的に規制し、彼らの共同統制の許に置くという点にのみあり得る」。だから、「革命的プロレタリアの協同体」における人間の自由は、「社会化された人間、結合した生産者たち」すなわち具体的普遍としての協同体の中に編み込まれた個人の自由であって、自己目的としての個人の自由ではない。そこでは個々人は、彼の社会的労働を通じて生産諸力の統制的発展という協同体の事業に参加するところに、彼の人格の表現を見出すことが要求される。
 このようなマルクスの「革命的プロレタリアの協同体」に危険があることを、史学的社会学的認識に基づいて警告したのはマックス・ウェーバーであった。「革命的プロレタリアの協同体」の歴史的実践であるかのように見えた1917年11月のロシア革命が、翌年11月9日のベルリン暴動を頂点とする革命の成功を通じて敗戦ドイツにもその巨大な影を投げかけ始めたのを、ウェーバーは見ていた。しかも、それまで一介の政治的ディレッタントにすぎないカイゼルの前に叩頭していたドイツの大衆は、革命のもたらすであろう苛酷な現実を思うことなく、崩壊の血生臭い謝肉祭を「より幸福な未来」への序曲ででもあるかのように錯覚し、これを誇りにさえしていた。中部ヨーロッパの強国としての祖国ドイツを拠り所として、東から迫って来るロシアの警察国家的官僚制支配の脅威と、西から滲透してくるアングロ・サクソン的大衆社会化の圧力に反抗し、ヨーロッパ的人間の「精神的自由と人格の自律」のための防壁を築くことを悲願としていたウェーバーにとって、敗戦祖国の、倫理的に弱い大衆的人間のこの「革命の幻想」は、堪えられなかったのであろう。1918年11月18日付けの母へレーネへの手紙の中で、彼はこう書いている。「重大な危局がまだやってこない今、人々にとって革命の幻想だけがこれに対する一種の麻酔剤となっています。革命についての多くの決まり文句には慄然とさせられます。これまでもそうであったように今までも遠い彼方のことでしかない、より幸福な未来についての漠然とした期待と、全くディレッタント的な児戯に類する行動とには、憂鬱にならざるを得ません」。
 ウェーバーは、第一次大戦後のドイツの革命的状況の中で、キルケゴールのいう「ひとりひとりでは弱い人間の結合」がもたらす事態が何であるかを、冷静に見抜いていた。ウェーバーにとって、それは人格的自由を可能にするというような種類のものではなくて、むしろ人間生活のあらゆる分野での悟性的合理化と官僚制化の極度に徹底された局面でしかなかった。1917年夏、フランクフルター・ツァイトゥング紙上に連載された論文「ドイツ議会主義の過去と将来」の中で、ウェーバーはこう指摘している。「私的資本主義を排除するということが、・・・仮に実現されたとしてみよう。実際、それは何を意味するか。近代的産業労働の鉄の殻が破砕されるとでもいうのか。とんでもない。むしろそれは、これまでの経営が国家化されるか、またはいずれかの共同経済の中に吸収されるかして、その指導が官僚制的になることを意味するだろう。一体、プロシアの国有鉱山や国有鉄道の経営内での従業員や労働者の生活形態は、私的資本主義的大経営内の場合と、どれだけ違ったものという感じを与えるだろうか。国有鉱山や国有鉄道では彼らの生活形態はいっそう不自由になっている。というのは、国家官僚に対する全ての権力闘争は絶望的であり、また国家官僚とその権力の利益に対して原理的に相反するようなどんな要求も、私的資本主義的経営に対する場合のように、提起されないからである。恐らくこのことだけが、ただひとつの違いだろう。私的資本主義が排除されるとき支配するものは、ただ国家官僚制だけである。
 ウェーバーによれば、官僚制は人間精神が凝固して出来た「生きた機械」のようなものであり、それは「訓練された専門的労働の特殊化、権能の制限、いろいろの服務規律、そして階層的に等級づけられた服従関係」を作り出す。官僚制は、その原理とする形式的合理性に基づき、的確、迅速、一義性、持続性などの技術的卓越性を持っているから、近代社会のあらゆる分野での集団構成が従わなければならない運命的な支配形式である。社会主義的未来社会も、技術的卓越性を敢えて放棄しようとするのでない限り、この運命的な支配形式を免れることは出来ない。しかも官僚制の様態を特徴づけるものは、「規則の支配」のもとでの「即物的非人格性」であって、それは、マルクスが「革命的プロレタリアの協同体」の中に実現されることを期待した「人格的自由」の要求とは、必ずしも相容れるものではない。ウェーバーは、近代資本主義の客観的諸形態を越えて社会主義的未来社会の内部にまで自己を貫徹する官僚制支配の「即物的非人格性」を指摘することによって、キルケゴールのいうように、「ひとりひとりでは弱い個人の結合」が、「団結の数によって個々人を強めることによって倫理的にはこれを弱くする」結果になることを、社会学的に実証しようとしたように見える。「わが国の知識人の中には、現在のような経済的生産の無政府状態と今日の議会の党派的運営が排除されて、社会秩序と有機的編成が取って代わった時、初めて真の自由の光が輝くと考えているものがいるが、そうした秩序と編成は、実のところ、どうにも逃れることの出来ない唯一の勢力、国家と経済における官僚制の庇護のもとでの社会的に無気力な平穏無事の状態であるにすぎない」とウェーバーは言い切っている。
 近代市民社会の運命となった悟性的合理化の過程は、機械的生産の技術的基礎の上に立つ近代資本主義の経済組織を作り上げたが、そこでは「資本計算の最高度の形式的合理性」のもとでファウスト的人間の多面性の断念が要求され、各個人は専門家 Fachmann、すなわち部分人 Fachmensch として、形式的合理性に割り当てられた組織の機能を遂行しなければならない。そこでは、ウェーバーが終生求めて止まなかった「精神的自由と人格の自律」は社会の表面から消されてしまう。「今日、究極の、最も崇高な諸々の価値は、全て公の舞台から引き退き、あるいは神秘的生活の隠れた世界の中に、あるいは人々の直接の交わりにおける人間愛の中に、その姿を没し去っている。これは我々の時代、すなわち合理化と主知化、とりわけ呪術からの世界解放を特徴とする時代の宿命である」とウェーバーは述べている。
 だからウェーバーもまた、近代市民社会の大衆化過程を虚偽とするひとりの単独者として、この過程を自己にとって異他的なものと感じ、これに対して反抗的だったと見てよいだろう。しかしマルクスと違ってウェーバーは、「プロレタリアの結合」に人格的自由の未来を期待することは出来なかった。そこでは国家官僚制の全面的支配のもとに、「ひとりひとりでは弱い個人」が「子供同士の結婚」のように「結合」するだけなのである。ウェーバーは近代市民社会の悟性的合理化のもたらした大衆社会的状況を前にして、「精神的自由と人格の自律」が「神秘的生活の隠れた世界」や「人々の直接の交わりにおける人間愛」の中で「象徴音(ピアニシモ)で脈打っているにすぎない」ことを身をもって痛感していたが、そうかといって「革命の幻想」に逃避することも出来なかった。ウェーバーに残された道はただ一つ、「運命を直視すること」だけだった。自分の弱さからくる自己欺瞞やヒステリー、政治的プロパガンダが描くユートピアの幻想など、あらゆる錯覚のヴェールを取り払い、自己自身の投げ込まれている悟性的合理化と官僚制化の過程を赤裸々に直視し、そこから運命的に送られてくる即物化の要求を自己の責め、すなわち「仕事 Sache 」として男らしく引き受けることだけが、「呪術からの世界解放」を特徴とする現代に生きる者の態度でなければならない。「現代の人々にとって、とりわけ若い世代にとって、もっとも困難なことは日常性に堪えることである。あの<体験>を求めての努力は全て、この意味の弱さに発する。というのは、弱さとはつまり時代の運命を直視することが出来ないということだからである」と彼は言っている。ウェーバーは「精神的自由と人格の自律」を理念として、ひとたびは大衆社会化しつつある日常性の世界に対して否定的・限界暴露的に対決したが、この世界の限界において、この限界を越えて貫徹する悟性的合理化の運命的過程に触れ、そこに投げ出されてある虚無的な自己を自らの上に引き受け、それを通じて自己の現前の状況としての日常性の世界に還帰しようと決意したのである。だから、ウェーバーが「時代の要求に従い、仕事(ザッヘ)に忠実であれ」「人格とは仕事(ザッヘ)に忠実な者のことだ」というとき、その言葉の背後には、社会の客観的諸形態との不断の緊張の中に生きる孤独な単独者の反抗の姿勢が隠されていたのである。









































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