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zoom RSS 実存主義と時代批判(2)

<<   作成日時 : 2017/05/06 11:27   >>

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 「時代の要求に従い、仕事(ザッヘ)に忠実であれ」とM・ウェーバーが言う場合の「人格」は、現代の社会心理学が、「組織人」(W・H・ホワイト)、「他人志向型」(ダヴィッド・リースマン)、「自動人形」(エーリッヒ・フロム)、「同調型」(ロバート・マートン)などの仮説で捉えようとしている大衆的人間のパーソナリティと似ていると思われるかもしれない。そこでは、官僚制化された組織のために働き、組織に帰属し、精神的にも肉体的にも組織に忠誠を誓うことによって、即物化的な大衆社会的状況の中での自己の心理的アノミーを収束しようとする社会的パーソナリティが、豊富な実証的資料を使って描かれている。こうしたパーソナリティは、自己の良心ではなくて、同輩集団やマス・メディアや権威者から発せられる信号に従って外部の文化的・制度的秩序を自己自身のパーソナリティの統括体系として全面的に受け入れ、社会的期待に完全に同調することによって、社会の客観的諸形態と自己の内面性との分裂から逃れようとするのである。
 しかしウェーバーの言う「仕事(ザッヘ)に忠実な人格」は、その根源に単独者の実存開示性が働いているという意味で、こうした大衆的人間のパーソナリティとは区別されねばならない。ウェーバーの言う「人格」は、フロムが「疎外的労働によるパーソナリティの分裂」に対する反応の一つの型として指示した「積極的自由への道」、すなわち「愛情と仕事において、自己の感情的、感覚的および知的な能力の純粋な表現において、自発的に自己自身を世界に結びつける」といった場合のパーソナリティに、むしろ近いと見てよいだろう。あるいはW・H・ホワイトが、「集団の倫理に重きをおくことは、組織人の誇りである」「組織は人間によって作られてきた、それは人間の手で変えられるはずだ」「社会と個人の相克にたじろがずに直面するところに、個人たることの真価がある」「組織が個人の上に権力を振るえば振るうほど、彼はますます組織に反抗すべき足場を確認する必要がある」などと言う場合の、パーソナリティに近いと言ってもよいだろう。あるいはまた、かつて我が国の経済哲学の先達である杉村広蔵は、昭和十三年に公にした『経済倫理の構造』の中で、人格 Person がペルソナ persona すなわち「面」または「役割」という意味をもつことに注目し、近代国家、機械文明あるいは近代資本主義というような社会的価値形態が充実されていくドラマティックな過程の中で初めて、ペルソナとしての人格が形成されていくことを強調したが、杉村のいう「心情倫理」に対する「社会倫理」の担い手が、ウェーバーのいう「仕事(ザッヘ)に忠実な人格」だと言ってもよいであろう。杉村のいう「ペルソナの倫理」は左右田哲学の人生二元論から出発したものであり、単独者の孤独な境地に具体化される「創造者価値」と歴史的社会的な協同の内に実現される「文化価値」との間の緊張に堪える倫理として提唱されたものだからである。
 こうしてウェーバーのいう「仕事に忠実な人格」は、単独者として現代の大衆社会の客観的諸形態との不断に緊張の内にありながら、そこから送られてくる仕事を自己のペルソナとして自己自身の上に引き受けるものである。そのペルソナには単独者の実存が悲劇的に開示されている。この実存の開示性は、危機的な状況においては、現代の大衆社会の客観的諸形態に対する反抗となった現れるであろう。「人間は単独者としては、全体の存続のための機能としてしか彼に存在を許さないような現存在秩序には、決して完全には入り込まない」「人間が仕遂げねばならない割り当てられた仕事をもつ労働引受人でしかないとき、各人にとって、人間としての存在と労働者としての存在とへの分裂が、その人自身の上に決定的な意義をもつものとなる」「単独者は、彼が依存し共働する幾千もの関係を通じてその中で生活する現存在秩序の機構の中で、いかなる意味でももはや彼自身ではあり得なくなる時、反抗する」とヤスパースも言っている。しかし自己のペルソナを通しての単独者の反抗は、国家権力の奪取に「全てか、無か」を賭ける革命的行動という形はとらないであろう。近現代の革命思想の根底には、革命者は人間歴史を一個の全体として、完結した客観性として捉える「絶対無謬の真理」、つまりヤスパースのいう「全体知」を所有しているのであるから、あらゆる犠牲にも拘わらず国家権力を奪取する権利があり、またその国家権力を民衆の人間生活の前面に向かって強制する権利がある、という信念が潜んでいる。このような「全体知」は歴史の未来を客観的に見透すことを可能にするように見え、またこの見透しに基づいて個々の行為に対して客観的なプログラムを指定してくれるように見える。そこに、あたかも「工芸家が与えられた材料から工芸品を作る」ように、計画する人間が人間そのものを計画的に形成することが出来ると思い込む非人間的倨傲が生まれてくる。そこに、キルケゴールのいう「子供同士の結婚のように醜く、有害なもの」、ウェーバーのいう「国家官僚制のもとでの隷従の殻」が出現し、一人一人では弱い大衆的パーソナリティは、T・W・アドルノなどのいうように権威主義的な服従と攻撃を中核とする強迫症的なものに変身する危険が生まれる。
 自己のペルソナを通しての単独者の反抗は、むしろアルベール・カミュのいう意味での反抗であろう。カミュのいう反抗は、単独者の実存的決意から発する行為であり、反抗の思想は、そうした実存的自由の根源をどこまでも尊重する思想である。反抗の思想は、人間歴史の全体について「絶対無謬の真理」をすでに所有していると主張する「全体知」を拒否し、そうした「全体知」を理由として、革命に伴う人間の犠牲を倫理的に正当化することを拒否し、国家権力を民衆の人間生活の全面に向かって強制することを拒否する。反抗者は、単独者の実存的決意に基づく行為に対するあらゆる抑圧、侵害を排除しようと努力するが、その反抗は、人間歴史の「全体知」によって自らを正当化するものではないから、反抗者がその中に編み込まれている社会の客観的諸形態を独断的全面的に否定するのではなく、彼が責任を引き受けることの出来るその時々の具体的状況の中で、彼にとって許すべからざるものとして感ぜられる不条理への反抗に、その都度限界づけられる。それは「革命の幻想」を斥け、人各々にとって最も身近な私生活や職場やコミュニティにおける反抗の積み重ねを重視する。「革命は抽象から出発して、現実を型にはめる。反抗は逆に、現実を基盤として、真理への不断の闘争に進む。・・・だからこそ反抗はまず最も具体的な諸現実、すなわち物事や人間の生きた心、存在が見出される職場や町や村を基盤とする。政治はこれらの現実に従わねばならない」とカミュは言う。だから、カミュの反抗の思想は過激の思想ではなく、中庸の思想であり、改革の思想であり、「正午の思想」である。自己のペルソナを通しての単独者の反抗は、歴史の暗闇の実存から出て正午の光の中の仕事の世界に進み、これを一歩一歩改革していくのである。ヤスパース的に言えば、「夜の情熱」が「昼の法則」のもとで働くのである。カミュの言う「念の入った黙示録に身を捧げた現代の熱狂的信徒たち」は、こうした中庸としての正午の反抗を嘲笑するかもしれない。しかし彼らは、この時ここにおいて、何をしようとするのだろうか。また何ができるのだろうか。「我々の文化方面によく見受ける精神の陶酔状態は、過激なめまいか、不可能への狂気沙汰ではないか。・・・過激はいつも慰安であり、職業となることさえある。中庸は反対に単なる緊張にすぎない」。1950年のフランスの精神状況についてカミュはこう語っている。

   *  *  *

 人間は最も本能的でないものとして、知性的な存在である。本能は自然に対して、あるいはベルグソン流に言えば生に対して、内から働きかける。このことは、それの為すところが自然の仕事の延長であることを意味するのであって、それゆえに本能は自然的機能なのである。知性はそれに反して、外から自然に働きかける機能であり、自然に手を加え、製作作用を営み、その製作結果たる道具を使用する。この知性の働きが技術であると考えられる。本能をも一つの技術として認める立場に立って言えば、人間には他の動物のように、種と分かち難く結びついていた特定の技術が自然によって前もって与えられていなかったという、まさにそのことによって、人間のみが真の意味の技術を有するに至ったということも出来よう。
 自然から解放され、種の束縛から脱したものとして、人間は個性的なものであり、自由な存在であり、無限の可能性を蔵している。さらにサルトルの言葉を借りて言えば「自由たるべく断罪されている」から、技術を具えているのである。動物はこれに反して、上のサルトルの言葉をもじって言えば、いわば「生きるように断罪されている」のであり、自ら生きることを意志してはいない。それゆえにこそまた、動物は生きることの出来ない環境にあっては甘んじて死んでいくのである。自らの生命を断つことも出来る人間のみが、生きようと意志するのであり、かくて人間は生きる上に自然が自分に必要なものを与えてくれぬ場合にも、諦めることをしない。望むものを得ようとするのは、それが生きる上に必要なものだからであり、その必要を感ずるのは、人間が生を営もうとするからである。
 けれども、生を営む上に自然に対処する仕方が技術であるにしても、このことは人間が本能的存在でないがゆえにその代わりに外から自然に働きかけるという知性の働き方を表すのが技術であるということを意味するのであろうか。技術知としての知性を本能に対立させたベルグソンは、そのように考えている。彼によれば、そこに見られるのは「同一問題に対する二つの異なった解決の仕方」である。究極の目標とするところは、本能にあっても知性にあっても、等しき生物学的な意味での「生」に他ならない。しかし、このような見方に疑問を投げかけるのがオルテガである。彼によれば、餓死を免れ、あるいは凍死を免れる等々のために必要なものの充足を容易にすることに、技術は限られていない。例えば酩酊し陶酔する手段の発明その他、先の意味では必要とされぬものに関わる手段や道具の発明も、身を養い、身を暖めるための手段や道具の発明と同じように古来からのものであり、原初的なものなのである。このことは、未開人が何らかの楽しみを得ることを、生命維持の差し迫った必要を満足させることに劣らず、必要と感じたことを意味している。
 してみれば、人間は単なる生存ではなくして、何らかの意味で快適な生存だけが生を意味するのである。生存の客観的不可欠条件という類のものも、そのような生の前提条件として、主観的に必要なものとなって初めて、その必要が感じられるわけである。こうしてみれば、「人間は生を営もうとする」と言ったのでは不十分であろう。人間が営もうとするのは快適な生なのである。そして、そのような営みのために必要なものを満たし、またはそれの獲得や充足を容易にする手段が技術であるということになる。
 オルテガは人間が技術について、特にあれこれの特定の技術についてではなく、技術的機能一般について抱いてて来た観念に注目して、三つの主要段階を区別する。第一は偶然の技術であり、第二は職人の技術であり、第三は技術者の技術である。これは時代的には、未開時代の技術、古代および中世の技術、近世以降の技術にそれぞれ対応するものである。まず、未開人における技術について言えば、彼らは自分たちの技術を技術としては全く知らない。未開人の利用し得る技術的活動は極めて限られている。彼らの生活活動の大部分をなすのは自然的活動である。そのために、技術的活動は自然的活動から区別されるに足るだけの一領域をなすには至らず、後者の内に属するもののように考えられる。更に、彼らは自分たちが発明し得ることを知らない。彼らの行う発明とは、したがって、解決を前もって熟慮して探求した結果ではない。偶然に思いがけぬ結果が生じて来るのであり、解決の方が人を待ち受けているのである。彼らは自然がその秘密の一つを贈ってくれたかのように思い、何かを発明しても自分をそれの発明者とは考えない。発明によって現れるのは単にこれまで知られなかった自然の力であり、彼らにとって技術とはどこまでも自然なのである。
 それでは、職人の技術はどうであろうか。ここでは技術活動は非常に高まる。けれども、最も重要な技術の突然の破綻や消滅でさえも共同体の生活を不可能にしてしまうほどのものではない。技術をもってする生活と、技術なしでの生活との差がまださほど根本的なものではないのである。とはいえ、先の段階に比すれば、技術行為全体は著しく成長を遂げ、それにつれて複雑化する。それはもはや、誰でもが行い得るようなものではない。一定の人がそれを引き受け、己の生業とすることが必要となる。その結果、技術は今や特殊なものとして意識されるに至る。すなわち、職人の活動として理解されることになるのである。技術の存在には人々はまだ気づいていない。けれども、全ての人間に具わる自然的能力とは類を異にする或る特殊な能力を具えた技術的な人間が存在することには既に気づいている。
 これに対して、近代の技術が技術者の技術として特徴づけられとすれば、それは技術と職工とが分離していることによる。それまでは人間は自己の発明の才を知らなかったがゆえに、発明は何ら職業ではなかった。しかし、今や技術者は発明する前に、発明し得ることを知っている、彼は己の技術を有するよりも以前に「技術というもの」を有しているのである。かくして、技術は独立し、これまで他のものの内に隠されていたそれ自身の姿をまさにそれ自身として現すに至る。過去の技術者は、彼が熟慮して発明を成し遂げる場合、専ら経験に頼ったが、近代の技術者は求める全体的結果を部分的な諸結果に分けることから始める。彼は自然を分析するのである。そこに見られるのは経験でなく、科学的方法である。技術と科学がここでは結びついている。技術獲得の仕方が職人の技術とは全く異なるのである。職人の場合には、親方と徒弟という関係が形づくられ、古い伝統から生じ来たった技術の習得がこととされていたのであるが、技術者の技術は自然に対して対象的に立ち向かいこれを方法的に処理する所に成り立つのである。人間からの技術の分離は、しかし、これに止まらない。技術者の技術は科学技術であると共に、更にまた機械技術である。近代以前の技術の行うところは道具の発明であり、機械の発明ではなかった。そして、道具は人間の働きの補助をなすに止まり、主たる生産者は人間であり、あるいは人間の自然的活動であった。技術はどこまでも人間の自然的限界を出なかったのである。けれども、機械は自ら仕事を行い、物を生産する。それは人間の手助けをする道具ではなく、独立した装置であり、人間の方が機械を助けるのであって、人間の果たす役割はごく僅かに限られている。科学的機械的技術は特定のものに関わらぬ機能、際限なく進歩する機能として、人間から全く独立したのである。
 人間の自然的諸能力は所詮たかの知れたものであるが、機械の能力は無限に伸張可能である。それにより、技術は急速な進歩を遂げたのであり、また現に遂げつつある。我々の世界はそれに伴い、面目を一新したのである。オルテガによれば、職人の時代には技術と自然的なものとは均衡がとれていた。しかし近代以降は技術的なものが遙かに凌駕し、技術なしには人々は生きられない。しかし、人間がもともと技術人であるとすれば、人間にとっての世界は過去においても何らかの意味でそれなりに人為的世界であり、非自然化された世界であったはずである。もとより程度の問題だとはいっても、極度に人為的であること、平衡を失していることは重大なことではある。けれども他方、どのような状態をもって平衡を失していると判断するかは、結局は見る人の主観的な問題だとも言えるであろう。自然に帰れということにしても、少なくとも態度としてこれを考えるならば、必ずしもルソーに始まるものではないのである。
 現代は過去と異なり、科学技術の世界、機械技術の世界であることは疑えないが、それがそのように呼ばれると共に、また端的に技術の世界と呼ばれるのは何ゆえであるのか。確かに、現代社会は、技術に拠らねば人々が全く動きの取れない世界であろう。それにより、人間はいわば技術に支配され始めたと言い得る。だがそれは、単に依存度にのみその理由があるのではない。道具的技術から機械技術への移行により、技術は人間から独立した。ということは、技術が人間の手から離れて、独走態勢に入ったことを意味する。職人の技術の時代には、技術の中心に座っていたのは道具使用者としての人間であったとすれば、近代技術の中心に座っているのは、もはや人間ではなく機械である。してみれば、人間が技術に支配され始めたのは、技術が人間の位置にとって代わったことにあるのである。現代社会が技術社会であるのは、人間と技術との関係のこのような逆転にあるといえよう。
 ヤスパースもマルセルも技術それ自身は必ずしも非難されるべきものではないという意味のことを言う。要は、技術世界への単なる従属に終わらず、何らかの意味でこれの克服を目指すことにある。それにしても、克服が要求せられるのは、技術それ自体としてはポジティヴな価値を有するものであり、技術によって得られるものが多くあるとしても、失われるものもまた少なくないからに他ならない。技術による画一化は交通機関の進歩によっても促進される。世界は急速に狭くなり、各地方の特色は失われ、それぞれの固有な伝統や風習も消え去っていく。注意すべきは、これによって世界が一つに結びつくのではないということである。すなわち、この画一化は結合的統一とは全く異なるのである。この点を繰り返し強調するのがマルセルである。彼によれば、同一化は統一ではないし、もし仮に統一化であるとしても、その統一化とは、諸々の存在にそれぞれの独自性と価値とを最初に得させる差異を縮小喪失させることによって得られる統一化である。人々の向かう統一は価値と見なされるべきであるのに、ここに見られる統一(実は同一性)とは価値に反するものでしかない。真に一つの価値である統一とは、これに対して、相手方を品位を具え自体的実在を有するものと認めて初めて成り立つ。まことの情愛にせよ、友情にせよ、親密性が成り立つところでは、この相互の独自性がいつも認められている。けれども、各自の独自性を失わせることによって、画一化が真の統一に反し、むしろこれを妨げるものであるとすれば、それはまた真の普遍に反するものであろう。なぜなら普遍性とは最大限の一般性というようなものではないからである。例えばべートーヴェンの晩年の作品をとってみれば、ここに一般性の概念を入れてくることは考えられない。その作品が人間的条件の最も内密なもの、最も聖なるものに我々を導くとき、それは極めて限られた少数の人間に対して呼びかけているにすぎないにしても、それによってその作品の普遍的価値がいささかも損なわれるわけではない。普遍性とは広がりの内にではなく、深さの次元にあるからである。マルセルはこれにより、大衆と普遍とを対立するものとして、大衆に対して普遍を擁護すべきことを説いているのである。
 技術の時代は確かに大衆の時代である。人間は非個性化し、集団化している。この集団化が普遍的なものと無関係であること、むしろ孤立化と手を携えて進むものであることを、我々はマルセルと共に認めねばならないであろう。交わりの喪失は、機械に支配されているこの大衆の時代の呈する一つの深刻な症状である。その顕著な現れをマルセルもヤスパースも家庭生活の崩壊の内に見ている。日々の生活全体の営み方が事務の運営のように技術化され、それにより、生き生きとした身の廻りの環境世界は変わり映えのしない、どうでもよいものに変じてしまう。本来家庭教育に対して脇役たるべき公共教育がむしろ主役となり、子供を両親の子供からただ全体的なものの子供にしてしまう。家庭の中にまで、このように解体化が及んでいるとすれば、隣人との交わりが消え失せてしまっていることは当然のことであろう。交わりに代わって勢いを得るのは自他の比較であり、その比較による競争である。交わりは結び合う人々がそれぞれ自己自身であり、独自の存在であることによって成り立つとすれば、平均化され水平化された大衆は、自分たちが誰でもない存在、もしくは誰でもある存在たるがゆえに、相互に比較し合う。自他の価値は、各自の内的なものに由来するのではなく、単に比較による優劣によって決定されるのだからである。他人の所有しているものは自分も所有せずには済まず、他人に出来ることは自分にも出来なくてはならない。かくして、欲望はいよいよ熾烈の度を加える。本来人間的欲望と結びついているものたる技術は、新たなる欲望を次々に生み出し、その欲望の奴隷に人間は堕する。他人の満たした欲望を自分が満たし得ぬところには、ルサンチマンや嫉みが昂ずる。自己に固有な誇るべきものを有しないがための嫉みである。もし、人間が自己自身であるならば、彼は隣人が自分より優越しているのも認めても、心からの歓喜を覚えるであろう。この場合、自他の価値は比較の結果として得られたものではないからである。マルセルの言うように、比較の精神と兄弟愛の意識とは全く相容れぬものなのである。
 ハイデガーは近代技術の本質を「配置」(Gestell)にあるとする。この「配置」という言葉は、彼の与える一応の説明によれば、「配置」とは現実的なものを在庫品として注文にかなうような仕方であらわにするように強要する働きの結果である。このあらわにする働きは、自然をエネルギーの在庫品の主要な貯蔵庫として捉える。技術は本来一つの露呈作用であるが、近代技術を支配している露呈作用とはエネルギーを、採出され貯蔵され得るような形で供給することを自然に無理強いする強要である。田畑を農夫が耕作している場合には、その働きは強要ではなかった。彼らは育成していたのである。けれども、今や農業は機械化されており、そこには自然への強要がある。これに応じて、人間の注文的な態度はまず近代科学の抬頭に示される。近代科学は自然を計量可能な諸力の連関として捉えようとするものであるが、ここにおいて支配しているのは注文的な露呈への強要的な結集だからであり、それゆえにこそ、近代科学は近代技術の本質を先取りしているものなのである。近代科学はますます非直観たらざるを得なくなっているが、これも自然が在庫品として注文にかない得ることを要求する「配置」の支配によって強要されることなのである。近代技術の本質は「配置」に存するから、それは厳密な自然科学を使用しなくてはならぬのであり、近代技術が応用自然科学であるかのような錯覚を起こさせる理由もそこにあるのである。
 ハイデガーはまた次のように説く。現実的なものを在庫品として露呈する強要作用を行うのは、たしかに人間であるが、自然のエネルギーを強要すべく人間の方がまたすでに強要されている限りにおいて初めて、露呈は起こり得るのである。そして、人間がそのように強要され、注文に合されているとすれば、人間は自然よりなお一層根源的に在庫品に属していることになろう。このことは人的資源という言い方の内によく示されている。森の中で切り倒した木材を測り、見たところ父祖と同じ森の道を同じように歩き回っている山番も、木材工業によって注文に合されている。彼はセルローズの注文に合うように出来上がっており、セルローズはセルローズでまた、新聞雑誌のための紙の需要によって強要されている。そして、新聞雑誌は世論を操作し、世論をして、印刷されたものを鵜吞みにし、注文に合った意見の調整のために注文に合うように仕向けるのである。こうして、全ては組織化されて「配置」の中に組み込まれ、存在するものはひとり「配置」のみということになる。人間が今日もはや自分に出会うことはないとハイデガーがなすのは、これがためなのである。
 技術の相の下に全てを眺め、製作的な立場からものを捉えるというこの態度の表れを、我々は種々の思想の内に看取することができるであろう。まず第一は実用主義である。この点はデューイに最もよく示されている。彼によれば、技術者にとっての事物は、それ自身として観察され注目されるべきものとしての事物ではない。技術者は事物に、彼が心の内に抱いている目的、つまり、それを用いて彼の成し遂げたいと望んでいる事柄との関連において注目するのである。事柄の為し得ること、または事物を用いて為し得ることだけが問題である。そして、実用主義とはこの技術者の態度をとるものなのである。かかるデューイの立場からすれば、操作されるにしたがってその事物の呈する諸相が取りも直さずその事物に他ならず、それ以外には事物は何ものでもない。内的本質をうんぬんするがごときは、閑人の慰み事にすぎぬ。それは技術にとって何の役にも立たぬばかりではなく、妨げになるものなのである。
 しかしながら、このような内的本質の無視は必然的に内的価値の無視に通ずるものである。価値は換算し得ないものであるが、技術は全てを計算可能なものに変じようとする。かくて、価値に代わって価格がはばを利かせる。事物財は商品、すなわち貨幣価格に表し得る交換物となる。それでもなお価値が言われるとすれば、その価値とは単に実用的な価値である。ここからまた、機能主義と能率主義が抬頭する。あるものがどのような働きをして、どれだけの効果を上げるかに、専ら関心は向けられる。それぞれのものに特有な内的価値が重んぜられないがゆえに、全ては代用品で間に合う。一定の機能を果たし、能率を上げるものでさえあれば、どれでもよいのである。能率の上がらないものは遠慮会釈なく廃棄される。新たなものが、それの一層の効率のために、絶えず追い求められる。そして、この能率主義で評価基準をなすものは、これまた量である。成し遂げられた仕事の質的内容いかんではなく、一定時間内に仕上げられた仕事の量や成果の多少を人々は問うのである。
 これらの見方と絡み合って支配的になるのが進歩の思想である。一般に人間活動の歴史的な諸成果について進歩ということを問題にし得るとすれば、技術についてこそ最も明瞭確実に進歩が認められるように思われる。いわゆる「古代人近代人の争い」は技術に関しては起こり得る余地はなさそうである。「進歩するもの」ということを以て、技術を他の文化諸活動から区別する一つの標徴となすことさえ出来るように考えられるのである。けれども、技術についても、例えば職人の技術の段階では進歩はさして問題となり得ぬであろう。職人の技術は人間の本性に属するものであり、その限り本質的な展開発展を伴わぬものとされたのである。テクネーとしてギリシア的に理解された技術は「進歩するもの」としての技術では必ずしもない。ひとり近代技術のみがそのような技術なのである。
 近代に至って初めて技術が進歩するものになったのは、現象的にはそれが人間から独立して無際限に進展し得る機能となったことによってであるにしても、実を言えば、新たな存在把握がその背後にあったからである。本質なるものは進歩しない。この意味では、方法論上の本質主義は明らかに進歩を妨げるものと言うべきである。技術の進歩に力を添えたのは、実用主義であり機能主義であり能率主義であり量の思想である。これらの思想が支配的になれば、全てを進歩するもの、ないし進歩すべきものとして捉え、専ら進歩を重視する思想が隆興することは必然の成り行きである。技術の相の下なる世界は、技術と進歩との結びつきにより、また進歩の相の下なる世界となったのである。事象内容は問題にされないということになれば、進歩をいうことが妥当であるかどうかが従来疑問とされた領域にあっても、進歩観念を拒否する理由はなくなる。事象の意義も価値も、それが進歩の道程にあってどの段階、どの地点を占めているかによって決定される。到る所で目指されるのは単に「より以上」ということである。新記録の達成その他、記録に人々の注意が集中するのもこれがためである。それは特にスピードの記録への熱狂となって顕著な姿を示すのである。
 しかし、全てのものを利用され製作される対象となすことは、存在に対する正しい態度であろうか。この点に向けての近代批判としては、例えばシェーラーの次のような批判が或る。それによれば、近代人は世界をそれ自身としては渾沌無秩序なもの、したがって、人間によって秩序づけられ、支配されるべきものとみなす。ここには存在への不信、世界への敵意が存する。近代にエートスを特徴づけるのはこの種の不信感、敵対感であり、これが近代の病弊の因をなしている。我々に必要なのは、存在への信頼感を再び取り戻し、世界との生きた交わりに入ることなのである。このシェーラーの見解とはいささか立場を異にはするが、同じように存在との交わりの重要なること、しかも技術世界においては人間は存在への関係を保ち得ないことを説くのが、ブーマーでありマルセルである。すなわち、ブーバーは「我とそれ」の世界たる技術世界に対して、関係の世界たる「我と汝」の世界を強調し、マルセルは所有し、操作し、解決を図る活動にとっての世界としての「問題」の世界に対して、自己が全体的に関わり、参与する世界としての「秘儀」の世界の意義を説く。ハイデガーの説く存在忘却もこれと無縁なものではない。彼もまた技術の内に存在忘却の極まった姿を見ているのである。
 全てが技術の相の下にある限り、人間もまたその相の下に置かれることを免れ得ない。技術によって全てを解決しようとする人間は、他の何ものにもましてまず人間を、専ら技術的に解決される存在にしてしまうのである。人間が単に資源として、またあるいは在庫品として考えられるのもそのためである。
 技術世界が非人間的な世界たりかねない所以は今や明らかであろう。実用主義、機能主義、能率主義、量の思想等々は人間に対しても当てはまるのである。人間への評価は、その人間の存在に従って為されるのではなく、世間一般に対して彼の行う有用な働きによってのみ下される。人間もまた代用の利くもの、交替可能なものである。求められるのは人間の存在ではなく、「人間」と呼ばれる一個の事物であり、または、かかる事物の機能やその効率である。人間は機構に組み入れられた歯車として効率を上げれば、それでよいのである。人々の幸福が意図される場合にも、目指されるのは例えば最大多数の最大幸福である。人々の量とその量的幸福が問題なのである。計量不可能な人間の内的魂の歓喜や不安は無視される。人間の尊厳というようなものは、技術のあずかり知るところではない。かくして、まさに「人間そのもの、人間の観念それ自身が我々の眼前で解体しつつある」(マルセル)のである。自分も他人も代用の利くものであるということになれば、交わりの意義は全く失われる。そもそも、存在への関り方を知らぬ者には、人間との交わりも無縁であるとも言い得るのである。そして、自他の交わりに代わって登場する相互比較を促進させるものが、とりわけ進歩の思想である。各自の固有の本性が尊重せられなくなり、単に「より以上」が問題となれば、自他の間に生ずるのは比較の精神だからである。自己の価値はどれだけ他人より先んじているかによって測られ、より一層先に進むことだけが重要になる。

 <キルケゴール>
 キルケゴールは、1846年3月30日『文学評論』を刊行した。これは、その前年10月に刊行した匿名の小説『二つの時代』に関する評論という体裁のものであるが、その中で『現代』と題されている末尾の40頁が、『現代に批判』として独立に扱われるに至っている。この部分の冒頭で彼は次のように言っている。「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であって、たまに感激に燃え立つことがあっても、如才なくすぐに元の無感動に落ち着いてしまう」と。彼の時代批判は、この一文に要約され得る。
 キルケゴールは『現代に批判』に先立つこと一か月『哲学的断片への非学問的後書』を公刊している。この書は、彼の主著ともいうべき重要なものであり、ここに実存の思想が開陳せられる。「多識のために、実存するとは如何なることか、内面性とは何を意味するべきか、が全く忘れられてしまった」と。多識とは多量の知識であり、「知は力なり」という知識に対する信頼を示すものである。「学問的には、思惟が最高のものであるということは、全く適切である」と彼もいう。だが、「知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増す」(『伝道の書』1-18)ことを忘れてはならない。なぜか、は、キルケゴールが実存をいかに性格づけているか、を見れば判明する。真と善と美、この三者が思惟によって、つまり真のもとに統合されてはならないのであって、実存において均等していなくてはならない。すなわち彼は、「全人」たることを要求する。また、だれしも全人足り得るように生まれついている、と主張するのである。しかし、全人とは理想であって、我々は一面的たらざるを得ない。ここに「思惟の一面性」が登場する。そして学問は、実存の諸要素をそれらの知識と化してしまう。愛することなく、信ずることもなく、愛とは何か、信仰とは何か、を知るのみとなる。想像が、感情が下位のものとされ、知識が、思惟が最高であるとされ、思惟そのものの一面的であることが忘却されてしまう。
 キルケゴールによれば、現代の人々は、その豊富な分別、反省の助けを借りて「何を為すべきか」を非常によく心得ている。ところが彼らは行為するには至らず、傍観者となってしまう。反省が過剰になるにつれて行動が消滅していく。実に反省は、どのような時にでも説明の仕方を変え、最後の瞬間にでも万事を覆す能力があり、反省の釈明が繰り広げられるとき、質的な差別というものは維持され得ず、何らかの逃げ口上が可能になり、行為への決意はその弾力性を失い、行動に至ることはない。例えば善悪の区別でさえも、あるいは善の愚鈍なることを説く驕慢な怜悧さによって曖昧にされ、あるいは悪に関する皮相な、お上品な理論によってぼやかされ、こうして善に鼓舞せられて偉大なる事業を遂行する人もなく、悪に憑りつかれて極悪な罪を犯す人もいない。
 空気が密閉せられたままだと毒素が発生するが、同じように、反省が情熱を幽閉する時、嫉妬が発生する。情熱は嫉妬という形で現出する。「あえて言うならば、反省の理念とは嫉妬なのである」。ところでキルケゴールによれば、嫉妬とは本来「優れたものに対する揶揄」に他ならない。人間というものは、ある一つのものを讃嘆し続けることを好まず交代を望むからである。つまり嫉妬は、優れたものに対して平衡を保つための一種の正当防衛であり、優れたものを卑小化するものではなく、むしろ讃嘆の否定的表現なのである。しかるに、反省の理念としての嫉妬は、この嫉妬本来の意義を亡失しており、反省がそうであるように、質的な区別をぼかしてしまう。キルケゴールはこのような嫉妬を「無主義の嫉妬」と呼ぶのだが、それは「優れたものを優れたものとして理解せず、また否定的にも承認せず、優れたものを引きずり下ろし、優れたものを卑小化してしまう」ものである。かくして、あらゆるものが同じ低劣なる水準に位置づけられる。「嫉妬は水平化する」のである。かくて、適当な人数さえ確保されれば、どんなにくだらないことでも立派なことであるとされ、どんなに卑しい人間でも平等に一個の人間として通用する。反対に、どんなに優れた人でも一人だけでは無意義なのである。このように数的な平等の理念のもとに、水平化が推進せられ広々とした地平が開ける。
 ところで、水平化が徹底するには、まだ或るものが欠けている。キルケゴールが「水平化の本来の主人」と名づけているもの、「公共(大衆)」が成立していなくてはならない。公共に埋没した人々には、その具体性の喪失の代償として、今や公共の名のもとに振る舞うことが可能になる。一切にして無である抽象的幻影にすぎない公共を、この巨大な全体を我がものと称し、万人に向かって公共の名において語り得る。印刷物という従者を従えた公共は、水平化の主人たるに相応しく、水平化に邁進するのである。
 以上のような「現代」の大局的な叙述に続いてキルケゴールがあげている、その時代の個別的な諸特徴について、興味深いものもあるので、ごく簡単に触れておこう。まず第一に「饒舌」が挙げられる。人々は語るべきことと沈黙すべきこととを、語るべき時と沈黙すべき時を区別せず、あらゆることを饒舌の種となす。つづいて「無形性」が挙げられる。それは、あらゆることが取り留めなく採り入れられ、それゆえに却って無内容になり、内容に即した形式が形成されないことであり、じつは無内容性に他ならない。その他彼は「浅薄さ」、「浮気」、「小理屈」、「無名性」などに言及している。
 ところでキルケゴールは、この書の叙述について、「それが実際の事実であるかどうかは別問題である」とも語っている。彼の表現によれば「普遍的な直観」によって描写した、つまり、単に事実を分析するのではなく、理念的に時代の趨勢を抉り出したのだという。なお、キルケゴールが『現代の批判』を書くに至った直接の動機については、1840年、「コルサール」というデンマークで最初の政治的な風刺新聞が創刊され、そして、1845年12月27日にキルケゴールがこの新聞に対して論難を加えたのに対する反撃として、この新聞が毎号のように彼を揶揄する記事や戯画を載せ続け、かくして、キルケゴールは人々の嘲笑の的となってしまったことがあった。この事件は、その後のキルケゴールに非常に大きな影響を及ぼしたのだが、その直接の結果が『現代の批判』である。

 <ニーチェ>
 ニーチェにとって、元来人間の本質は、宇宙的生命につながる特殊な生命たる点にある。生命は生成発展し流動して止まない。認識の役割はこうした生命の発展・昂揚のための手段である。にも拘らず認識活動の結果としての知識は、凝固し、生命の運動を遅滞させる。こうした知識の固定化は、現象とイデアの世界を区別する二世界観に顕著である。従来の哲学者は、現象の背後に無制約的な不変な形而上学的世界を虚構したが、この不変と考えられた世界は、人間の知性によって創造されたものであり、その意義・内容は歴史的に変化している。そして、この虚構の恐るべき理由は、形而上学的世界のみが真実在と考えられるから、現象世界の意義や価値が卑しめられ、ひいては我々の日常生活の侮蔑を生むことになる。科学的認識の場合も、哲学と同様に、たえず新旧が交替し、破壊と建設が繰り返され、生の流動性を固定し阻止せず、生をいっそう促進することが、その本来の意義であり、知識の堆積が生の創造性を窒息させるようなことがあってはならない。
 人間の本質的な生き方は、この自己という特殊な生命に忠実に生きることである。善悪は、この新しい視点から考え直さねばならない。すなわち、生命の流動・発展・昂揚を促進するものは善であり、その反対に阻止するものが悪である。生そのものは善悪の彼岸にあり、無垢であり、清浄である。肉体を蔑視したり、本能を嫌悪するのは、生命力の衰えた人間の反感と嫉妬に由来する。弱者の強者に対する怨恨である。ニーチェは『道徳の系譜学』の中で、道徳的観念や価値の成立の由来を、暴露心理学的に解き明かしてみせる。悪も生命昂揚の強力な地盤となれば、それは善である。理想といわれた最高善も、生命の流動的な発展を阻止すれば悪である。快楽・苦痛は、生命活動の随伴現象であって、それ自身として道徳的価値をもつものではない。快楽は求めるべきものではなく、ましてや快楽に満足している安易な状態は、生の弛緩を意味するから否定される。また苦痛は避けるべきでなく、大きな苦痛に耐えることが、強者の徴候である限り、肯定される。ニーチェは、快楽主義や功利主義をとらない。むしろ功利主義的な時代の傾向に対しては、極めて厳しく批判する。こうした根拠に基づいて彼が提示した新道徳の価値基準は、高貴と卑賎である。高貴性は強者の徳性であり、卑賎は弱者のそれである。強者は、己の生の充溢に苦しみ、他者に与えることを喜び、他者より同情を受けることを潔しとしない。強者の愛は、キリスト教的な、弱者へ向かう愛ではなくて、いずれの日にか生まれるであろう超人への憧憬の愛である。また、強者は敵を恐れず、むしろ尊敬に値する強者を求め、戦い敗れて没落することを恥じない。
 キリスト教は人間性を罪悪視し、肉体や本能を悪とみなし、現世を厭離し、彼岸に永遠の浄福を求めるものである。その必然的結果として、人間の生命の否定となると考えられるから、ニーチェはキリスト教と果敢に闘争する。特にその鉾先は、僧侶や祭司に向けられる。生命の病み衰えた彼らは、生命否定の教義によって民衆を自己の側に引き付け、強者に対抗しようとする。禁欲主義的な教義の本質は、帰するところ弱者の変態的な力への意志に他ならない。しかしニーチェにとってキリスト本人は、自己の内的生命の要求に忠実に生きた誠実な人間であり、その生涯には、彼の共感を呼ぶものがあったが、使徒やパウロは、このキリストの生き方から、固定した諸教義などを捏造した。また、前述の哲学は、このようなキリスト教教義の確立・体系化に力を貸したし、一方哲学の側においても、その内容の中に、キリスト教教義を変形して密かに取り入れ、かくして、相互に相寄り相助け合ったのである。
 芸術は生そのものの端的な表現であり、芸術によって個人は宇宙的生命と合一することが可能だという。『悲劇の誕生』においてニーチェは、芸術の形成原理としてディオニュソス的なものとアポロン的なものの二要素を取り出し、これら二要素のいかなる関連によってギリシア悲劇が成立したか、そして悲劇がなぜ没落したかの原因を究明している。ディオニュソス的なものは、宇宙の根源的な生命の象徴であり、諸芸術の中で音楽が最もよくこの生命を表現するとされる。生の直接的な表現である真正な芸術の創作の動因に、論理的なものや理性的な不純分子が入ってくれば、芸術は堕落し死滅せざるを得ない。アイスキュロスやソフォクレスにおいて頂点に達した悲劇が、エウリピデスにおいてなぜ没落したかの原因を、エウリピデスのソクラテス的合理主義的要素に求めたゆえんである。また、悲劇没後のアッチカの喜劇に対する批判の根拠もここに基づく。
 ところでこのような諸文化の傾向は、必然的にニヒリズムを招来せざるを得ない。だが、こうした世界観や価値観の根底には、病み疲れた生が存在しており、これらの世界観や価値観そのものがすでに虚無的なのである。ニーチェは、ニヒリズムを、受動的と能動的なそれの二つに区分する。前者は、疲労し消耗した生の産出した虚無主義であり、後者は、高潮せる力への意志を示すものである。デカダンスは、前者の現象形態である。一般的にはデカダンスとは、不徳、犯罪、疾病といった退廃的な背徳的な生活や文化の傾向を指すと考えられているが、ニーチェによれば、これらはデカダンスの結果であって、デカダンスそのものではない。さて、デカダンスは近代の文明社会の隅々にまで病的に蔓延し、社会そのものが烏合の衆と化し、近代社会のモラル、科学、精神が、すでに前述のように病的である。平和の尊重、男女の同権、平等の権利、愛他的傾向などは、全てデカダンス的な虚無的なキリスト教道徳の価値基準が近代文明を支配した結果である。それに反して能動的ニヒリズムは、高潮した生を示す虚無主義であるから、強いニヒリズムである。それは病み疲れた生命からは生まれない。強剛な生命意志は、彼岸の絶対的価値や永遠の浄福といった虚構の理想などには耐えられない。しかし、それらに代わる新しい目的や理想を創造するほどには、その力はまだ成熟していない。ところで、ニヒリズム克服の方向への歩みは示されているし、そうした徴候はすでに暗示されているとも言える。というのは、近代社会のデカダン的様相は、生擁護・生昂揚の観点からすれば希望の方向を指し示しているからである。

 <ヤスパース>
 ヤスパースは現代を「科学的技術的時代」と言う。かかる現代は今までの世界史の第四段階をなすものである。世界史の第一段階は先史時代であり、これはまたプロメテウスの時代とも呼ばれる。そこでは言語の発生、道具の発明、火の使用が行われた。その第二段階は、古代高度文化の時代であり、紀元前5000年-3000年に、エジプト、メソポタミヤ、インダス河流域に、少し遅れて黄河流域に、最初の高度文明が発生した時代である。第三段階は、枢軸時代であり、紀元前800年-200年の間に、人類をして今日あらしめている精神的基礎が築かれてきた時代である。それはシナやインドやペルシアやパレスチナやギリシアにおいてなされた。第四段階は、現代であり、科学的技術的時代であり、それは新(第二の)プロメテウス時代とも呼ばれる。それは、現代において本質的に新たなものは科学と技術であるからである。ヤスパースのかかる世界史の図式は、今までに現れた最大の精神的飛躍をなした時代である枢軸時代を中心として構想されている。それはこの時代が実存的自覚の現れた時代であるからである。彼は、実存の絶対的意識としての愛に基づく理性の実現にこそ、歴史的意味を認めるから、枢軸時代が歴史の中心となるのである。したがって歴史の内容をなす文化の諸領域、すなわち、学問、技術、政治、道徳、教育、宗教等の批判も、この実存の理性によってなされるのである。この点が彼の時代批判の根本的特徴である。



















































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